その後
1
消えた。人が、自分の目の前で消えた。
彼女は彼がいた場所に駆け寄ってしゃがみ込む。床を触ってみるが何も無い。
傍に落ちている白い本、それを手に取っていいものか彼女は一瞬逡巡したが、そんな事を考えている場合では無い、と決断を下してそれを拾って立ち上がる。
その白い本は文庫本ほどのサイズだろうか。表紙は何かの上等な毛皮で作られているらしく、肌触りは良い。
この世界で本は高級品だ。ただでさえ高級品の本にこの表紙。ただの本ではないと、彼女が察さない筈はない。しかし彼女の思考が働いたのはここまでだった。
彼女は確かに豪傑ではあるが、無謀な人間ではない。むしろ暴力よりも戦術でその真価を発揮する。そして何より頭が良かった。
開けば何が起こるか分からない本――普段の彼女ならば、それを開く事は決してしなかっただろう。そう、しなかった筈なのだ。
しかし躊躇無くそれを開いた。何の警戒も無しに、無計画に。
彼女は混乱していた。取り乱していた。呼吸は荒く、思考は定まらず、一秒先の事も考えられない。
彼女の目に飛び込んだのは小さく書かれた一文、ただそれのみ。
それが更に彼女を取り乱す。
読めない字、知らない言語だったからだ。
しばらく呆然と立ち尽くす。
時間にして十数秒だろうか、彼女は手に持った白い本が置いてあった本棚から数冊を無造作に取り出してリュックに放り込み、出口に向かって駆け出した。
図書館の扉を施錠し直し、場内を足音一つ立てずに駆け抜け、勝手口を閉めて施錠する。
あの十数秒で彼女は彼女に戻ったのだ。戦場で培った技術が役に立った――そしてたった十数秒で元に戻れる自分自身の体の便利さに、彼女は俄かに口元を歪ませて嗤った。
ファンファーレがもうすぐそこに聞こえている。城の前で行われている屋外セレモニー会場が近い。
あまりあれに近付いてはいけない。8年前であっても、自分を白蛇だと分かる奴がいるかもしれない。いや、状況は変わったのだから、疑われる事すらあってはいけない。
城の前を大きく迂回するように街に入り、ようやく彼女は走るのを止めてゆっくりと歩く。目指すは酒場――いや、葉月リュウゾウの呼び出し。
普段は人間でごった返している街も今は無人、城のセレモニーを見に行っているので歩くのが楽だ。最も、彼女ならどれだけ人がいても一切他人に触れる事無く歩けるが。
難なく酒場の前に着き、しばし立ち尽くす。
「クソが」
思わず独りごちる。自分の浅はかさに反吐が出そうになった。自分を取り戻したつもりだったのは、あくまで自分だけだった。何でこんな事を予測できなかった?
考えるまでもない。ただ“慌ててた”のだ。冷静になったと思っていたがその実、全くそうではなかった。彼女はまだ冷静さを欠いている。
酒場の扉には「行事見学中につき一時休業、再開は13時30分の予定」の張り紙がしてある。
彼女は扉の引く。強く反発され、少しも開かない。
ノックする。返事は無い。
「チッ!」
舌打ちをして扉に自分の頭を強かに打ち付けた。鈍い音が響くが、当然扉は開かない。
店は悪くない。むしろこんな張り紙をしてくるだけ親切だ。悪いのは自分、これを予測できなかった自分の所為――血の上った頭を少しクールダウンし、また小さく口角を上げて嗤う。
「私もまだまだ甘いな」
それは自分自身の浅はかさに対する自嘲だった。
しかしこのまま何時までも此処に居るわけにはいかない。街を歩く人間の姿は未だ見えない。
「クソが、おかげで街を歩くだけで怪しい人物じゃねぇか」
普段は出ない独り言も、広い場所で誰も居なければ例外か。
目を瞑って集中する。人が多く集まっている場所の気配を探る。出来れば一人でいても怪しまれない場所……酒場か喫茶店が望ましい。王城周辺の店には人はいなかった。だが王城から離れた南方面なら、うってつけの場所はある筈だ……そう彼女は考えた。
エルフが得意とする魔力探知は普通の人間にも出来る。多くのエルフはそれがエルフ特有のものだと思っているが、実は魔力探知の精度、範囲は術者の魔量総量に因る。エルフは総じて魔力の多い種族なので、必然的に魔力探知が得意なだけだ。
