空、売ります。
――だいぶ前から、その人には気付いていた。
毎日の飼い犬の散歩。
平日は高校から帰って夕方が僕の当番で、日曜日だけは予定がなければ午後に、少し遠出をして広い公園へ連れて行っていた。
公園の入り口に着くとさっそく飼い犬のチワワは散歩道の端の匂いを確認して俄然ヤル気を出し、ぐいぐいとリードを引きながら公園の外周を回り込むように施された緩やかなスロープを歩き始める。
――そろそろ桜も咲くなぁ。
道沿いに植えられた樹を見上げ、膨らんだつぼみに春を感じつつ、急に立ち止まって緊張する犬を抱き上げる。道の向こうからよその犬がやってきたからだ。
ビビりなくせに、自分より大きい犬、つまりほとんどの犬につっかかっていく。
大きな犬は気が優しいので歯を剥く事はほとんどないが、こいつはすべての犬に吠えかかっていく困った気質だ。
そういうわけでよその犬が来たら抱きかかえて背中で隠し、やり過ごしてしまうようにしていた。
小さな川を越え、スロープを上り切るといくつかの広場がある。1番大きな広場まで来ると、コートのポケットから文庫本を取り出し、適当な場所に座り込んだ。
犬の方はできるだけリードを長く伸ばして、走らせてやる。
クタクタになるまで走りまくって、帰る頃には歩けなくなり、僕に抱きかかえられて帰るのがいつものパターンだ。まるで子供。本当によく分からん、犬の心理。
僕を中心に嬉しそうにぐるぐると走り回る犬に目をやり、広場を見回すと――
「あ」
今日も、いる。
よく晴れているから、絶対いると思っていた。
”彼女”は広場の真ん中に寝そべり、カメラを手にレンズを覗いている。
そのレンズの向けられる先は―――空。
見かける時はいつもそう。
園内を散歩する人や広場で遊ぶ子供たち、季節にうつろう木々などの景色ではなく、いつも彼女はただひたすら視線を、そしてカメラを空に向けていた。
「ん?」
その彼女に向かっていく、見慣れた小さな影。
「あ、こらっ、ばか犬!!」
気を取られて、いつの間にかリードを放してしまっていた。
「きゃああああああぁぁぁぁぁぁぁ―――」
上がった悲鳴は、
「―――ぁぁぁぁぁあはははははははは」
途中から笑い声に変わった。
急いで駆けつけると、襲いかかる犬を引き剥がす。
顔中をよだれだらけにされて、笑い転げるその人に平謝りに謝りながら、ポケットティッシュを渡す。こっちの気も知らずに、犬はちぎれんばかりに尻尾を振って、ごきげんだ。
「本当にすみません。こいつちっさいもんだから、自分の目線より下に人がいると嬉しくて仕方がないらしくて」
大丈夫、ちょっとびっくりしただけで、と顔を拭く彼女の指先に自然と目が留まった。
「あの失礼かもしれないですが、絵描きさんですか?」
指先にこびり付いた水色の絵の具を見て問う。
「ん?ああこれ?」
彼女はくすっと笑った。
「まあ、そんなとこ。空オンリーだけどね」
「空だけ?」
そんな風に対象を絞ってそればかりを描くスタイルもあるのか。
「かっこいいですね」
目の前で屈託なく笑う彼女に眩しさを感じながら、自然と口から出てきた言葉だった。
今年受験だというのに具体的にやりたい事など特になく、ただ周りの雰囲気から漠然と進学を希望している僕とは全然違う輝きが、彼女にはあった。
たぶん、自信、みたいなもの。
自分の信じる道をただひたすら邁進する人間に特有の、強い輝きを持った瞳。
その瞳をくるくると動かしながら、彼女は思いがけない言葉を投げかけた。
「見てみる?」
見てみたい。反射的にそう思った。同じ事の繰り返しである毎日を変える――未知の世界に触れる事で、未来へ動き出すきっかけになりそうな気がした。
「ぜひ、お願いします」
道すがら、お互い簡単な自己紹介をする。
