思い出(1)
マリーと出会った日のことを、アルバートは今でもはっきりと思いだせる――。
***
その日、アルバートは所用で街に下りていた。
途中で酔った男達が暴れているところに出くわして、それを止めに入った。
人数が複数いたので多少手間取ったが、何とか抑えた頃にちょうど警備隊が駆けつけ、男達を引き渡した。
ようやく一息つこうとして、アルバートは自分の手の甲から血が出ていることに気づいた。
取り押さえたときにでも擦り切ったのだろう。
騎士という仕事柄、怪我をすることはよくあるのでこの程度はたいしたことはなかったが、傷口を洗い流すために水場を探した。
近くで井戸を見つけて、汲んだ水を手の甲へとかける。
少し傷口に染みて、アルバートは思わず顔をしかめた。
その時、目の前にハンカチを差し出す手が映った。
アルバートが顔を上げると、質素な身なりの娘がハンカチを手に立っていた。
「どうぞ使ってください」
娘の目線はアルバートの手に向いている。
「いや、たいしたことじゃない。ハンカチが汚れるので、気持ちだけで十分だ」
怪我には慣れているので、この程度の傷はほっといても十分だと分かっている。
アルバートは濡れた手の水滴を払い、厚意に感謝しながらも断った。
しかしその娘はアルバートの手の中に自分のハンカチを手渡した。
「使った後は処分していただいて構いません。どうぞお大事にされてください」
「あっ、君……!」
娘はハンカチを渡すと、軽く頭を下げて人混みの中へ消えていった。
栗色の長い髪が揺れる。
アルバートはしばらくその後ろ姿と、ハンカチを交互に見つめ続けた――。
「アルバート、その怪我どうしたんだ?」
カイルが手の甲に視線を向けた。
「ああ……。この間、街で酔っ払いたちを押さえたとき擦り切った」
「それは災難だったな」
それほど深い怪我でもなかったので、今は表面が赤くなって傷も塞がってきている。
アルバートはその傷を見つめた。
「アルバート? どうしたんだ?」
「いや……、あの時、ハンカチを貸してくれた娘がいたんだが、名前を聞く間もなくて礼をできなかったんだ。ハンカチも汚してしまったし、悪いことをした」
「親切な娘だな。また街で会えると良いな」
カイルの言葉にアルバートも頷いた。
けれど実際にはそんな可能性は低いし、もう会えることは二度とないかもしれないだろうから、あの時に追いかけて礼をしておけば良かったと思う。
「団長に報告書を渡してくる。先に行っていてくれ」
「分かった」
途中でカイルと別れて、アルバートは城の中へ向かった。
城の中は騎士以外にも文官や女官など大勢の人々が働いているので、すれ違いながら廊下を歩く。
仕事で関わることもなければ、全員の顔と名前を覚えられるわけでもない。
しかし、中庭を挟んだ回廊の向こうを歩く人影の、珍しくない栗色の髪が揺れる姿に、不意に既視感を覚えてアルバートは振り返った。
洗濯籠を抱えた若い娘は視線に気づいたのか、顔を上げると目が合った。
「君は……」
「あなた様は……」
街中でハンカチを差し出したあの娘だった。
彼女の方もアルバートのことを覚えていたのか、廊下を回ってきたアルバートの姿を見て、驚いたように目を丸くさせた。
「ずっとあの時の礼をしたいと思っていたんだ。遅くなってすまない」
「いえ、そんな……。お怪我は大丈夫ですか?」
「ああ。ありがとう」
怪我を気にするように視線を向けた娘に、アルバートは礼を言った。
「俺はアルバートという。まさか、城で会えるとは思ってもいなかった」
「マリーと申します。最近働き始めたばかりなんです」
マリーと名乗った娘の着ているお仕着せは下働きの娘のもので、簡素なエプロンを巻いているだけだった。
洗濯籠を抱えているので、洗濯場の仕事をしているのだと分かった。
洗濯場は騎士の仕事とは関りがないので、ここで偶然会わなかったら、同じ城内で働いていても気づかず話をすることもなかっただろう。