しかし彼女は魔力総量が少ない。そして特別に封魔が得意という訳でも無い。
ならばどうやって人を探るのか――
人は、ただそこに居るだけで気配を放つ。勿論目に見える物ではないので、普通は感じることも自分のそれを消す事も出来ない。
彼女は――いや、彼女の様な卓越した力を持つ物は、一様にしてこの“存在感”を感じ取ることが出来るのだ。距離も精度も人によってまちまちだが、集中した時の彼女の索敵能力は驚く事にエルフのそれに並ぶ。
「ふん……」
距離は此処から200m、その間と周辺に人の気配は無し。
王都の路上は全面禁煙である。彼女は煙草に火を点け、のんびりと歩き出した。
2
時刻は22時を周ろうとしている。さて頃合か、と彼女はどんちゃん騒ぎ中の輪を離れるべく椅子を立つ。
羊皮紙総計120枚の始末書、将軍やら新羅やらの挨拶周りの相手……思ったよりもずっと時間が掛かってしまったしまった事に、彼女は少し焦りと苛立ちを感じている。
「もう行かれてしまうのですか?」
隣で酒を飲んでいた鋼新兵が彼女を見上げる。
「うん、ちょっと疲れちゃって。それじゃまた明日」
「ええ、おやすみなさい。明日も頑張りましょう」
たかだか交代の巡回警備に何を頑張るのか、と思い彼女は苦笑した。
鋼新兵に女性は少ない。とりわけ王都、王城に勤めている新羅以上の兵士となると尚更だ。モモコの隣で酒を嗜んでいた彼女は、鳴り物入りの兵士として将軍に着いた同性のモモコに憧れていた。
上級兵の一つ上、将軍の一つ下の新羅である彼女の羨望の眼差しを背中に受け、居心地の悪い思いをしながらモモコは足早に宴会会場を後にする。
本来ならば宴会会場のあるこの本館から東館にある宿舎に行く所であるが、そういうわけにはいかない。会場を後にした彼女は走って出入り口に向かう。
いくら100年に一度の祝典中であっても、城に警備の兵がいないわけでは無い。其処彼処に巡回の兵士がおり、鋭い眼差しを向けている。
が――数は少ない。それに巡回のルート、人数、交代の時間……脱出に必要な情報は全て彼女の頭の中に入っている。彼女はスパイなどではなく、正規の鋼新兵なのだから当然と言えば当然なのだが……
ちなみにそれらの情報は事前に村や街の各砦に手紙で伝達されていたが、彼女はそれに目を通す前に無くした。今日、初めて知ったのだ。
22時丁度……交代の時間である。城内へ入る為の正面扉から出ると、20mほど離れた場所に城外へと出る城門があり、その城門の内側と外側の両横に一人ずつ、計4名の監視の兵が立っている筈だ。
出来る限り気配を殺し息を殺し、彼女は城内の装飾品である大きな壷の影に隠れて機を伺う。
城内の扉が開く音が聞こえる。入って来た人間の足音、気配――4名で間違い無い。
本来ならば交代の時間になれば、次に警備に当たる人間が来てから交代して然るべきである。しかし今日は――いやこの期間は勝手が違う。警備に当たっていない人間は皆が皆、宴会会場で時間を忘れてお祭り騒ぎをしている。なので警備交代の時間になっても来るべき人間が来ない……そんな事がままあった。
なので彼らは宴会会場に交代の人間を呼びに行く。一人でも残っていればいいのに、全員が早く会場に行きたいから全員で行く。普段の警備なら失職物さえ免れないようなこの行為も、この期間だけはどうやら許されるようだ。
警備をしている人間は皆が新羅の役所を持つ人間である。鋼新の中で新羅とは、決して低い役職ではない。しかしこの王都と王城に限り、この人間たちは最下層の役職である。故に、警備に当たる人間は皆が新羅の者――これは将軍の役職を持つ彼女にとっては僥倖であった。
警備交代の時間になった4人は足早に2階の宴会会場に向かう。気配を殺している彼女を、気が急っている彼らが見つけられる筈もない。
彼女は壷の陰から顔を出し、キョロキョロと見回してから誰もいないのを確認して扉に駆け寄る。城内の鍵は閉じられていない。扉はいとも簡単に開いた。
既に日は落ち切り、夜空は満点の星空で化粧されている。城外へ続く扉への石畳をなぞる様に設置されている外灯の灯り。彼女はその石畳を歩く事無く、むしろそれを避けるように城壁に近付いた。
