35話 「つつがなしや」
ざわざわと騒がしい朝の教室。
いつもよりずっと遅くその入り口をくぐった俺は、熱い息を吐いた。
周囲の視線が一瞬俺に集まるが、すぐにふわりと離れていく。
まあ、いつものことだ。
俺も自分の席に向かいつつ、自転車の鍵をポケットにしまって袖を捲った。
息切れはしないものの、身体は熱を持ってワイシャツの下でじわりと蒸されていく。
何故俺が朝っぱらからわざわざ自転車をかっ飛ばして学校に向かわなければならなかったのかというと、端的に言えば麗音のせいで寝坊しかけた俺に父さんが厳しいメニューを叩き込んだのだ。
おかげで稽古が延びた上にシャワーも入り直さなきゃいけなくなって、ドミノ倒し的に学校に着くのも遅くなってしまった。
全部麗音のせいだ。
頭の中でブツブツと恨み言を呟きつつ窓際の前から三番目、つまり俺の席に雪崩れ込むように座る。
そしてリュックを下ろすなり、通学途中に買ったジャムパンを取り出した。
大きめのそれに噛み付いてみれば、どうやら中身は林檎ジャムのようだった。
美味い。
暫く無我夢中で食べ進めてから、水筒を呷って小休止。ふう、と一息ついた。
それから大きく口を開けて再びパンに噛り付こうとしたとき、ギギと重く擦れる音が耳に届いてふと顔を上げる。
その拍子にガサガサとビニール袋が手の下で音を立てた。
まず見えたのは金髪。
金髪は日本人に似合わないと個人的に思っていたのだが、こいつに限ってはしっくりと馴染んでいるから不思議だ。
髪自体は短めで襟足が長いという妙ちきりんなボサボサ頭――と言ったら前に怒られた、ウルフカットと言うらしい――である。
ちらりと髪の隙間から覗くピアスは、片耳だけに四つか五つかまとめて開いているコンラッドと違って、両耳にシンプルなのが一つずつ。
上から見下ろすような目つきのつり目は多分身長が高めなせいで、夏だと言うのにシャツの上から緑のパーカーを羽織っていた。
そんな良くも悪くも悪目立ちしているクラスメイトがこちらを振り向いている。
「はよ」
「……なんだ祐荻か。おはよ」
「『なんだ』ってなんだ。ブン殴るぞ」
「やだよ祐荻空手やってるじゃん。絶対痛いって」
ドスの効いた祐荻の声を適当に往なし、食べかけのジャムパンをがぶりと口に収めて咀嚼する。
お前はもう少し爽やかに朝の挨拶ができないのか、と呆れるまでが毎朝の日課だ。
もちろん一度も口に出したことは無いけど。
制服に篭った熱が鬱陶しくてもぐもぐと口を動かしつつシャツを仰ぎ空気を送り込めば、椅子にもたれかかった祐荻が俺の机に肘をつく。
染められた金髪とピアスが日光できらりと光って、思わずその眩しさに目を眇めた。
「お前今日来んの遅かったな」
「今日は朝から父さんの稽古が厳しくてさー」
「稽古だぁ? 朝はいつも軽めにしてくれてんじゃなかったのか」
「うーんと、暫く父さんと会えてなかったんだよな。だから昨日からずっと『サボってなかったかチェック』が続行中なわけ。あとちょっと寝坊しかけた」
「……そりゃ災難だったな。土日どっか行ってたのかよ」
「まあ、うん、そんな感じ」
ふーん、と興味なさげに相槌を打った祐荻が薄汚れたスクールバッグから一時間目に使う教科書類を取り出して、背を向けた自分の机に放る。
ガン、と背表紙を打ちつけたノートが机の上を滑って床に落ちたのを目で追った。
「ノート、落ちたよ」
「後で拾うからいーんだよ」
ひらひらと面倒臭そうに片手を振る祐荻に、俺はジャムパンの最後の一欠片を口に放り込んで水筒の麦茶を一口。
何も言わずぼーっと窓の外を見ている祐荻に軽く首を傾げてみせた。
「……祐荻って見た目はバリバリ不良なのに結構、いや、かなり真面目だよな」
「お前こそ見かけによらず馬鹿だろ」
「えっ俺って頭良さそうに見えんの?」
「馬鹿だけどな。真面目ちゃんには見えんじゃねーの」
「そっかぁ。でも、えっと、そんなバカじゃない……と思う、多分」
「前のテスト順位覚えてんのか?」
「…………まだ二百位代だから大丈夫」
「言ってろ」
何も言い返せず撃沈する俺を鼻で笑って俺を小馬鹿にすると、祐荻は大きな欠伸を溢す。
基本割と規則正しい生活をしているー、なんて前に聞いてた俺は「珍しい」と呟いて祐荻をまじまじと見つめた。
そうすればバツが悪そうに目を逸らされる。
ま、言いたく無さげならそこまで追求しないでおこうかな。
俺もふいと視線を外せば、あー、とかうー、とか唸った祐荻が、大変不本意そうに口を開いた。
「なんか新しい家庭教師、みたいな奴がちょっと前にできて。そいつがピーチクパーチクうるせぇんだよ」
