第五十七話 ビッグデータ
ようやく更新しました。今回は以外な展開と以外な人の数奇が描かれるかと思います。事態がヒートアップしていく最中ですが、次回・・・主人公達に今回最大の敵が襲い掛かるかもしれません。では、GIOGAME第五十七話ビッグデータを投稿します。今月中に更新出来るといいなぁ~~。
第五十七話 ビッグデータ
ITE。
その大元となる理論は【マックスウェルの悪魔】と言う。
一つの箱に仕切りがあり、二つに分かれた部屋の片方に運動量の大きい粒子だけを仕切りを開けて入れる。
それが架空の悪魔の役割である。
一見して単純そうな話であるが、マックウェルの悪魔は原則としてフィルターの役割を果たす時、エネルギーを0でこの動作を行う。
この空想上の悪魔がいる時、見かけ上は片方の部屋に均一だった空間からエネルギーを抽出する事が出来る。
無論、この悪魔を実際に作り出す事は出来ない。
仕切りを上げ下げするだけだとしても悪魔はエネルギーを使わずには動作を行えないからだ。
しかし、科学とは進歩するもので、それに近い動きをする機構を生み出した。
スイッチのオンとオフだけで粒子自体に運動エネルギーを獲得させるという技術が生まれたのだ。
勿論、エネルギーを獲得させるには幾つかのハードルがあった。
粒子の状態がエネルギーを獲得し易い状態になったかをまずは観測しなければならない。
そうして同時にその時点でスイッチをオンオフするという精密な制御が必要となった。
この時点でマックウェルの悪魔のようなエネルギー0での動作ではなくなる。
更に言えば、観測して制御信号によるオンオフを人の手で行う以上、どうしても生み出せる力が入力以上には生み出せなかった。
しかし、これは観測した情報を制御信号に変換してオンオフを繰り返す事でエネルギーを生み出せるという事でもある。
観測情報=制御情報=エネルギーとなるのだ。
これらの機構を最小単位、最大効率化したものが【ITEND】。
情報熱機関内蔵型極小装置(インフォメーション・サーマル・エンジン・ナノ・デバイス)である。
要はナノマシン。
SFに出てくる超科学の産物だ。
ただ、それが出来たからと言って実用化には多くの困難が伴った。
まず、NDの製造が非常にデリケート且つ複雑であるせいで大量生産するのが事実上不可能な事。
ミクロ単位の動作でも動かす為には莫大な制御情報が必要である事。
更に動作しても一定の数が無ければ、現実的な用途には向かない事。
そして、一番問題だったのは動作には安定した環境が無ければならないという事だった。
非常に繊細で壊れ易い為、屋外での使用はNDの寿命を極端に縮ませる。
十秒でも安定動作させれば恐ろしく長持ちした、と言えるだろう。
そうしてNDの現実的な使用用途はナノ単位での超高精度な作業が要求される部品や回路などの製造に少なからず限定される結果となった。
それでも世界中で一番使用されている用途が防弾対策【ND‐P】(ナノデバイスプロテクション)であるという現実は悲劇と嘆くべきか喜劇と嗤うべきか。
未だ戦闘用のND兵器というものはソレ以外では比較的環境が安定している人体内部へ作用させるものに限られる。
それも治療用から派生した技術の一つであり、何処か一国だけが技術的に抜きん出ているわけではない。
故にNDを外部環境に適応させ、更に長期間連続運用を可能にするというのは一種、各国の技術者にとっては夢のように語られている。
ただ、彼ら技術者もNDの基礎技術の進展があれば、いつかSFに出てくるようなNDが実現される事は分かっていて、その点で開発現場の者達にとってのNDという製品はそういう未来に展望が持てる製品でもあった。
「博士以外にこんな事が可能だなんて・・・信じられない」
閉ざされた廃工場。
近くを通る地下の配管に自身の一部を侵入させ、回線にこっそりただ乗りしていたソレが観測結果を元に目撃者を消そうとして―――殆どの機能を破壊された。
夕闇に世界が飲み込まれたのはついさっきの事。
久重とソラは不審な通信を傍受し、その追跡を行っていたわけだが、大本に驚かざるを得なかった。
まるで工業地帯から忘れ去られているかのような一角。
知らぬ間に出来てしまった不知の領域。
公道から小さな路地に入り、誰も気付かないような曲りくねった小道を抜けると其処はあった。
もはや機械も取り去られ、伽藍堂と化して幾星霜。
買い手も付かず、更地にするには金が掛かる廃工場。
そんな放置されていた物件の中心にソレはいた。
「これでこの地域一体の超電導ケーブルに損傷は無いと思う」
廃工場に二人分の足音が響く。
「近頃の工業地帯は電力系統や光ファイバーやらインフラをでかい集合管一つに絞ってるからな。一安心ってとこか」
中央に溜まる黒い砂。
堆積したNDの成れの果てに久重がホッと安堵の息を吐く。
