【54】彼女の舞台
すいません、一時間ほど遅れました。
シズルちゃんはいつも朝の六時に、ラブを散歩に連れて行くらしい。
この日いつもより早く起きたシズルちゃんは、ラブを散歩に連れて行こうとして心臓発作を起こして亡くなった――そう結論付けられた。
あれから二週間が経った。
シズルちゃんの死をようやく受け入れ始めたけれど、どこか納得ができずにいた。
六時より少し前に布団を抜け出したにしては、シズルちゃんの布団は冷め切っていた。
私の感覚の問題だろうといわれればそれまでだ。
でも、何かがひっかかる。
シズルちゃんはパジャマのまま、庭で倒れていた。
もしも散歩に行くつもりだったら、着替えてから外に出るんじゃないだろうか。
「宗介はあの日、朝早く起きてたんだよね。散歩にシズルちゃんが出かけるところだったなら、宗介の後ろを通るはずだ。気付かなかったの?」
「ごめん……考え事してたから」
責めるつもりはなかったのだけれど、宗介が謝ってくる。
謝って欲しいんじゃなくて、純粋に疑問だっただけだ。
シズルちゃんはちゃんと靴を履いていた。
つまりは玄関から外に出たということだ。
玄関は両親達がお酒を飲んで潰れていたリビングと、宗介がいた台所の間を通ってからしか行くことができない。
酔っ払って爆睡してる両親たちはともかく、宗介は人の気配に聡い。
シズルちゃんが後ろを通ったことに、気づかないなんてことがあるんだろうか。
静かな朝だし、玄関の鍵を開けたり閉めたりすれば音は鳴る。
それに、あんなにラブが朝から吼えていたのなら、気になりそうなものなのに。
神経質で聡い宗介がそれを疑問に思わず、無視していたというのが不自然に思えた。
思い返せば、あの日の宗介は様子がおかしかったかもしれないと思う。
普段通り振舞おうとしてるような、違和感があったようにも思えてきた。
「アユム、シズルちゃんのこと考えるのはもうよそう? 側にいたのに、間に合わなかったことが悔しいのは……わかるけど」
「……うん」
確かに宗介の言う通りだ。
宗介がもっと早く気付いていたら、なんて思ったけれど。
シズルちゃんが苦しんでいる時に、寝ていた私も私だ。
それに、亡くなった人は帰ってこない。
あの時どうしていれば、なんて考えるだけ無意味だった。
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「わぁ……凄いな。女のお客さんがいっぱい」
社会人になって一年と半年が経って。
紅緒が主演の舞台の招待状が届いた。
こんな短い間で主演になるなんて凄いことらしい。
楽屋に行くわよと留花奈が言い、その後を着いていけば派手な衣装に身を包んだ紅緒がいた。
「このたびは主演、おめでとうございますわ!」
「おめでとう、紅緒!」
「ありがとう理留、アユム」
祝福してくる理留と私に、紅緒が微笑む。
紅緒の衣装は当然のように男物で、すでに男性役として女性ファンがたくさんついているらしい。
「……」
「ちょっと留花奈。おめでとうって言ったら?」
何故か黙っている留花奈を、ひじで押す。
「ねぇ紅緒。今から本番なのよね。その衣装はどうしたの? わたし昨日も一昨日も見にきたけど、その衣装じゃなかったでしょ?」
固い声での留花奈の指摘に、ははっと紅緒が笑う。
「急な衣装変更はよくあることだよ」
「些細な部分を直すんだったらわかるわ。でもデザインもまるで違う。あんたもしかして、嫌がらせとか受けてたりするんじゃないの?」
留花奈は追求を緩めるつもりはないようだった。
「まぁ……ぽっと出の新人がいきなり主演じゃ面白くない人もいるよ」
降参したようにそう言って、これくらい覚悟の上だと紅緒は口にした。
すっと留花奈の目が細まる。
絶対に犯人捕まえて、酷い目にあわせてやろうという顔だ。
留花奈は身内……特に理留には甘いが、それ以外には容赦ない。
昔から付き合いがあるらしい紅緒は、留花奈にとって身内に入るようだった。
「留花奈、余計なことしちゃ駄目だからね?」
「えぇ、もちろん」
困ったような顔をする紅緒に、留花奈はいい笑顔で答える。
絶対余計なことをする気満々だ。
こうなった留花奈を止められないと分かっているんだろう。
紅緒は、大きな溜息を吐いていた。
