【第三話】義父母編その1
レオナルドの並々ならぬ情熱が形になった森の妖精ドレス一式(マリア命名)が届いた翌日、侯爵家別邸に、義母クリスティーヌが訪ねてきた。
「アンドレも、久々にマリアちゃんとラファエルくんに会いたいと言っていたわ。今日は急ぎの仕事を片付けたら、こちらへ来るそうよ」
アンドレは侯爵家当主、つまり、レオナルドの父である。
マリアとクリスティーヌは、庭のガゼボに設えられたテーブルセットに向かい合って座り、紅茶を飲んでいた。
「そうですか。お父様もいらっしゃるのですね」
「ええ。ダニエルに伝えてあるから、久々に3人でお食事でもいいかしら?」
「もちろんです!」
執事のダニエルが認識しているなら、シェフとも調整済みなのだろう。
マリアはニコニコと嬉しそうに頷いた。
食事というものは、一人で食べるよりも誰かと食べるほうが美味しいとマリアは思うからだ。
あたたかな春の日差しの中、さやさやと木々が揺らめく。
時折、ひらりひらりと桜色の花弁が舞い散って、中庭に敷き詰められた若草色に積もっていく。
ふかふかの寝具を敷き詰めた移動式ベビーベッドの中、白いタオルケットをかけられて眠るラファエルの金色の巻き毛が風に揺れる。
「ふふ、可愛い。おおきくなったわね」
クリスティーヌは蕩けるような微笑みで、ふくふくとした頬のラファエルを見つめた。
クリスティーヌの整った顔立ちは、さすが親子というべきか、レオナルドとよく似ていた。
マリアが侯爵家に嫁入りしてから、クリスティーヌはマリアを可愛がり、気にかけてくれた。
まるで本当の母――というには、マリアの実母とはタイプが違うのだけれども、そのくらい非常に良くしてくれた。
クリスティーヌは、レオナルドよりも少し明るい金の髪とサファイアのような瞳を持つ、背の高いスラリとした美人で、明るくて行動力のある人だ。
ちょっと気が強そうで、頼りになる姉のようなタイプ、とマリアは勝手に思っている。
但し、マリアには兄しかいないので、想像に過ぎないけれども。
クリスティーヌは最近、月に一度程度、午後のティータイム前後にやって来て、大抵はマリアと二人で夕食をともにして帰宅する。
結婚したばかりの頃は、侯爵家の妻としての役目や心得、具体的な仕事などを教えるためにほぼ毎日義母がやってきてマリアに説明なり引き継ぎなりをしていたが、一通りそれが済んだ今は、単なるお茶会である。
最初は、新しい環境と慣れない仕事、そして初めてできた姑という存在に気を遣って疲れ果てたマリアだったが、クリスティーヌと共に過ごし、親睦を深めた結果、マリアは次第に心を開き、今では良き相談相手であり、理解者となっている。
特に妊娠してからは、ある意味ではクリスティーヌだけが心の支えだった。
不慣れな環境での初めての妊娠。
身体の不調に悩み、妊娠してからのレオナルドの冷たい態度への戸惑いも大きく、何度も心が折れそうになった。
しかし、その度にクリスティーヌは自らの経験を元にマリアを支え、勇気づけ、優しく見守ってくれた。
出産の際は、勿論マリアの実の両親も伯爵家から駆け付けたものの、長く侯爵家に居座るわけにもいかず。
結局、産後暫くは、クリスティーヌが別邸に通い詰め、マリアと初孫の世話を焼きつつ屋敷を回していたことはまだ記憶に新しい。
「マリアちゃん。今日はね、マリアちゃんに謝りたいことがあってきたの」
ラファエルからマリアへと視線を移し、かちゃり、とティーカップをソーサーにおいたクリスティーヌは、少し躊躇うように視線を漂わせたあと、意を決したようにそう言った。
「謝りたいこと、ですか?」
果たしてクリスティーヌに謝られるようなことがあっただろうか。
考えてみても思い当たらず、はて、とマリアは首を傾げた。
クリスティーヌは静かに、しかし、声を震わせることなく、マリアを真っ直ぐに見据えて口を開いた。
「あなたを、侯爵家に縛り付けてごめんなさい」
言い終わるやいなやで、クリスティーヌは頭を下げた。