薄暗い世界には破けたトタンの屋根から月明かりが滲んだ。
「見つけた時は連中のかと思ってたけど、やっぱり解析結果は間違いじゃなかった。恒常活動残渣が別物だったから、もしかしてとは思ってたけど」
繁々とNDの山に近付き、解析を開始したソラが瞳に映る情報に複雑な表情となる。
「やっぱり、あいつらとは違うのか?」
「うん。私達が使ってるような恒常活動用のNDは基本的に制御情報が莫大で普通は大容量の通信を確保して量子コンピューターからのバックアップで動いてるの。ND‐Pなんかは単純な制御中枢ユニットが内臓されてて、最低限の稼動と反復動作を繰り返すのが基本だから、作動に問題はないんだけど。単独で複雑な制御情報を演算して賄う独立性の高いコアは今のところ博士が作ったDシリーズ、オリジナルロットって呼ばれてる七つしかない。それだって私やひさしげが使ってるD1に比べたら天地の差があるわ。それを考えたら・・・」
「そいつは明らかに不自然なわけか」
「このND群体はたぶん博士の作品に近い性能がある。コアだけで複雑な計算が可能なスタンドアローンタイプなんて博士以外に作れるとは思ってなかった・・・」
厳しい視線でソラが黒い砂を手で掬い上げる。
「そういうのを一瞬で無効化するのはもっと凄くないか?」
久重が思わずそう言うとソラが僅か頬を掻いた。
「相手のNDに擬態するダミー機能が解禁されたから」
「まさか新しいプログラムか?」
「その、さっきビックリしてたのはいきなりプログラムが出てきたからなの」
「ああ、それで最初どうするか悩んでたのにいきなり『どうにかなるかもしれない』って言い出したのか」
「NO.04“Ghost Farce”同レベルの対ND戦に向けて開発された高度な欺瞞プログラムみたい」
「幽霊の茶番か。見えない幽霊(ND)・・・ゾッとしないな」
ボソリと呟いた久重が降り積もった黒い砂を見つめる。
「間違いない。ハローワークに不正アクセスしてたのはこのND達。それと鹵獲したコアの解析に成功。情報を表示するから目を開けてて」
「ああ」
久重の眼球へ薄く集ったNDが情報を表示し始める。
流れていくデータの本流は多かったが、現在進行形で解析されているらしく、幾つかの情報が整理・提示された。
「こいつは・・・サイトのログか?」
「これたぶん解析したデータだと思う。そのサイトにアクセスした人間を割り出して調べてた痕跡があるわ。捜査資料にある個人のIPアドレスとかから考えると殺された人達は皆このサイトにアクセスした事があるみたい」
「繋いだら殺されるサイトか。オカルトの類は嫌いなんだが、正体は一体何なんだ?」
「消えてる情報が多くてそこまでは。ただ『FF』ってキーワードが一杯出てきてる」
「『FFを知っているか』って奴か?」
「うん。色んな検索でFFの意味を調べてみたけど、有名なのはこういうのばっかり」
ひょいとFFの意味が久重の視界に投影された。
「ま、まぁ、日本はゲーム大国で車大国だからな」
検索結果にちょっと日本人の気質が見て取れて、久重が曖昧に笑った。
「それとスラングなんかも調べてみたけど、一番有名なのはゲームで二番目に有名なのは伝説のハッカーだったから、何とも・・・」
「そういや、そういう奴もいたらしいな。今でも昔の名残かFFの名前を使う奴は多いって聞く。あのライオン似なオヤジもハンドルネームはFFだからな」
「え?」
「何でも昔右に染まった事のある連中は皆FFで通してるらしいぞ。仲間内でややこしいからFFに番号を振ってチャットとか使う奴もいるとか何とか」
「・・・正体不明の伝説・・・本人を探していた?」
ブツブツと一人で思考作業に入ったソラが視線を―――辺りに忙しなく動かした。
「ひさしげ。離れないで」
ゆらりと秋の風が工場に入り込んだかと青年が思った瞬間。
爆竹でも鳴らしたような破裂音が鳴り響いた。
そして、月光に晒された地面の上に黒い靄のようなものが浮かび上がる。
「コレのお仲間か?!」
久重が黒い砂を掌から零した。
「たぶん、同タイプ。どれどけの量がいるのか知らないけど、対ND用の防衛網に沢山反応がある」
「対処方法はあるか?」
「学習されたみたい。密集密度が高過ぎるの。擬態して一撃で全部破壊するのは・・・」
ソラが首を横に振る。
二人の目の前で影が加速度的に黒く大きく濃密になっていく。
「周辺に分散されてる状態なら逃げ切れないかもしれないけど、基本性能はこっちが上だから、凝集したNDの観測域を離脱出来れば振り切れる!」
「じゃ、とっとと逃げるか」
二人が頷き合う。
「こっち!!」
先導するソラに久重が従った。
工場の横手にある扉から外に出た途端に二人の視界が黒く染まる。
だが、惑わされず元来た道を足音が駆けていく。
久重とソラの瞳に構築されたNDによる情報投影環境は周辺を覆う敵性NDの中でも的確な路を映像として映し出していた。
