マリー
孤児院で育ち城の下働きをしているマリーには、騎士をしている恋人がいた。
伯爵家の三男で身分違いの恋だったが、優しい恋人はマリーを好きだと言ってくれた。
その言葉だけでマリーは幸せだった。
だから、偶然その会話を聞いたときは、息が止まりそうになった。
「――宰相の娘と婚約? 本当なのか、アルバート」
恋人であるアルバートの名前を聞いて思わず立ち止まる。
そう言った声は、マリーも会ったことのある恋人の同僚のものだ。
マリーは回廊の壁に身を隠したまま、体が動かないと言った方が正しいくらい、身じろぎ一つ叶わなかった。
「ああ。宰相からそう話があった」
続けて聞こえたのは、紛れもなく恋人の声だった。
マリーの恋人であるアルバートは、騎士としての腕も良く優秀で、端正な顔立ちは城の中でも人気がある。
伯爵家の三男としての身分は爵位を継ぐ可能性は低いが、後継者のいない貴族が自分の娘の結婚相手として望む声も多い。
そんな噂話を、マリーも城の中で耳にしたことは一度や二度ではなかった。
「だがお前、マリー嬢はどうするんだよ?」
自分の名前が出てきて、マリーの胸の奥が激しい音を立てて震えた。
この壁の向こうの二人にまで聞こえるのでないかと思うほど、激しく鳴り響く。
「マリー嬢はおまえの恋人だろう」
「宰相令嬢との結婚話を断れるわけがない」
「じゃあマリー嬢とは別れるのか?」
自分のことを話す彼らの言葉が重くのしかかり、ますます足が動かない。
宰相令嬢はマリーも城の中で何度か見た覚えがあった。
年頃は同じくらいだが、自分の地味な栗色の髪とは違い、美しい金色の髪が目を引く才色兼備の女性だと、マリーは思った。
アルバートも金色の髪なので、並ぶときっと美しいだろう。
そんな二人の姿がマリーの頭の中に浮かんだ。
「いや、マリーとは別れない。結婚しても愛人を持っている貴族は大勢いる」
その瞬間。
あれだけ激しく鳴り響いていた音が、止まってしまったかのように感じた。
胸の奥から冷たくなって足先まで冷えていく。
胸の音も世界中の音さえも、全て消えてしまったかのようだった。
そんな静寂の中、アルバートの声だけがはっきりと聞こえた。
「そもそもマリーとは身分が違うんだ、結婚なんてできるはずがない」
それは、誰よりも恋人の口から聞きたくない事実だった――。
そこはまるで人目を避けるかのように、城下の外れにひっそりと存在している。
扉に手を伸ばすと、擦れるような音を立てて開いた。
狭い店内は、想像していたよりも何もなく物音一つしない。
無人だろうかと、そう思ったとき奥から声が聞こえた。
「――何か用かね?」
暗くて分かり辛かったが、老爺らしきしわがれた声だった。
マリーは被っていたフードを下ろすと、赤くなった目元を伏せたまま口を開いた。
「……忘れ草を、ください……」
思っていたよりも言葉はすんなりと零れた。
――忘れ草。
それは、忘れたいことのある人間が求めるもの。
記憶を失うという効力。
時おり人の噂に上る、謎の多い存在だった。
それが名の通り草なのか、それとも秘薬なのか詳しくは誰も知らない。
なぜならば、それを求めた者は皆その記憶を失うからだ。
深い悲しみを忘れたい人、辛い出来事を忘れたい人、理由はそれぞれだったが、よほどの強い思いがなければそれを求めることはない。
マリーもその存在を知ってはいても、自分が求めることになるとは思ってもいなかった。
アルバートが話していた会話を思い出す。
アルバートは宰相令嬢と結婚しても、マリーとは別れないと言っていた。
身分が結婚にも影響を及ぼすこの国では、例え宰相令嬢との結婚話がなくても、貴族であるアルバートと孤児院育ちのマリーが結婚できる可能性は低い。
そのことは分かっていたけれど、アルバートが好きだと囁いてくれる言葉だけでマリーは満足だった。
好きな人の将来のためならば身を引く覚悟はできていた。
けれど、アルバートはマリーを愛人にすると言った。
そのことが悲しかった。
恋人が他の女性と結婚し、いつかその女性との子を腕に抱く姿を、陰で見つめるのだろうか。
想像しただけで辛く悲しい思いで胸が潰れそうになる。
「忘れたことは二度と元に戻らない。――それでも良いのかね?」
暗がりの奥から最終確認のように問われる。
マリーはゆっくりと視界を伏せた。
目をつむってもはっきりと思い出せる。
初めての恋人だった。
一緒に出掛けた日も。
城の片隅で繰り返した逢瀬も。
木の影に隠れて交わした口づけも。
こんなにも悲しいのに、まだ全てのことを鮮明に思い出せた。
「はい……」
だから、マリーは忘れ草を求めた。
彼との日々を失ってでも全てを忘れたかった。
この悲しみと、胸の苦しみを。
「さようなら、アルバート様……」
最後に呟く恋人の名前。
そうしてマリーは恋人の前から姿を消した――。