彼女は眞保 環さんといって、店舗などに空の絵を納める事を生業としているそうだ。
公園から5分くらいのところにあるごくごく普通のアパートの一室。
スチールの扉には、こんな看板が掛かっていた。
『空、売ります』
その言葉の下に小さく、『アトリエ 浮雲』と書きこまれていた。
「工房兼自宅なんだ。さ、遠慮しないで上がって上がって。わんこは足を拭いてあげるから」
「すみません。ありがとうございます」
“ちゃんといい子にするよ”とでも言いたげに、きちんとお座りして尻尾をパタパタと振っている犬を預けて、スニーカーを脱ぐ。
「お邪魔します」
薄暗い玄関には、意外なくらい物がない。
「殺風景でびっくりした?」
僕の心を見透かしたように問われ、少々慌てる。
「あっ、はい、えっと……はい」
「いろいろ仕事を運び出す時に、物がごちゃごちゃしてると邪魔だからね」
なるほど。
出してもらったスリッパを履き、暗い廊下を扉の形に切り取ったような光に向かって奥に進む。まるで出口を探して洞窟を進んでいるみたいだ。
「わ、うわぁ―――――」
光の中に飛び込むように部屋に入ると、そこは学校の美術室とも違う、アトリエという名称に相応しい、空間だった。
光に溢れ、明るいその部屋の壁に、ずらりと並んだ絵の具の容器は色の系統別に分けられて、ブラシや筆だけでなく名前も知らない道具、何冊もの洋書やファイルが並んでいる。
反対側の壁一面には大きな布が貼られ、描きかけの空が広がりつつあった。
そして、天井には空の写真が貼られていた。天井を覆い尽くすほど数えきれない数だ。白っぽい青空から鮮やかな青、夕暮れのオレンジ、言葉で言い表せない微妙な空の色で、見事にグラデーションを描いている。
見ているだけでわくわくしてくる。
「そんなに面白い?」
おかしそうに、棚の他にある唯一の家具であるテーブルにお茶とお菓子を並べて、椅子を進める。ついてきた犬はしきりに部屋のあちこちの匂いを嗅いで回り安全を確認している。
「まぁ座りなよ。いろいろ説明してあげる」
そう言うと、ファイルを1冊抜き出した。
「天井に向かって青空を描く事がほとんどだね。店舗とか個人宅の子供部屋が多いかな」
「私が主に使うのは青3色と白とグレイ。あと雰囲気を出すのにアンバーと、すっごくちょっぴり紫とピンク、黄色を使うくらい」
「壁とか家具の色に合わせて勝手にアレンジする事もあるんだ」
「塗料の種類がたくさんある?ああ、描いた空に天使を舞わせたり、鳥を飛ばせたり、花を散りばめたりする事も多いからね」
「天井に直接描く時は足場を組んでもらったりするんだけど、長期間足場が組んでいられない場合はこうしてここで大きなキャンバスとか壁紙に描いて、現場に貼り込むんだ」
「太陽がどの辺にあるか、浮かぶ雲のどこに光が一番当たってどこが暗くなるかを想像しながら、立体的に描いていくの」
「窓から眺める空と、見上げた空は全然違うの。光の差し方が違うんだよ」
過去にやった仕事や途中工程の写真を見ながら、どんな風に描いていくのか、どうやって仕事を進めていくのか話を聞かせてもらう。
それは今まで聞いた事もない、デザインや描画、建築の“現場の話”で、リアルな“仕事の話”だった。
一通りの話を聞き、お茶を一口飲んだところで、彼女は頬杖をついて言った。
「――で、少年。君は何か、悩んでいるのかい?」
「え?」
「見ず知らずの人間の家にわざわざ来て話を聞きたいなんて、何か悩んでる証拠でしょ?ま、悩みのない人間なんていないだろうけど」
確かに悩みはあるのだけれど、こんな面白い話を聞かせてもらった後にするのは、少し気が引けた。だけど、学校の先生でもなく友達でもなく、家族でもない他人だからこそ話せる事、いや、聞いてほしい、相談に乗ってほしい事もある。
