湖都ラクウルの広場の夜 前
このような場だから、古いことばかりを思い出す。そういえばこんなことがあったな、と、初めはおぼろげだったが、無駄に長々、恐怖を引き出すように与えられた時間で、終いまでをちゃんと思い出した。
あの夜、私に目を片方渡し名前を言い残して森の奥に消えた、大きな闇色の妖精蜥蜴。あれはもう捕まらずに元気にしているだろうか。あの後私も無事に森を抜け、先の町に着くことができたのだが。
ああそういえば、宿に行ったら何故か森の前で出会った魔法使いがいて、酷く怒られたのだった。「占いで禍の種が来ると出たから罠を仕掛けたというのに、なんてことをしてくれる、恩知らず」だったか。それならば先に言っておけばよかったものを。そうすれば、私だって見ぬふりをしただろうに。……恐らくは、だが。あんなとぼけた飾り気のなさすぎる顔で、手足も棒のような子供の落書きじみたずんぐりした蜥蜴が禍の種だなどと、信じがたい話だ。
あのとき貰った金の目は、目玉と呼ぶには綺麗すぎた。真ん丸の金の塊で、手触りもよく、暗くなるとどんな火よりも温かく辺りを照らしてくれるので、道中重宝した。汚れたり曇ったりすることもなく、星のように輝きを放ち続けているのは、私の旅のつらさを和らげてくれもした。今も守り袋に入れて首に提げてあるが、光は閉ざされて見えない。今こそ見たいと思ったが、もう、叶わないだろうか。
あの蜥蜴もこんな気持ちだったのだろうか。捕らえられて晒すように置かれるのは、なんと悲しく寒く、恐ろしいことか。
頭の上まで上げられた腕が、縄の食い込んだ腕が痛い。罪人のために特別に結わえられる縄はどれほどもがこうとも解けはしない。緩むどころかきつく体を戒める。初めはどうにかしようと努力していたが、暗くなる頃には諦めてしまった。
肩が抜けて酷く痛むし、ずっと地面に座らされた足も骨が軋むようだった。三日前から水さえ飲まされていないので、体がとてつもなく餓えて渇いている。日中幾度もかけられた侮蔑の言葉や眼差しに、心とて、擦り切れる寸前だった。罵詈雑言には慣れたと思っていたのだが、こうも手酷く罵られるのは久々のことだったので、一々切りつけられるように感じられた。
私に付された罪名を思えば当然、言葉だけではなく実際に手を出してくる者たちも多くいた。まだ血の流れ続ける傷もあるが、大半はもう感覚もない。体が呆けてしまっている。周りには血のついた石や棒切れがいくつも転がっていた。散々に打たれたせいか、視界は半分に減っている。この右目はもう、見えることはないだろう。こうなってしまえばもう、それで困りもしないだろうが。
そうだ、これで終わりではないのだ。本番はこれからだ。このようなことが永久に続くよりはよいのかもしれないが、そういう問題でもあるまい。
寒さと、これから訪れるだろう出来事への恐ろしさで身が震える。疚しいことなど何もないのだから、堂々と、毅然と構えていられればよいのだが、そうもいかないようだ。もう私には気概がない。
大体、十日前の時点で、捕まってしまったという事実一つでも、私は随分打ちのめされていたのだ。
こうならぬように逃げ続けたというのに、罠は至るところに潜んでいるのだ。都では王侯の側仕えだった娘が北の寂れた町へ嫁いで寂れた食堂の女将をしているなどと、誰が考える? その娘が随分歳をとって、私には見覚えのない姿になっていても私の顔を覚えていて、王殺しと叫ぶなどと。
はっとして駆け出しても遅かった。私の顔を知らぬ者でも、皆を揺るがした大罪のことは知っていたのだ。誓って、それは私ではないのだが、私ということになっているのだ。王殺しのアイニーキと。
そんなこと、あるわけがないではないか。私は王に剣を頂いた騎士の一人だったのだ。誇れるものを与えてくださった、他ならぬリクハルド王を、どうして殺すことができようか。神が殺せと言ったとて、そのようなことできるはずもない。
しかし、真実と事実は異なるものであると、私は教えられたのだ。互いに信頼しあっていたはずの騎士たちでさえ、私を討ち取るために剣を手に馬を駆った。身の潔白をいくら叫ぼうとも、彼らはその手を緩めることがなかった。
分かっている。彼らも自分の立場ゆえに、そうせざるを得なかったのだ。他に手などなかったのだ。彼らは私がやったと心の底から信じているわけではないが、命を下した王子の為にそうするしかなかったのだ。私はそう信じたい。だけれども! 我ら騎士の剣は己の魂に誇れるものの為に振るうべきではないのか、諸君!
