08話 「はじめてのおつかい」
カーテンの隙間から入り込んだ日差しにのろのろと瞼をこじ開けた。
壁に掛かった時計を仰ぐと午前八時半。
隣で鼾をかいて寝ている麗音を一瞥し、ベッドから上半身を起こす。
爽やかな目覚めとは言い切れないくらいに瞼が重いが、身体や気分は妙にすっきりしている。
慣れないところなら普通緊張して寝た気がしないだろうに。
不思議だ。
温かな布団の誘惑を振り切り立ち上がると、クローゼットの隅に置いてある小箱を漁る。
中に細々とした装飾品がぎっしり詰め込まれているのはとっくに知っていた。
実は昨日のエプロンもここから引っ張り出したものだったりする。
手袋でもあればいいんだけど、と小箱をひっくり返すと少し劣化した茶色のなめし皮の指ぬきグローブを見つけた。
うん、これなら良さそう。
マレビトの印は隠さなくてもいいものなのかもしれないが、刺青みたいで俺がなんとなく落ち着かないからな。
そろそろとはめた手袋は、ほんの少しひんやりとしていた。
それから昨日身に着けていたシャツに袖を通し、昨日と同じベストを身に着けて狐色のカーゴパンツを履く。
そして姿見を一目見て寝癖を手櫛で整えると、麗音を起こさないようにそっと部屋から抜け出した。
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術部屋は朝だというのに相変わらず薄暗い。
木の扉を開け放って廊下から日光を取り入れると、埃がきらきらと光を反射した。
今度絶対掃除しよう。
続けて背負っていたゴルフバックを開きバズーカを引っ張り出すと、バズーカの底に描かれていた陣が光を灯しているのに目が止まる。
そんなところに床と同じ陣が描いてあったなんて。
ガチガチに緊張していた昨日は気が付かなかった。
そして次の工程としては陣の上にこのバズーカを置くらしいんだけど……これ、どっちを下にすればいいんだろう。陣がある方? それとも発射口の方?
見比べて散々迷った挙句、結局横倒しにして置くことにした。
もしかして結構俺って優柔不断だったりするのかな。
……あんまり深く考えたくないことはとりあえず横に置いておいて。
ぱらぱらと洋紙皮を捲る。沢山ある記述からバズーカに記録する呪文を吟味するためだ。
風に関係する術が多いのは、麗音が風鈴だというのと何か関係があるのだろうか。
とりあえず今日は遠出する予定もないし、万が一のために自衛程度の術を記録しておくだけに留める。
術は基本の六術のうちの一つ、『風塊』に決めた。風の塊を対象に発射して吹き飛ばす、だそうで。なんだか空気砲を思い出す。
あれ楽しいんだよなあ。
ちなみに基本の六術ってのは風塊の他に、昨日麗音が例に出していた火球の他に、砂礫、水球、蔦枷、電縛、なんてのがあるらしい。どんな術かは字面からなんとなく察してくれると嬉しい。
これら全てに共通して言えるのは基本と言うだけあって強すぎないってことだ。
うだうだと脳内で整理している間にも、口は意味不明な言葉|(この場合は呪文になるのか?)を紡ぎ、手はバズーカの上でくるくると円を描くように彷徨っている。便利だけど少し不気味。
これからはこの不気味な感覚と付き合っていくことになるのかな。
やっぱり便利なだけに複雑な気分。
術の記録を終えて光を発しなくなったバズーカを、来た時のようにゴルフバッグに収めて、ついでに術書も外ポケットにしまった。
ようやく準備か整ったので、麗音を起こして朝飯を食べたら街に昨日約束した甘い物を買いに行くことにする。
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相変わらず賑やかな大通りは昨日よりも喧騒が耳についた。
今日は一人きりだからかもしれない。
出会ってからまだニ、三日だというのに、あの舌足らずな声が聞こえないと何だか変な感じがしてしまう。
それだけキャラが濃いと言ってしまえばそれまでだけど。
そんな麗音は今朝、朝食を取った後すぐに俺の部屋に閉じ篭ってしまった。
今頃は惰眠を心置きなく貪っているのだろう。羨ましい。
対して、ご機嫌取りのためにわざわざ慣れない街に繰り出して、お菓子を買いに来ている俺。
知らぬ間に麗音のパシリとして確立されてる気がする。
いつからだ? ……最初からか。
クローゼットの小箱から手袋と一緒に発掘した財布を握りしめて、裏通りをふらふらと彷徨う。
小銭しか入っていなかったが、多分足りるだろう。足りるといいな。足りなきゃ困る。
