第五章 〜黄昏の告白〜
黄金色に輝く草原が見渡す限りに続いていた。
黄昏の陽光は、灼熱の日中を耐え抜いたご褒美にとばかりに優しく微笑むと、二人を包み込んでいた。
風に乗ってくる草達の声に耳を澄ますと、三崎は心地よさそうに目を細める。
透き通る光の粒子に身を曝していると、心の中に潜む醜さや偽り――そういったもの全てが洗い流されていくように思えた。
だからこそ余計に、自身のついている嘘が胸を締め付けた。
三崎はまだ、璃子に本当のことを言っていない。
彼女の無邪気な笑顔に触れる度に、それがどんどんと重荷になっていき、その嘘を隠したまま旅を続けることが璃子だけではなく、自分をも騙し続けているのでは……と考えるようになっていた。
偽った自分のまま答えを見つけたとしても、そこに何の意味があるのだろう……?
そう結論を出すと三崎は大きく息を吸い込み、璃子の背中に声をかけた。
「なあ……」
不自然に強ばった声に何かを感じ取ったのか――璃子は何も言葉にせず、黙って続きを待っていた。
空気が止まったような沈黙の中、三崎は静かに口を開いた。
「俺、お前に嘘をついていた」
その真実を言葉にした途端、呪縛から解き放たれたように心が解放される。
「本当は女に捨てられたんだ、お前の言ったとおり」
三崎はそこまでを言葉にした後、慌てて首を振ると前言を撤回した。
「いや、正確には逃げられた……」
「携帯の、プリクラの人?」
璃子が確かめるようにゆっくりとたずねる。
「ああ」
プリクラの写真を璃子が知っていたことに戸惑ったが、不思議とそれが彼女の持つ特別な『力』だとは思わなかった。
三崎自身が彼女のポシェットの中身を見てしまったように、彼女もまた自分の携帯を見ていたのだろう。
それを今まで口にしなかったのは、こうやって真実が語られるのを待っていたからなのだろうか。それとも触れられたくない心の傷を慮ってのことなのだろうか……
いずれにしろ、もう何も隠す必要は無かった。
「何年も一緒に暮らしていて、結婚の約束までしてた。でも、一週間前、仕事から帰ってきたら、その人はいなくなっていた。服、電子ピアノ、CD、空気、声……その人の存在が確かめられるもの全てと一緒に、部屋から消えていた……」
時間が止まったように静まり返った部屋。そこに立ち尽くす自身の姿を思い出すと、三崎は唇を噛み締める。
「でも、わかってたんだ……」
「消えてしまう、ことを?」
「ああ、ずっと長い間その人と過ごしていて……その時間が長すぎて見えなくなってしまっていた、その人の存在を。俺、その人と一緒になる時に『何があっても君のことを一番に考える』って約束したんだ。でも……」
「でも?」
「何年も一緒に暮らしていて、気がつけばその約束を破っていた。自分のことばかりに考えるようになって、その人のことを一番に考えなくなっていた……」
それがかなり大人の領域の話であることはわかっていたが、三崎は構わずに続ける。
「その人は何度も悲しげにそれを訴えていた。時には言葉だったり、ただ黙って泣いていたり……でも、そんなサインに気づいていながらも、俺は何もしようとしなかった。だから俺の前からの去った……」
「もう、戻ってこないの?」
「たぶんね。俺はいっぱい傷つけてしまったから。その人のことを……」
三崎は小さく首を振ると、寂しげに問いかける璃子に笑ってみせた。
「俺は、たった一人のさえ幸せにすることができない人間になっていた。どんなに後悔しても、自分を責めても、それを償うことさえもできない。俺にとって、かけがえのない大切な存在だったのに……」
笑った顔、怒った顔、泣いた顔――その人が自分に見せてくれた全ての表情、言葉が鮮明に蘇り、三崎は言葉を詰まらせてしまう。
「シンジ……」
「俺自身、もうどこにも行けなくなった。でも、その人が好きになってくれた自分を少しでも取り戻そうと……少しでも無くしてしまったものを見つけようと、だから……」
それ以上の言葉を続けられないのを察したのか――璃子が静かに三崎の言葉を引き継いだ。
「だから、一人で旅を?」
「だから、お前の言葉を信じた。お前が何かを変えてくれそうな気がしたから……」
「あたしが?」
思いもしなかった答えに、璃子が驚いたように振り向く。
――何故?
