作戦会議
1
痛いほどの沈黙をノック音が裂き、扉が開かれる。
「この度はお呼び頂き、誠にありがとうございます。今宵の出会いに――」
「いいから座れ」
太ももが出るほどのワンピースの裾を少し摘んで口上を述べようとした来訪者を、サクラの言葉がぴしゃりと遮る。
来訪者は情報屋、葉月リュウゾウである。
普段の彼ならば、挨拶が遮られた時点で「礼儀が無い」だの「空気が読めない」だのと罵るところである。しかしどうやらそんな軽口を叩いている場合ではない、というのは自分が呼び出された時から既に分かっていた。
彼はやれやれと首を竦めながら顔を横に数度振り、ため息をついて空いている椅子に腰掛ける。
「随分と早かったな」
サクラはシガーケースから煙草を取り出して口に咥え、一本を葉月に薦める。
葉月はそれを受け取り、ポケットから取り出したマッチを擦って火を点け、その火でサクラの煙草に火を点けた。
2人は大きく煙を吸い込み、お互いの頭上目掛けて大量の紫煙を吐く。
あまりの煙の量にモモコは顔をしかめた。
「皆さんがトナカを出た後に召集が掛かりましてね、急遽この王都に向かう事になったんです。王都に着いた途端にサクラさんからの呼び出しがあったもので、まあ丁度よかったです」
ヘラヘラと嗤う彼の思考は窺い知れない。
それに構わずサクラはテーブルの上の白い本を取り、葉月に手渡した。
「これなんだが」
どれ、と葉月はまず本を開かないで表紙を撫でた。
情報屋にとって観察眼の鋭さは必須だ。彼に常人離れしたそれが備わっているのは周知の事実だが、彼は物の鑑定眼も持ち合わせている。
美しい白に滑らかな質感の毛皮……相当に良い物だ、という事が分かった。
しかしそれはサクラもモモコも理解している。
だがこれは――
情報屋は表情、感情くらい自在に操れなければ仕事にならない。彼はあくまで無表情を貫く。
そう、例え“自分が見た事も触った事もない”毛皮に触れたとしても。
しばらくその毛皮の感触を確かめてから本を開いた。
その本はたったの1ページ。しかも書かれているのはたったの6文字。
“自分の知らない、読めない、見た事もない”文字が、6文字だ。
「これを何処で?」
不気味な文字らしきものから無理矢理に目を剥がし、サクラにその視線を向ける。
「王城の図書館だ」
再び本に目を落とす。
やはり読めない。
祈るように両手を合わせて本を閉じ、それをテーブルに置いた。
「この本が何か?」
勤めて無表情を装う。
しかし彼の内心は穏やかではなかった。
自分の知識や経験の及ばない物の存在、そしてサクラとモモコの表情や仕草から窺える、このただならぬ雰囲気。
何より――“ハルカがいない”という不可思議な事実。
何もかもがおかしい。
彼は自分の体の芯から湧き上がってくる、何か漠然とした恐怖や不安のようなものに心臓を掴まれた。
「どう見る」
依頼者は手を休めてくれはしない。
彼は正直、部屋の扉を蹴破ってでも逃げ出したかった。
彼が情報屋の中で一目おかれている理由の大部分を占めるのが、その勘の良さだ。
君子危うきに近寄らず。しかし虎穴に入らずんば虎子を得ず。この両方のバランスを絶妙に取れる事が彼には出来る。
それは長年の経験と潜って来た修羅場の恐ろしさが成せる彼の特殊能力と言っても良いかもしれない。
そんな彼の“勘”が言っているのだ。
「これは関わってはいけない」と。
「どう、と言われましてもね。良い本だ、という事以外には何も」
「誤魔化すな。私の聞きたい事が分からないお前じゃねぇだろ」
大正解、である。
「分かりましたよ……」
葉月は観念したようにため息を吐き、自身の見解を並べる。
「こんな丁寧な装丁で良い紙を使いながら、中身は何故かたったの1ページ。ただの落書き様とは思えません。
そして少なくとも大陸の言葉ではないでしょう」
やはりといった表情を見せるサクラと、何も反応を示さずただ白い本を見つめるモモコ。
「恐らく彼――ハルカ君の世界の言葉ではないでしょうか」
流石と言うべきなのか、葉月は直ぐに答えに行き着いた。
「ああ、アイツは多分それを口に出して読んで……そして光に包まれて消えた」
「読んだ……彼は何と?」
「絶望しないで、とだけ」
「それはサクラさんに言ったわけではないんですね?」
「ああ。その本を開いた時のアイツの表情――いや、そもそも開く前からアイツはおかしかった。急に胸を押さえて崩れ落ちて、立ち上がったと思ったら……フラフラとその本がある本棚まで迷いもせず歩いて行った」
「その時、彼は何か言っていましたか?」
「何も」
「彼が消えた事以外に何か気が付いた事はありませんでしたか?」
