湧き上がる幸福感
俺はみんなに嫌われていた。
とても残念なことだが、いやまあ、しかたねえよなあと思っていた。
何せ俺がみんなを嫌っていたから。
俺はオフィスの真ん中で、居眠りをしていた。
周りでは従業員たちがスーツに身を包んで忙しく働きまわっていた。
しかし俺は眠かった。仕事があるはずだったが、自分の仕事が何だったか、上手く思い出せなかった。
「坂本くん、坂本くん」声と共に肩を叩かれる。
俺は眠りから目覚め、
「えっ、なんすか?」と答えた。
目の前には高木部長が立っている。笑いながら立っている。
「今寝てたよね? A会社の水野さんから連絡があったよ。定時連絡が来ないって」
俺は自分の仕事を思い出した。そうだ、たしかそんな名前の人にメールする予定だった。
「すみません、寝ていました」
嘘をつくとロクなことがないってことを、俺は知っていた。
「ちょっとB会議室に行ってもらえる?」高木部長はにこにこしたまま立ち去る。
怒られるのかもしれないなあと思いながら、椅子を立って、社内を走り回っているスーツ野郎の集団をかいくぐり、B会議室に向かう。
B会議室は小さな部屋だ。長机が二台と椅子が四脚。汚れたホワイトボード。それしかない。
恐る恐るドアを開けると、そこには魔法少女が座っていた。
黒っぽいドレス、手にはステッキ、奇抜な髪型、肩にはリスみたいな小動物が乗っていた。
「坂本くんさん! 世界が、世界が大変なの!」
魔法少女は切迫した顔で言った。そいつはやべーなと思った。
「俺、部長にここに来るように言われたんすけど……」
部屋を間違えたのかなと思って、一旦外に出てドアについたプレートを見ると、C会議室だった。
ほんとに部屋を間違えていたのだった。
「すみません、間違えました」
「違うの! お願い話を聴いて世界は邪なる力で私巻き込まれちゃってお父さんは画家なんだけど学校では隠してて親友はマキちゃんで」
「すみません、たぶんそれ俺の仕事じゃないんで、エスカレーションしちゃってください」
俺はなんとなく使ってみたかった横文字を使って、部屋を出た。
今度は間違えないようにB会議室に向かう。
恐る恐るドアを開けるとそこには膨大な量のDVDが積んであった。
机からはみ出して、壁際にまで積んであった。
しかも全部AVだった。なんだこれは?
AVに囲まれながら池波さんが泣きそうな顔で立っていた。
「あ、坂本くん、どうしようわたし、なんでこんな仕事させられてるんだろう? みんなに嫌われているのかな」
池波さんはその場で泣き始めた。俺はハンカチを差し出しながら、椅子に座った。
やべーな、眠すぎる。
「これなんなんすか? 俺オフィスで居眠りしちゃって、怒られんのかなと思ってきたんすけど」
「わかんない、けどそこに作業書が置いてあって、このAVを全部見て、モザイク? ってやつがちゃんとかかってるか見なくちゃいけないんだって……嫌だよ。セクハラだよこんなの! クソクソクソッ! ぜってー訴えてやるからなこのクソ会社!」
俺はDVDデッキにAVをセットして再生した。
手足を赤い紐で縛られた女が宙吊りになっていて、太った男がなにやらアホみたいなセリフで女を攻め立てていた。
なるほど、魔法少女が言うとおり、世界は邪なる力で満ちている。
池波さんは自分のスマホを睨んでいた。Twitterで毒づいているのか。
あるいは会社を訴える手段を調べているのかもしれない。
「辞める。わたしこの会社辞めるね」
5本目のAVを見終わった時、池波さんが呟いた。
「辞めてどうすんの?」
「わかんない。一旦実家に戻ろうかな。なんか東京、疲れちゃった」
「ああ、いいなあ。実家は何やってるおうち?」
「あのね、ちょっと恥ずかしいけど、味噌作ってんの。長野の田舎でさ」
「すげーー! 超いいんじゃん! 俺味噌好きだよ」
「ありがとう」
池波さんは少しだけ笑いながら部屋を出て行く。
そしてたぶん二度と戻ってこない。
俺は時々寝ながら、ずっとAVを見ている。
深夜になっても誰も来ない。きっと俺は忘れられているのだろう。
楽な仕事だ。水野さんにメールを出さなくてもいいし、ただ画面を見ているだけで済む。
腹が減った俺は会社を出てコンビニでツナのおにぎりとドクターペッパーを買ってくる。
B会議室に戻り、机の上に横になりながら、飯を食う。
そのようにして2年過ごした。
ほとんど家には帰らなかった。
誰も来なかったし、AVは定期的に補充された。
給料もちゃんと入っているので、生活にも困らなかった。