「凄い数!? こんな量のND連中だって簡単には動かせないのに!?」
工場周辺を覆うように漂う黒い霧。
正体は全てがND。
その量からして時価に直せば数兆円を軽く越える代物。
ソラですら殆ど見た事のない莫大な量のNDの中を二人は出来うる限りの速度で急いだ。
約十秒の疾走で工場付近を抜けたものの、まるで生き物のように黒い霧は逃走者の背中を追い始める。
巨大な霧が蠢く姿は悪夢に近い。
公道に出た瞬間、ソラは背後から押し寄せる多勢の無勢のNDの大群から逃れる為、すぐ脇の月決め駐車場から車を一台拝借した。
NDが即座に駆動中枢に侵入、簡易の指紋認証を破壊してエンジンを掛け、駐車場内部の自動操作プログラムを起動する。
唸りを上げたのは黒のセダン。
人や動物に対して速度を落とす対物センサーは無効化され、スピーカーから流されるエンジン音がカットされた。
「乗って!!」
二人の前に走り出た途端にロックが解除された車は扉が再び閉められたと同時に超絶的な加速を見せる。
黒い霧が加速中の車に接触しようと魔手を伸ばすものの後一歩で捕まえ損ねた。
「運転お願い。今、ただ加速させてるだけなの」
「おい!? ちょッ!?」
思わずハンドルを握った青年が冷や汗を書きつつアクセルに足を乗せる。
「今、ハンドルの操作を渡すから」
「あ、ああ」
僅かにスピードが緩んでハンドル操作が利くようになって久重がホッと息を吐く。
「どうやら追ってこないみたいだな」
「そうみたい。良かった・・・」
ソラですら安堵の息を吐いた事にさっきの状況の不味さを青年はヒシヒシと感じた。
流れていく街並み。
公道を制限速度ギリギリで走行する車内で何とか助かったと二人は安堵した。
「アレが通り魔事件に絡んでるとして。背後関係を洗う必要性があるな」
「NDのサンプルは取ったからアズの贔屓にしてる機関に送れば解析してくれると思う」
「何か随分とオレのいない間に仲良くなったんじゃないか?」
「女の子には秘密が沢山あるものなのよ。ひさしげ」
命の危険が去った反動からか。
僅かに和やかな気配で会話は進む。
背後の少女が逞しくなっている事に一抹の寂しさを感じた青年はその内心から目を逸らし、そうかといつものように微笑んだ。
「それじゃあ、虎に連絡取るか」
「危ないと思った時にちゃんと退避させたから大丈夫」
その手際の良さにいつの間に連絡したのだろうかと脱帽した青年はバックミラーで視線を後部座席に向ける。
「それで尾行してた奴に関しては何か分かったか?」
「うん。小型の偵察ラジコンとか望遠レンズ付きの双眼鏡とかで監視してただけみたい。たぶん何が起こったか分かってないと思う。さっき逃げる時にこの車の制御システムにマーキングしようとしてたけど、気付かれたと思ったからか諦めて追って来な―――ひさしげ!!? 後ろ!!!」
「何だ!?」
二人の乗るセダンが膨大なヘッドライトに照らされ、染め上げられた。
「!?」
突如として背後車両が背後から追突しようと猛然と加速する。
「何だ!?」
ハンドルが切られた。
一瞬でその車線から移動したセダンの横を青のワゴンが擦り抜けた。
追い抜いた刹那。
スリップした車両が前方の車両を巻き込んで爆発した。
「クソッッ?!!!」
二人の乗ったセダンは爆発するワゴンの火の粉を浴びながらも何とか切り抜ける。
後続車両が複数台巻き込まれ、爆発したワゴンが弾け飛ぶ。
「一体何なんだッッッ!?」
「久重!!! 今映すわ!!!」
背後の映像が眼球上のNDから薄らと網膜に送られた。
「オイオイ!? 冗談だろ!!?」
久重が見たのはまるで濃霧のような黒いソレが車両付近から移動し、急ブレーキで止まっていた複数の車両に急速に流れ込んでいく様子だった。
「まだ追ってきてるってのか!?」
「たぶん、壊れてない中枢のサンプルを取ったから最優先に抹消するコードが走ってるんだと思う」
背後で遠ざかっていく光景に唇を噛んだソラが拳を握って震えた。
「そういう事か。自分の技術漏洩まで見逃すつもりはないとは抜け目ない製作者だな」
「迂闊だった・・・」
白くなる少女の拳。
それを慰めていられるような時間は無かった。
複数の車両がまるで内部の人間の操作を無視した動きで破壊された車両達の横をすり抜けて再び走り出す。
「クソッッ!?」
走り出した車内の内側からバンバンと掌がフロント硝子に跡を付けるもすぐ真っ黒に塗り潰され消えた。
内部の人間がどうなったのか久重には詳しく分からないが、少なくとも生きているとは思えない状況だった。
「あのNDを止める方法は無いのか!? ソラ!!」
「同レベルに近い性能のNDで対抗する場合、モノを言うのは量なの。今の手持ちじゃ・・・」
「とりあえず、人気の無い場所を迂回しながら逃げるぞ!! ナビ出来るか!?」