「……何も」
「どこに消えたのか見当は?」
「あったら此処にはいねぇよ」
サクラは煙草を灰皿にねじり込み、溜息と紫煙の混じったそれをテーブルに吐きつけた。
テーブルに上には先ほどとは別の本が重ねられている。
葉月はそれを一冊づつ手に取り、丁寧に観察していった。
深緑で表紙に館の挿絵が入った本が2冊、挿絵の無い黒い本が1冊。縦横の大きさは同じだが、黒い本だけやたらと薄い。中身は勿論読めない文字、文字、文字達。
「右開き、縦書きの本らしいですね」
サクラは黙って頷く。
「それにしても凄い技術……こんな上質な紙が100ページ以上。しかも文字らしき物もこんなに小さくびっしり……」
「詩か物語なんじゃないかと私は思ってる」
「でしょうね」
そして会話は途切れた。
また重い沈黙が訪れる。
「いい加減にして」
両手でテーブルを叩き立ち上がったのは、今まで口を開かず無表情を保ってきたモモコだった。
刹那、サクラは左手を腰に――いや、左手で腰に差している槍の柄を掴む。
しかし辛うじてそれを抜かずに済んだのは、彼女の体が“モモコに恐怖して動けなかった”からだ。
葉月は顎を震わせ、歯を鳴らした。
もし彼が手に刃物を持っていたならば、彼の体は無意識のうちに自分の喉を切り裂いて自決し、死を以てでもこの場から去る事を選んだだろう。
「どうして2人とも逃げてるの」
口調こそ穏やかではあるものの、頭の先からつま先までを怒りに満たし、これでもかと怒気を孕んだ紅く見開かれる瞳を見て、頭の中を“死”の一文字が駆け巡らない者がいるだろうか。
「あたしが知りたいのは、彼が何処に行ったのか。それだけ」
“炎帝”だ――“シテイの帝王”、“紅白鬼”の片割れ――それが今、目の前に現れてしまった。葉月はそう思った。
悪鬼の巣窟と言われたシテイを刀片手に僅か10年に渡って掌握し、未だにシテイで語り継がれる生きた伝説。
かつて一度だけ遠目に見た、近付く者を全て灰燼に帰さんとする気配を纏った鬼――それが今、目の前で殺気を隠そうともせず立っている。
「……怖かった」
あまりの恐怖に吐き気を抑える葉月をよそに、可細い声で呟いたのはサクラだった。
「今まで一緒に話していた人が、歩いていた人が、一瞬で消えてしまった」
サクラの声は震えている。
それは普段の気丈で横暴な彼女とは思えないほどの小さな声。
「認めたくなかった。怖かった……」
遂にサクラは両手で顔を覆った。
その姿は彼女の年齢通り――いや、むしろ少女のそれに近い。
気丈さを演出し、粗暴な態度を取ることで自分の弱さを隠そうとしてきた彼女は、遂に限界を迎えて本来の彼女の姿を曝け出す。
嗚咽を漏らして泣くサクラを見て、モモコはゆっくりと牙を収めていく。
そして牙が見えなくなった頃、モモコは優しくサクラの肩に手を掛けた。サクラはまるで小動物のようにビクリと肩を跳ねさせる。
モモコの手には、怯えるサクラの――いや、怯える少女の震えが伝わってきた。
そんな少女の頭を、モモコは柔らかく抱く。
少女はモモコの胸に顔を埋め、強く抱きつきながら声を殺して泣き続けた。
「探そう。きっとハル君はまだ帰ってない。この大陸のどこかにいる……そんな気がするんだ」
サクラはモモコの胸の中で小さく頷いた。
モモコはふっと小さく笑い、サクラの頭を撫でる。
椅子に深く座り直して煙草に火を点ける葉月は、情報屋の顔を取り戻していた。
2
・212年 3月2日
『テイの村にまた若い犯罪者が屯しているようだ。違法な薬物の売買を行っているらしい。
人が少ないあの村は少し前からそんな事がちょこちょこあった、と聞いたが……どうやら最近はさらにそれが酷くなってきているらしい。
こちらの街に被害が来ない事を祈るばかりである』
・214年 7月18日
『この街でもテイの村の無法者の往来や事件が多くなってきた。
最近あの村では殺人や強盗が起きない日は無いと聞く。
鋼新は何をやっているのだ』
・214年 8月1日
『信じられない通達があった。
鋼新はテイの村を危険区域に指定し、鋼新兵を引き上げさせ治安維持を放棄した。
テイの村からの抗議はなかったらしい。
当然だ。もはやあの村に元々の住人などいない。とっくにどこか別の場所へ移っているか、殺されている。むしろ無法者達は喜んでいるだろう。
テイの村からこのネバの街はそれなりに近い。大丈夫だろうか』
・220年 1月4日
『キイルに越してきて初めての年越しは悪いものではなかった。しかし無法者の所為で自分の住み慣れた街を離れるのは、憤りを覚えずにはいられない。