真っすぐに見つめる瞳がそう問いかけていた。
「上手く言葉にできないけど、無くしてしまったものが見つかりそうな気がするんだ。もう一度自分のことを好きになれるんじゃないかって……」
気持ばかり先走ってまったく要領の得ない説明だと思ったが、それが三崎にとっての精いっぱいであった。
「そう……」
璃子は肯定も否定もせずに静かに瞳を落とすと、再び前に視線を戻して歩き出す。
そして前を向いたまま小さな声で、ぽつりと言った。
「好きになんか、なれないよ……」
思いもよらぬ少女の言葉に一瞬自分の耳を疑うが、それは聞き違いでは無かった。
「この先何年経っても、あたしは自分のこと、好きになんかなれない……」
三崎に――あるいは自分自身へ向けてなのだろうか。璃子は強い意志に満ちた声で断言すると、静かに続けた。
「両親が離婚して、あたしはお母さんと、ここに残った……」
突然に告白された彼女自身の境遇に三崎は戸惑う。これまで彼女に対して描いていたイメージが、文字通り大きな音をたてて崩れていった。
それを背中で感じているのか――璃子は自分に向けられているだろう同情の視線を跳ね除けるように話しだす。
「離婚が辛いなんて思わなかった。父さんと母さん、いつも喧嘩ばかりしてたし、早く別れた方がお互いのためになるって、ずっとそう思っていた……だから、離婚が決まった時、正直言ってほっとした」
璃子は前を向いたまま、淡々と過酷な現実を語ると、三崎の反応を待つこと無く続けた。
「離婚して、名前が変わったの。名前は変わっても、あたしはあたしで何も変わらない。そう思っていた。でも……」
芝居がかったように大きく肩を落とすと、少女は落胆のためいきをついた。
「そうじゃなかった。学校に行ったら、みんなのあたしを見る目が違ってた……接し方も全部ね。みんな変に優しくなって元気づけようとするの。可笑しいでしょ? あたしは自分のこと、これっぽっちも不幸だと思ってないのに……」
まるで他人事のようにそう言うと、呆れたように笑ってみせる。
「あたしだけ別の世界に飛ばされたみたいになった。みんなあたしと距離を置くようになった。先生もね。バカみたい……あたし自身は何も変わってないのに……」
「…………」
「可哀そうだなんて思って欲しくなかった。だから、前と同じようにあたしを見てって何度も言った……」
切実に訴えるようにそう言うと、少女は寂しげに首を振った。
「でも、駄目……もう前のように戻れない。世界が変わったみたいに、別の星から来た人みたいに、あたしの居場所がなくなって……あたしも学校に行かなくなった」
大人達の身勝手によって背負わされた運命――
自分の意志ではどうすることもできない大きな渦。それに巻き込まれていく自分自身……
悔しさを噛みしめるように押し黙っていた少女が不意に、それを振り払うように明るい声を上げる。
「でも、寂しくなんかなかった。ずっとバロンがいてくれたから」
「バロン……?」
「野良犬。こんなふうに学校をサボって公園でアイスクリーム食べてたら。尻尾を振って近づいてきたの。その時食べてたアイスクリームの名前を取ってバロンなんだけどね」
三崎の問いかけに璃子は嬉しそうに答える。
「……で、アイスクリームあげたらついてきて。でも、家じゃ飼えないって母さんに言われらから、近くの空き地で飼ってたの」
記憶の一つ一つを大切に繋ぎ合わすように、少女はバロンのことを話した。
「バロンだけはあたしのこと変わらずに見てくれた。犬だから当たり前なんだけどね。でも、誰よりも胸を張って友達だって自慢できたわ。あたしが寂しそうにしてると、それを忘れてしまうくらい明るく飛びついてきたり、時には何も言わずに体を寄せてきて、まるで、あたしの心が見えてるみたいに。でも……」
少女が声を詰まらせ瞳を落とすと、少しの沈黙のあと、ぽつりとつぶやいた。
「いなくなった……」
「いなくなった?」
「いつもみたいにバロンにご飯持って行ったら、いなくなってた。あたしがどんなに名前を呼んでも来てくれなかった。いつもならちぎれるくらいに尻尾を振って飛びついてくるのに……」
言葉にするのも辛いのか……固く握られた少女の拳は小刻みに震えていた。
「必死になって探した。保健所にも行ったし、思いつくところ全部探したけど、見つからなかった。でも、なんとなくわかってたんだ……もう二度と戻ってこないって。バロンの存在が感じられなくなったの……まったく。きっともう生きていないんだって……」
