サウフーリの境森の夜
ガブリと噛まれたそのときには、目の前が真っ赤になりました。なにせ酷い痛みでしたので。振り返って見ると私の自慢の尾には深くぎっちり、銀のトラバサミが食い込んでいました。忌わしい狩人めが仕掛けた罠に違いありません。そうでもなければ、私がかかることなどありはしないのですから。
しかし、本当に酷い痛みです。火で焙られるとこんなものだろうか、やすりの舌で舐められるとこんなものだろうか。とにかく痛い。
狩人のことですから、とっておきの魔法で作って隠したのでしょう。狼の顎のようなトラバサミ。ガチンと噛んで、引こうが叩こうが開かない。ああ、痛い、痛い。じりじりする。
夜の森は静かです。静かに動くものばかりなのです。音もなく飛び、黙って這い、静かに往くものだけが生きているのです。誰もがひとつきり、言葉を交わすことなどなく、触れられることもほとんどない。必要がないのです。そんな森の中ですから、私を助けるものなどいるわけもありません。
私はこのまま死んでしまうのです。
狩人に捕まって、目玉を刳り貫かれて、皮をきれいに剥がされて、肝も尾も盗られて死んでしまうのです。ああ、恐ろしい!
夜明け前には来るでしょう。狩人は来るでしょう。奴らも夜に動きます。ここは夜の森ですから、捕らえた獲物は夜のうちに取りに来て血抜きをしなくては。朝まで待ってなどいたら、私たちは消えてしまうのですから。
おぞましい、忌々しい狩人。ヤルゴーの湖よりも冷たい目の奴ら。
想像した私の体は竦んでしまいました。手足は石のようです。尾も石になって痛みが消えればよかったのですが、そうは行きませんでした。私は痛みと恐ろしさに固まって、狩人がやってくるのを待つしかないのです。
私の小さい肝も縮んで震えているようです。いっそ、芥子粒のように小さくなってしまえば狩人の取り分が少なくてよいでしょうか。
陰気に考えていると魂まで萎びてしまったようです。もう、私には、どうにか逃れてやろうともがく気概も失せてしまったのです。
すっと伸びた草に囲まれ、それらと木々とが揃って揺れるのを黙って聞いていました。黙っているのはいつものことですが、こうもじっと、自ら周りに耳を向けたのははじめてのことです。生まれて長いこと生きてきたというのに、森の声を聞くのははじめてだったのです。
意味のない音の重なりでしたが、私をすっぽりと包みこむ感じでした。ざあざあ、さわさわ、鳴るたびに上掛けが増えるようでした。
私が動かないのを知り、ここらに罠があると気づいたからでしょう。他のものたちは私の傍どころか、樫の木からこっちに来ません。静々静々、来ては去っていくのみです。仕方ないとはいえ悲しいことです。草の先が私を労るように撫でました。気のせいです。
そんなことで動くのを止して、いくらか時が過ぎました。頂にいた月は四つか五つほど傾いて、星を連れて地の中に去っていこうとしています。
朝が、太陽が近づいてくるのを、私は尾から感じました。噛まれ傷ついた尾が、じりじりじんじん疼くのに加えて、ざわざわ落ち着かなくなったのです。
それが強くなっていくにつれ、私は恐ろしさを思い出しました。狩人が来る恐ろしさだけではありません。別の恐ろしさもです。
もしも、もし、狩人が私を捕らえに来なかったら。このままトラバサミに食われたまま、夜が明けてしまったら。ああなんと恐ろしいことでしょう。消えてしまいます。魂の髄まで燃やされて、燃えさしだけが残るのです。そうなるともう、私はもうどうしようもなくなるのです。なんということ。
狩人の手も恐ろしいですが、朝陽も恐ろしい。もっと恐ろしい。まさかまさか、狩人は、来ないのでしょうか?