突然の出来事にぽかんとするマリアに対して、クリスティーヌはバツが悪そうに言った。
「今までずっと、つらかったわよね。私、レオナルドとマリアちゃんが上手く行っていないって、気付いていたの。
だって私、あなたがここにきてくれてから、妊娠中も何度もここに来ているでしょう?それなのに、気付かないはずがないのよ」
「お母様……」
「その内また元に戻るかもって、黙って様子を見ていたのだけど、甘かったなと反省したの。
我が息子ながら、本当に酷い男よね。結婚してすぐマリアちゃんにメロメロになったのに、あなたが妊娠した途端に突き放すなんて、いくら政略結婚とはいえ最低よ。
本当にごめんなさいね。母親として情けないわ」
泣き出しそうな笑顔で自分の息子を批判するクリスティーヌは、そういえば出会った頃から善良で公平な人だったなとマリアは思い出す。
自分の息子と他所から来た嫁を天秤にかける場合、一般的にはどちらに非があっても、嫁が責められるものと相場は決まっているものなのに。
つらかった。悲しかった。2年間ずっと。
けれどマリアは今、我慢してきた過去の自分が、先ほどの義母の言葉一つで救われた気がした。
ちゃんと見てくれている人がいた。
私は一人ぼっちじゃなかった。
そう思うだけで、温かい気持ちでいっぱいになった。
「もういいんです、お母様。過ぎたことですから」
マリアはゆるりと瞬いて、穏やかにそう答えた。
その様子を見たクリスティーヌは、神妙だった顔を少し緩めた。
その様は心なしか少しほっとしたように見え、マリアも少しほっとする。
「そうね。もう、あの子のことはいいのよ。
だからマリアちゃん、もしよかったらなんだけど、まずは一緒にお出かけしてみない?あとは、お友達を作ってみるとか」
「お出かけにお友達、ですか」
「ええ、そうよ。今は愛人がいたって普通の時代でしょう?なのにマリアちゃんは、異性のお友達すらいないんですもの。
きっかけはなんだっていいと思うの。夜会やお茶会でも、お稽古事でも、街で通りすがりの一目惚れでも」
「お母様、ですがそれは……」
「マリアちゃんは、レオナルドのことが好き?」
「正直、わかりません。好きか嫌いかと言われれば、嫌いではありませんが」
「そうよね、そうなるわよね。
でも、それでいいのよ。すぐにどうこうなるわけではないと思うのだけど、マリアちゃんはまだ若いのだし、まずはもう少し外の世界に目を向けてみるのはどうかしら」
「他に、目を向ける」
「別に、何でもいいのよ。読書や刺繍でもいいし、旅行や観劇でも、恋でもいいの。あなたのやりたいことをしてみたらどうかしら」
「私の、やりたいこと」
「あなたは、侯爵家の妻として本当によくやってくれているわ。
レオナルドにあんな態度を取られても、あなたは歪むことも壊れることもなく、こんなに可愛い後継ぎまで産んで、大切に育ててくれている。今もこうして、あなたを傷付けた酷い男の母親である私に普通に接してくれている。
もう十分よ。ありがとう、マリアちゃん」
「お母様……」
「これからは、あなたの好きにしていいの。
私は、あなたの幸せを応援するわ。
もしあなたがレオナルドと別れたいのなら、私にもそれを支援させてちょうだい。
これは、一人の貴族女性としての提案よ。遠慮はいらないわ」
群青色をしたクリスティーヌの大きな瞳は、水分を増していた。けれど、涙はこぼれない。
その強い光に、きりりとした微笑みに、クリスティーヌは本気でそのように提案してくれているのだとマリアは思った。
しかし、クリスティーヌの提案は、1ヶ月前マリアが自ら希望した内容と、限りなく近いように思え、これはどうしたものかとマリアは頭を悩ませる。
離縁を所望して却下され、ならば愛人をと希望して却下されました。
しかしその後、あなたの息子は人が変わったように優しくてどうしようもなく甘いです。
……などとは、この空気で言えるはずもなかった。