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忘れ草  作者: 細井雪
8/9

火事





 乾いた風が火の勢いを広げていく。

 一か所から上がった火の手は、密集した建物を次々と巻き込んでいった。


 アルバートは火事が起きている場所を記した地図に視線を落とした。

 マリーがいる地区は少し離れているが、無事に避難しているだろうか、そんな心配が募る。


 街で火事が起こることは決して珍しいことではない。

 理由は失火であったり様々だが、特に空気の乾いている季節は多くなり、街の中は建物も密集しており道幅も狭いので、少しの火から被害が大きくなることもたびたびあった。

 早く火を食い止めることが被害を抑える重要な要因になる。


「すぐ応援に行くべきだ」

「まだ隊長の指示が出ていない」

「そんなことを言っている場合か、このままでは街全体に火事が広がる」


 悠長な態度に、アルバートは地図から顔を上げて反論を口にした。

 貴族の子弟が多い騎士には、城を守ることが役目で、城下のことや平民を軽視する者も少なくはない。

 そんな騎士たちからしてみれば、アルバートの意見は目障りでしかなく、厄介そうな視線を向ける。


「とりあえず、準備をしておこう。何かあった時にすぐ動ける」


 カイルがアルバートの前に立ち、場を治めるように言った。

 少しざわついた場が冷静を取り戻す。

 アルバートが再び地図に目を移していると、カイルが声をかけた。


「アルバート。おまえは宰相に呼ばれているだろう。俺達に任せて宰相のところへ行け」

「しかし……」

「宰相をこれ以上待たせない方が良い」


 カイルに言われて宰相と会う約束を思い出したが、アルバートは躊躇する。

 そんなアルバートの耳に、先ほどの騎士達の言葉が耳に入った。


「宰相に気に入られていい気なものだ。口では偉そうなことを言っても、自分は安全なのだからな」

「平民の女を捨てて、上手くやったもんだ」


 アルバートと宰相令嬢の婚約には、妬んでいる者も少なからずいた。

 今までもそう言った言葉を投げられることはあったが、相手にしないのが賢明だ。

 それに、恋人を捨てて宰相令嬢との婚約を取ったことは、紛れもない事実だ。

 アルバートは体の横で手を握りしめて堪えた。

 何も言わないアルバートに対して、騎士の一人が侮蔑するように笑う。


「まあ、孤児院出の卑しい女なんか捨てられて当然だけどな」


 あざ笑うようなそんな言葉に、アルバートは感情が沸騰する感覚を覚えた。

 堪えていた拳を振り上げて殴りつけると、その身は後方に倒れ込んで壁際まで吹き飛び、激しい音を立てた。


「アルバート!!」


 ざわつく中でカイルが真っ先に止めに入った。


「彼女を貶めるな!!」


 アルバートは殴りつけた拳を震わせた。

 自分がどれだけ妬まれても、罵られても耐えることは出来たが、マリーのことを悪く言われることは我慢できない。


 しかし、アルバートがマリーのことを庇えるような善人だろうか。

 宰相令嬢との婚約を選び、マリーの身分を軽んじたのはアルバートだ。

 本来この拳を振り下ろされるのは自分の方だと、アルバートは冷水を被せられたかのように震えた。


「待て! アルバート……!!」


 背後でカイルの声が響く。

 それを振り切ってアルバートは城下へと向かった。







 城下はすでに火が広がり人々が逃げ回っていた。

 自警団が鎮火に回っているが、やはり人手が足りていないと、アルバートは思った。

 建物はいくつも炎に包まれ、今にも崩壊しかねない状況になっている。

 途中で幼子を抱えた母親に泣きつかれ、避難場所を伝える。

 焦る気持ちの中、周囲を見回して探していると、逃げる人々の中にその姿を見つけて名を叫んだ。


「マリー!!」

「騎士様……っ」


 マリーの側へ駆け寄り、無事を確認して安堵する。


「無事で良かった。怪我はしていないか?」

「私もローザも大丈夫ですけど、街が……」


 マリーは来た道を振り返り、青ざめた顔で震えた。

 道の奥が赤く燃えており、火の手が広がっていることを実感する。

 アルバートはマリーの震えている手を握りしめた。


「ここもじきに火の手が回る。早く避難するんだ」

「は、はい……」

「あまり煙を吸わない方が良い」


 アルバートの言葉にマリーは頷くと、ハンカチを取り出して口に当てた。

 それを見てアルバートは目を見開く。

 マリーの手にあったのは、以前にアルバートが贈ったハンカチだった。

 小さく一輪の花が刺繍されたハンカチ。