私は暴れ始めました。尾に歯が食い込んで痛い、痛い、痛いこと。それでももがかずにはいられませんでした。太陽を見て目が灼けることを思うとたまりませんでした。魂までなくなってしまうことを思うとたまりませんでした。
暴れてどれほどの時間が経ったでしょう。黙っていた時間と同じぐらいか、もっと短いか、長いか。分かりません。なにせそんなことに構ってられるほどの余裕など持ち合わせがありませんでしたので。
ただ、確かに結構な時間が過ぎて、その頃です。私がもがくのとは別に草揺れの音がするのです。最初は気づきませんでしたが、それは段々と私に近づいてくるのでした。
はたと気づいて、私は再び凍りつきました。がさがさ、明確な意思を持って近づいてくるのは同胞ではありえません。今、獣のいないこの森で、それは人以外にありえないのです。そして恐らくは狩人なのです。
ああ、ああ、どうにか外れないものでしょうか! 生まれてこの方ないというぐらいに暴れているのに、トラバサミもそれを地に繋ぐ鎖もびくともしないのです。よほど力のある狩人が仕掛けたのでしょう。私にとってこれほどの不幸はありません。
いえ、かかってしまったこと自体がなによりの不幸でした。かかったが最後外れない罠に、かかってしまう私が愚かだったのでしょう。
外れないトラバサミを相手にもがき続ける無様な私のいるところに、音は近づいてきました。がさりと草の囲いが開き、火の灯りがさっと辺りに広がります。狩人と太陽と、恐ろしいもの全てがいっぺんに訪れたようで、周りが真っ白に染まったようでした。私の体はまるで動かなくなってしまいました。
「星が転がっているのかと思ったが」
声が言いました。思ったとおり若い人の声で、なんとも柔らかな響きを持っていました。私の感じる恐ろしさには不釣合いですが、そういえば狩人の多くは詩に長けるのでした。
「目の色が一つずつ違うのだね。……おい、死んでしまったのかい?」
宵闇に、火がゆらゆらします。ただの火では私は燃えないはずですが、狩人のこと、どんな魔法の仕掛けが用意されているとも知れません。私はこれから、このトラバサミより痛くて惨い目に遭わされるのでしょう。
「死んでいたら困るのでしょうか」
私は呟きました。人の言葉を話すことなど久々です。どれほど前が最後だったか思い出せません。相手が誰であったかもまた然りです。私は喋っているときよりも黙っているときの方が遥かに長いものなのです。
火を手にして、色々なところがきらきらしている人は私をとっくり見つめていました。恐ろしいです。やるのなら一思いに、さっさとやってほしいものなのですが。勿論いっそのこと、という話ですが。
怖がらせて何かを得るつもりなのでしょうか。たとえば、恐ろしさに零れる涙とか? 狩人たちの間では、私のようなものの涙はとても意味を持つものだと教えられたことがあります。ですが私たちはそれ以上に知っているのです。そんなものはないのです。私たちは悲しみこそすれ、恐れこそすれ、目玉から何か出したりしないのです。ですから、そんな無駄なことはせずに血抜きをしていただくのが一番です。
「驚いた。本当に喋るのだな」
人が言います。私たちが人の言葉を使うのを目の当たりにしたのははじめてなのでしょうか。変な話です。よほど強い罠を仕掛けたくせに、生まれたての狩人なのでしょうか。
ああ、そうしたら、今からしくじってくれないでしょうか。うっかり手順を間違えてトラバサミを外したりしてくれないでしょうか。そうすれば私はさっと夜の中に逃げ出しますのに。
「お前、蜥蜴なのに尾を切って逃げないのかい」
狩人は跪き、私の横で言いました。長い月色の髪が目の前に来ます。ついでに濃い血肉の臭いがしました。このように生きた人に近づいたのは初めてです。
それにしても、あまりに馬鹿馬鹿しい問いかけです。赤ん坊狩人にもほどがあります。私はどうしてこんな人に捕まってしまったのでしょうか。ありえません。
「とんでもない。尾っぽより大事なものがありましょうか」
はて、この黒蜥蜴、あまりの馬鹿馬鹿しさのせいか、それとも恐ろしさのせいか、ちょっと饒舌になりました。此処で捕らえられてずたずた引き裂かれるのならば、この際だから喋っておこうと何かで考えたのかもしれません。こうも口を動かすのは何か変な感じです。
「そうなのかい?」
「尾を落とす蜥蜴は一緒に色んなものを捨てているのです」
「でも命は拾っているね。そうだろう? お前の尾は命より大事なのかな」
そう言われてはどうしたらよいのでしょう。確かに私はいま、この大切な尾のために命を狩人の前に差し出しているのです。先ほどまでは、魂までもをトラバサミにがっちり挟まれていたのです。しかししかし、尾を切ってしまったらどうなることでしょう。そんな不恰好な黒蜥蜴、私は認めません。上手く歩けなくなってしまいますし、上手く生きられなくもなってしまいます。
ああ、分かりました。きっとこの狩人は無知なふりをして私を嘲笑っているのです。捕まって逃げ出せず震えるだけの私を馬鹿にしているのです。