食い縛った口の間から白い息が漏れる。ああ、騎士としての正しい姿でこの世に残れないこの身が、たまらなく口惜しい。そして、月を背に輝く刃を掲げた断頭台が私を待っているのが、たまらなく恐ろしい。
見張りとは違う、近づいてくる足音が聞こえて吐きそうになった。黒尽くめに顔を隠した二人の処刑人が、後ろから来る。
「私はやっていない……」
驚くほど惨めな声が出た。命乞いをするような声だった。私は己を奮い立たせた。このようなことではならぬのだ。
私は命が惜しいが、命乞いの為に声をあげるのではない。
「まだ言うのか。では何故、お前は呪われているのだ」
篝火に照らされた男たちは、私を傲慢に見下ろしていた。
なんという侮辱。戒められ晒し者にされるだけでも狂おしいほど屈辱的だというのに、あまつさえ呪われているだと。あれから老いることのない身を、呪いだと言うのか。
「呪われている! この身がか、魂がか。神がそう言ったのか! あれはイエレミアス王子がやったのだ、王子が、王を刺したのだ」
そう、私はその場を見ていたのだ。王子が王を殺す、その瞬間を。まだ覚えている。
血塗れて真っ赤になった剣を握った王子の姿。血を流して倒れ伏す我が王の姿。王子が叫んだ言葉。
――「騎士が王を刺したぞ、捕らえよ!」
私は濡れ衣を着せられたのだ。それでどうして王殺しの呪いを身に受けることがある。
「この期に及んで、また罪を重ねる気か? 愚かしい」
処刑人は聞く耳など持たず、不敬の罪を示して冷たく吐き捨てる。その声と眼差しに、私は震えずにはいられなかった。大罪人の処刑は朝から一日晒されたあと、夜の内に行われる。
もう私は一日晒され、月は山裾に到っているのだ。朝陽が訪れる前に殺されるのならば、あと僅かしか、私が生きている時間はない。
「やはり女に剣を取らせてはならないのだ。ろくなことにならぬ」
度し難い。その言葉こそ、私に剣を下さった王へ対する不敬に他ならないではないか。
口を開いた私に鞭の一振りが与えられた。よく撓る木が弾けるように脇腹を打った。激痛に身を捩ることも許されないまま、私は二人の処刑人に引きずられた。
近づくと断頭台は一層に大きく見えた。ただでさえ悪い私の顔色が、これ以上ないというほど蒼くなるのが分かる。これで恐ろしくないものなどいるのだろうか。死を間近に見て、恐れぬ者など。
首を叩き斬る刃がよく見えるようにと仰向けにされ、身動一つ出来ぬように体を縛られた。震えるのは指先や歯だけになった。
ざわざわとあたりが騒がしくなり始めた。見物に町の人々が集まっているのだ。きっと町中の者がいるのだろう。彼らにとっては、先王を殺した忌わしい大罪人の処刑なのだ。皆、恐ろしい罪人に罰が与えられ、事切れる様を目に焼きつけたいのだ。
私の口は塞がれてはいない。惨めに喚き、死のその時に絶叫して苦しむことを、私は期待されているのだ。何か、何かほかの言葉を。死を呪うのではなく、生きた証を。
ああ。
「スーラウォステラトラテス」
普通、こういうときは愛しい者の名前などが出てくるはずだが、そうはならなかった。王の御名でなかったのも仕方がない。なにせ、名前でお呼びしたことなど一度もないのだから。代わりに何故か、まどろっこしく長ったらしいが、癖があって忘れるに忘れられなかった蜥蜴の名前が、呪文のように口から零れた。はじめて口に出して分かったが、美しい響きの名だ。詩のようだ。
死の間際だというのに、もっと崇高な言葉や、後世に残りそうな大台詞を吐いて死ぬことは私にはできないらしい。
けれど、悪くないだろう。三十余年も前に助けた妖精蜥蜴の名を思い出し、それを最後に死ぬのもきっと悪くないのだ。そう輝かしくも無いが、恥じることのない善行を胸に抱いて、私は断頭台に食われるのだ。
目を閉じるのは恐れを知らせるようで気に食わなかったので、私は懸命に目を開き、そのときまでこの世を目に焼き付けようと努めた。美しく晴れた冬空に銀の星が一筋、流れたのが見えた。泣きそうだった。胸が熱い。
「この者、呪われしアイニーキ! 三十六年前に湖の王リクハルド様の胸に剣を立て――」
処刑人が私の罪状を叫び始めた。集まった民衆に聞こえるよう、町中に響くように声を張り上げているのだ。
「早く刃を落とせ! 我が父を殺した大罪人であるぞ!」
処刑人よりも大声で吼える男の声に民が同調する。ああ、居るのだ、私が真実と共に死す様を見に来たのだ。イエレミアス王子、現王の声に違いない。やったのは、やったのは貴方だ!