 もうマリーの手元にはないと思っていた。

 ひどい仕打ちをした自分と同様に、手放したのだと。


「騎士様……?」


 無言で見つめるアルバートに、マリーが気にするように声をかけた。

 マリーは、このハンカチがアルバートから贈られたものだと知らずに持っているだけかもしれない。

 例えそれでも、マリーが持ってくれているということが、アルバートはそれだけで嬉しかった。


「ああ……。いや、何でもな……」


 その時、少し離れたところで建物が崩れる音と、悲鳴が上がった。

 予想以上に大火事になりそうだということに、アルバートは息を飲んだ。

 早くマリーを安全な場所へ避難させて、これ以上火事の犠牲が広がらないようにしなければならない。


「マリー。向こうに避難所があるから、早く行くんだ」

「騎士様は……」

「俺は大丈夫だ」

「あ、あの、ではこれを持って行って下さい……」


 そう言って、マリーは手にしていたハンカチを差し出した。

 アルバートが煙を吸わないようにと気を使ったのだろう。

 差し出されたハンカチをアルバートは見つめた。

 まるで出会った時のようだと思えた。

 あの時に戻れたのならば、間違えないようにやり直したい。

 けれど、アルバートは首を横に振って、ハンカチをマリーの手の中に戻した。

 アルバートのことを全て忘れてしまったけれど、せめてこのハンカチだけはマリーの元にあって欲しいと思った。


「自分のものを持っているから大丈夫だ。これは、君に持っていて欲しい」

「分かりました……。あの、お気をつけてください……」


 気にかけるマリーに、アルバートは頷いてその背を押す。

 時おり心配そうに振り返るマリーを見送って、アルバートは火の燃える方へと向かった。

 親とはぐれた子供や、動転してしゃがみ込んでいる老婆を安全な場所へと促す。

 火の近くへ寄れば煙がひどくなり、息苦しくなる。


 アルバートは服の中から自分のハンカチを取り出した。

 それは、初めてマリーと出会った日に差し出されたあのハンカチだ。

 血で汚れてしまったけれど、捨てることなんてできるはずがなく、気恥ずかしくてマリーにも言わず大事に持っていた。

 アルバートのことを忘れてしまっても、マリーは変わらなかった。

 初めて会った日にハンカチを差し出してくれた優しいマリーのままだ。

 先にマリーの優しさを忘れてしまったのは自分の方だと、アルバートは思った。

 マリーのハンカチを握りしめる。


 その時、人々の悲鳴が耳に届いた。

 顔を上げれば、先にある建物の炎が高く上がっている。

 アルバートはハンカチを握りしめたまま駆け出し、逃げる人々を安全な場所へ誘導した。


「崩れるぞ!」

「逃げろ!!」


 乾いた風が建物を包む炎をいっそう燃え上がらせ、周囲から悲鳴が響いた。

 火の粉と共に押し寄せた熱風に、アルバートは腕を前にして身を庇う。

 その瞬間、手の中のハンカチが熱風に煽られて離れた。


「っ……」


 あれは、マリーのハンカチだ。

 初めて出会ったときに、マリーがくれたかけがえのない物だ。

 火の粉で赤く透けるハンカチをアルバートは追った。

 燃え盛る炎の熱風がひどく熱い。

 それでもアルバートは必死に手を伸ばした。


「アルバート、だめだ!! 戻るんだ……!!」


 その時、到着した騎士隊の中にいたカイルが叫んだ。

 けれど人々の逃げ惑う声と、炎の熱風にかき消されてしまう。

 包まれた建物が傾いて、群集の声が一段と大きく響き渡った。


「マリー! マリー!!」


 アルバートは何度も何度も、その名を繰り返し呼んだ。

 脳裏に、マリーと過ごしたいくつもの日々が蘇る。

 初めて出会った日の心配そうな表情。

 城の中で偶然再会したときの驚いた仕草。

 新しいハンカチを贈った時の小さな微笑み。

 一緒に出掛けて楽しそうにしていた笑顔。

 その全てがかけがえのないものだったということを、今になって気づく。


「マリー……っ」


 その感触をつかんで安堵した先に、赤い炎が広がるのが見えた。

 守るように力を込める。

 そうだ、どうして今まで気付かなかったのだろう。


「こんなにも、大切だったのに……」


 呟いた自分の声が耳に響く。

 先ほどまでの轟音が嘘のように静かだ。

 手の中の感触を握りしめる。


 ああ、良かった。

 無事で、良かった。


 そう言ったつもりなのに、もう自分の声さえ聞こえなかった――。





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