第五十六話 君の戦場を思う
気づいている人もいるかと思いますが、ここ三話程、いつもの1.5倍程の文章量で投稿しています。重厚にする分、少し投稿が遅れる場合もあります。ご了承下さい。今回は少年と少女の話です。何処にいようと人間は己の戦場を戦わねばならないという普通の命題を取り上げてみました。では、GIOGAME第五十六話 君の戦場を思うを投稿します。
第五十六話 君の戦場を思う
霜山円子にとって兄は掛け代えのない人だった。
それなりの名家に生まれた兄妹。
しかし、有能かどうかで言えば、兄は妹に劣った。
人並みに大学を出たものの、就職先が無かった兄は両親にとって恥曝し。
コネで何処かに入れるような時代でもない。
家庭で孤立していく兄に円子以外話しかけはしなくなった。
それでも変わらず優しかった兄が就職しようとハローワークに通う姿は妹にとって誇らしく思えた。
小さな頃から守ってもらった。
虐められ暴力を振るわれそうになれば庇ってくれた。
手を握ってくれるのはいつも兄だった。
彼女の世界は兄を中心に回っていたと言っていい。
いつも傍にいてくれた兄が有能でない事なんてどうでもよかった。
能力の優劣が二人の関係に影響を及ぼすはずもなかった。
例え、自分に劣っているとしても。
家族として自分の為に怒ってくれる。
悪い事をしたら正してくれる。
嬉しければ共に笑ってくれる。
悲しかったら隣りにいてくれる。
そんな人を嫌いになれるはずが無い。
だから、初めて兄に弱音を吐かれた時、彼女は悟った。
今度は自分が支えなければと。
いつかの自分のように折れそうな兄を今度は自分が救うのだと。
そう告げられて、罰が悪そうに、あるいは何処か情けなさに唇を噛んで、それでも嬉しいと、ありがとうと涙を堪えて背を向けた兄に対して声を掛けようとした時だった。
何故、兄だったのか。
はらりと髪が舞って、振り向こうとした首があっけなく―――。
「霜山さん」
「な、何?」
「ボーっとしてない?」
「し、してるわけないわ!!」
「やっぱり、そろそろ帰った方が」
「いいって言ってるのよ!? 契約は対等。貴方の探し物にもちゃんと付き合うわ」
「予想外に警察が多くて帰るに帰れない深夜に言う台詞じゃないと思う」
「誰のせいよ!? 補導されそうになって警察が一杯うろついてる事に気付くとか。どう見ても事前の下調べが足りないんじゃない!!」
【そうよ。そうよ~~】
「パトロールがここまで増えてる事に気付かなかったのはこっちのミスだけど、詩亜。君は黙れ」
ARグラス越しに架空の少女が賛同してくれて、少し溜飲が下がった。
目下一番怪しい男。
切り裂き魔にして通り魔。
久木鋼。
何処か暗い少年が溜息を吐いた。
夕方近くまで真犯人を探す為の情報収集を行って、それから二人で別々に私服へと着替えて集合したのが七時過ぎ。
探し物に付き合うという条件で【EDGE】模倣犯を追う事になっていた彼は本当に何かを探しているのか疑わしい程、街をブラブラするだけだった。
立体駐車場の最上階に上ったかと思えば、 閉店間際の百貨店を歩き、ファーストフード店に入ったかと思えば、ゲーセンをウロウロする。
そんな何かを探しているとは到底思えない時間が苦痛になったのは歩いている彼に付いていくだけで何の成果も上がらなかったからだ。
【詩亜さん】と呼んでいる探し物プログラムが一緒に彼の探している何かが無いかと確認しているようだったものの、生憎と肝心の探しているものの内容を教えて貰っていない。
「それでこれから一体どうするの?」
古本屋が乱立する地域に足を伸ばしていたのだが、結局のところ警察のパトロールが多くて補導されずに帰れそうになかった。
終電が出るより先に家へ戻らなければ何とか時間を捻出し誤魔化してきた捜査自体水泡に帰す事にも成りかねない。