廊下の向こうから歩いてきた文官も、騎士と下働きの娘が話している組み合わせを不思議に思ったのか、通りすがりに視線を向けた。
マリーの方もそれに気づいたのか、洗濯籠を抱え直すと少しだけ足を後ろに下がらせた。
「では、私はこれで……」
頭を下げてその場から去ろうとしたマリーを、アルバートは思わず呼び止めた。
「マリー嬢、あの時のハンカチの礼をしたい」
とっさにそんな言葉が口を出た。
アルバートはなぜ呼び止めたのか自分自身でもよく分からなかったが、気づけば口がそう動いていた。
「君のハンカチは血で汚れてしまったから、新しいものを返したい」
「いえ、高価な物でもありませんので、お気になさらないでください」
「それでは俺が困る。マリー嬢、今度の休みは?」
「三日後ですが……」
「では三日後の正午に、城の門の前で待っている」
アルバートは一方的に日時を指定すると、返事を待たずに彼女に手を振ってその場を立ち去った。
その後、同僚に休みを交代して貰い、アルバートは三日後を待った。
どこかいつもと違う様子にカイルが少し不思議そうに見ていたが、アルバートはその視線に気づかなかった。
約束の日、城の門で待っていたアルバートの前に、戸惑った様子でマリーは現れた。
初めて会ったときと同じように質素な身なりをしていたが、若葉色のスカートは爽やかだと、アルバートは思った。
「やあ、マリー嬢」
「あの、騎士様、やはりお気遣いはいりませんので……」
「それでは俺が困ると言っただろう? 気持ちだと思って付き合ってほしい」
マリーはまだ遠慮している様子だったが、アルバートは彼女が断り辛いことをあえて言ってそれを遮った。
これ以上マリーが遠慮する前にと、早々に街の方へ向かうことにする。
街に下りると、特に女性から評判の良い店を選び、アルバートはそこへマリーを連れた。
入った店内には、帽子や手袋などレースで彩られた美しい商品が並び、その一角にハンカチも並べられていた。
「マリー嬢。これなどはどうだ?」
アルバートは、全体に華やかな草花の刺繍が施された、手の込んだ意匠のハンカチを選んでマリーにすすめた。
まるで花園をそのまま映したような美しさだ。
けれど、マリーが困ったような表情を浮かべたことに、アルバートは気づいた。
「好みではなかったか?」
「いえ、そういうわけでは……。ただ、こんなに綺麗だともったいなくて使うことができません……」
マリーの言葉に、アルバートは出会ったときに彼女が差し出してくれたハンカチが、決して高価なものではなかったことを思い出した。
普段から使っていただろうと一目で分かるものだった。
貴族の女性達に評判の良いこの店にあるものは、どちからといえば装飾品の意味合いが強く、実用性はあまり求めていない。
けれどマリーの中でハンカチといえば使うものなのだろう。
アルバートは他のものに目を向けた。
レースや華やかな刺繍の施されたハンカチが多かったが、簡素ながらも一輪の花を細やかに刺繍したハンカチを見つけて手に取った。
「これはどうだろうか?」
それを見たマリーは黙ったままだったが、少し見開いた目で真っ直ぐにハンカチを見つめている様子に、彼女が気に入ったことがアルバートにも伝わった。
他のハンカチと比べれば簡素だが、技術の全てを一輪の花に託したかのように、とても繊細な刺繍だった。
競い合う花園よりも、静かに咲くその清楚さが、彼女に合っているとアルバートは思った。
「君に良く似合っている。どうか受け取って欲しい」
初めて会った時にマリーがアルバートにしたように、彼女の手の中にハンカチを渡すと、アルバートはそっと上から手を重ねた。
指先が触れて、マリーの頬が赤く染まる。
「あ、ありがとうございます……」
まだ少し戸惑った様子だったが、マリーはお礼を言ってハンカチを受け取る手に力を込めた。
真っ白な生地に小さな花が可憐に咲くハンカチを見つめながら、赤らんだ頬が嬉しそうに微笑む。
喜んでくれたマリーに、アルバートも嬉しくなって、笑みを浮かべながらいつまでもその顔を見つめた――。