会長の関西弁
高校の部室に戻ると、桝谷先生が土下座していた。
ネクタイが床についている。黒い縁の眼鏡はついた手の横に、たたんで置いてあった。
眼鏡と一緒に想い石がある。
僕は理解した。先生が、僕らの話を盗み聞きしていたことを告白しているんだ。向こうの世界には、離れた相手に声や想いを伝えるアイテムがある。先生は僕たちが持っている石から、好きな時に声を聞くことができる。
「翔子くん、悪かった。このとおりだ。許して欲しい。僕は勝手に魔法を使って、記憶が戻らないようにしていた。人の心をもてあそぶのは罪だ。弁解はしない」
会長は先生の前に威厳を持って進み出た。
「愛しいラフロイ。あなたはどうして、そのようなことをしたのです」
それは、いつもの会長じゃなかった。
間違いなくいつもの制服を着ているのに。僕にはそれが、まるで王女のドレスのように見えた。
先生は顔を上げて会長の顔を見ると、まるで雷に撃たれたみたいになった。
「ああ、君なのか。シエナ、許してくれ。僕は君を自殺に追いこんだと思っていた。それを知られたら。翔子くんが、僕から離れていくんじゃないかと思ったんだ。ようやく見つけたのに。ようやく取り戻したのに。僕はただ、それが怖かった」
「可愛い人。でも、愚かな人。翔子は私なのですよ。もし仮にそうだったとしても、あなたを嫌いになるはずがないでしょう」
会長はひざまづいたままの先生に、片手をそっと差し伸べた。
「口づけを許します。ラフロイ、そして私のことは忘れなさい。王国への恨みも、私を殺した者への復讐も必要ありません。今の私は翔子です。私はただ、この世界の酒井翔子として生きる。だからあなたは幻の記憶である私ではなく、翔子のことを愛してください」
先生は会長の手の甲にキスをした。その手に、一粒の涙が落ちる。
長い苦しみがあったんだろう。小さな誤解や言えなかったこと、聞けなかったこと。先生は過去のシエナ姫も今の会長のことも大切に思っていた。だから、魔法を使ってまで触れないようにしてきた。
僕が瞬きをして、もう一度見たときには、シエナ姫はいなかった。そこにはいつものように、いたずらっぽい目をした会長がいた。
「さあ、お姫様の時間は終わりや。この、変態教師。教え子の手え握ってエロいことするんやない。写真撮ってネットでバラ撒くで」
「翔子くん……」
先生はあわててパッと離れた。悲しいような嬉しいような、複雑な表情をしている。
「高校を卒業するまで、うちに手え出したらあかんよ。チカンで無職になった男とは、結婚してやらんからな」
「ああ、ああ。覚えとく」
「お酒は真凛が持っとる。御子神くんの作った料理も持ってきたで。ジュースで良ければ、うちも付き合うたる。どうせ昔の女が恋しいんやろ。うちの心の中の姫さんはああいったけど、昔話くらいならしてもええで」
会長はお姫様でなくなっても威厳があった。それは高貴だとかそういうのとは違っていたけれど。僕らを包んで引っ張っていく、温かい血の通ったリーダーシップみたいなものだった。
「ああ、そうか。会長の関西弁って……」
僕は急に気づいた。
「私もそうだと思う」
山神先輩もうなずいた。
上方文化へのリスペクトとか、自分では適当なことを言っていたけど。本当は会長が、無意識に別のキャラを演じようとしていたんだろう。先生に暗い記憶を思い出させないように。もうそれが本物の会長になっちゃったけど。最初のきっかけは、きっとそうだったに違いない。
「少し手伝うてや。姫さんのお願いや」
「はい、シエナ姫」
僕と山神先輩は、互いに顔を見合わせて微笑した。先生のためにお酒やおつまみの準備をしながら、僕らは古くて新しい二人の恋人たちを静かに見守っていた。




