33話 「アイマイモコ」
幕間です。ここから数話は元の世界での話になります。
ふと懐かしいにおいに瞑っていた目を開けると、そこは現世の見慣れた自分の部屋だった。
急な周りの変化に呆然としながらそろそろと足元を見ると、俺は靴履きのまま床に立っている。
コツコツと革靴を鳴らしてみれば見た通り、砂と土と草が混じった地面ではなく、使い古されたフローリングなのが分かった。
とりあえず靴は脱いで底を上に向けて部屋の隅に放置しておく。
続いて、目の前で手のひらを握って開いてみる。
それを二度、三度繰り返して慎重に指先の、手のひらの感触を見定めた。
力も問題なくちゃんと入る。
そこまでじっくりと確認した後、ようやく喉が空気を震わせるべく動いた。
「戻って、きた?」
≪ ナンでギモン形なんダヨ! 今度はキッカリバッチリ転移したダロ! ≫
「……麗音」
ぽつりと呟いたのに間を開けず、ぐわんと脳に響く声が返る。
聞き慣れたそれに顔を上げて部屋を見渡してみれば、白磁の風鈴が正面の布団の山に埋まっていた。
風鈴姿だと思ったように動けないのだろう、和紙の短冊をうごうごさせている。
……そう、そうだ、あっちに行く前に俺が「落ちたら危ない!」とか騒いで、吊るした麗音の下にこれを敷いたんだっけ。
もう何日前のことだろう。
無意識に枕元のデジタル時計に目をやれば日付は未だ俺の誕生日、ついでに午後一時過ぎを指していた。
俺が目を見張るのと同時に、どっ、と階下からテレビの音と母さんの笑い声が聞こえてくる。
だがそれもどこか現実味がなく、まるでドアの外が別世界になったように感じられた。
……今の今まで『別世界』に居たのは俺の方だというのに。
≪ オイ! フースケ! 助けロ!! ≫
「ん? ……あ」
慌てたような声に視線を目の前に戻すと、麗音が布団に飲まれていくところだった。
もがいて和紙の短冊を動かせば動かすほどずぶずぶと深く沈んでいく。
うわあ。
仕方なく屈んでふとんの中に手を突っ込んだ。
尚もじたばたと暴れている麗音をさくっと救出してやると、疲れ果てたのか溜息が一つ頭で反響する。
溜息つきたいのは俺の方だバカ。
呆れつつ、掴んだまま風鈴の口を彩る淡い水色を左手の人差し指でつるりと撫でてみる。
当たり前だがその風鈴には手足も目も口も付いていないし、もちろんふわふわと宙に浮くこともない。
「……お前、こっちでは本当にただの風鈴なんだな」
≪ フースケはイツカ前のコトも覚えてナイのカ ≫
「覚えてるよ! 素直に『そうだ』って言えばいいのに」
≪ ソモソモ喋るフウリンを前にして『タダの』って言うのもドウカと思うゾ ≫
「麗音が喋るのにはもう慣れた」
≪ ………… ≫
「何その沈黙」
こっちでは表情の変化が分からないんだから、言いたいことはちゃんと言えよな。
喋らなくなると途端にただの古ぼけた綺麗な風鈴と化す麗音に、ぶつくさと文句を零す。が、それでもむっつりと黙して返事がない麗音に溜息をついた。
やや自棄になって芥子色の麻紐を指に引っ掛けて立ち上がる。
その拍子に風鈴は大きく揺れて俺の脚に何度かぶつかったが、やっぱり音が鳴る気配はない。
かちり、と銀色の舌が蕎麦猪口型の陶器にぶつかった感触もない。
やっぱり、ただの風鈴に見えるけどただの風鈴じゃないんだな、と自分でも訳の分からないことを考えた。
*****
さて、これからどうしようか。
困ったことに、何をするべきか分からなくなってしまった。
向こうに転移したすぐ後もどうしたらいいか全く分からなくて、一人森の中で寂しくて。
それから麗音お再会して、ざっくりと異世界について知っていって。
でもマレビトだなんてどんな役職でどれほどの知名度で、どうやって生きていくか分からなかったから、だから「二人に仲間になってもらう」って明確な目標ができた時はほっとしたし頑張ろうって思えたんだ。
……だけど今は。