「今、検索結果を表示するから」
映像が矢印の付いた地図に切り替わる。
「久重」
「何だ!?」
人間では在り得ない加速で後続車達がセダンを追い上げ、バックミラーを確認しながら久重が必死にハンドルを操作し続ける。
「賭けになるかもしれないけど、アレを倒せるかもしれない」
「どうやる!!?」
車体が左に流れ、片輪が僅かに浮いた。
「戦争になるかもしれないからって理由で此処この時間もう閉まってるの。通行止めは看板と簡易のゲートだけ。ここ一帯でたぶん一番人がいない場所よ」
地図に点滅する場所が何処かを悟って久重はソラが何をしようとしているのか大まかに理解した。
「此処ならやれるのか?」
「映像の解析結果からしてあそこで襲ってきたND個体群の殆どが車両を乗っ取って追ってきてる。たぶん、これ以上の技術流出を防ぐ為に分裂待機してない。相手が博士くらいの技術を持ってるなら、ND同士の戦いが量の戦いだって理解してるはずだから。此処で一網打尽に出来れば、あのNDは全部叩ける!」
ソラが険しい顔でミラー越しに久重を見つめる。
理不尽な死と暴力に対する怒り。
そして、誰とも知らない他人を巻き込んでしまった己への失望。
それらを全て飲み込んだ顔に青年は頷いた。
「了解だ!!」
セダンがリミッターの切られた加速を見せる。
一瞬のふらつきが生死を分ける。
そんな都市部では無謀な速度でモーターが回った。
最小の挙動でセダンが滑るように公道を走破していく。
追ってくるND群はタイムロスを避ける為、次々に前方の車両を追い抜いていた。
無論、追い抜かれたトラックや乗用車は急ブレーキのオンパレード。
遠方からは警察車両のパトランプの光とサイレンが迫る。
「行くぞ。ソラ」
「絶対、止めてみせる!!」
神奈川県川崎市と千葉県木更津市を結ぶ一本の線。
東京湾アクアライン。
数十年間、補修を加えながら使われている15.1キロメートルの道。
其処が決着の場所だった。
「ふぅ」
空調の切れた倉庫の中。
オズ・マーチャーはすっかり零の桁が失せた預金残高を見つめて溜息を吐いていた。
「・・・・・・」
人生に必要なものは然程多くない。
旨いアルコールに肴。
美しい女に多少の友人関係。
余生を過ごせる金に少々の娯楽。
生に執着するのに老若男女は関係ないが、必死さとは若者の特権であり、足掻きとは老人の得意技である。
なので、人生の半分以上が余生になりそうなオズは躍起になって遥か上の上司からの言葉を調べ、同時に何が裏にあるのかを突き止めようとしていた。
「・・・・・・」
その第一段階として電話において上司から告げられた仕事は律儀に遂行されつつある。
在日米軍内部のコネを使ったオズの重要機密奪取は成功したのだ。
沖縄配属の米軍関係者の何人かは銀行を通す事無く相応の金額を手に入れ、オズは見返りに輸送ヘリの荷物を少々得る。
順風満帆とは言わないまでも『事態』を進行させている連中を出し抜いてやった事に彼は少し満足していた。
「ようやくか」
輸送ヘリの航路は沖縄米軍が日本のドサクサに紛れて急に捻じ込んだ案件だった為、近くの米軍基地に物資の行き先が変更になったと偽って事なきを得た。
ヘリが消えたように見えたのは機体のコードを民間機のものに摩り替えたからだ。
ペーパーカンパニーを通して飛行計画を毎日のように提出し、実際に米軍が使う空路近くに小型機を複数飛ばさせていたのは伊達ではない。
沖縄米軍のど真ん中に機密に値する人物を置き続ける事はないだろうと予測したオズの勘は大当たりした。
無論、その輸送を時間の掛かる陸路や海路を使って行うわけもないという推測もである。
そして、ヘリはオズの息が掛かった当初とは違う米軍基地に着陸。
書類上は計器が故障した民間機として扱われ、公的には存在しない時間が発生する。
レーダーは誤魔化せなくても、レーダーに映る情報を報告する者は買収出来るのだ。
後に殆どの仕掛けはバレる事だろうが、相手は非公式の部署。
表立った罰を下せるわけもない。
とりあえず予定外の荷物に検査が入ったという理屈でソレは輸送ヘリから下ろされ、米軍基地から運び出される。
後は何の障りもなくオズが雇った元運送会社社員の手で中古のトラックに乗せられ、監視カメラの少ない公道へと侵入して、複数台の同じ型のトラックでバラバラに運送されて跡形も無く消え去る。
警察の照会が来る頃にはトラック自体が海外に売り出されて証拠も残らない。
事が露見するまで一日無いだろうが、関わった人間は米軍の中でもそれなりの地位に複数いる。
真相が発覚するのはかなり遅れるだろう。
更に言えば、非公式の部隊が横暴に振舞っているおかげで聞き取り調査もスムーズにはいかないはずだ。
何処の基地でも縄張りを荒らされればお冠にならない人間の方が少ない。
そういう連中にしてみれば、その【亡霊】は公的に存在しないわけだから上からの査問でもない限りは問い合わせも突っ撥ねられる。
