そういう訓練
「おおい、生きてるかい」
桝谷先生が、上から僕を見下ろすように声をかけた。
黄色く見える太陽。もうろうとした意識。ようやく動き出した心臓。音が、風が、温度が。身体中の感覚が少しずつ戻ってくる。
僕はゲホっと咳をし、ついでに少し血を吐いた。
「やあ、悪い悪い。少し手がすべった。どうやら心臓に触れちゃったみたいだ。死ななくてよかったよ」
お願いです。そんなに軽く扱わないでください。僕の命なんです。
オーストラリア大陸の荒涼とした風景。赤茶けた大地にまばらな草。もちろん僕らの他に人なんていない。
先生の着ているジャージは、ほとんど汚れていなかった。汗だってかいていない。涼しい顔をして、美しくも凶悪な長剣をだらりと下げた右手に持っている。
先生の剣は魔法に包まれていたから、刀身はピンク色の光にしか見えなかった。
「本当に死んじゃったら、どうなるんですか」
「大丈夫だよ。御子神くんがショック死でもしないかぎり、僕がどんな状態でも一瞬で治すから。ただ、万が一の話だけど。もしもの場合は、御子神くんとはお別れだ。残念だけど、僕でも死んだ人間を生き返らせることはできないからね」
「ずいぶん平気な顔して言いますね。先生だって、殺人罪になるんですよ」
あんまりな扱いに、僕は食ってかかりたい気持ちになった。
「事故なら仕方ないじゃないか。危険は強くなるための代償だ。それに生き返らせることはできないけど、ゾンビとしてなら動かせる。
あんまりしゃべれないし、そのうち腐ってくるけど。とりあえず僕の容疑が晴れるまでなら、バレないだろう。大丈夫。どうにかなるよ」
言った。今、さらっと。すごく卑怯なこと言った。
あなたは本当に、世界を三回も救った最強の勇者の生まれ変わりなんですか。いや、それ以前に高校教師として、人間としてそれでいいんでしょうか。
少し離れた場所で、雷鳴がした。
僕の立っている場所は雲ひとつない青空だ。ただし雷が落ちたその場所だけに、不自然な黒い雲がかかっている。雨は無く、ただ稲妻だけが憎むように何度も大地を焦がしている。
山神先輩が雷の魔法を練習しているんだ。
訓練しているのは僕だけじゃない。サークルメンバーも、それぞれ自分の新しい魔法や技に挑戦している。新海先輩は風を操る魔法。酒井会長は剣の修行。先生は別格だとしても、会長は僕よりもはるかに強い。
「ところで、僕の剣は見えるようになったかい」
あんまり簡単にいうから、僕はなんだか腹が立った。
「あんなもの、見えるわけないじゃないですか。あれ、なんなんですか。あんまり速すぎて。まわりの空間とか、歪んじゃってますよ」
「光速よりは遅いから、理論的には見えるはずなんだけどな……」
「何の理論なんですか」
「相対性理論」
「やめてください。頭がおかしくなります」
僕は、よろよろと立ち上がった。
古着を着てくるように言われた意味がわかった。古いジャージはもう、血だらけで穴だらけ。黒いビニール袋に入れて絶対に見つからないように捨てないと、間違いなく殺人事件を疑われる。
体に染みついた恐怖の記憶は、いつの間にか自然な感覚に変わっていた。こうすれば、ここを切られて死ぬ。ここを切らせれば、とりあえず血が残っているうちは死なない。
こういう感覚が正常だとは思わなかったけど。とにかく僕は変わっていた。
「さてと、そろそろ戻ろうか。時差があるから、日本だともう夕方だ。御子神くんも疲れただろう。みんなを呼んできてくれ」
「はい」
僕は正直、ほっとしていた。
日本時間で十一時くらいから。こっちだと夜が明ける前から訓練を始めて、もう百回近く致命傷を受けた。先生の回復魔法がすっかり治してくれたけど、精神の疲労だけはどうにもならない。
死ぬ瞬間にお花畑が見えるってよく言うけど本当だ。不思議なことに、みんな同じ場所だった。花の種類とか色とかも、もう覚えてしまった。これなら本当に死んだときにも迷うことがないんじゃないだろうか。
「ほう、一日でずいぶんたくましくなったやないか」