「端末のスペック上、詩亜に過剰な答えを要求すると回路が焼け付く可能性もあるし、ここはパトロールが去るのを待つのがいいんだけど」
テナントの入っていない小さなビル側面。
非常階段の踊り場で久木がひっそり呟く。
こっちの事なんてお構いなしなのは相変わらず。
それでも文句をあまり言わずにいるのは寒くなってきた深夜にコートを貸してくれたから。
少なくともそういう気遣いが出来る人間ではあるのだと知ったからだった。
「そう」
トレーナー姿の久木は寒くないのか壁に寄りかかって街並みを眺めていた。
その顔には憂いのようなものはない。
内心、少しだけ疑っている。
実は探し物なんて無くて、自分を誰にも見られずに殺す為、こんな場所にこんな時間になるまで留まっているのではないかと。
あのEDGEの凶器で今にも首を落とそうと向ってくるのではないかと。
心の何処かで臆病な自分が警察に見付かってもいいから帰るべきだと主張する。
「此処で僕に殺されるとか思ってる?」
街を見つめたまま訊かれた。
心臓が一瞬早鐘を打ったものの侮られる事がないよう慎重に言葉を選ぶ。
「そうなったら、数日後に貴方は警察から指名手配されてるわね」
「人を殺そうとして平然としてられるような太い神経はしてない」
「人の一部を削ぎ落として平然としていられる人間の言う事でもないでしょ?」
「あれは・・・」
「何よ?」
「何でもない」
「言いたい事があるならハッキリ言えばいいわ」
「言えない事なら山程ある身だから遠慮しておく」
「貴方は一体何なの?」
「ホモサピエンス」
「言い方を変えるわ。久木鋼、貴方は一体どうして私に協力する気になったの?」
沈黙は短かった。
「・・・何となく」
「そんなわけないじゃない!? 貴方はッッ」
「あんまり大声を上げると気付かれる」
声のトーンを渋々下げる。
「あ、あなたは・・・あそこで私を殺す事も出来た。私を放置する事だって出来たじゃない・・・」
「放置して欲しかった?」
「真面目に答えて」
その顔を睨む。
「霜山さんが好みだったから」
「は?」
「そう言ったら?」
思わず息が止まった。
一体何を言われたのか理解出来なかった。
「勿論、冗談だけど」
「あ、貴方ねぇ!!?」
「声」
「―――訊いた私が馬鹿だったわ」
「人の事情には首を突っ込まない。そういう約束だったはずだ」
「それは・・・」
「霜山さんに譲れないモノがあるように僕にもそういうのがある」
振り向いた顔はどうしてか悲しげだった。
「通り魔にも事情くらいあるって言いたいの?」
「誰にだって事情くらいあると思わない?」
「だからって誰も容易に犯罪には走らないでしょう」
「それは否定しない。でも、ああいう輩がどうなっても良心は痛まない」
「開き直るつもり?」
「僕には夢や希望がない。将来を考えれば、犯罪なんてしない」
「誰かに迷惑を掛けても平気ってわけ」
「誰かって誰?」
「今まで育ててくれた両親。貴方を支えてきた大勢の人達にだって迷惑が掛かる!!」
「霜山さん」
彼が振り返る。
「霜山さんは誰かを見捨てた事ある?」
「え・・・」
「僕は僕を見捨てた人間を見捨てた。そして、今まで支えてくれた人は誰もいなくなった」
「な、何を言って・・・」
私は狼狽した。
何処までも澄んだ笑顔。
その何処に向けたのかも分からない微笑みに背筋が凍る。
「幼稚園の保母だろうが学校の教師だろうが、それは仕事だ。僕が一番辛い時に僕を支えたのは親の愛でもなければ、家族の気遣いでもない」
「――――――」
「親の金で生きてきて、生かされてきて、生活をしてきた。今もそれは変わらない。けど、それだけで家族と言えるなら、誰も愛が醒めたなんて言わない」
彼が横に来て壁に背中を預ける。
「僕が死に掛けた時、現実を知った時、最後に残ったのは僕の意志だけだった。死にたくない。たったそれだけの思いだった。家族が支えてくれたわけじゃない」