米軍の再編が近頃進んでいたおかげで嘗てオズと共同で作戦に従事した事のある者や指揮をしていたものが日本に数人流れていたのは計画には大きかった。
嘗てのオズの身分を知っている者にしてみれば、「現在どういう地位にいるのか」を理解していなかったと言い訳も立つ。
米軍内部で睨まれているのは現実的には非公式部隊の方であって、彼らがどれだけ上を動かす権限があろうと無闇に関係者を罰せば、反感は残る。
組織はただ厳しければ統制が取れるものではない。
こうして限りなく血を流さないクリーンな手腕でオズは全財産を使い果たし、ソレを東京の倉庫で迎えていた。
「これでろくなもんじゃなかったら笑うしかないな」
黒い棺。
長方形の物体。
繋ぎ目が見当たらないソレに唯一付属していたリモコンがオズの手で取り出され、お手製なのが丸見えなゴテゴテした基盤が取り付けられる。
パチンと基板上の取っ手が弾かれると数秒で基盤に繋がれていた小さなランプが青になった。
ポチリととリモコンのボタンが押される。
そうは見えないが指紋認証機能により指定された人間以外が使えば、棺桶内部を破壊する仕掛けが備わっていたが、それももはや過去。
ガコンと内部から無造作に数本の螺子が飛び出し、パラパラと地面に落ちる。
棺桶に継ぎ目が浮かんで内部の生命維持装置を止めて密封を解いた。
オズは薄暗い倉庫の中、そっと危険が無いかを確認しながら継ぎ目に手を這わせて蓋を開く。
瞬間的に飛沫が上がった。
「!?」
棺内部に備えられていた酸素供給装置が自壊し、多量の酸素が内部の生理食塩水を溢れさせる。
内部機構が『中身』をゆっくりと持ち上げていく。
口元にチューブ付きのマスクをさせられていた永橋風御はパッチリと目を覚ますとゴボゴボと一言。
【朝なら朝食用意してくれません?】
勿論、口元が動いただけで開放した当の本人であるオズには一ミリも意思は伝わらなかった。
「お前がADETの王子か?」
【一応】
モゴモゴと間の抜けた声のようなものが倉庫に響き、オズはとりあえずタオルを取りに踵を返す。
彼は全裸の男に興奮するような類の特殊性癖は持ち合わせていなかった。
そうして元CIAの工作員と元裏社会の王子様が出会った頃。
アメリカの大地で二人の男が激突していた。
オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛―――。
街に畏怖が広がったのは老人と男の真上に二人の乱入者が飛び降りた瞬間だった。
世界を覆い尽す根源的な【入力】が三人の意識を揺さぶった。
都市の至る場所から流れたのは叫び声。
それも飛び切りの絶望を与えられた嘆き悲しむ声である。
それはラジオからテレビから公共の場のスピーカーから置きっぱなしの端末から街のあらゆる場所から流れた。
数にして数十万の絶声。
大気を振るわせる共鳴が一瞬の内に都市の内部にいる全ての者を虜とする。
意識を取られる刹那のタイムラグ。
それで全ては十分だった。
ビル壁面が大音量の音圧に耐え切れず破砕し、二人の襲撃者達は落下軌道を逸らされた。
老人は出端を挫かれ、意識を目の前の男から離した。
それが最初で最後の隙であり、最初で最後の勝機。
男は何の躊躇もなく老人に突撃した。
それを見た乱入者二人の脳裏に最終警告が響く。
(これはまさか!!? 【十三人】を甘く見ていた!?)
落下中、ターポーリンは警告の意味を即座に理解し、パイの手を引いて隣のビルへと手を伸ばした。
「!!!」
NDが瞬時に縄のように伸ばされ、ビル壁面に到達。
落下するのとは反対に二人の体を引き上げ、強化硝子を破ってオフィスに引きずり込む。
「緊急コードDW3発動!!!」
予め組み込まれていた緊急時コードの一つがNDに特定の動作を要求する。
二人の表皮に薄らとNDによって金属が塗布された。
「NDを全力稼動!!! 全て前方の【分解】に回して下さい!!!! 行きますよ!!!!!」
普段ならば在り得ないNDによる完全な単一動作設定をパイに行わせ、己の肉体に存在する全NDをほぼ筋肉の強化のみに費やして、ターポーリンが真横に跳んだ。
その加速度は人体が出せるものではない。
時速にして二百キロキロオーバー。
凡そ、人体の全てを粉々に出来る値がたった一足で実現された。
その最たる理由はターポーリンがND融合実験の被検体として、崩壊寸前の全身をNDによって繋げているだけに過ぎない欠陥品であった事が大きい。
肉体など無きが如し。
使い潰す気でNDによる全力稼動を発動したターポーリンは己の破滅を省みない代償にあらゆる使用制限を大幅に超える能力を叩き出す。
オフィスの床が大規模に陥没した。
そして、パイを抱えたターポーリンはビルを横に突き抜けた。
(ッッぐ!? 間に合うか!!?)