相変わらず現実味の無い部屋で、さっきまで意思を持って動いていた風鈴を見つめた。
まるで石化して収縮してしまったような麗音は、黙ってしまってから一言も喋らない。
本当にどうしよう。
「…………とりあえず、じいちゃんのところにでも行くかな」
もう一回しゃがみ直し、床に転がっていた寄木細工の箱を手繰り寄る。
そして麗音を元通りに詰めて、……ちょっと迷ったけど蓋はしないでおいてやろう。
薄紅の布と蓋はベッドの上に放って、さぁじいちゃんの部屋に向かおうと木箱を小脇に抱えて立ち上がった。
ふわりとパーカーから木の香りが漂う。
それに苦笑して、冷え冷えとした銀色のドアノブに手を掛けたとき、今までうんともすんとも言わなかった麗音が唐突に声を上げた。
≪ フースケ! 置いてイケ! ≫
「はあ? 別に変なところには連れて行かないけど」
≪ イイカラ! ココに置いてケ!! ≫
「じいちゃんのことは麗音も知ってるだろ。あの風悟だよ?」
≪ ――――置いていけ ≫
「え?」
いつもの言い合いのように怒鳴っていた麗音は、するすると静かになり流暢に言葉を紡ぎ始める。
部屋の温度が急激に下がったように思えて、俺はドアノブに手を掛けた格好のままついと凍り付いた。
木箱を抱えた左手に思ったように力が入らない。
しかし木箱を視界に収めてしまうと、その途端に何かに食われてしまうような気がして。
身じろぎもできないままジリジリと本能が頭の中で警報を鳴らした。
俺はピクリとも動けずただ握ったドアノブを見つめ続ける。
安っぽいアルミのそれに、俺の手の熱がじわじわと伝導し温くなっていくのが分かった。
つう、と背筋に沿って冷や汗が流れ落ちるのを見計らっていたように、声は再び俺の脳内で反響する。
≪ 今代風の稀人は東邸堂風介ただ一人である。先代に会うことは許されない。例え、存命であろうとも ≫
「俺、は」
≪ 稀人本人に関しては什宝に判断を委ねられている。お前が先代に会うのは既に許可されている ≫
「ジュウホウ……?」
≪ さぁ、置いていけ ≫
声に圧倒されるがまま、床にそろりと木箱を置く。
するとあんなに重く感じていた威圧感が部屋から消え失せ、俺の少し乱れた呼吸だけが耳に入った。
カサリと木箱から和紙の擦れる音が聞こえて無意識に肩が跳ねる。
≪ ……――――フースケ、しゅーくりぃむが食いたいゾ。ついでに持って来イ ≫
「…………麗音……分かった。じゃあ行って来る、から」
≪ オウ! ≫
何が来るのかと思わず身構えていたが、麗音は何事も無かったかのようにいつもの舌足らずと声音に戻っていた。
そのわがままに心の内で安堵しながら曖昧に頷いて部屋を出る。
何とか笑みを形作れるまでは気を持ち直したと思っていたのだが、ドアを閉めた左手が未だカタカタと震えているのが目に入った。
…………あれは、何だったんだ。
あの冷たい声を思い出すと、ぞくりと身体に震えが走る。
人間じゃ到底敵わないような、そういう類のものだったように思えた。
麗音が不思議生物だっていうのは知ってた、分かってた、はずなんだけど……。
「カゼ、は風だよな。風のマレビト……ジュウホウ……」
あれが麗音の本性、だったりするのだろうか。
いやでも『ジュウホウ』というのが麗音のことだとすると、どこか他人行儀だったような気もする。
麗音を通じて誰かが話していた、ような……?
いや、声は麗音の声だったから誰かの通信機器って線はなさそうだ。
……そもそも麗音の声自体がよく分からないんだよな。
聞けば麗音の声だって分かるんだけど、じゃあどんな声かって訊かれると言葉に詰まる。
舌足らずなのは間違いないのだが。
しかし声自体は子供のようでいて女の人のようで男のようで……上手く説明できないけど、記憶を辿って思い返すのが難しい声。
かと言って多重に聞こえている訳でもない。
コンラッドやエレンにはどう聞こえていたんだろうな、と俺は途方に暮れつつ何と無しに思った。




