【93】兄と私の選択
放課後に喫茶店へきてと、ヒナタにメールで呼び出された。
前世の兄であるヒナタとは、前にダブルデートで遊園地に行った際、メルアドを交換していたのだけど、メールがくるのは初めてだ。
待ち合わせ場所は学園から少し離れたエリアで、お洒落な喫茶店だった。
奥の個室に通される。
そこにはヒナタだけじゃなくて紫苑もいた。
紫苑と会うのはとても久しぶりだ。
前世の友達である乃絵ちゃんととてもよく似てるから、その姿を見るだけで心がほっと癒される。
隣にいるヒナタは、髪飾りを外していて。
それがこのギャルゲーの『桜庭ヒナタ』としてではなく、兄として話をしにきたんだと物語っているようだった。
険しい顔をしているヒナタの前に座ると、メニューが出されたのでとりあえず紅茶を頼んだ。
この無言が怖い。
そりゃ妹が公衆の面前で、熱いキスをかましていたら兄だって怒る。
攻略対象と仲良くならないと元の世界に戻るための『扉』が開けられない。
それを若干言い訳にするように、三年生になってマシロと同じクラスになって、わりといちゃついてた自覚はある。
でもあれはちょっとやりすぎだよねと、私ですら思っていた。
「何、お兄ちゃん。こんなところに呼び出して。あまり接触しないようにって言ってなかった?」
自分からその話題には触れないようにして、そんなことを尋ねる。
この『その扉の向こう側』というギャルゲーのメインヒロインであり、どのルートでも主人公を殺しにくる、メインヒロインの後に(笑)が着いちゃうヒロイン『桜庭ヒナタ』。
彼女は高等部三年の冬になると、必ず主人公をナイフ片手に殺しにくる。
できるだけ接触は避けるようにと、兄であるヒナタ本人から言われていた。
「最後にちゃんと確認しておきたい事があったんだ。アユムはちゃんと扉を開けて元の世界に帰るつもりでいるんだよね?」
単刀直入に尋ねられて、うっと息を飲む。
その反応を、兄の目が見逃してくれるはずはなかった。
「……やっぱり。マシロとこの世界に残ろうとか考えてるんだ? マシロとの仲があまりにもよすぎるから、こういう事になるんじゃないかって心配だったんだ」
眉をひそめてヒナタはそんな事を呟く。
「ごめんお兄ちゃん。私、マシロが本気で好きなんだ。これから先も一緒にいたいと思ってる」
認めてもらいたくて素直な気持ちを言えば、ヒナタは予想通り駄目だと首を横に振った。
「アユム、この世界はギャルゲーの世界で現実じゃない。全部作り物なんだ。元の世界に帰れ」
言い聞かせるように真っ直ぐ私の目を見て、ヒナタは訴えてくる。
兄の渡らしくない、強い口調で。
「現実じゃないって……この世界が作り物だって、お兄ちゃんは思ってるの?」
「……少なくとも、僕たちがいるべき場所じゃない」
関わった人たちはちゃんと感情のある人間だった。
育ててくれたアユムの両親も、仲良くなった友達も。
皆作り物だとは到底思えるはずがなくて。
視線を逸らして呟いた兄も、同じ事を思っているんじゃないかと思う。
「私はっていうけど、お兄ちゃんは? お兄ちゃんは帰らないの?」
前から聞こうと思って聞けなかったことを口にする。
「……ぼくはいいんだよ。巻き込まれたアユムだけでも帰るんだ」
「帰らないつもりなの?」
はぐらかさないでという風に問い詰めれば、ヒナタは目を伏せた。
「僕だって帰りたい。帰るには扉を開けるくらいしか思いつかないけど、桜庭ヒナタは扉を開けてはいけないキャラなんだ。彼女はメインヒロインなのに、正規のグットエンドも決して幸せな終わりかたじゃない」
でもとヒナタは続ける。
「ただ桜庭ヒナタはこの物語の真相に近い位置にいる。いつか元の世界に戻れるチャンスがくるかもしれない。希望がないわけじゃないんだ」
そこまで言い終えてヒナタは席から立ち上がって、椅子に座る私の前にしゃがんだ。
「お願い、言う事を聞いて歩。元の世界に帰って、幸せになって。この世界は紛い物で、戻れば全部夢だったって思えるから」
懇願するように、でも強い口調でヒナタは口にする。