努めて冷静を装おうとしていたが、限界だった。
璃子は行先を失ったように足を止めると、その場に立ち尽くした。
もう何処にも行けない……肩を落とした小さな背中が、そう語っているようであった。
「あたし、クラスのみんなのこと憎んでた……同情の目でしかあたしを見なかったみんなを。でもね……」
込み上げる感情を必死に抑えると、少女は気力を振り絞って、最後まで言葉を続けた。
「あたしも同じこと、バロンにしてたの」
「…………」
「友達だなんて言っておきながら、バロンのこと守ろうともせずにいたの。あたしがもっと真剣になってお母さんを説得してたら……大切な存在だって言ってたら、バロンは今頃……」
悔やみきれない胸の内を必死に言葉にしようとする少女の姿に、三崎は胸を締め付けられそうになる。
「次にバロンに会えたらって、首輪買ったよ……でも、今更こんなことしたって、こんなことしたって……」
少女はもう、それ以上何も言葉にすることができなくなってしまう。
三崎はゆっくりと彼女の後ろに近づくと、小刻みに震える肩に手をかけた。
璃子は勢いよくその手を振り払うと、怯えたような目で三崎を睨みつけた。
悲しみを必死に堪える少女の瞳から、隠すことのできなくなった涙があふれ出していた。
「リコ……」
「好きになれるわけないじゃない! あたしが見殺しにしたのよ!」
声を限りにして叫ぶと、璃子はついに泣き出してしまう。
三崎は無意識のうちに、そっと少女の体を抱きとめていた。
「あたしが……あたしが……」
璃子は三崎の胸の中で何度も自分を責め続け、声を震わせて泣いていた。
三崎には何も言えなかった。わずか十一歳の女の子がずっと涙を堪え、誰にも弱さを見せずに生きてきたのだ。
三崎は璃子を抱き締める腕に力を込める。少女の言葉にならない激しい感情が、震えと共に体の中に流れ込み、からっぽだった心を満たしていく。
静かに目を閉じると、何一つ纏わない璃子の心を受け止める。
今の自分には何も無い。でも、たとえ自分に何も残されて無くても、全てを失ったとしても、彼女の力になりたい。
彼女を深い悲しみから守りたい……
黄昏の光の中で、三崎はそう強く心に誓っていた。
随分と長い間そうしていただろうか……三崎はゆっくりと目を開けると、胸の中で震える少女に語りかけた。
「俺、バカだから……こんな時に何て言ってやればいいのかわからない。もっとお前を元気づけることが言えたらって思う。でも……」
三崎はひとつ大きく息を吸い込むと、一番に伝えたい心の声を言葉にした。
「俺、ずっとお前の味方だから」
「…………」
驚いたように見つめる少女に、力強くうなずいてみせた。
「行こう」
「シンジ……」
「この先何があるのかわからない。でも、ここでやめたら一生後悔することになると思う、それに……」
三崎は身を屈めると、偽りのない眼差しで、真っすぐに璃子の顔をのぞきこむ。
「もうお前だけの旅じゃない。俺は、お前と最後まで行きたい……二人で答えを見つけたいんだ。だから、最後まで一緒だ」
自らの決意を口にすると、優しく笑ってみせた。
「…………」
深い悲しみに濡れる少女の瞳が、少しずつ輝きを取り戻していく。
「うん……」
照れくさそうに笑みを浮かべると、三崎に向かって小さくうなずいてみせた。
「さ、行こう」
三崎はその笑顔にうなずき返すと、璃子に手を差し出した。
少女はしっかりとその手を取ると、再び線路の先を目指し歩きだした。
二人はお互いの手の温もりを感じながら、少し恥ずかしそうに笑い合う。
歩き始めてすぐに、璃子が思い出したように三崎に切り出した。
「ねえ、あの自動販売機のことなんだけど……」
すっかり忘れてしまっていたが、まだ彼女の特別な力については未解決のままであった。
三崎がその話題に敏感に反応したのを見て、璃子は少し意地悪な表情を浮かべた。
「教えてほしい?」
「別に……」
「じゃあ、教えてあげる」
三崎の強がりを完全に見透かしたように、少女は悪戯っぽく笑う。
「あの自動販売機、前から壊れていて、あのジュースのボタン押したら絶対に『当たり』が出るようになってたの」
「知ってたよ」
「嘘!」
「嘘だよ……」
あっさりと負けを認めると三崎は、普通の女の子になってしまった璃子の顔をのぞきこみ――小さく笑った。