「どちらも大事ですとも。ですが、それならどちらも助けてくださるのですか」
ふん、礼儀を知らない狩人め。私たちを捕らえて魔法の材料にしてしまうどころか、私たちを下に見て嘲るなど、まったく失礼な話です。私の体だけではなく魂も損なおうというのでしょうか。腹立たしいことといったら。
前触れもなく狩人の手が私に伸びました。私の皮の下あたりがざわっと震えます。
忌々しい、恐ろしい。せめて一噛みして痛がらせてやりましょう。私だって噛めるのですから。毒など持っていればもっとよかったのですが。
私は、えいや、と大口を開けました。白い手目掛けて首を伸ばします。
「助けてやるとも」
今かというとき、尾が引っ張られてとても痛いことになりました。
「こら、暴れるのではない。食い込んでいるのだから、大切な尾がちぎれてしまうかも知れないよ」
恐ろしいことを言いながら狩人がトラバサミを掴みます。なんてことを言うのでしょう。その食い込むトラバサミを仕掛けたのはそちらだと言いますのに、そんな白々と。ああ痛い、ちぎれるちぎれる。
カランと音がしました。私の尾を食い切ろうとしていた痛みがきれいに消え去り、私は草の上に落ちて転がりました。尾に比べまして短い手足でもがいて起き上がろうとして、尾が自由なことに気づきます。そうなれば起き上がるのは簡単でした。体が随分軽く感じられます。
起き上がると、狩人がやはり私を眺めていました。こういう顔はなんと言うのでしたっけ。
「傷は見えないが、痛くはないのかい? まったく不思議な体だ」
そう、笑っているのでした。笑顔というやつです。
これは、赤ん坊狩人、素人にしてもおかしいことです。もしかしてこの人は狩人ではないのでしょうか。
「痛くはないのです。トラバサミが外れたので、私はもう痛くはないのです」
「そうかそれはよかった」
大変よいのです。素晴らしく素敵なことです。先程までのあの恐ろしさ、冷たい暗さが嘘のように、森が美しく見えます。相変わらず誰もこちらに近づいてはきませんが、そんなことは悲しくもなくなりました。何故っていつものことですから。
いつもどおりなのです。目の前に狩人もどきがいること以外はいつもどおりに戻ったのです。
「あなた、狩人ではないのですか」
私は笑う人に問いかけました。トラバサミが外れたのですからさっと逃げてしまうのが一番よいのですが、そうはいきません。私にとって、狩人かそうでないかは、とても大切なことでした。
狩人が気まぐれかしくじりでトラバサミを外したのでしたら、それはよいのです。私はさっさと逃げて狩人の前から消えるのです。ですが相手がまったく違う、たとえば、心清らかな善人だとしたら、そうはいきません。
危なかったら逃げればよいのです。今の私に、それはとても簡単なことなのですから。
「狩人というのは……もしかして魔法使いのことかい? それなら違うよ。私がどうしても夜のうちにこの森を通りたいと言ったら火をくれたが、私自身は魔法使いではない。お前のところに来たのは、そうだな、困る者を助けるのが私のような騎士の使命だからだよ」
狩人は狩人になる前に騎士をやっているとよく聞きますが、どうやら目の前の人は狩人にはなっていないようです。このままならなければよいのです。善人は妖精にも好かれますが、わざわざ妖精の国に出向いて、ましてや帰ってくることなどありません。
「ではあなたは、私を助けてくださった騎士様というわけですね」
「そうなるな」
なんという僥倖でしょう! 狩人が来る前に騎士がやってきて私を解放してくださったのです。ああ、本当に嬉しいことです。本当に。
さて、喜んでばかりもいられません。それならば、私は決まりに従って恩人に礼をしなくてはなりません。
「優しい騎士様、私の目玉をひとつ差し上げましょう」
私は右の目を取り出しながら恩人に言いました。きらきら光る、自慢の金の目です。同胞たちでもこうも綺麗なものを持っている蜥蜴はそうおりません。
「けれどお前、見えなくなって困りやしないかね」
トラバサミを外してくださった手にそれを渡すと、恩人は驚いて訪ねました。
「なに、困ることはないのです。もう片方がありますので。どうぞ受け取ってくださいませ。ろくに礼も出来ないとなっては黒蜥蜴の恥です」
「そうかい? それじゃあ、大切にするよ」
火に輝く私の目を手に、恩人の目も輝いて見えました。
ふむ、こうして改めて見る暇を与えられますと、さすがは心が清らかなだけあって綺麗な色顔をしております。妖精の女王に気に入られてしまわぬよう泥など塗っておいてほしいものです。恩人が狩人になるというのはそれはもう困った事態ですから。
けれどもこのご様子ですともう他の王の気に入りのご様子。無駄な心配でしょうか。
「聞いてくださいませ。私、スーラウォステラトラテスと申します。蜥蜴の中でも一等長い名前ですが、どうぞ心にお留めください」
あなたがトラバサミに噛まれるようなことがあれば、私きっと助けに参りますので。私が大真面目に言うと、美しい恩人は「けして忘れない」と、はっきりと誓いのように口にしました。
私とて無論、忘れたりは致しません。