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紅緒の邪魔になってはいけないからと、早々に切り上げて劇場へと戻る。
席には宗介とクロエがすでに座っていた。
紅緒は、私や宗介と高校三年生の時に同じクラスだった。
あまり関わりのないように思えるクロエがどうしているのかと言えば、クロエは紅緒の友人らしい。
ナンパ大好きなクロエが女の子に声をかけている時に、紅緒と知り合ったとのことだ。ロクな出会い方じゃない。
理留に留花奈、宗介にクロエ。それと私の五人で舞台を楽しむ。
本当はここにシズルちゃんも来る予定だった。
シズルちゃんは美術部だったけれど、演劇部の大道具も手伝ったりしていて、紅緒とは交流があった。
一方的に紅緒が絡んでいるという感じではあったけれど、初等部のころからの知り合いなので仲はよかったと思う。
紅緒の祝うべき主演の舞台なのに、辛気臭くなるのは駄目だ。
ちゃんと見なきゃと、意識を切り替える。
さすがというべきか紅緒の演技は圧倒的で、見ているこちらが引き込まれる。
感情って伝染するものなんだと、そんなことを思う。
あっという間に時間は過ぎて、拍手喝采のまま幕が下りた。
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紅緒と一緒に皆で夕食を取ることになり、先に店で待つことにする。
この日のために、留花奈が個室を手配していたらしい。
気が利くじゃんと言えば、理留が皆でご飯を食べたいと言ったから用意しただけらしい。
そんな事だろうとは思っていた。
クロエは用事があると帰ってしまったので、場にいるのは私と理留、それと留花奈だけだ。
遅くなるから先に食べててくれと紅緒には言われていたので、遠慮なく食べることにする。
居酒屋形式で好きなものを注文する感じだった。
「留花奈、こんな店よく知ってましたわね。ワタクシ、居酒屋なんて初めてですわ! 小悪魔チャーハンというのは何ですの?」
「ぴりっとした辛味のあるチャーハンよ、姉様」
理留はちょっとわくわくした様子だ。
メニュー表をキラキラとした目で見つめていて、そんな理留を留花奈が至福といった表情で眺めていた。
先にサラダから注文しようと、宗介が場を仕切ってくれて。
皿の上に一人分ずつ小分けにしてくれる。
「宗介、理留の分トマト入ってる」
「……? それがどうしたの?」
指摘すれば、宗介が首を傾げた。
初等部三年生の時、理留はトマトが食べられなかった。
そのことで担任の先生になじられ、言いがかりをつけられていたのを、宗介は私と一緒に見ていたはずだ。
「理留、トマト嫌いだよ」
「そうなんだ。アユムはよく知ってるね」
どうやら宗介はすっかりあの時の事を忘れてしまっているらしい。
何だか宗介らしくない。
そういうことはしっかりと覚えているタイプなのに。
そんな事を思っていたら、注文したカクテルが届いた。
それを手にとって、皆でとりあえずの乾杯をする。
出てきた料理を摘んでいたら、向かい側にすわる留花奈がじっと宗介を観察していることに気付いた。
「どうしたの、留花奈」
「ねぇさっきから思ってたんだけど、仁科って左利きだったっけ?」
私が尋ねれば、留花奈がそんなことを口にした。
言われて宗介に目を向ければ、左手で持った箸でダシ巻き卵をつまんでいた。
「宗介、右利きだよね? なんで左使ってるの?」
「あぁ、本当だ。間違えた……酔ってるのかも」
うっかりしてたと言うように、宗介は右手に箸を持ちかえる。
でもなんだか箸の持ち方がぎこちない。
「利き手間違えるなんて、あんたここに来る前から酔ってたの? お通しも左手で食べてたわよね」
「そうかも。あはは……」
眉をよせた留花奈に、誤魔化すように宗介が笑う。
「あんた、舞台が終わって車に乗ったときからいつもと雰囲気違うわよね。お腹痛いからコンビニ行きたいなんて言って、車止めたりしてたけど……食事の前に拾い食いでもしたのかしら。誤魔化し笑いなんて見たことないんだけど」
「お腹ならもう大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」