腕を掴んで下から見上げてくるのは、約束をさせるときの兄の癖。
普段なよなよしてるくせに、こういう時だけ芯の強さが窺える。
兄は私のことを一番に考えてくれている。
それはよくわかっていた。
どう考えても兄の言い分の方が正しい。
こんなよくわからない世界で、ギャルゲーの登場人物と生きる選択なんて、ここに来た当初の私ならできなかったはずだ。
「ごめんお兄ちゃん。それはできない。マシロが大切なんだ。元の世界に戻ったら、きっとマシロがいなくて苦しくなる。それに、もう十八年もここで暮らしるから『今野アユム』としての自分も捨てられない」
正直な気持ちを伝える。
わかってという気持ちを込めて見つめ返せば、ヒナタは唇を噛んだ。
「……アユムは馬鹿だよ」
「うん、馬鹿なんだ。ごめんねお兄ちゃん」
泣きそうなヒナタに謝る。
妹の頑固さをよく知っている兄は、何を言っても無駄だと悟ったようだった。
「今日から先は、ぼくにもう話しかけたりしちゃ駄目だ。それと話しかけられても絶対ふたりきりにはならないで。ぼくが何を言っても信じないで」
いいね?とヒナタは念を押して立ち上がる。
わかったと頷けば、優しくヒナタが頭をなでてきた。
その手の大きさは違うのに、撫で方は昔と変わらなくて。
なんだかほっとする。
その顔を窺うように見上げれば、ヒナタの目には涙が滲んでいた。
「お兄ちゃん?」
「……アユム、ぼくはアユムを殺したくないんだ。それだけは信じて。扉を開けて元の世界に帰らないとしても、アユムの幸せを祈ってることには変わりないから」
ヒナタの声は震えていた。
このギャルゲーのシナリオ上、ヒナタが私を殺しにくることは決まっているらしい。
兄の意思ではどうにもならないのだと、前に告げられていた。
「大丈夫だよお兄ちゃん。ちゃんと宗介と仲良くしてるから」
安心させるように、ヒナタに答える。
どのルートでもヒナタは主人公を殺しにくる。
それを回避するには、サポートキャラである宗介の好感度が高くないといけなかった。
「アユム、大好きだよ」
「うん私もお兄ちゃんが好きだよ」
まるでこれが最後の別れのように、優しく抱きしめてきたヒナタ――兄と最後の言葉を交わして。
この日は、別れた。
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最後のクリスマスパーティがやってきた。
今回私はパートナーを決めていない。
このクリスマスパーティでの私のペアが、星降祭の劇で相手役となる。
そのため、ホールで皆の注目が集まる中、コサージュを相手に手渡すことになっていた。
相手に拒否権はなく、私に選ばれたら劇でヒロイン役を演じるのだ。
それで一緒に扉を開ける。
もう一人の主役とも言える『ツキ』は、紅緒がやることになっていた。
「この学園の一番星は相手に誰を選ぶのでしょうか!」
テンションの高い学園長の煽りに、恥ずかしい気分になりながら、マシロの前まで進み出る。
それからその髪にコサージュをつけると、マシロが受け取った証に頬にキスを返してくれた。
「三年三組の白雪マシロさん、おめでとうございます! 星の降る特別な夜の、星降祭のヒロインは、あなたに決まりました!」
大きな拍手の中、マシロはぺこりとお辞儀をして私の手をとる。
それからみんなの前で一曲ダンスを踊って。
緊張の中、無事にクリスマスパーティは幕を下ろした。
会場から出れば、雪が降っていて。
「悪い、忘れ物をしてきてしまった」
「わかった。待ってるよ」
マシロが忘れ物をとりに戻る間、玄関で空を見上げながら一人ぼーっとする。
「アユム」
声をかけられて振り向く。
そこにはヒナタが立っていた。
思わず体を強張らせる。
いつもの笑みを称えたヒナタの瞳は、気のせいか普段よりも赤く輝いているように見えて、ぞくりとした。
周りにはまだ生徒たちがいる。
こういう時は今野くんと兄は呼ぶのに、今日のヒナタはやけに親しげな雰囲気で私との距離を縮めてきた。
「警戒しないでよ。まだ大丈夫だから」
その口調は、ヒナタというよりも兄に近い。
