失った大きさ
乾いた風が音を立てる。
アルバートは、立ち上がった土埃の奥を見つめた。
意識しなければ通り過ぎてしまいそうなほど、目立たない雰囲気を纏っている。
それは意図的なのだろうか、そう思った。
どこか異質的な雰囲気に躊躇しながらも、意を決して扉を開ける。
「――用のない者はお断りだ」
店に入るなり、奥からそんな声が届いた。
老爺らしき声の主の姿はどこにもないのに、向こうはアルバートのことを見ているのか視線を感じた。
まだ何も言っていないのに、この店の客でないと見抜かれたのだろうか。
だが、これで引き下がるわけにはいかない。
「忘れ草で失われた記憶を戻すことはできないのか?」
マリーが忘れてしまった記憶を取り戻す方法を探しに来た。
それが存在するのなら、アルバートはどれだけの金を積んでも良いと、その思いで尋ねた。
「不可能だよ。例えどれだけ金を用意しようと愚かな考えだ」
「っ……」
はっきりと告げた声に、まるで心の中を読まれているかのようで、アルバートは息を飲んだ。
言葉が胸に突き刺さる。
「一度失ったものは戻らない、それが道理だ。失う方もそれを覚悟して求めるのだ」
アルバートの心に、マリーの覚悟という事実が重く圧し掛かる。
マリーはどんな思いでこの店へ訪れたのだろう。
老爺の重たい溜息が響く。
「何のために生み出されたのか知らんが、いつの世になっても求める人の心があることが原因じゃないのかね?」
人が忘れ草を求めるのではなく。
求めた人の心が忘れ草という存在を生んだのだろうか。
そうだとすれば、どれほど悲しい始まりだろう――。
「マリー」
店の中から出てきた姿を見て、アルバートは呼び止めた。
「騎士様」
よく知っている声で他人行儀にそう呼ばれることに、胸の痛みが増す。
その痛みを胸の奥底に沈めながら、マリーの側へと近づいた。
「近くまで来たから、これを君に持ってきたんだ。人気の菓子店らしい。この間、驚かせてしまった詫びに」
「え? そんな、お気遣いは……」
「美味しいと評判らしいから、良ければ受け取って欲しい」
「あ、ありがとうございます……」
マリーは遠慮して断ろうとしたが、アルバートの言葉に押されて、お礼を言いながら受け取った。
まだ少し困った様子を浮かべながらも、甘いものが好きなマリーは、袋の中の菓子を見て嬉しそうに表情を緩めた。
その表情をアルバートは見つめる。
同じ表情だ。
汚してしまったハンカチの礼に新しいものを贈った日、一輪の花が刺繍されたハンカチを見て、嬉しそうに微笑んだ表情と。
この一年のことを忘れても、マリーはマリーだと、アルバートは思った。
「騎士様?」
「あ……いや、何でもない……」
顔を上げたマリーは、再び他人行儀に騎士様と呼ぶ。
同じ表情をするのに、アルバートの名を口にすることはなかった。
「何か、困っていないか……?」
「いえ、大丈夫です」
「そうか……。もし何かあれば、言ってほしい」
「……あの、どうしてそんな風に親切にしてくださるのですか?」
マリーは手の中の菓子からアルバートに視線を移しながら、不思議そうな表情で尋ねた。
ただ疑問を尋ねている様子のマリーに、アルバートが表情を固めた、その時。
「マリー!」
二人の間を声が切り裂いた。
「ローザ……」
「何をしているの、早くお店の中に入って!」
「でも、ローザ……」
「いいから早く!!」
割って入ってきたローザが、マリーを庇うように隠しながら店の中へと押し込んだ。
そのまま店の扉を閉めて、アルバートの前に立ちはだかる。
「もう二度と来ないでと言ったはずよ!」
ローザは厳しい目つきでアルバートを睨みつける。
恨みがこもっているような強い口調ながらも、店の中に聞こえないように気にしつつアルバートに向かって言った。
「他の人と結婚するのに、またマリーに優しくしてどうするつもりなの? また同じことをする気?」
「俺は……」
「あなたを信じていた頃のマリーは、あなたと会うたびに好きになると言っていたわ。このままあなたと会えば、マリーはもう一度あなたに恋をしてしまうかもしれない。もうマリーを悲しませないで……っ」
アルバートは口を開きかけたが、ローザは厳しい非難を浴びせると、背を向けて店の中へと入ってしまった。
強く閉めた音だけが響き、拒まれた扉の前でアルバートは立ち尽くした。
「……アルバート。宰相が捜していたぞ。会う予定じゃなかったのか?」
カイルが声をかけるが、アルバートは微動だにせず目の前を見つめた。
マリーとよく会っていた庭の、一緒に見ていた景色を。
マリーが綺麗だと言っていた庭は、あの頃と変わらず花が咲いている。
それなのに、あの日々と違って隣にマリーはいない。
「最近、宰相がおまえに不満を抱いているという噂がある。このままでは婚約も危うくなりかねない」
婚約という言葉を、アルバートは頭の中で考えた。
宰相令嬢と結婚すれば誰もが羨む人生なのに、その中にマリーはいない。
その事実が、とても空しく思えた。
あれだけ宰相令嬢との婚約に必死になっていたのに、今ではその理由も分からない。
「同じように、笑うんだ……」
アルバートは、ぽつりと言葉を零した。
それにカイルは黙って耳を傾ける。
「忘れても、マリーは同じ表情をするんだ……」
以前と変わらない表情をするマリーを思い出した。
記憶の中のマリーの笑顔も蘇る。
アルバートが好きだった、あの明るい笑顔。
「前に戻りたい……」
マリーがいたあの頃に。
もしかしたら、戻れるのではないだろうかと、そんなことを思った。
「また、繰り返すだけだ。彼女がどうして忘れ草を求めなければならなかったのか、その理由を忘れるな」
カイルの声は冷静に告げる。
まるでローザと同じことを言う。
「彼女のことを思うなら、もう二度と同じ過ちを犯すな」
過ちという言葉がアルバートの胸に刺さった。
例え菓子を贈ったところで、償いにすらならない。
マリーに親切だと言って貰えるような立場ではないのだ。
前に戻るなど不可能なことだ。
マリーはアルバートのことを忘れてしまった。
そして、マリーが忘れた記憶の分、アルバートもマリーを失ったのだ。
心の中にあったマリーの存在が大きすぎて、失くしてしまった今、心に空いた穴は広すぎてどう埋めればいいのか分からない。
マリー、と心の中で呟く声が、その大きな空洞に空しく響くようだった。
「……アルバート」
カイルの声が少し緊張を孕んだように、アルバートを呼んだ。
顔を上げれば、カイルの視線は瞬きもせず遠くを見ている。
アルバートはその方向へと振り返った。
「火だ……」
カイルの見つめる街の方角に、赤い揺らめきと煙が立ち上っていた――。