強くなるってこと
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部室に戻ると、先生がそわそわしながら待っていた。テーブルの上にコンビニのビニール袋がいくつも置いてある。今日はマンガも読んでいない。
桝谷先生は、黙ってさえいればかなりいい男だった。三十一才、独身。背は高くスマート。黒い縁のメガネをかけている。
「お土産は、買ってきてくれたかい」
「もちろんや。うちらだけで楽しんできたんやから、今日は特別や。先生も、ここで飲んでええで」
山神先輩は酒のビンを二本ともテーブルに置いた。ピンク色のカーテンや家具に囲まれた部室には、大きなテーブルとソファー、イスがあって、ゆっくりとくつろげるようになっている。
僕が鍋に入ったままのシチューを置き、山神先輩が紙に包んだオムレツを開いた。どれもまだ温かい。
「御子神くん、あっちの棚にコップとお皿があるから、先生に取ってきてあげて。箸とスプーンも」
「はい」
僕がコップを渡すと、先生は待ちかねたようにお酒を自分で注いだ。
「みんなには、ジュースとお菓子を買っておいたよ。一人酒は寂しいから、少しだけつきあってくれないかい」
「ええですけど。昨日の約束は覚えてますやろ。エッチなことはせんといてな」
「もちろんだよ。信用がないなあ。僕は教育者なんだ。そんなこと、するわけがないじゃないか」
先生はまず、コップになみなみと注いだ日本酒を豪快に飲み干した。
うまい。これだ。しみる。オムレツに箸をつけては、ああ涙が出る。うますぎる……。感想をいいながら、飲み続け、食べ続ける。もう箸が止まらない。
その姿を見ていると、僕はどうしてそこまで先生が我慢をするのか、不思議になってきた。
「先生は、どうして向こうの世界で食べないんです。魔力が大きすぎるから、行ったのがバレちゃうって話は聞きました。でも宴会だけ参加して、誰かが探しに来る前に逃げちゃえばいいじゃないですか。先生なら、逃げるのも簡単でしょう」
「そう思って一回だけ、隠れて向こうの世界の酒場に行ったことがあったんだよ。王宮の魔法使いが気づいて迎えをよこしても二時間はかかりそうな、適当な距離にある町を選んだんだけど。王宮の連中より先に、僕の魔力に気づいた魔族が攻めこんで来たんだ。
結局、僕は魔族と戦う羽目になった。殺さないように手加減はしたけど、まるごとひとつの軍団を壊滅させたんだ。傷を負った兵士もいたと思う」
軍団を壊滅させるとか。先生はとんでもないことを、さらっといった。でもそれは、ただの自慢話じゃない。今では僕も、先生の持っている常識外れの魔力を感じることができる。
「魔族にだって命はある。その魔族を、僕は前世で何千人も殺したんだ。その事は今でも後悔してる。過去のことはもう取り返しがつかないけれど、必要もないのに争うのは好きじゃない」
「そうですか」
僕は悪いことを聞いたなと思った。
「強くなるってことは、そういうことだよ。できることが増える代わりに、できないことが、もっと増えるんだ。御子神くんだってそうだ。悪いけれど。たとえば御子神くんはもう、剣道の世界には戻れない」
「えっ?」
「あっちの世界だけの話じゃないんだ。御子神くんはもう、本当に強い。モンスターとまともに剣で戦える人間が、こっちの世界にいると思うかい。たぶん一対一で御子神くんに勝てるのは、こっちの世界だと僕と翔子くんだけだと思う。そんな人間が剣道の大会に出たら、大変なことになるだろう。それに卑怯なくらい自分が強かったら、戦ってもちっとも面白くないじゃないか」
ああ、そうか。僕だってもう失ってしまっているんだ。僕だけじゃなくて、三人の先輩も。剣道の世界に戻れないと聞いたことはショックだったけど、先輩たちと同じだと思うと、そんなに苦しくはない。
「剣道はもう、捨てました。これからはこの同好会で、先輩たちを守れるように頑張ります」
「いい覚悟だ。御子神くん、いっそのこともっと強くなって僕の後継者になるかい。君になら可能性がある」
「嫌です。ごめんなさい」
僕は二秒で答えた。
「即答はよしてくれ。せめて少しは考えてくれよ。悲しいじゃないか……」
先生はおもいっきり嘆いた。ちょっと心が動いたけど、だまされちゃいけない。先生が偉大なのは認めるけど、真似しちゃいけない。この人はそういう人だ。
僕は他の先輩が何をしているのか、様子をながめてみた。会長と山神先輩はジュースを飲みながら話をしている。新海先輩はゴーレムくんに、安全ピンで何かをつけようとしているところだった。
「お土産……」
また無口に戻った先輩が、小さくつぶやくのが聞こえた。
何か怖そうな小さな人形。まるで呪いのアイテムみたいだ。この人のセンスは本当にわからない。
その日は、先輩たちと一緒に電車に乗って帰った。運のいいことに、先輩の家はみんな同じ方向だった。私鉄で三つ目の駅までは一緒にいられる。
「今日はお疲れさん。また、来週や。次は御子神くんの装備を買わんといかんな。うちが値切ったるから、勝手に買おうとしたらあかんよ」
「お願いします」
僕は手を振って会長と新海先輩と別れた。
よし、ここからだ。
実は、僕はこの瞬間を心待ちにしていた。僕の降りる駅は二つ先。山神先輩の駅は一つ先。つまりひと区間だけ、僕たちは二人きりでいられる。
電車が動き出すと、僕は勇気をふりしぼって山神先輩に話しかけようとした。
「あの……」
声がかぶった。僕と同時に山神先輩も何かいおうとしていた。気まずくなって、二人とも口をつぐんだ。貴重な時間が窓の外の夜景と一緒にむなしく流れていく。
電車が減速し始めた時、山神先輩がいきなり僕の手をにぎった。
「これ、さっき買ったの。御子神くんにあげるから、持っていて。それと、あの……」
電車がホームにゆっくりと止まった。もう、扉が開く。
「歓迎会で御子神くんに言ったこと。少し思い出したかも。恥ずかしいけど、忘れなくてもいいよ」
僕が言葉を返そうとする間もなく。山神先輩は僕の手はなすと、ちらりと笑顔を見せてから、振り返らずに行ってしまった。
ドアが閉まり電車が動き始めた。
右手を開いて先輩がにぎらせてくれたものを見る。綺麗な小さい石。水晶のように透き通っていて、ぼうっと赤く光っている。
温かくて、優しい光。まるで山神先輩みたいだ。
僕はその石に、そっとキスをした。
その瞬間、石はほんのりとピンク色にそまったような気がした。