気が付くと「B会議室」というプレートは外され、部屋は「資料保管室」という名前に替えられていた。
ある日、部屋にすらりとした男が入ってくる。
彼の顔は希望で満ち溢れていた。
「クリエイティブ営業部からきました高坂です! 今日からよろしくお願いします! 僕、AVが好きで好きでしょうがないんです! ほんと、ここに配属されて幸せです」
俺は机の上に横になりながら、将来有望な若者を頼もしく思った。
「じゃあ、さっそく任せたよ。いわゆるOJTってやつだ。作業内容は、そこに全て書いてあるから、やってみな」
俺は醤油の染みがついてボロボロに破れて部屋の隅でくしゃくしゃになっていた作業書を指さした。
高坂は作業書を一心不乱に読みふけった。
2ページしかない作業書である。
俺はB会議室を出た。もう、高坂一人で大丈夫だ。
何しろAVを見るだけの仕事なんだし、高坂にはその素養があり、情熱がある。
俺は2年ぶりにC会議室のドアを開けた。
するとそこには傷ついた魔法少女が倒れていた。
壁により掛かるようにして、体から血を流し、悔しそうな顔をして倒れていた。
「さ、坂本くんさん……信じてたのに……私一人じゃ……邪なる力には、勝てないのに……」
「まだやってたのか」
俺はつい本音が出てしまう。
「これから知人の家に行くんだけど、なんつーか、君も一緒に行かない? 疲れただろ。もう休んでもいいと思うんだよな」
僕が言うと、魔法少女は普通の中学生の姿に変身する。小動物はどこかへ隠れる。きっと僕には見えないようになっているのだろう。
「知人の家って、どこですか?」
少女の目には少しだけ生気が宿る。
「長野の田舎」
僕たちは青春十八切符を買って長野の田舎に辿り着く。
美しい山々、澄んだ空気、高い空……。
「坂本くんさん! とっても綺麗ですね、何もかも東京とは違う感じがするの! 気持ちいい! ここには邪なる力がないんです! わたし、今、感動してます!」
「ずっと東京で暮らしてたの?」
「ええ、生まれも育ちも北区赤羽です。お父さんは女作って家を出ました。母はネジ工場で夜勤してるんです。いつもポケットに一杯ネジを入れて帰ってくるの。工場を潰してやるって言って。ふふっ、意味分かんないですよね、面白くないですか?」
「涙が出そうだよ。君は強いな」
「魔法少女ですから!」
看板には「池波味噌店」と書いてある。
こんにちは、と行ってガラス張りの引き戸を引くと、エプロン姿の池波さんが現れる。
「ああああ! 坂本くん! なんで!? え、なんで!?」
騒ぎながら笑ってくれる。
「味噌好きだって言ったよな、俺」
池波さんはすべすべしたキュウリと自家製の味噌を皿に乗せてくる。
「今はまだ修行中だけど、私が作ったんだよ、この味噌」
俺と魔法少女はキュウリに味噌をつけて食べる。
「おいしいです! すっごくおいしい! 生きてるって感じがするの!」
「大げさだなー、照れるからやめてよー」
池波さんは嬉しそうに笑いながら俺の隣に座る。
俺たちは縁側に座りながら緑の山々を眺める。
「もう行くよ。味噌美味かった」
「来てくれてありがとう。嬉しかった。あっ、そういえば私、結婚するんだ。6歳年上の彼なんだけど、優しいの。好きなの」
「幸せってやつ?」
「幸せってやつだよ。坂本くん、結婚式呼んでいい?」
「行きたいけど、俺、これからちょっと海外に行かなきゃいけなくなってさ、もしかしたら欠席するかも」
俺は嘘をついてしまう。
「嘘つき」
池波さんは寂しそうに笑いながら言う。
俺と魔法少女は電車に乗って東京に帰る。
その途中で電車は脱線事故を起こしてしまう。
俺は首がむち打ちになって、頭から血が出て、左手を骨折する。
邪なる力が溢れ、魔法少女は変身する。
黒いドレス、変な髪型、魔法のステッキ、謎の小動物。
「坂本くんさん、すみません。私戦わなきゃ。一人じゃ勝てないけど、勝てないと思ってたけど、でも、もうたぶん、私は一人じゃないですよね?」
朦朧とした意識の中でそんな言葉を聞いた気がした。
気が付くと俺は病室で眠っていた。
「坂本さん、目が覚めたんですね?」
ベッドの隣に座っていたのか高坂だ。なんだかやたら太っていた。たぶん俺のように資料保管室でだらだらしているうちに太ったのだろう。
「電車が事故ったのは覚えている」
「ええそうです。悲惨な事故でした。テレビでは大騒ぎですよ。よく生きてましたね」
高坂は目頭を押さえ、不規則な呼吸を繰り返した。
「何が原因だったんだろう?」