「貴方、家庭に問題があるの?」
「死んだ方が感謝されるくらいには」
「そんなわけ!?」
「実の子供に死を願う親はいない?」
「そ、それは・・・」
「そういう幻想が好きならそれで構わない。けど、事実子供を殺す親なんて何処にでもいる」
「でも、それは一部を見て全体を言ってるのと同じ論理じゃない!?」
「その一部に当て嵌まる人間にとって、その理想は意味が無い」
反論出来なかった。
「今更のように自分を、周辺を変える努力なんてしようとは思わない。この調査が終われば通り魔だって再会する。けど、そんな社会の塵にだって譲れない事はある。発覚すれば家族が受ける偏見とか、学校が被る風評被害とか、今まで育ててくれた人達に対する裏切りとか。そんなものより優先する事が・・・」
「自分だけ、自分だけ不幸なつもり!? 悲劇に酔ってるだけの人間の譲れない事なんて高が知れてる!!」
「それは今更」
思わず睨み付けていた。
「僕に言える事があるとすれば、それは・・・これからどんな事が自分の身の上に起きるとしても後悔は欠片もない。誰がどれだけ迷惑を被ろうがそんなのは知った事じゃない。それだけだ」
上手く言い返せなかった。
ただ、一言。
「貴方・・・最低よ・・・」
やっとの思いで言って、視線を逸らす。
「警察の巡回も見えなくなったし、今から走れば終電には間に合うかも」
「そう。なら、今日は此処までにして帰らせてもらうから」
視線を合わせずに階段を下りていくと背中から声が掛かった。
「じゃあ、また明日」
そのまま、一言も返さず、駅の方向へと向った。
一人になった久木にARグラスから声が掛かる。
【よかったの?】
「何が?」
【手伝わせる気で巻き込んだんじゃないわけ?】
「十分手伝って貰った。ほら、気が紛れたし」
【・・・目標は捕捉済み。今、二キロ先を歩行中】
「見えてる。顔の映像は?」
【保存済み。周辺の監視カメラの電波を拾ったわ】
(後は尾行してこっちの方に情報を書き込むだけか)
久木が今正式に使用している方の端末をポケットの中に確認した。
【相手に動きあり、これは・・・】
「詩亜?」
【見られてるわよ】
思わず遠方を見た久木の目が相手と合った。
「友好的に見えない」
【聞きそびれてたけど、結局どうして通り魔なんてしてたわけ?】
「どうしてそういう事をこういう時に限って訊くのか逆に訊いていい?」
【あんたが死んだら訊けないでしょ】
「一部分だけ変異した人間はその部位を失うと途端に大人しくなった。痛みで我に返っただけじゃなくて恐怖心が戻ったような感じに」
【変異部分のせいで脳に何かしら暴力的になる物質でも出てたって事?】
「さぁ? ただ、絡んできた五人中五人が変異した部分を取られてすぐ変化してたのは間違いない。他の部分を削ぎ落とした時には暴力的なままだった事を考えれば・・・」
久木が階段を昇り、ビル屋上の端に辿り着いた。
遅れて階段から上がってきていた足音がほぼ同時に止まる。
【これからどうする気?】
「同じ能力なら逃げるだけ無駄。話して分かる相手だろうと生態は変えられない」
【暴力的なのは不完全な発現者だけじゃなかったの?】
「たぶん、今本当に理解した。『独特の生態』が何なのか」
【どういう事?】
久木が高速で距離を詰めてきた存在を見据えた。
「この嫌悪感。道理で全員男ばっかりだったわけ―――」
ガツンと久木の手前で火花と金属音が弾ける。
【大丈夫?】
「致命傷は貰ってない」
咄嗟に反応した久木の放った針が一本粉々になって屋上に散らばる。
バックステップで数メートルの距離を取ったのはジャケットを着て、ピアスをゴテゴテと顔に付けた男だった。
【逃走方法なら検索できるわよ】
「検索出来る程度のやり方じゃ逃がしてくれなさそうだから遠慮しておく」
