思い出(2)
「マリー嬢」
「アルバート様」
マリーのアルバートへの呼び方が、騎士様から名前に変わったのは、出会ってから少したったころだった。
城の中で騎士と呼べば他にも多くの騎士がいる。
そう言ってアルバートが名前で呼ぶよう促せば、マリーは少し戸惑った様子を浮かべながらも、小さな声でアルバートの名を口にした。
名前で呼ぶ者は他にもいるのに、マリーに呼ばれると特別な気分になると、アルバートは感じた。
それから毎日のように城の片隅で会うようになった。
仕事の合間にいつも同じ場所で待ち合わせ、木の影からマリーの笑顔が現れるたびに、アルバートもつられるように笑顔で側に並んだ。
「仕事には慣れたかい?」
「はい。覚えることも多いですけど、皆さんによくして頂いています」
「そうか。洗濯仕事は重労働で大変だろう」
「騎士団のお仕事の方が、危険とも隣り合わせで大変だと聞きます。怪我などはしていませんか……?」
マリーの視線が、初めて会った時に怪我をしていたアルバートの手に向けられる。
もうあの時の怪我は治っているが、最初の印象のせいか、マリーはアルバートが怪我をすることを心配しているようだった。
大丈夫だと、アルバートがそう言おうとした時、突然二人の背後から声が割り込んだ。
「――こいつは優秀だから、めったに怪我をすることはないから大丈夫だよ」
声に驚いてマリーが肩を震わす。
「前に怪我をしたとき、君に格好悪いところを見せたと落ち込んでいたからね」
「カイル!」
声で誰かすぐに分かったアルバートは、その名前を呼びながら振り返った。
二人の後ろには、アルバートの同僚のカイルが笑みを浮かべて立っている。
「すまない、マリー嬢。こいつは同じ騎士団に所属している友人だ」
「初めまして。気軽にカイルと呼んで――いや、アルバートに睨まれるから止めておこう」
「カイル!」
「午後の予定は明日に変更だ。それを伝えに来ただけだ」
カイルはからかうような笑みを向けて、これ以上アルバートの文句を受ける前に素早く去っていった。
一瞬だったがまるで小さな嵐のようで、マリーが驚いた様子のままその方向を見ている。
「マリー嬢、すまない。その……あいつの言ったことは気にしないで欲しい」
余計なことを喋っていったカイルに、アルバートは気まずそうに口ごもる。
いつもは堂々と話すアルバートのその珍しい姿に、マリーは小さく笑いを零した。
「仲が良いんですね」
「騎士学校時代からの友人だ。任務の時は一番頼りになる。君は? 君の話も聞きたい」
「明るくて、とてもしっかりしている大事な友人がいます。姉妹みたいに一緒に育った……同じ孤児院出身の友人です」
友人のことを誇るように話していたマリーの声が、一瞬躊躇するように止まった後、俯いて小さく告げた。
マリーのその言葉に、アルバートは俯く横顔を見つめた。
下働きをしているマリーがあまり裕福でないことには、アルバートも何となく気づいていた。
だが、孤児院出身だと言うと、良い顔を向けられないことも多かったのだろう。
それでも、マリーはアルバートに正直に教えてくれた。
「そうか。大変なことも多かっただろう。君に姉妹のように仲の良い友人がいてくれて良かった」
アルバートがそう言った瞬間、マリーの表情がまるで闇の中に光を見つけたかのようにぱっと明るくなり、真っ直ぐにアルバートを見つめた。
彼女のこれまでの人生の中で、そう言った者はいなかったのかもしれない。
マリーのこれまで背負ってきた苦労を思うと、アルバートはその華奢な肩を支えたいと強く思った。
「マリー嬢。今度の休みに一緒に出掛けないか? 綺麗な湖があるんだ」
「湖ですか?」
「ああ。俺が好きな場所だから、君にも見せたい」
アルバートの言葉に、マリーはうっすらと頬を赤らめ、嬉しそうに微笑んだ。