脳裏へ響く脚部からの衝撃に意識が明滅する。
膨大な建材は莫大な障壁。
それらが一瞬にして二人分の肉体に抜かれた。
パイのNDは全能力を前方に集中し、あらゆる構造材を分解、二人分の路を作っていく。
次々に壊れゆく二人のNDが猛烈な勢いで在庫を減らす。
戦闘開始を告げた時点で二人が肉体と周辺に所有していたNDの量は軽く千キロを超えていたが、たった三秒で約二割が消費された。
ビルを突き抜けた二人がそのまま放物線を描いて次のビルに突入する。
ターポーリンの足は一歩目でほぼ半分以上グチャグチャになっていた。
しかし、それに構わず、反対側の足が二歩目を踏み出す。
衝撃が周辺ビルの間を震わせた。
再びの加速。
「ッッッッッッ!!!!」
ターポーリンは全身を這う痛みを通り越した死をただ意志力のみで耐え切った。
脳が悲鳴を上げるのも構わず、鼻や目元から流れる血潮にも構わず、数百メートルが一瞬にして後ろへと置き去りにされていく。
「―――――ッ?!!」
パイは刹那刹那に崩壊していく己を抱いた男の状態に叫びすら上げられず。
ただ、己の役割を唇を噛み締めて全うした。
二人の体がビルを抜け、最短で公道へと出る。
直線となった路をターポーリンの三歩目が踏み抜く。
直後。
片足が完全に崩壊した。
ボンッと数メートルの血の染みが二人の遥か後方で咲く。
(こんな最後とは中々愉快です。せめて、アレを控えさせておくべきでしたか)
最後の一歩が迫る。
姿勢が僅かに崩れ、失速する寸前。
四歩目が再び、二人を加速する。
二人の駆け抜けた後にはただ全てが分解された砂と紅い染みだけが残っていた。
【最低限の距離は稼ぎました。こちらが崩壊する寸前に放します。一人でも行けますね?】
「?!!!」
瞳に映る己をこの路に引き込んだ男の言葉にパイは何を言いたいのか理解する。
四歩目を踏んだ足は完全に崩壊、五歩目の跳躍が迫る。
しかし、ターポーリンの両足はもう無い。
【後でこのファイルを参照しておいてください】
パイの瞳に一つのファイルの存在が示される。
ND情報を扱う彼らのサーバー内、工作員達の私用領域にそれは存在していた。
【次の行動指針があります。アレは貴方にならば、使いこなせるでしょう。私の願いは叶わないだろうが、貴方にならば、惜しくはない】
「――――ッッッ!!?」
【今、です!!!!】
ターポーリンの手が離された。
足が完全に消え去った男はそのまま慣性に引きずられて、道に摩り下ろされ―――無かった。
「―――?!!」
抱えられていたパイが己の足で加速を引き継ぎ、ターポーリンを逆に抱えて疾走する。
信じられない思いで男が絶句する様子に「ああ」と彼女は思った。
彼もまた自分と同じ「人間」なのだなと。
【何を―――】
【私が信じたのは貴方です。『連中』じゃありません】
たったそれだけの言葉を相手の視界に映して、パイは己に出来る限りの速度でその場を急いだ。
そうして二人の乱入者が彼【國導仁】の射程圏外へと出た頃。
抱き締めるように押し倒された老人【貴荻一茶】は顔を顰めていた。
「この細胞が・・・崩れる?・・・まさか」
「はは、先生に克つ為に一番合理的な力が何か知らないわけないやないですか」
二人の周囲は相変わらずスピーカーからの叫びで満ちている。
しかし、それよりも恐ろしい力が貴荻の肉体をDNAレベルで破壊させていた。
「お得意の遺伝子が抗えない唯一の破壊。受け取って下さい」
「それで包囲半径を広げさせたのか。よく考えたな」
いつの間にか。
「おや? どうやら来たようで」
二人の周辺には人型に見える幾つかの獣のような存在が現われていた。
それらは一体一体がチグハグだった。
昆虫の目にライオンの牙。
トンボの羽にチーターの足。
蟻の頭部に鳥の翼。
巨大な鋏に人間の体。
動物だけではない。
肉体の一部に植物のような構造を持つ者すら混ざっている。
「相変わらず趣味悪いですわ。先生」
共通するのは嘗て人間であった頃の名残である衣服が申し訳程度、体の上に残っている事だろうか。
生徒の愚痴に老人が鼻を鳴らす。
「実戦投入したはいいが、どうやら失敗作が多かったらしい」
キマイラ。
良識を疑うような混合種。
どのようなDNA構造をしているのか。
まるで想像も付かない生物達。
その大本が何であるか知っている仁は己の周りに増えていく影の多種多様な肉体構造に悪趣味だと思いながらも感嘆する。
「特撮モノ好きにはたまらんかもしれませんね」
あらゆる生物の構造を司るDNA。
それを神掛かった手腕で弄繰り回す老人の技術は殆ど人間に代わる次世代の生命を生み出せるレベルであり、ある種・・・創造主という単語すら当て嵌まる。
「さて、最後に聞いておきたい。【本人】は何処だ?」
「さぁ?」
「此処で敗北するとは思わなかったが、次はこう上手くいかんと伝えておけ。【機械人形】」
「次があるかどうか。そやないですか?」
「一つ教えておこう。此処で【この個体】が滅ぼうと、もはや【女神】は止まらん」
「もう完成してるだろうとは本人も思うてましたよ。だからこそ、こうして対抗策も揃えてきた」
ドスドスとキマイラ達の凶器が仁の体に突き刺さる。
しかし、その体からは血潮の一滴も出ない。
「これだけの小型化が物理の単位を落とした者に出来るとは思わん。あの【破壊魔】の作品かね」
「ええ、この間遊びに行ったらけったいなもん作ってましたわ」
「・・・本人と見紛うわけか」
苦々しい顔で老人が唇の端を曲げた。
