火事
乾いた風が火の勢いを広げていく。
一か所から上がった火の手は、密集した建物を次々と巻き込んでいった。
アルバートは火事が起きている場所を記した地図に視線を落とした。
マリーがいる地区は少し離れているが、無事に避難しているだろうか、そんな心配が募る。
街で火事が起こることは決して珍しいことではない。
理由は失火であったり様々だが、特に空気の乾いている季節は多くなり、街の中は建物も密集しており道幅も狭いので、少しの火から被害が大きくなることもたびたびあった。
早く火を食い止めることが被害を抑える重要な要因になる。
「すぐ応援に行くべきだ」
「まだ隊長の指示が出ていない」
「そんなことを言っている場合か、このままでは街全体に火事が広がる」
悠長な態度に、アルバートは地図から顔を上げて反論を口にした。
貴族の子弟が多い騎士には、城を守ることが役目で、城下のことや平民を軽視する者も少なくはない。
そんな騎士たちからしてみれば、アルバートの意見は目障りでしかなく、厄介そうな視線を向ける。
「とりあえず、準備をしておこう。何かあった時にすぐ動ける」
カイルがアルバートの前に立ち、場を治めるように言った。
少しざわついた場が冷静を取り戻す。
アルバートが再び地図に目を移していると、カイルが声をかけた。
「アルバート。おまえは宰相に呼ばれているだろう。俺達に任せて宰相のところへ行け」
「しかし……」
「宰相をこれ以上待たせない方が良い」
カイルに言われて宰相と会う約束を思い出したが、アルバートは躊躇する。
そんなアルバートの耳に、先ほどの騎士達の言葉が耳に入った。
「宰相に気に入られていい気なものだ。口では偉そうなことを言っても、自分は安全なのだからな」
「平民の女を捨てて、上手くやったもんだ」
アルバートと宰相令嬢の婚約には、妬んでいる者も少なからずいた。
今までもそう言った言葉を投げられることはあったが、相手にしないのが賢明だ。
それに、恋人を捨てて宰相令嬢との婚約を取ったことは、紛れもない事実だ。
アルバートは体の横で手を握りしめて堪えた。
何も言わないアルバートに対して、騎士の一人が侮蔑するように笑う。
「まあ、孤児院出の卑しい女なんか捨てられて当然だけどな」
あざ笑うようなそんな言葉に、アルバートは感情が沸騰する感覚を覚えた。
堪えていた拳を振り上げて殴りつけると、その身は後方に倒れ込んで壁際まで吹き飛び、激しい音を立てた。
「アルバート!!」
ざわつく中でカイルが真っ先に止めに入った。
「彼女を貶めるな!!」
アルバートは殴りつけた拳を震わせた。
自分がどれだけ妬まれても、罵られても耐えることは出来たが、マリーのことを悪く言われることは我慢できない。
しかし、アルバートがマリーのことを庇えるような善人だろうか。
宰相令嬢との婚約を選び、マリーの身分を軽んじたのはアルバートだ。
本来この拳を振り下ろされるのは自分の方だと、アルバートは冷水を被せられたかのように震えた。
「待て! アルバート……!!」
背後でカイルの声が響く。
それを振り切ってアルバートは城下へと向かった。
城下はすでに火が広がり人々が逃げ回っていた。
自警団が鎮火に回っているが、やはり人手が足りていないと、アルバートは思った。
建物はいくつも炎に包まれ、今にも崩壊しかねない状況になっている。
途中で幼子を抱えた母親に泣きつかれ、避難場所を伝える。
焦る気持ちの中、周囲を見回して探していると、逃げる人々の中にその姿を見つけて名を叫んだ。
「マリー!!」
「騎士様……っ」
マリーの側へ駆け寄り、無事を確認して安堵する。
「無事で良かった。怪我はしていないか?」
「私もローザも大丈夫ですけど、街が……」
マリーは来た道を振り返り、青ざめた顔で震えた。
道の奥が赤く燃えており、火の手が広がっていることを実感する。
アルバートはマリーの震えている手を握りしめた。
「ここもじきに火の手が回る。早く避難するんだ」
「は、はい……」
「あまり煙を吸わない方が良い」
アルバートの言葉にマリーは頷くと、ハンカチを取り出して口に当てた。
それを見てアルバートは目を見開く。
マリーの手にあったのは、以前にアルバートが贈ったハンカチだった。
小さく一輪の花が刺繍されたハンカチ。