「へえ、家庭教師。祐荻頭いいのに家庭教師なんて付くんだ」
「家の事情? とかそんな感じ。よく知らねぇけど」
「ふうん」
家の事情、か。
その言葉で思い出すのは当然自分の部屋に置いてきた麗音のことだ。
この約一週間いろいろあったが、一番新しい記憶は昨日の寝る前。
寝る場所がどうだの腹減っただのいいだけ大騒ぎしておきながら、悶々と悩む俺を置いてあっさり寝やがったのだ。あのやろう。
寝る前に見たデジタル時計は今日の二時を指していた。
ジャムパンと祐荻で忘れかけていた苛立ちを込めて、くしゃくしゃに丸めたビニール袋をゴミ箱にシュート。
お見事、大ハズレ。
腰を浮かしかけたが近くの女子が淹れ直してくれたので、「ありがとう」とジェスチャーで伝え、心なしかげっそりとしている祐荻に向き直る。
「そういや俺も最近変わった友達ができたよ」
「……マジで?」
「マジマジ。何するんでもギャンギャンうるさいしムカつくけど結構憎めないやつでさぁ」
「お前に友達とか居んのか」
「そっちか! いるに決まってんだろ。そういう祐荻こそ一匹狼(笑)じゃんか」
「お前いつかブッ殺すからな」
「暴力反対」
わざとらしく作った真面目くさった顔を顰めて、俺もリュックから勉強道具を抜き出す。
それを机に重ねて置けば、祐荻が勝手に教科書をぺらぺらと捲り「新品じゃねぇか」と呆れた声を出した。
「まだ六月だし皆そんなもんじゃない?」
「いや……お前これ使ってんのか?」
「失礼な、授業中は使ってるよ」
「そうじゃねぇよ」
ベシリと頭を参考書で軽く叩かれ、少しムッとした俺は若干よれよれになった単語帳を教科書の間から抜き出す。
ドヤ顔でそれを突き出してやればますます祐荻は表情に呆れを滲ませた。
「ほら、単語帳はちゃんと覚えてるから」
「お前なぁ、英単語テストは週に一回しかねぇだろ」
「……実は今回はそれすら割とやばい」
「明日だぞ」
「知ってる」
だって向こうで五日も過ごしていたんだ。
最低限しかやっていなかった勉強なんてものは全部綺麗に吹っ飛んでしまった。
おかげで日曜日は教科書を読み直す羽目になったし。
麗音は勉強中だって言ってるのにうるさいし。
父さんはなかなか道場から出してくれないし。
仕方ないよな。うん、仕方ない。
うんうんと一人頷いて、それからちょっと考えた。
…………今度はいくつか教科書も持っていこうかな。
心の中の「今度向こうに持っていくリスト」に一応教科書類も書き留めておき、斜め下に向いていた視線を祐荻に戻す。
「そういやこの間試合あるって言ってたよな。どうだった?」
「んぁ? ……あー、準優勝」
「凄いじゃん」
「凄かねぇよ。こんなちっちぇー頃からやってんのに準優勝だぞ?」
「祐荻が強いのは知ってるよ。怪我かなんかした?」
「……言い訳みたいだからあんま言いたくねぇんだけど、三回戦で足やっちまって」
祐荻が持ち上げてみせた右足にはギブスがはめられていて、俺は思わず眉をひそめた。
うわあ。
それの痛みは俺もよく知っている。
だがぶらぶらと動かしていても祐荻の表情はあまり変わらないので、多分そこまで酷くはないのだろう。
それ以外には怪我がないのを一瞥して、とりあえずほっと詰めていた息を吐いた。
「でもそれで試合出て準優勝なんでしょ? やっぱ凄いって」
「……そーかよ」
ぷいとまた窓の方を向いてしまった祐荻に、カラカラ笑って水筒を傾ける。
パッと見悪そうなのに頭の回転が速くてもちろん成績も良くて、プライドが高くてしっかり者で他人のことも気に掛けられて……祐荻はかっこいいと素直に思う。
顔もそうだけど顔だけじゃなくて。
家族とはまた別に、祐荻といるととても楽なのだ。
ノリいいし。冗談通じるし。
向こうでの生活も楽しかったけど、やっぱりこっちも捨てたもんじゃなかったと改めて感じた。
異世界にぶっ飛ばされても、ちゃんと帰って来れる仕組みでよかった。
そこは麗音とご先祖様に感謝。
そんな風にぐだぐだと黙ってしまった俺を、目だけでそろりと窺う祐荻に思わずプッと噴き出す。
仕方ないなあ、と笑いで震える声を隠しもせずに溢せば瞬時にガンを飛ばされた。
そんなの、魔物とコンラッドで鍛えられた俺には微塵も効きません。
あれに比べれば可愛いものだ。
「もー、楓ちゃんは照れ屋なんだから」
「コロス」
「うそうそごめんなさい調子乗った! 悪かったから! やめて、腕を振りかぶらないで!」
前言撤回。
殺気は無くても手が早くて腕っぷしがやたら強いのは十二分に恐ろしいです。