頬杖をついたまま悪戯っぽく笑う彼女に、気付くと僕は素直に心のモヤモヤを話し出していた。
「なんか、進路を決められなくて……。周りの友達みたいに、遊びたいから“とりあえず進学”っていうのも、何か違う気がするんです。だからといって、やりたい事も、そこに真っ直ぐ進んでいける夢があるわけでもないし、進学しないんなら就職となっても、こんな自分がいきなり社会に出て、ちゃんと働いていける自信もないし。それこそ何をしたいのか、何で食っていきたいのかなんてまるっきり見当もつかなくって。進学している自分も働いている自分も、全然想像がつかないです。先生たちは、努力は裏切らないから、ひとまず大学受験を頑張ってみたらどうだって言うんですけど……」
「希望を壊して申し訳ないんだけど、それは嘘だよ」
「え……?」
「はっきり言ってあげよう。“努力は裏切らない”とか“努力は必ず報われる”とか、そんなのは子供をコントロールする大人の側に都合のいい、詭弁だよ。耳障りのいい言葉に騙されるな」
「……………」
周囲の大人たちとはあまりに違う彼女の言葉に、ただ驚いて何も言えなくなってしまう。
「社会に出て、働いて自分の力で生きていこうって時に、努力さえしていれば認められるなんて事、絶対無いから。結果を出せない人間はいつまでも経っても下っ端だし、“頑張ったのに”なんて言い訳は通用しない。世の中そんなに甘くないよ」
そんな意味合いのセリフも聞いた事はある。だけどここまではっきりと断言されたのは初めてで、それでもそれは真実なのだろうという事は容易に推察できた。
「周りの言葉に惑わされるな。楽な方に流されるな。多数に紛れて安心するな。ちゃんと自分の目で見て、考えて、判断しろ。自分の意志を貫け」
いつの間にか足元でくつろいでいた犬が、彼女の勢いに頭を上げた。
「自分で決断した事なら、誰のせいにも言い訳も、しようがないでしょ。それが失敗だったとしても、他人に押し付けられたのでなく自分で選んだ結果であれば納得して反省できる。次に繋いでいける。他人のせいにして、後悔するな」
そこまで言うと、カップのお茶を一気に飲み干す。
「―――ごめんごめん。相談の論点がちょっとずれたね。
要は他人が何を言おうと自分自身で決めなって事さ。それに、社会に出た時、学生の時とのギャップで挫折する前に、知っておいた方がいいと思ってね。
今すぐ思いつかないなら、色々な人がしてくれる色々なアドバイスの中から1番自分が納得できるものを選ぶのもいいさ。その選択だって立派な、“自分で決めた事”なんだから。それを、上手くいかない時に人のせいにして後悔すんなってことだよ。
さ、日も傾き始めてきたし、悩める少年はそろそろ帰った帰った」
「また来てもいいですか?」
「忙しくなければね。忙しかったら手伝わされるかもよ?」
「ぜひ、手伝いたいです!」
変な奴、と笑う彼女は、僕の腕に収まっている犬の頭を撫でて、「お前も、またおいで?」と声をかける。犬は如才なく尻尾で返事を返した。
――この空も、いつか環さんに切り取られるだろうか。
帰り道、金色に染まり始めた空を見上げて思う。
何も解決したわけではないのに、モヤモヤはすっきりしてしまっていた。
たぶん僕は、他人の意見を採用する事が、他人に決められ流されているようで嫌だったのだ。
でもそうではないと環さんは教えてくれた。
どんな選択も、自分で選んだ以上は自分の責任なんだ。
そしてそれを、これからは空を見上げるたびに思い出す事ができる。
さっきまでくつろいで休んでいたくせに、やっぱり人に抱っこされて帰る犬に「自分で歩けよ」と文句を言いつつ、「でも、ま、彼女に出会えたのはお前のおかげだしな」と呟く。
そんな感謝を知ってか知らずか、見上げた顔は妙にドヤ顔だった。