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忘れ草  作者: 細井雪
1/9

マリー





 孤児院で育ち城の下働きをしているマリーには、騎士をしている恋人がいた。

 伯爵家の三男で身分違いの恋だったが、優しい恋人はマリーを好きだと言ってくれた。

 その言葉だけでマリーは幸せだった。


 だから、偶然その会話を聞いたときは、息が止まりそうになった。


「――宰相の娘と婚約? 本当なのか、アルバート」


 恋人であるアルバートの名前を聞いて思わず立ち止まる。

 そう言った声は、マリーも会ったことのある恋人の同僚のものだ。

 マリーは回廊の壁に身を隠したまま、体が動かないと言った方が正しいくらい、身じろぎ一つ叶わなかった。


「ああ。宰相からそう話があった」


 続けて聞こえたのは、紛れもなく恋人の声だった。

 マリーの恋人であるアルバートは、騎士としての腕も良く優秀で、端正な顔立ちは城の中でも人気がある。

 伯爵家の三男としての身分は爵位を継ぐ可能性は低いが、後継者のいない貴族が自分の娘の結婚相手として望む声も多い。

 そんな噂話を、マリーも城の中で耳にしたことは一度や二度ではなかった。


「だがお前、マリー嬢はどうするんだよ?」


 自分の名前が出てきて、マリーの胸の奥が激しい音を立てて震えた。

 この壁の向こうの二人にまで聞こえるのでないかと思うほど、激しく鳴り響く。


「マリー嬢はおまえの恋人だろう」

「宰相令嬢との結婚話を断れるわけがない」

「じゃあマリー嬢とは別れるのか?」


 自分のことを話す彼らの言葉が重くのしかかり、ますます足が動かない。

 宰相令嬢はマリーも城の中で何度か見た覚えがあった。

 年頃は同じくらいだが、自分の地味な栗色の髪とは違い、美しい金色の髪が目を引く才色兼備の女性だと、マリーは思った。

 アルバートも金色の髪なので、並ぶときっと美しいだろう。

 そんな二人の姿がマリーの頭の中に浮かんだ。


「いや、マリーとは別れない。結婚しても愛人を持っている貴族は大勢いる」


 その瞬間。

 あれだけ激しく鳴り響いていた音が、止まってしまったかのように感じた。

 胸の奥から冷たくなって足先まで冷えていく。

 胸の音も世界中の音さえも、全て消えてしまったかのようだった。

 そんな静寂の中、アルバートの声だけがはっきりと聞こえた。


「そもそもマリーとは身分が違うんだ、結婚なんてできるはずがない」


 それは、誰よりも恋人の口から聞きたくない事実だった――。







 そこはまるで人目を避けるかのように、城下の外れにひっそりと存在している。

 扉に手を伸ばすと、擦れるような音を立てて開いた。

 狭い店内は、想像していたよりも何もなく物音一つしない。

 無人だろうかと、そう思ったとき奥から声が聞こえた。


「――何か用かね?」


 暗くて分かり辛かったが、老爺らしきしわがれた声だった。

 マリーは被っていたフードを下ろすと、赤くなった目元を伏せたまま口を開いた。


「……忘れ草を、ください……」


 思っていたよりも言葉はすんなりと零れた。


 ――忘れ草。


 それは、忘れたいことのある人間が求めるもの。

 記憶を失うという効力。

 時おり人の噂に上る、謎の多い存在だった。

 それが名の通り草なのか、それとも秘薬なのか詳しくは誰も知らない。

 なぜならば、それを求めた者は皆その記憶を失うからだ。

 深い悲しみを忘れたい人、辛い出来事を忘れたい人、理由はそれぞれだったが、よほどの強い思いがなければそれを求めることはない。

 マリーもその存在を知ってはいても、自分が求めることになるとは思ってもいなかった。


 アルバートが話していた会話を思い出す。

 アルバートは宰相令嬢と結婚しても、マリーとは別れないと言っていた。

 身分が結婚にも影響を及ぼすこの国では、例え宰相令嬢との結婚話がなくても、貴族であるアルバートと孤児院育ちのマリーが結婚できる可能性は低い。

 そのことは分かっていたけれど、アルバートが好きだと囁いてくれる言葉だけでマリーは満足だった。

 好きな人の将来のためならば身を引く覚悟はできていた。

 けれど、アルバートはマリーを愛人にすると言った。

 そのことが悲しかった。

 恋人が他の女性と結婚し、いつかその女性との子を腕に抱く姿を、陰で見つめるのだろうか。

 想像しただけで辛く悲しい思いで胸が潰れそうになる。


「忘れたことは二度と元に戻らない。――それでも良いのかね?」


 暗がりの奥から最終確認のように問われる。

 マリーはゆっくりと視界を伏せた。

 目をつむってもはっきりと思い出せる。

 初めての恋人だった。

 一緒に出掛けた日も。

 城の片隅で繰り返した逢瀬も。

 木の影に隠れて交わした口づけも。

 こんなにも悲しいのに、まだ全てのことを鮮明に思い出せた。


「はい……」


 だから、マリーは忘れ草を求めた。

 彼との日々を失ってでも全てを忘れたかった。

 この悲しみと、胸の苦しみを。


「さようなら、アルバート様……」


 最後に呟く恋人の名前。


 そうしてマリーは恋人の前から姿を消した――。





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