そう叫びたかったが、もうまともな声が出なかった。舌が縺れて喉が渇いた。
ああ、恐ろしい――私はこのように、罪人として死にたくはない。私は、王を殺したりしない。するものか。私は今なおあの方の騎士なのだ。
「それでは、処刑を執り行う!」
現王の声に圧され、処刑人が宣言した。民衆が沸きあがる。ひきつけのように胃の腑、心の臓が跳ねる。私は目を閉じてしまった。
悲鳴が迸った。
最初は私の悲鳴かと思ったが、どうやら一人のものではない。
「これはまた、トラバサミより一層物騒です」
落ち着いた声が言うのが聞こえる。どこかで覚えのある声に、私は恐る恐る目を開けた。美しい銀の光が素早く地の上を駆け抜けた。
「もっと早くお呼びいただければもっと早く参りましたのに、出し惜しみしてよいこともあまりありません」
夜空かと思えば、それは大きな、人よりも大きな黒い蜥蜴の体だった。銀の目がぽつりと一つだけあるその巨体が、私の頭のすぐ近くに浮いてこちらを見ているのだ。
足踏みして断頭台の周りを一周する。呑気なその姿に、私は流すまいとしていた涙が溢れるのを感じた。胸が熱い。熱いのは、守り袋の中に蜥蜴の目があるからだ。
「……お前は、羽も無いのに飛べるのだね」
「おかしなことを仰る。宙を歩くのに大切なのは羽などではなく、尾ですよ」
まさしく、間違いなくスーラウォステラトラテスだった。
ふう、と蜥蜴が息を吹きかけると、私を戒めていた縄は蛇のようにするすると動いて勝手に解けた。冷えきり、疲れきっていた体に熱が戻りはじめる。それは胸にある、蜥蜴の目からに違いなかった。
今にも落ちて私の首を砕きそうな刃に怯えながら身を起こすと、歯の根が合わなかったのも治まった。諸々痛いのは差し引いて、大分よい。抜けた肩を無理矢理に嵌める。涙を拭うと手の傷にとても沁みた。
そうして見れば辺りは酷い有様だった。処刑人が倒れ、民衆が怯えて立ち竦み、あるいは逃げ惑っている。スーラウォステラトラテスは昔に見たのと変わらぬ、どこかとぼけた無表情でそれを見渡している。彼は大きさ以外何も変わらないが、その大きさが何よりの問題だ。私に抱えられるほどだった大蜥蜴が、さらに大きく、人を呑めそうな図体で居るのだ。馬よりも遥かに大きい。
「信じておくれよ。私は騎士の位に誓って、こんな風にされるようなことはしていないのだよ」
彼のような存在にだけは信じてもらえる気がして、私は独り言のように口にした。スーラウォステラトラテスは立派な尾をゆらりと振って大きな口を開いた。牙などは無いが、ただ黒くぽっかりとしてこれはこれで恐ろしい。
「そのようなこと、私には明らかなのですよ。こうもはっきりしているのに何故わからないのか、人とは不思議ですが。あなたは神と王に愛されているために昔のまま美しくありますが、真逆にあの男は呪われているのです」
スーラウォステラトラテスは凍ったように動かないイエレミアスを見つめて言った。イエレミアスは真っ青な顔で、自由になった私と、大蜥蜴とを見て動けないでいる。騎士の一人ぐらいつけていてもおかしくはないのに、誰も傍にはいなかった。
「魂が醜いのです。あれは親殺しと王殺しの穢れた魂です。あのような人が世を治めるのはまことよろしくないと皆申しております」
事も無げに続け、また尾を揺らす。少しこちらを振り向きついでのように軽々と、強く撓らせて打ち、断頭台を引き倒した。激しい音がして、鋭く尖った刃が地面で跳ねる。
蜥蜴のその様は、暴れまわる化け物というところだ。私だって、昔に助け、こうして助けられた経緯がなければ彼をそう扱ってしまうだろう。世界の裏側、妖精たちと住処を同じくする、我々とはまったく違う生き物だ。皆、というのはその仲間たちのことなのだろうか。魔法使いであれば彼のこの言葉を理解しうるのかもしれないが、私には聞いた以上のことなど知れる由もない。
けれども、何となく――闇や星がざわめいている気は、した。
「夜は人に安らぎを与えるのです。私黒蜥蜴も夜の眷属、あなたや人々に安らぎを与えること、やぶさかではありません」
今、人々を混乱に陥れている大蜥蜴は真逆のことを言って、立ち竦む私の周りをゆっくりぐるりと回った。そしてとっと宙を蹴った。