通貨単位はよく分からないからその場で店の人に聞くとして。
……しかし大通りなんか目じゃないくらいに人が多い。
すし詰め状態の中から空気を求めるように顔を出して、左右に並んだ出店に視線を移す。
お祭りとかで見る出店とは違って木造で枠がしっかりしている屋台というか、ひとつひとつの店が独立しているというか。
とにかく外国ーって感じのする出店に囲まれた人混みの中をお菓子を求めて流れ行く。
ふと、道行く人々の香水の匂いに紛れて焼いた生地の甘い香りを嗅ぎ取った。
ふらふらとその香りに誘われるように足を運ぶと、気立ての良さそうな女の人がまだ温かいパイを売っている。
カウンターの端っこから覗くと件の女の人に声を掛けられた。
「いらっしゃい。坊ちゃんは外から来た人かい?」
「……まあそんなところです。それ、何て言うお菓子なんですか?」
「これはね、ガレット・デ・ロワって言うんだよ。
折りパイに普通はカスタードとアーモンドクリームが入っているものなんだけれどね、ウチでは白インゲンを砂糖で煮て潰したものが入ってるのさ。これがまた美味いんだ! 他所ではこの美味しさは味わえないよ」
「へええ」
餡みたいな感じかな、なんて思いながら試食用に小さく切り分けてもらったのを受け取る。
何層にもなったパイ生地にざくりと歯を立てると生地は少し香ばしく、中の白インゲンをなんたらは想像していた白餡なんかよりもずっとまろやかで濃厚だった。
「美味しい!」
「ふふん、そうだろう? 本当は中に一つだけ陶器の人形が入ってるものなんだけど、流石にそれを入れるわけにはいかなくてね。代わりに栗を入れてあるんだよ」
それはますます美味しそうだ。
ただ麗音にあげるのが勿体ないくらい美味しかったし、自分の分も買ってしまおうか。
これを昼飯にするのもアリかもしれない。
「おばさん、四つください」
「はいよ。それじゃ12ゼニだね」
「……それで、えーっと、小銭の数え方が分からないんですけど」
水色のがま口財布を開いて差し出すと、おばさんがはめていた薄い手袋を脱いでひらりと銅銭を一枚、鉄銭を二枚取っていく。
嬉しいことに、日本の通貨と単位はあまり変わらないらしい。
その他におばさんは銅銭が10ゼニで、それより一回り小さい鉄銭が1ゼニ、一回り大きい銀銭が100ゼニ、銀銭と同じ大きさの金銭が1000ゼニだと教えてくれた。
五十円と五百円にあたる小銭が無いと不便じゃないかと思って聞いてみると、どうやらこの世界の人達は基本的に財布ではなく袋に入れて金を持ち運ぶらしい。
なるほど。
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「それじゃ坊ちゃん、ありがとね」
親切なおばさんは面倒なことを色々と訊いたにも関わらず、嫌な顔一つせずににこにこと笑っていた。
なんていい人なんだ、と目頭を熱くしながらおばさんが差し出した包みに手を伸ばす。
瞬間、ざわざわざわと森が鳴くと共に、鳥が一斉に飛び立った。
『ギュエ――――っ!』という聞いたこともないような醜い咆哮がビリビリと空気を震わせる。
空を埋め尽くすほどの鳥の羽ばたきをBGMに、道に溢れかえった人たちが足を止めてどよめいた。
「いやだ、何かあったのかね」
森の方を見て不安げに呟いたおばさんをこっそり横目で窺う。街暮らしだから魔物を見たことがないのだろうか。
あれは明らかに普通の動物の類ではない生物の声なのに。
街の人が気付かないなら迷っている暇はない。
俺はぎゅうっと肩に掛けたゴルフバッグの紐を握りしめた。
「ごめんおばさん、後で取りに来るからお菓子預かってて!」
走り出した俺におばさんの慌てたように荒げた声はもう聞こえなかった。
魔物だと気づいていても街に冒険者がいる以上、警備兵はすぐに動けないだろう。
冒険者も旅の途中で立ち寄ったのだから装備や体調が万全ではない人が多いはず。
となると、被害が及ぶ前に素早く動けて武器を持っている俺が行くしかない。
いくら身体は鍛えているとはいえ実践は初めてだし、魔物なんて見たことないし、術とやらが効くかどうかも分からない。
もちろんバズーカなんて代物も使ったことがない。
怖くて怖くて仕方なかったが、震える足を叱咤して騒めく森へと無我夢中で走った。
……できれば魔物に遭遇する前に麗音が現れてくれることを祈って。
風介は近接にめっぽう強いですが、異世界では慣れない武器片手に頑張ります。
使えるものは使っておかないと精神。
近接に持ち込むまで悠長に待っていられない!ってのも要因の一つ。