「こっちのように【自動】じゃなく【操作】なのが敗因でしたね。先生」
「【手動】に勝るものなど無い。そう本人に伝えておけ」
カチンと仁の形をしたジェミニロイドの内部から軽い音がする。
超小型のカプセル内。
濃縮されたウラン235が周辺の火薬によって爆縮され、全てのエネルギーを開放した。
―――――――――。
核爆弾と中性子爆弾の違いはその燃料を反応させ切るかどうかにある。
その点で仁の形をしたジェミニロイドの内部機構は核物質の殆どを反応させ中性子として放出するタイプの中性子爆弾そのものだった。
核爆発。
しかし、その規模は限りなく小さい。
戦略核にすら劣る極小規模の爆裂は周辺ビルを薙ぎ倒す事すらない。
ただ、同時に放出された中性子は狭い圏域にいる全ての生物に対して容赦なくDNA構造の破壊と逃れられない死をばら撒いた。
二人の男の周辺にいた化け物達は爆発に巻き込まれ崩壊。
そして、次々に爆心地へと向っていた後続の化け物は細胞を破壊されながら最終的に到達する事なくただの蛋白質の泥と化して命を終えた。
日本の東京が攻撃されたと同時刻。
アメリカは建国以来の大混乱へと陥っていく。
戦術核でも戦略核でもない。
それは言わば【個人核】と呼べる小規模核。
核弾頭の小型化を推し進めた末に生まれた異端の技術はそうして日の目を見た。
新たな技術が世界に持ち込まれ、森羅万象皆そうであるように旧きものは駆逐されていく。
科学の行き付く先。
滅びの炎もまた技術の進歩によって多用される時代がやって来ようとしていた。
【布深邸朱憐私室。午後三時十二分】
ぼろいアパートに程近い豪邸の片隅で外国産のヲタク少女カウルは目をキラキラさせていた。
「これを」
「ありがとうございます!」
パァッと幼い少女の顔が輝く。
確実に外字久重の借りている部屋の数倍はあるだろう朱憐の私室での事だった。
「コレ知ってます!」
学習用に小型端末では寂しいと朱憐は自身のノートPCを机の上に出してきていた。
「日本の大手が出したノート最速のマシンです!!」
日本でも稀少な最新のハイエンドモデルを前にカウルの顔は甘く解け崩れる寸前となっている。
「最新型のGPU搭載!! メモリは143GB!! 容量3000TBの新世代型!! しかも、少数生産の水冷式で、光量子通信網、ジオネットに高速接続出来ると聞きました!! 単独で衛星通信も可能な上、確か連続稼動時間は従来の物とは違って驚きの84時間とか!!!!」
「く、詳しいんですね。カウルさん」
かなり驚いた様子で朱憐が目をパチパチさせた。
「はい! 詩亜ちゃんが【コレで大企業を空売りするとゾクゾクするのよね】って愛用してるので!!」
その興奮した様子に現役女子高生はクスリと微笑む。
「機械とか苦手で持て余していたので。喜んでくれたなら嬉しいですわ」
「あ・・・う、煩くしてごめんなさい・・・」
自分の熱の入れようが恥ずかしくなってカウルが小声になる。
「いえ、お茶を入れてきます」
「あ・・・さ、触っても・・・いいですか?」
おずおず聞くカウルに朱憐が頷く。
「ええ。私物ですから。実は家の者に選んでもらったんですけど、使い方あまり分からなくて・・・もし気に入ったなら久重様のお家に持って帰ってもいいですけど?」
「い、いえ!!? そんな!!? こ、こんな良いマシン貰ったりしたら嬉しくて死んじゃいます?!!」
慌てふためくカウルの顔に朱憐はそっと微笑んで席を立った。
「今日は久重様達は徹夜になるかもしれないとの事ですから、お泊りして行ってください。明日の朝になったら久重様のアパートに送り届けますわ」
「あ、はい! 分かりました!!」
「それと・・・元気な返事ばかりしていては疲れてしまいますわ。遠慮しないでゆったりしてくれた方が私も嬉しいですから、そんなに気を張らないで下さい。カウルさん」
「は、はぃ」
更に紅くなったカウルが蚊の泣くような声でコクンと頷いた。
お茶を入れに朱憐が部屋を後にする。
(はぅ・・・)
触りたくて仕方ない様子でうずうずしたカウルがちょっと躊躇いがちにPCを起動した。
(ちょ、ちょっとだけ・・・)
嘗て友達のいなかったカウルにとってPCは様々な事を知る為のツールとして最適なものだった。
家からの脱出計画を立てるのに色々と使っていた経緯からかなり詳しくなったのだが、何よりもカウルにとって嬉しかったのは生の人間が時に悩みにアドバイスしてくれる場がPCの先に有った事だ。
友達とはいかないまでも知り合いはネット上にいる。
「皆・・・元気だといいな・・・」
逃げ出してからというもの、一度もネットに接続していなかった反動か。
我慢出来ずカウルはちょっとだけ己のメールサイトにアクセスした。
接続した先には幾つかのメールが来ていたが、殆どは迷惑メール。
ただ、その中に一つだけ知った名前が有った。
「あ、【FF】さん」
時代遅れだが、今もユーザーが少なくないマウスがクリックされる。
メールの内容はまたサイトに来て話をしようというものだった。
(あ・・・色々お世話になったのに何も報告してなかったから・・・ごめんなさい・・・)
FF。
その名はありふれたハンドルネームだったが、カウルにとっては家出の際に必要な事を教えてくれた大切な知り合いだった。
(行ってみよう。ありがとうって報告しなきゃ)
自分のPCに足跡を残さないよう大切なURLは全て暗記で覚えた為、そのサイトに辿り着くのは容易だった。
本来なら幾つかのリンクを踏まなければ出てこないようになっている秘匿会員制のコミュ。