もうマリーの手元にはないと思っていた。
ひどい仕打ちをした自分と同様に、手放したのだと。
「騎士様……?」
無言で見つめるアルバートに、マリーが気にするように声をかけた。
マリーは、このハンカチがアルバートから贈られたものだと知らずに持っているだけかもしれない。
例えそれでも、マリーが持ってくれているということが、アルバートはそれだけで嬉しかった。
「ああ……。いや、何でもな……」
その時、少し離れたところで建物が崩れる音と、悲鳴が上がった。
予想以上に大火事になりそうだということに、アルバートは息を飲んだ。
早くマリーを安全な場所へ避難させて、これ以上火事の犠牲が広がらないようにしなければならない。
「マリー。向こうに避難所があるから、早く行くんだ」
「騎士様は……」
「俺は大丈夫だ」
「あ、あの、ではこれを持って行って下さい……」
そう言って、マリーは手にしていたハンカチを差し出した。
アルバートが煙を吸わないようにと気を使ったのだろう。
差し出されたハンカチをアルバートは見つめた。
まるで出会った時のようだと思えた。
あの時に戻れたのならば、間違えないようにやり直したい。
けれど、アルバートは首を横に振って、ハンカチをマリーの手の中に戻した。
アルバートのことを全て忘れてしまったけれど、せめてこのハンカチだけはマリーの元にあって欲しいと思った。
「自分のものを持っているから大丈夫だ。これは、君に持っていて欲しい」
「分かりました……。あの、お気をつけてください……」
気にかけるマリーに、アルバートは頷いてその背を押す。
時おり心配そうに振り返るマリーを見送って、アルバートは火の燃える方へと向かった。
親とはぐれた子供や、動転してしゃがみ込んでいる老婆を安全な場所へと促す。
火の近くへ寄れば煙がひどくなり、息苦しくなる。
アルバートは服の中から自分のハンカチを取り出した。
それは、初めてマリーと出会った日に差し出されたあのハンカチだ。
血で汚れてしまったけれど、捨てることなんてできるはずがなく、気恥ずかしくてマリーにも言わず大事に持っていた。
アルバートのことを忘れてしまっても、マリーは変わらなかった。
初めて会った日にハンカチを差し出してくれた優しいマリーのままだ。
先にマリーの優しさを忘れてしまったのは自分の方だと、アルバートは思った。
マリーのハンカチを握りしめる。
その時、人々の悲鳴が耳に届いた。
顔を上げれば、先にある建物の炎が高く上がっている。
アルバートはハンカチを握りしめたまま駆け出し、逃げる人々を安全な場所へ誘導した。
「崩れるぞ!」
「逃げろ!!」
乾いた風が建物を包む炎をいっそう燃え上がらせ、周囲から悲鳴が響いた。
火の粉と共に押し寄せた熱風に、アルバートは腕を前にして身を庇う。
その瞬間、手の中のハンカチが熱風に煽られて離れた。
「っ……」
あれは、マリーのハンカチだ。
初めて出会ったときに、マリーがくれたかけがえのない物だ。
火の粉で赤く透けるハンカチをアルバートは追った。
燃え盛る炎の熱風がひどく熱い。
それでもアルバートは必死に手を伸ばした。
「アルバート、だめだ!! 戻るんだ……!!」
その時、到着した騎士隊の中にいたカイルが叫んだ。
けれど人々の逃げ惑う声と、炎の熱風にかき消されてしまう。
包まれた建物が傾いて、群集の声が一段と大きく響き渡った。
「マリー! マリー!!」
アルバートは何度も何度も、その名を繰り返し呼んだ。
脳裏に、マリーと過ごしたいくつもの日々が蘇る。
初めて出会った日の心配そうな表情。
城の中で偶然再会したときの驚いた仕草。
新しいハンカチを贈った時の小さな微笑み。
一緒に出掛けて楽しそうにしていた笑顔。
その全てがかけがえのないものだったということを、今になって気づく。
「マリー……っ」
その感触をつかんで安堵した先に、赤い炎が広がるのが見えた。
守るように力を込める。
そうだ、どうして今まで気付かなかったのだろう。
「こんなにも、大切だったのに……」
呟いた自分の声が耳に響く。
先ほどまでの轟音が嘘のように静かだ。
手の中の感触を握りしめる。
ああ、良かった。
無事で、良かった。
そう言ったつもりなのに、もう自分の声さえ聞こえなかった――。