ジト目で睨まれて、宗介はそう言って笑った。
笑顔の裏で戦いを挑むような、留花奈に対するいつもの笑みじゃない。
ふわっとした、その場をしのげればいいという愛想笑い。
言葉の裏に、毒も何もなく。
留花奈が肩透かしを食らったような顔になる。
思わず留花奈と顔を見合わせる。
理留は特に違和感を覚えてないらしく、のん気に居酒屋の料理に舌鼓を打っていた。
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「宗介……もしかして体調悪かったりするの?」
あまり宗介はそういう事を表に出そうとしない。
心配になって尋ねれば、大丈夫だよと宗介は笑った。
「でも、ちょっとお手洗いに行きたくなってきたかも。ごめん、席外すね」
そう言って、宗介は席を立つ。
すぐに宗介は帰ってきたけれど、やっぱりどこか悪いのかと気になってしまう。
留花奈もそうなのか、時折宗介を見てるようだった。
「アユム、留花奈ちゃん。さっきからジロジロと俺のこと見てるけど、どうかした? 居心地が悪いんだけど」
「いや……宗介さっき様子が変だったから、大丈夫かなと思って」
言えば心配しすぎだよと、宗介が私の頭を撫でてくる。
「……」
「留花奈ちゃんも、俺の心配してくれたの? 明日は槍が降るのかな。とっても嬉しいよ」
黙ってじっと見つめてくる留花奈に、笑顔で宗介が口にする。
――全く嬉しくないし、留花奈に心配されるなんてちょっと気持ち悪いかな。
そんなニュアンスが言葉の裏から滲み出ていた。
いつもの宗介のようだ。
「もう普段通りの仁科みたいね? 相変わらず性格悪いわ」
「留花奈ちゃんに言われたくないけどね」
宗介と慣れた応酬をする留花奈は、どこかほっとしたような顔をしていた。
憎まれ口を叩きながらも、心配していたのかもしれない。
「ねぇそれにしても、紅緒遅くない?」
「本当よね。電話してるけど、さっきから取らないし」
私の言葉に、留花奈が相槌を打つ。
食事が始まってから二時間。
三十分くらい遅れると紅緒は言っていたけれど、それにしては遅い。
私に答えた留花奈は、少々苛立っているようでスマホの画面をいじって、何度も電話をかけているようだった。
「もしかして、嫌がらせ受けて怪我させられたり、どこかに閉じ込められてたりするんじゃないでしょうね……紅緒姉様にそんなことしたら、絶対三倍返しにしてやるわ」
「そんな留花奈ちゃんみたいな事をする奴いるかな。見つかった時に結構大事になると思うんだけど」
留花奈の呟きに、宗介が嫌味を交えて答える。
初等部の時、留花奈は気に入らないからと私を崖に突き落とそうとしたことがあった。
「そのことはもういいのよ。ってちょっと待って。紅緒姉様から着信だわ」
ようやくきたかというように、留花奈はスマホを耳にくっつける。
「紅緒姉様! 誰かに嫌がらせ……えっ!?」
最初から嫌がらせと決めるのはどうかなと思っていたら、留花奈の目が驚愕に見開かれた。
その手から、スマホが落ちる。
「どうしたの留花奈?」
「……ううん。わたしの聞き間違いよ、きっと」
動揺した様子で留花奈は今にも泣きそうな笑みを浮かべる。
それからまたスマホを手にとって、立ち上がった。
震える指で、どこかに電話をかける。
「そちらの緊急に搬送された……星野紅緒さんのことですが。えっ? 本当……ですか? そんなのって……!」
病院という単語に、過剰なほど胸の中が冷たくなる。
留花奈の声は揺れていた。
何があったのかと私たちに見つめられる中、留花奈が通話を切る。
「……」
「留花奈?」
しばらくの無言の後、不安になって名前を呼ぶ。
「紅緒姉様……亡くなったって。楽屋で倒れてるの、発見されて。病院に運んだけど手遅れだったって」
留花奈の言葉が突然すぎて、意味を飲み込めない。
「急な、心臓発作だって……」
その後は言葉にならないようで、留花奈が足元から崩れて泣き出す。
楽しかった宴会が全て色あせて。
周りの音が、消えていくかのようだった。
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★大学部4年冬(23歳)―社会人2年目秋(25歳)
●紅緒退場