僕が声をかける前に、酒井会長が話しかけてくれた。
デニムのパンツと白いティーシャツ姿。スポーツタオルで首筋の汗を拭いている。
あっ、ヤバい。汗でティーシャツが透けてブラが見えている。
こんなに大きい胸で、剣を使うとき邪魔にならないんだろうか。いや、それよりも戦う相手が心配だ。剣で斬られる前に、絶対に悩殺される。
僕は視線に気づかれないように、わざとらしく先生のいる方向を指さした。
「先生が、そろそろ戻ろうって言ってます」
「ああ、そうやな。ええ汗かいたわ。由美にシャワー借りんとあかんな。御子神くんもシャワーを浴びたいやろ。もう、ボロボロやで」
「とりあえず、この服をなんとかしたいです」
僕は広げて見せようとして、ジャージのすそを引っ張った。ビリっという音がする。まだ肩に引っかかっているのが不思議なくらいだ。
「かなりきつう、しごかれたみたいやな。これでよく生きてたもんや」
「会長も、あんな風にやられたことあるんですか」
「もちろんあらへんよ。先生はうちには優しいもん。今日もうちの剣に合わせて受けてもろうて、切り返すタイミングを教えてくれただけや。それでもかなり参考になったで」
「えっ、それって。どういうことです」
僕は自分の耳を疑った。
「ああ、御子神くんは見てなかったんやったな。うちらが指導を受けたんは御子神くんが半分死んどった時や。先生は高校教師としてはどうかと思うけど、魔法や剣術に関しては優秀な教師やで。うちらの弱いところを指摘して、レベルに応じたアドバイスをくれるんや」
僕は愕然とした。
そんなやり方があるなら、どうしてあんなことしたんです。イジメですか。それともただの快楽殺人ですか。
会長は僕の心の声を正確に感じとっていた。この人は洞察力が並じゃない。
「しゃあないやん。手っとり早く強くなるにはそれしかないんや。最初はうちに追いつくのに一年はかかると思うてたけど、このペースなら一週間でいけるで」
一週間も続けたら必ず死にます。ゾンビになっちゃいます。強くなったって、それじゃあ嬉しくありません。
僕たちに気づいた山神先輩と新海先輩が、歩いてこっちに向かってきた。
「御子神くん、先生の指導はどうだった」
山神先輩は魔力を増強するっていう異世界のドレスを着ていた。胸が大きく開あいている。
グラビアモデルみたいな会長とは違うタイプだけど、アイドル歌手顔負けの美少女だ。青みがかった瞳に、赤い縁の眼鏡。僕は先輩を見ていると、いつも魂を持っていかれそうな気になる。
「このとおりです」
僕は両手を広げて見せた。ズタズタのジャージがたぶん、かわりに説明してくれる。
「頑張ったんだね。御子神くんが強くなるのは、私もうれしい。朝とは魔力の感じがぜんぜん違うよ。まるで別人みたい」
「そうなんですか」
「うん、強くなった」
新海先輩が横からぼそっといった。
いつも人の話を聞いているのかどうかわからない人だから、急に会話に入ってくるとビクッとする。百五十センチも小柄な体に魔法のローブ。まるで魔法少女のコスプレみたいだ。
会長が自分の剣を拾った。
「さあ、由美のうちに戻るで。まずはシャワーや。それから買い出しに行って、食事会といこうか。御子神くん、何か作ってくれるやろ」
「いいですよ」
ここにいるメンバーで料理ができるのは僕だけだ。もし、先輩たちに作らせたら大変なことになる。
山神先輩が僕に体を近づけた。
「せっかくオーストラリアまで来たのに、観光もしないで帰るなんて残念だね」
「うちらの中でパスポートを持っとるのは由美だけや。いくら魔法で来たっちゅうても、法律だけで言うたら立派な不法入国者や。人のいるところに行くわけにはいかん」
「いつか、二人で来ようね」
山神先輩が僕にだけ、そっとささやいた。
ええ。僕は声を出さずにそう答えた。
オーストラリア大陸に吹く乾いた風が、心地よく僕の頬をなでた。それはもしかしたら、新海先輩が魔法で作った風が運んできたものかも知れなかった。