どうせ扉には鍵が掛かっている。それ以前に自分の倍以上ある扉を堂々と開く気は、彼女には毛頭無い。
石で出来た城壁の高さは優に5mを超え、縦横3m程の扉はその壁に嵌まり込むように設置されている。
一見するとこの扉を開かなければ外に出られない様に見える。が、彼女には関係ない。
扉から1m程離れた場所に立ち、外壁を見上げる。傍から見れば子供が壁の高さに圧倒されているようにしか見えない。
彼女はぐっと膝を折ってしゃがみ込み、一気に飛んで天に向けて右手を伸ばす。しかし精々それは壁の半分程度。とても壁を飛び越えられる高さではない。
壁は石造である。しかしそれは必ずしも滑らかではない。突起し、窪み、欠けている箇所は無数にある。彼女の狙いは、今彼女の右手の指が掛かろうとしてる箇所、僅かにこちらに向かって突起している部分。
そこに人差し指、中指、薬指の3本が掛かった。ジャンプの勢いを残して3本の指に力を込めると、小さな体は空に向かって加速する。
彼女の体は5mの壁の1m程上を浮かぶ。ちょっと飛びすぎたな、と空中で嗤う。
頂点を向かえた体は城壁の外へと落ちる。膝の屈伸のみで着地の衝撃を完全に殺し、何事も無かったかのようにすくりと立ち上がってまたキョロキョロと辺りを見渡した。この周辺に人が居ないのは気配で確認出来ているが、どうやらそうせずには居られない性分らしい。
ゆっくり「王楼」に向かって歩く。
2人はどうなっただろうか。どうやってこの世界に来たのか分かったのかな。もしかしてもう帰っちゃったりしたかも。
なんて夜空を見ながら笑顔でのほほんと考える。
街へと続く石造の道、それもまた滑らかではない。
隆起した石が足を取り、痛々しい音を立てて彼女は強かに顔面を石畳に打ち付けた。
3
「……鼻血出てんぞ」
「マジで? 気付かなかった」
22時13分、2人は宿の部屋で落ち合う事に成功した。
円い小さなテーブルを挟んでモモコはサクラの正面に座る。
テーブルの上の灰皿の煙草は山盛りになり、よほど待たせてしまったのだとモモコは思った。灰皿の横に4冊の本が積んである。
「思ったより抜け出すのに時間掛かっちゃったよ。ごめんね」
素直に謝ったモモコだが、サクラの表情は硬い。よっぽど怒らせたのかとも思ったが、違和感に気付く。
ハルカがいない。
「面倒な事になった」
とサクラは言って煙草に火を点けた。
モモコは首を傾げる。
「その白い本なんだが――」
ただ事ではない、と思うと同時にモモコの表情が険しくなる。サクラの言葉が終わる前に、テーブルに積んであった本の一番上にある白い表紙のそれを奪うように手に取り、無造作に開いた。
「読めるか」
おかしな本だった。それなりに厚さはあるが、その厚みのほとんどはこの毛皮の表紙のものだ。中身はたったの1ページのみ。そして書いてあるのはただの一文のみ。なによりおかしいのは――
「何、これ……何て書いてあるの?」
読めないのだ。おそらく6文字なのだろうという事が分かるのみで、しかしそのたった6文字が読めない。自分の知っている文字に似ている気もするが、こんな字は見たことが無い。
「私も読めなかった。けどハルカは多分、それを口に出して読んだ。読んで……」
サクラはまるで腹でも刺されたかのよな沈痛な面持ちでモモコから目を逸らす。
「消えちまった」
「……消え、た」
意味が分からない、とモモコは思った。しかしサクラのその表情から、それが何一つ嘘でないことは分かる。だから――尚更意味が分からなかったのだ。
「本当に消えた。白い光がハルカを包んだと思ったら、手に持っていたその本だけ残して完全に消えちまった」
「口に出して読んだって言ったよね? 何て言ったの?」
サクラはまだ半分以上残っている煙草をぐしゃりと山盛りの灰皿に押し付け、ゆるりと首を横に振ってから答える。
「絶望しないで……そう言った」
沈黙。ただ、沈黙。
お互いに言葉を忘れてしまったかのように固まる。
2人の頭の中に「絶望」の2文字が浮かんだ。
それは彼が言ったらしき言葉を反芻したわけではなく――
彼女達を包む感情、そのものが頭の中に現れただけだった。