大規模SNSとは違って人は少ないのだが、偶然辿り着いた事を切欠によく顔を出していたカウルにしてみれば、其処は唯一安心して何かを語れる場所でもあった。
【FFさん?】
久しぶりにパスワードを打ち込んでログインした場所は小さな黄昏時の教室。
中には一人だけ佇んでいた。
カウルのアバターは【詩亜ちゃん】と呼ばれるネット有志が製作し、無料配布している代物。
ダウンロード数だけで数千万人。
普遍的なスタンダードだ。
大して黄昏時の教室の中から外の世界を見ているのは・・・・・・植物の鉢植えだった。
【お、『らいおん』か?】
カウルのハンドルネームを呟いて、その植物が振り返る。
【メール見ました。今まで報告の一つもしに来なくてごめんなさい】
【まぁまぁ、そう謝る事なんてない。元気そうに顔出してくれて嬉しいわ】
【その、この間アドバイスを貰って、家出・・・成功しました】
【おー成功したんか? そりゃ良かった。これからも問題が有ったら相談しに来てや、と言いたいところなんやが・・・話がある・・・】
【お話?】
【ああ、此処閉める事になってん】
【え?】
【いや、そのな。此処に来てた連中、他のとこに移ってしもうたんや】
【移るって、SNSとかにですか?】
【まぁ、な。それで今の会員ウチらだけになっててな。さすがにずっと此処に詰めてられるわけでもないし、閉めようかなと。それでメールしたんや。言うの遅れてごめんな】
【あ、その、いえ、私の方こそ。そんな事になってたなんて知らなくて。それで皆さんは何処に?】
【あーうん。ごめんな。それは言えんのや】
【言えない?】
【ああ、皆のプライバシーやからな。それで此処を抜ける時、皆からメッセージを預かっとる。コレ】
画面には幾つかの名前と伝言があった。
元気でね。
今までありがとう。
家出してもちゃんと家に帰る方法考えておけよ。
いつかまた会いましょう。
家族を大事にしなさい。
他にも幾つかの伝言が浮かんで、カウルは少しだけ現実で震えた。
【FFさん・・・】
【済まんな。ロクなお別れもさせてやれんで】
【いえ、ありがとうございました】
【お礼言われるような事してへんわ】
【でも、私の為にずっと待っててくれたんですよね?】
【・・・さぁな】
【皆の伝言。確かに受け取りました】
【ああ】
【もう会えないと思うと寂しいですけど、皆がこんな風に思ってくれてたんだって知れて、良かったです】
【ホント。素直やなぁ。らいおんは】
【そう、ですか?】
【ああ、これでインド在住の美少女なんやから末恐っそろしいわ】
【ふぁ!? な、ななな、何で私が女の子だって!?】
【皆知っとったで? インド出身で女なのは。ただ、美少女なのは皆で想像しとっただけやけどな】
【そ、そうだったんですか・・・】
【ま、思い出話もそこそこにして。こほん】
【?】
【今までありがとうな。結構、楽しかったわ。もし、また会う事があれば・・・その時はまた下らない話に華でも咲かせようや】
【は、はい。あの・・・FFさん】
【何や?】
【FFさんは・・・何処にお引越しするんですか?】
【済まんな。教えられん】
【そう、ですか・・・】
【これから色々とやらなあかん事が立て続けに入っててなぁ。あ、そうや。お詫びにもならんかもしれんけど、コレ】
画面に出ていたメールサイトに新しいメールの着信。
【コレは?】
【それは魔法のプログラムや】
【魔法のプログラム?】
【オレが本当に目指してたもんを今出来る限り形にしてみたって、それだけのプログラムや。これから開発の時間が取れそうになくてな。放置するのも忍びないし、もし良かったら貰ってくれんか?】
【いいんですか? 大事なものなんじゃ】
【いいんや。埃を被って消えてくよりは誰かが使ってくれてた方が嬉しいしな】
【その、どういうプログラムなんですか?】
【それは使って見てからのお楽しみ。らいおんなら悪用もせんやろ】
【悪用?】
【はは、悪い悪いハッカーからの送りもんや。もし、怖かったら消しといてくれ】
【そんな!? FFさんは悪い人じゃありません!!】
【さて、どうやろな。はは】
【FFさん・・・】
【んじゃ、ログアウトしてくれるか? 今まで楽しかった。元気でな】
【・・・・・・はい。ありがとうございました】
そうして、カウルはログアウトした。
画面から教室が消える。
ウィンドウにはメールの閲覧画面だけ。
最新の件名は魔法のプログラム。
添付ファイルはかなりの量があるらしい。
カウルが小型の端末に添付ファイルを落とすと容量が圧迫されているとの表示が浮かんだ。
「お茶が入りましたわ。カウルさん?」
立ち上がっているPCの横で何処か沈んだ様子になっている少女に朱憐はどうしたのかと声を掛けようとしたが、少しだけ上を向いた横顔があまりにも大人びて見えたので、止めた。
「お茶。貰っていいですか?」
「え、ええ。どうぞ」
机に置かれたティーカップが持ち上げられ、そっとカウルの唇に付けられる。
「どうですか?」
「とっても良い香りがして、それでいて」
「?」
言葉を切ったのは何故かと首を傾げた朱憐にカウルがちょっとだけ顔を歪めて笑った。
「少し、苦いです」
「お砂糖とミルク入れます?」
ふるふると首は横に振られた。
「慣れるまで、このままで・・・」
ちょっとしたティータイム。
瞳が曇るのは湯気のせいだとの言い訳して、たった一滴の塩気が効いた紅茶は飲み干された。
少女は早熟なもので、一つ大人の階段を昇った。
とても、薫り高く。