そもそもはこの鋼新が悪いのだ。こうやって我々ネバの街の者はタダでキイルに移り住む事を許されたが……
テイの村は死んだ。いつからかあの村を皆「シテイ」と呼ぶようになった。シテイは恐ろしい早さで領土を増やしていっている。手を打たないと、いつかこのキイルも……』
・226年 5月28日
『いよいよ今日、鋼新の掃討作戦が始まる。シテイを潰すためだけに、大陸中から実力のある鋼新兵を集めたらしい。
正直、遅すぎたと思う。シテイは大きくなりすぎた』
・226年 6月10日
『この間からボロボロの鋼新兵が次々と王都に運び込まれているらしい。五体満足の奴はいない。いや、むしろこうやって帰って来ているだけマシなのだろうか、と言っていた』
・226年 6月13日
『結局あれほどの人員を投入したにも関わらず、シテイは消えなかった。あいつらは「領土の半壊に成功した」などとのたまっているが、壊滅させなければ意味が無い。
しかし実力のある封魔士が強力な結界を張ることに成功したらしい。これで無法者達が出てこなくなればいいのだが』
・232年 9月9日
『シテイの領土は広がっていない。しかし、その代わりに「上」に広がってきている。このキイルからシテイの建物が見えるのだから、高さは相当なものだろう。あんなものをどうやって建てているのか……あれは確実に、日に日に高くなっていっている。建物自体が成長しているとでもいうのか? まさか……そんな筈は……』
・234年 2月14日
『シテイは遂に雲を貫いた。もう誰も止められない。あの建物は生きている』
キイルの街から発見された日記帳より、シテイに関するものだけを抜粋。
尚、この日記は一時的に私が保管することにする。
この日記の処分、或いは保管のし方はどうするべきか。
コーエン博士の指示を仰ごう。
3
「正直に聞かせて欲しい。お前の見積もりでは何割だ」
サクラの問いに葉月は唸る。
「正直、全く予想がつきません。会える確立が2割、その人が答えを知っているのは1割未満って所でしょうか……勿論、これは勘で何の根拠もありませんがね」
「2割と1割未満か……モモコ、その「大賢者様」とやらは実際にいると思うか?」
モモコは葉月と同じ様に唸る。
「シテイではかなり有名な話だからね……その本人かどうかは分からないけど、それに近い人はいるんだと思うな。ただ、見たことがあるって人はいなかったけど」
時刻は11時30分。
今後の動向を3人で話し合っていたらいつの間にか夜は開け、昼近くになっていた。
「やっぱりボクはこの王都、或いはその周辺で情報を集めるのが得策だと思う。ハルカ君がどこに行ったかは分からないけど、きっと彼は此処を目指す。入れ違いになったりなんかしたら目も当てられないよ」
葉月はそう言いながら人差し指を立ててくるくると回す。これは人を説得する時の彼の癖だ。
「あたしはシテイに行くべきだと思う。“大賢者”が本当に居るかどうかは分からないけど、“この世の全てが集まる場所”って言われるシテイになら、何らかの情報はあると思うんだ。それに止められてもあたしは行くよ。此処でじっとしてるなんて絶対に出来ない」
腕を組んだモモコも自分の意見を言う。
今こそ“炎帝”は彼女の中になりを潜めているが、その目に遠慮や自分の意思を曲げる気は見られない。
「私は――」
自分を完全に取り戻したサクラは、目を瞑って言葉を紡ぐ。
「私は――」
4
「へっち!」
「お? 風邪?」
「いや……誰かが噂でもしてんだろ」
「だとしたらハル君だろうね、あははは」
「何が可笑しいんだ。もしアイツなんだとしたら、さっさと見つけてぶっ飛ばす」
「あたしもくしゃみ出るかなぁ? 出たら嬉しいかも」
「くだらねぇ事言ってんな。これから長旅だ。風邪なんか引いてらんねぇよ」
「だね」
「それより、大丈夫なんだろうな。理由がどうあれ、お前がシテイに戻るってのは色々とヤバいんじゃねーのか」
「んー……そもそもがヤバい所だから、あんまり気にしても無駄だと思うよ?」
「そうかい。まぁ適材適所だ、私達は危険な所に突っ込んで情報を集める」
「葉月ちゃんは王都周辺で足と人脈を使って情報を集める。完璧だね!」
「結果が伴えばいいけどな……お、そろそろ汽車が出るみたいだ」
「はぁ……キイルの街まで、この座ったままの体勢で28時間かー……長いなぁ」
「動きたきゃフラフラ立ち歩け。ただ汽車から降りたらぶっ殺す」
「例えじゃん! 冗談が通じない人と28時間……」
「バカと28時間」
「誰がバカだよ! ふぇ……ふぇっくしん!!」
「……風邪か?」
「ハル君が噂してる!」
「よかったな」