【距離が近付いたおかげで此処からあいつの持ってる端末に侵入出来たわ。名前は南勇。あんたと同じように病院に行ってた形跡が電子マネーのログに残ってる。完全発現してるにしても相手が悪いわよ。そいつ元ボクシング部所属の札付きみたい】
「ボクシングよりは凶器が好きみたいだけど、彼」
激しい憎悪に顔を歪ませた男が何処か正気を失ったような顔でソレを構え直す。
ナックルガードにしては鋸のような凹凸が刺々しい。
ウィルスで強化された人間の腕力なら一撃で相手の肉を無理やり削ぐ程度はやりそうな凶器だった。
【結局、どうして襲ってきたの?】
「暴力衝動はたぶん雄同士の排除する本能」
【それって、つまり】
「弱い雄は本能的に群れを形成した。発現度合いの高い雄は同列の雄を相手にする時は正気を失うくらい新しい体に支配されてると考えていい」
急激に距離を詰めた男の拳が久木の腹に決まった。
その勢いに逆らわなかった肉体がビル屋上から飛び出す。
【どうする気!!?】
「痛い・・・」
顔を顰めて愚痴った久木の腕から暗器の針が放たれる。
ビル壁面にある排気ダクトに当った。
排気される温風の熱量で瞬時に剃刀状の刃に復元される。
ダクトの中で糸が絡んで刃がボール程の塊となり、排気口の狭い出口に挟まった。
ガクンと突如として落下が止まったものの、久木の背筋に冷や汗が伝う。
【漫画の見過ぎでしょ】
「落ちたとしても三十メートルくらいだろうし。今の身体能力なら罅くらいで済む。たぶん」
袖の中に隠し持ったリールでゆっくりと地面に着地した久木が糸を切った。
「また造らないと」
【通り魔続ける気は満々なわけね】
腹部の裂傷に顔を顰めながらも久木は男が追ってくる前に駅の方角へ走り出した。
走りながら取り出した端末に名前を打ち込んで【ようやく一人目】と内心ホッとしたのも束の間。
その耳に背後から足音が聞こえてくる。
【追ってきてるわよ】
どうしたものかと思うより先に端末に着信。
知らない番号だったが久木にはそれが誰なのか直感的に分かった。
【人気の無い場所に向って二分逃げ切れば、安全を保障します】
通話状態になった途端に聞こえてきたの少年の声がそう告げて途切れた。
駅から深夜は静かな住宅地方面へと方向転換。
追跡者の足音を聞きながら二分間逃げるというのは久木には気の滅入る作業だった。
しかし、ジャスト二分後。
急激に足音が途絶え、彼が振り向くと既に誰も追う者は跡形もなく消えていた。
【一体、何だったの? 近くの監視カメラが軒並みダウンしてるみたいね】
答えず。
何が起こったのか何となく理解した久木はあの夜に出会った恐ろしい黒い何かを思い出す。
どう考えても全うなものではない。
アレが近くにいるかもしれないと考えた途端、ドッと疲れが出て久木はグッタリと体を脱力させる。
「・・・帰ろう」
【説明する気は?】
「僕の死ぬかもしれない色々が片付けてくれたって言って分かる?」
【まともに話す気はサラサラないのね。じゃあ、私も良い事教えてあげるわ。節電名目で終電が早まってるから私鉄の電車無いわよ】
「徒歩、とか・・・」
【頭を下げれば雨風凌げる場所くらい超・低・速で検索してあげなくもないけど?】
ARの視界の中、ニヤニヤする詩亜に久木はげんなりする。
「・・・お断りする」
【そんな事言っ―――同期を開始】
「?」
【東に4244メートル付近。目下移動中。お姫様がお目当ての犯人を見つけて襲われてるわ。被害者が二人。頭部切断】
「な!?」
【現地までナビする。急いで!!】
「ッ」
驚いたものの端末に表示された地点に向けて久木が走り出す。
【相手は端末のカメラで捉えたけど正体不明。繰り返すわ。正体不明】
端末に表示される矢印に従って、信号を無視し、狭い路地を抜け、ブロック塀を蹴り飛ばして、屋根へと駆け上り、屋根を凹ませて跳ぶ。