「それはまだわかっていないのですが、黒い影のような物が線路を破壊したらしいんです。変な話ですよね。テロリストのしわざじゃないかとか、大きな動物だったんじゃないかとか、いろんなことが言われてますよ」
「それは邪なる力のせいなんだよ。でも大丈夫、俺の知人が今戦ってるから」
「は?」
高坂は俺の顔をまじまじと見つめつつ、哀しげな顔をした。
俺が混乱していると思ったに違いない。
「仕事は順調だよな?」
話をまともにしようとする。
「もうAVは飽きました。これからはウナギの養殖をしようと思ってるんです。ねえ坂本さん、もし良かったら、一緒にベトナムでウナギ、やりませんか?」
「俺が役に立つかな?」
「猫の手も借りたいくらいですから」
高坂は希望に満ちた丸顔で笑う。
俺と高坂はベトナムにウナギの養殖場を作る。
ウナギがにょろにょろしているところを見ながら眠っていると、とても気持ちが穏やかになってくる。
そうやって20年が過ぎたある日、私のもとに一人の少女が訪れる。
「あなたが坂本さん?」
少女は日本人で、どことなく魔法少女に似ている。
「ああ、私が坂本だ。君は?」
「裕子。池波裕子」
池波さんの、娘だ。
「どうしてこんなところへ?」
「世界中を回っているんです。このリュックひとつで。母さんの知り合いがベトナムにいるって聞いたから、訪ねようと思って」
裕子は、ずるそうににんまり笑った。
「味噌、好きなんですよね? もし良かったら、200グラムほどおすそ分けしますので、一泊させてもらえないですか? お金なくて」
「もちろん。ウナギ好き?」
「大、大、大、大好物です」
「世界中を見てきました。世界はとっても綺麗なんです。汚いところも綺麗なんです。味があるっていうか、汚くてもちゃんと、みんな生きてて、時々は笑って、苦しいこともあるけど、厳しい土地もあるけど、こうしてウナギもおいしいし、生きるってこういうことなのかなって、私思ったんです。色々なものを抱えながら前に進むこと」
裕子の話は終わらない。
朝目が覚めると、テーブルの上にキュウリと味噌が置いてある。
その隣には置き手紙がある。
「また来ますね」
その手紙を見て、私は色々な人に会いたくなる。
東京に戻るのだ。
東京は変わっていた。
なんだか妙に清々しい、すっきりした町並みになっていた。
みんなが笑っていた。
緑が多かった。
様変わりした新宿を歩いていると、黒いドレス、変な髪型、魔法のステッキを持った集団が現れる。
魔法少女集団は、邪なる力を駆逐したのだ。
その集団の先頭を歩くのは、凛とした目を持つ、立派な女性だった。
彼女と私はすれ違う。
それから同時に振り返り、「あっ!」と叫ぶ。
言葉が何も出てこない。
何が大事なことを言いたいのに。言えると思ったのに。
「坂本くんさん」
「魔法少女」
「わたし、がんばりました」
「ああ、すげーがんばったな。20年前とはまるで違う。東京は変わった。良い方へ変わったんだ」
「でもお父さんはまだ帰って来ないし、お母さんは未だにネジを持って来るんですよ? 工場を潰してやるんだと言って。私は一体何をやってきたんだろうって、思ったりもするんです」
「ばかやろう」私は言う。「私を助けてくれたじゃないか」
元魔法少女はにっこり笑う。
「あの長野の旅行のこと、ずっと覚えてます。楽しかった。それでは、わたしはわたしのやるべきことをやりに行きますね。世界を救うんです。世界を……救うんです。でも、わたしのことは……誰が救ってくれるんでしょうね?」
歩きかけた彼女の手をとり、私は言う。
「行くぞ」
「えっ、どこへ……」
私は彼女の手を引いて走りだす。
「待ってください! あの子たちはまだ魔法少女見習いで、わたしがいないと何もできないんです」
元魔法少女は、魔法少女見習い達を不安そうに見やる。
「大丈夫だ!」
高坂がそうだったように。
池波がそうだったように。
若き日の魔法少女がそうだったように。
裕子がそうだったように。
そして“俺”がそうだったように。
生きるということは。
そんなに難しいことじゃねえ。
小さなリュックに入るものだけを持って行こう。
「どこへ行きたい!」
私は叫ぶ。
「どこって、行きたい場所なんてないです! ずっと戦ってきたから! わたしには何にもないんです!」
「そうか! じゃあ教えてやる!」
私はタクシーに元魔法少女を押し込んで、自分も飛び乗った。
それから運転手に向かって、ありったけの力を込めて叫ぶ。
「南へ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」