その表情を見てアルバートも笑みを零した。
肩が凝るような息苦しさを、アルバートは感じた。
実家の集まりだというのに寛げる空気は一切ない。
アルバートの生家はさほど大きな家柄ではないが、歴史の長い血筋で、歴史があるということは必然的に自尊心が高くなる。
両親はその中でも特に自尊心が高い部類だろうと、アルバートは思っていた。
「――アルバート。あなたは最近どうなの?」
顔を合わすたびに母親は必ずこう尋ねるな、とアルバートは考えた。
だが、息子の返事を求めているわけではない。
「特に変わったことはありません」
「三男とはいえ、あなたは由緒正しき我が家の一員なのよ。恥ずかしくない行いを常に心がけなさい」
両親が常に気にするのは評判と世間体で、我が子を思っているわけではない。
昔から言われてきたことは、周囲に劣るな、家の恥になるな、というものだ。
そう言われるたびに、自分の中に焦りと苛立ちが増えていくのが分かる。
指先が手のひらに埋まるくらい強く握りしめながら、アルバートはマリーのことを思い浮かべた。
孤児院で育ったと言っていたマリーは、庶民的で素朴な娘だ。
いつも真っ直ぐにアルバートのことを見て、素直にものを言う。
貴族に生まれたアルバートにとっては、その裏表のない笑顔がとても新鮮だった。
マリーの笑顔と笑い声が脳裏に蘇る。
握りしめていた手の力が抜けて、苛立ちが和らぐのを感じた。
「綺麗……!」
きらきらと輝く青い湖を見て、マリーが頬を紅潮させながら声を上げた。
そんなマリーをアルバートは笑顔をで見つめる。
湖へ行く約束をした日は、天気にも恵まれ湖面は陽ざしを享受している。
マリーはあまり遠出をしたことがないらしく、美しい湖畔の景色に見とれながら、二人はゆっくりと散策をした。
「マリー嬢。舟があるから乗ろうか」
二人乗りらしい小さな舟をアルバートが示すと、マリーは少しだけ不安そうにした。
「揺れませんか……?」
「俺の手をつかんでいたら良い」
不安げなマリーの手を引いて、アルバートは舟に乗った。
落ち着かない様子でいたマリーも、舟がゆっくりと進み出すと、流れる周囲の景色に顔色を明るくした。
「アルバート様、向こうに水鳥がいます」
マリーはまるで子供のように楽しそうに笑った。
その姿をアルバートは見つめる。
無邪気に笑う姿が愛おしいと、そんな感情をアルバートは初めて抱いた。
気づけば、湖面を泳ぐ水鳥を示していたマリーの手を、アルバートは握って引き寄せていた。
「マリー嬢」
触れたその手は水仕事で荒れていた。
けれど、懸命に働いているその証を愛おしいと感じ、この手を守りたいとアルバートは思った。
「君が好きだ」
手の甲に口づけて囁く。
マリーが驚いたような表情をして、次第に不安そうに変えていった。
「冗談は……。私は、平民です……」
「本気だ。身分なんて関係ない」
アルバートははっきりとした口調で告げる。
「俺のことが嫌いかい?」
その言葉に、マリーは目を見開かせた。
口を噤んだまま首を横に振る。
握った手を離さずに見つめるアルバートに、ややあって微かに口を開いた。
「好きです……」
小さな声だったけれど、その言葉を聞いたアルバートは、握った手を引き寄せてマリーを抱きしめた。
耳元でもう一度囁けば、マリーははにかみながらも微笑んだ。
マリーが笑うと、自分も嬉しいとアルバートは感じた。
ずっとマリーに笑っていて欲しいと願った――。
***
そう、思っていたはずなのに。
宰相令嬢との婚約話が出たとき、両親を見返すことができると思い浮かんだ。
地位と、マリー、その両方を手に入れられると。
その裏切りが、彼女をどれほど傷つけるかも考えずに。
なぜ、そんなことをしてしまったのだろうと、今になってアルバートは思った……。




