苦しみ
忘れ草という言葉に、アルバートは信じられない思いになる。
「それは本当なのか……?」
声が動揺を隠しきれないように上擦った。
そんなアルバートに向けられるローザの視線は一切揺るがない。
アルバートはその存在を知っていたが、普通ならば関りのない物で特に気に留めたことはなかった。
その意味することを思い出す。
――忘れ草は、一年分の記憶を失う。
そう人々の間では語られていた。
二人が出会ったのは、マリーが姿を消した時から半年ほど前だ。
その話が本当なら、マリーが他人のような態度を向けたことも、つじつまが合うとアルバートは思った。
「私はマリーに愛人なんてならないで別れればいいと言ったわ。忘れ草なんて使う必要はないってね」
ローザはアルバートを睨みつけたまま言った。
忘れ草の効果は、忘れたい記憶だけを失うのではない。
一年間の嬉しかったことも幸せなことも、その間に学んだことも知り合った人々のことも、何もかも全てを忘れてしまう。
良いことも含めて、例外なく。
忘れたいことのために、他の全ても犠牲にしなければならないのだ。
辛いことと、それ以外のことを天秤にかけたとき、忘れ草を求める人は一体どれだけいるだろうか。
それでも忘れ草を求めるということは、それほど耐えがたい思いなのだ。
「けれどマリーは、もしあなたに愛人になるよう言われたら、きっと自分は断れないと言っていたわ。苦しむことになると分かっていても、好きな人の言葉を断れないから、忘れるしかないってね……」
「俺は……」
「二度とあの子の前に現れないで! もう悲しませないで……!!」
言いよどんだアルバートに、ローザの厳しい糾弾が浴びせられる。
アルバートはマリーの笑顔を思い出した。
いつだって裏のない真っ直ぐな笑顔だった。
けれど、再会したマリーはあの笑顔をアルバートに向けることはなかった。
そうさせたのはアルバートなのだ。
あれほど笑顔だったマリーを悲しませて、涙を流させたのが自分自身だということに、アルバートは言葉を発せられなかった。
ローザに追い出されるように店を出ると、果物を買って帰ってきたマリーの姿が見えて、アルバートは思わず駆け寄った。
しかしアルバートを見たマリーの表情に、やはり笑顔は浮かばなかった。
「騎士様、お帰りですか……?」
「あ、ああ……。……先ほどは、突然つかんですまなかった」
「いえ……」
マリーが首を横に振り、栗色の髪が揺れる仕草を目で追う。
「……あの、どこかでお会いしたことがあったのでしょうか?」
マリーが申し訳なさそうな表情で訊ねた。
けれど、先ほどのローザの怒りを聞いて、アルバートはここで頷くことはできなかった。
恋人だったと、どう言えるだろうか。
裏切った恋人だと、記憶のないマリーに言えるはずがない。
「……いや、その……今日は、突然すまなかった。また、今度改めて来る」
「はい……」
アルバートは右手を少し持ち上げて振ったが、マリーは俯いて頭を下げた。
それは、身分が上の相手にするような礼だった。
それを見たアルバートは表情を固め、持ち上げた手の行き場をなくしたように、わずかに震わせてそっと下ろすことしかできなかった。
こんなにも側にいるのに、まるで違う世界にいるようだ。
マリーの世界に、アルバートはいないのだ――。
「マリーを見つけた」
騎士団の詰所に戻ったアルバートは、カイルにそう言った。
「良かったじゃないか! 一体どこにいたんだ?」
「孤児院で一緒だった友人のところにいた」
「そうか。無事で良かったな」
マリーの行方を心配していたカイルは、見つかったことに喜んで安堵した表情を浮かべた。
しかし。
「忘れ草を使ったらしい」
その言葉にカイルの表情が驚きに変わった。
「何だって……っ?」
「宰相令嬢と婚約して、マリーを愛人にすると話していたところを聞いていたらしい。俺に裏切られたと思って、忘れ草を使って俺のことを全て忘れていた」
アルバートは先ほどのマリーの様子を思い出して唇を噛みしめた。
触れると怯えたように震え、笑顔のなかった表情に、心の奥で上がったままの悲鳴は未だ止まない。
「今日はマリーの友人に追い返されてしまった」
「また彼女に会いに行くのか?」
その言葉を聞いてカイルは眉をひそめた。
「当り前だ。やっと見つけたんだぞ」
「宰相令嬢との婚約はどうするんだ?」
「何を言ってるんだ、もう婚約は交わしている。この婚約を破談にすれば、騎士生命も危うくなる」
打診のあったその話を正式に婚約としたのは数日前のことだ。
すでに城中の者が知っている。
「宰相令嬢と結婚するのに、マリー嬢に会いに行くのか? おまえに裏切られたと思って忘れることを選んだ彼女に会ってどうするんだ? 彼女をもう一度苦しめるつもりか?」
「それは……」
先ほどマリーが見つかったことを喜んでいた様子とは打って変わって、カイルは厳しい口調でアルバートを問い詰めた。
真っ直ぐに見つめるカイルに、アルバートは言葉を詰まらせる。
それを見て、カイルの表情が少しだけ友人としてのものに戻った。
「同じ貴族の生まれとして、おまえの気持ちは理解できる。宰相令嬢と結婚すれば
将来は約束されるし、ここで婚約を破談にすれば、きっと一生出世はできない」
カイルも爵位を持った家柄に生まれ、貴族社会のことはよく知っていた。
城の中で多大な権力を持っている宰相を後ろ盾につければ出世もできるが、その反面、機嫌を損なわすことになれば立場さえ危うくなるという事実を。
宰相家より身分も立場も低いアルバート側から婚約を断れば、恥をかかせることとなる。
「アルバート。おまえは昔から頭も良かったし、何でも要領よくこなせた。けれどその分、努力でどうにもならないことに対しては諦めが早くて、どこかつまらなさそうだった」
カイルの厳しかった口調が少し弱く、苦し気な表情で話すので、アルバートは口を挟めずその言葉を黙って聞いた。
「けれど、マリー嬢と出会ってからのお前は楽しそうだった。彼女と出かけたことや、些細なことを、おまえは心から楽しそうに話していた」
だから、とカイルは小さな声で繋いだ。
「俺には、おまえが宰相令嬢と結婚してマリー嬢を愛人にすると言った時、正直信じられなかった。彼女も、信じていたおまえにそう思ったんじゃないのか……?」
「俺は……」
カイルの言葉にアルバートは口を開いたが、言葉が出ずに言い淀んだ。
そんなアルバートをじっと見つめていたカイルは、黙ったまま側に近づくと、無言のまま肩に手を置き、それ以上問い詰めることなく部屋を出て行った。
カイルの手は少し肩を押さえる程度の力だったのに、まるで足が地面に埋まってしまったかのように、アルバートはその場から動けずにいた。
「マリー……」
マリーがいた日々のことを思い出した。
浮かぶのは、全て楽しかった日々だ。
一緒に出掛けた日のことも。
恋人になった日も。
初めて名前を呼んだ日。
そして、出会ったあの日を思い出す――。
5/5誤字訂正しました。ありがとうございます。