安心させるように私に微笑みかけてくるのに、それは逆効果で妙に胸がざわついた。
「アユムに言おうかどうか悩んでたことが一つあったんだ。マシロのことなんだけど……ここではちょっと話し辛い。あっちで話そう? すぐに済むから」
小さな声で周りを窺うように、ヒナタが囁いてきた。
「行かない」
「別にぼくはそれでも困らない。でもアユムはマシロが死んだら、困るでしょ?」
突っぱねれば、そんなことをヒナタは言う。
まるで脅すような言い方がらしくなくて。
誰かが兄のふりをして喋っているかのような、強烈な違和感に襲われる。
「扉の番人であるマシロは、扉の向こうにいくと存在が消滅するんだ。本人もそのことは知らない。言わなければアユムは、向こう側でマシロが消滅したのを見て、元の世界に帰る選択をすると思ったんだけど。 ……やっぱりそれじゃ駄目だと思ったんだ」
悩んだけど言うことにしたというような口ぶり。
私のことを心底心配しているような顔なのに、やっぱり何かが違うと心がざわめいた。
「今日この時間じゃないと、マシロを助ける人物が捕まえられない。学園の『扉』の前に今だけいるんだ。もしもアユムがマシロといることを願うなら、急いだほうがいい」
喫茶店にいた時のヒナタは、この先自分の言うことを信じるなと言っていた。
それを守るなら、行ってはいけないんだと思う。
でもこれがもし本当だったら?
私と違って兄は前世で『その扉の向こう側』を何度も繰り返しプレイしている。
このギャルゲー世界の情報を私よりもずっと持っている。
そんな兄の忠告を無視して、手遅れになってしまったら。
そう思うと、迷いが生まれた。
「僕がマシロにはアユムは先に帰ったって伝えておく」
まかせてとヒナタが請け負う。
「……わかった」
私を殺す本人であるヒナタがここに留まるというなら、行っても大丈夫だと思った。
急いで走って、学園の扉の前まで行く。
普段厳重に閉まっているはずのフェンスの鍵は開いていて、中に入ることができた。
月明かりの下、『扉』はそれ自体が光り輝いているようでちょっと不気味だ。
辺りを見渡したけれど、人の姿はなかった。
「きてくれたんだ。嬉しいな」
ふいにくすくすと頭上から笑い声がして。
見上げれば、月をバックにヒナタが空から私を見下ろしていた。
ふわりと草の上に降り立つその背中には、白い天使のような羽が生えていて。
張り詰めるような音と共に、消えた。
「えっ?」
見間違いじゃなければ、ヒナタは空を飛んでいた。
鳥のように。
ヒナタの真っ赤な瞳はガラス玉のように、私をただ映していて。
そこに感情とかそういうものが一切見当たらなかった。
作られた笑顔を浮かべながら、私に歩み寄ってくる。
手には月の光を固めたような、銀色のナイフ。
来てはいけなかった。
そう気づいて逃げようとするのに、その赤い瞳から目が離せない。
まるで足が縫い付けられたように動かなくて。
喉がはりつくような感覚とともに、頭の中に警鐘が鳴り響く。
「わたし以外を選んだなら、あなたはいらないの。ごめんね」
そこには同情も何もない。
ただ事実を告げるように淡々とそう言って、にこっとヒナタは笑う。
これは私の兄じゃなかった。
銀の刃が私の胸に真っ直ぐつきたてられる。
思わず目を閉じる寸前、視界の端に黒い羽が見えた気がした。
痛みがなかなかこなくて。
「う……くっ!」
自分じゃない誰かのうめき声に目をあければ、そこには宗介が倒れていた。
「宗介っ!」
金縛りが解けて、宗介に駆け寄る。
胸からは血が流れていた。
なんで、なんで?
思考が混乱して、どうしたらいいのかわからない。
宗介の体に触れれば、手にはぬるりとした感触。
ぐったりと私の腕のなかで、宗介は目を閉じている。
これは夢じゃないのかと思うけど、その手にある感覚はやけにリアルで現実なのだと伝えてきた。
「大丈夫っすか!」
誰かの声がして顔を上げれば、ヒナタが踵を返して去っていくのが見えた。
かけつけてきたのはクロエで。
それからすぐに救急車が呼ばれて、宗介と私は病院へと搬送された。