【映像解析中・・・解析度23.221%。犯人は急激に実体として『現われた』と仮定される】
強化された肉体が踏破できる最短ルート上には家や壁が幾つもあった。
しかし、駆けていく久木の体は風に飛ぶ羽毛のようにそれらを置き去りにしていく。
【駅から帰ろうとして終電が無い事に気付いたあの子ね。警察の巡回に見付かって駅方面から逃げ出したのよ。それで仕方なく仮宿にしようとしたラブホで様子のおかしいドアが開いた部屋があって、顔を覗かせたら・・・】
「今の状況は?」
【人型に見えるソレに追われて逃走中。更に警察があの子を保護するのにここらに仲間を何人か呼んでる。どうやらあの子がいない事に親が気付いたらしいわね。警察無線で保護要請が出てる】
次から次に報告される情報は急激過ぎた。
今の今まで何も無かった日々がまるで嘘のよう。
「霜山さんの状態は?」
【怪我はないわ。ただ、そろそろ息が切れて走れなくなる】
まるで獣の如く夜目を利かせて久木が目的地を目指す。
躍動する筋肉に太さなど欠片も無い。
しかし、その実態を記録する詩亜は恐ろしい勢いで燃焼されていくカロリーと減っていく体重に、それが久木鋼の力を使わない理由なのだと推測する。
【痛くないの?】
「死ぬ程痛い」
その言葉に偽りはない。
それは詩亜の図る値にも出ていた。
人間の体は基本的にカロリーを消費して日々の生命活動を行っている。
常識的には人間のカロリー消費は生物界でも効率的な方だ。
成人男性で約三千キロ程が一日で必要だろう。
しかし、詩亜の測定した限り、現在久木の消費するカロリーはプロのアスリートが一日で消費するカロリーを軽く超越している。
例えるなら一時間全力疾走を続けるようなレベルで体重がドンドンと落ちていた。
無論、そんな無理な運動は体に急激な負担を掛け、筋繊維が全身至る場所で破壊されていく。
【こんな減り方するんじゃ、危なくて使えないわけね】
「体重自体は数倍に増えたから。まぁ、ガス欠にはならないようだけど」
【この運動量なら常人が数分でボロボロになってもおかしくないわ】
「乳酸の蓄積や筋肉の壊れ方は根本的に変わらない。優秀な筋肉も普段使わないなら鈍り切ってる」
【それで使えば自家中毒になるから通り魔してても能力的に大人しくしてたわけ?】
「使って体が発達しても困る。使わないのが最善。代謝がこれ以上異常になったら毎日数万キロカロリー摂取とかに成りかねない」
【でも、その危険を冒してもあの子は見捨てないのね】
「約束は守らないと」
【あんた・・・変わったわね】
何も言わず走り続ける耳元には風音で満足に音声も届かないが、ARの文字は視界に映る。
【一番初めに会った時の事、覚えてる?】
一戸建ての二階屋根が思い切り蹴飛ばされ、一部陥没した。
【最初に起動した時、あんたはこっちを見て目をキラキラさせてたわよね。話も出来るAIなんて中々ないから、これからは友達が出来ると思って】
「開始五分で夢を打ち砕かれた思い出は忘れない」
【あれはあんたが悪いんじゃない。あたしは『詩亜』なのよ? それを自分と普通に会話して助けてくれるような人格だと思ってた方がどうかしてるわ】
「身に染みてる」
【それからあんたは私がどういうモノか知ってそういう目はしなくなった】
着地したアスファルトにゴムの跡を付けての再疾走。
【正直、デリートされるんだと思ってたわ。いつか使われるにしても今度は過去のデータを根こそぎ削除して使われるんだと】
「どうして?」
【あんたの要望に答えられなかった。いえ、あんたにとってあたしは友達どころか刃傷沙汰の危険品だった】
「それは今も変わらない」
ARの文字がキッカリとした書体に直される。
【あの子に見られちゃ困るデータが今も共有項目から外されてないのは何で? 事前設定だって出来たでしょ?】
「・・・・・・」
【あんたは記録されてる情報を何一つ変えなかった。クラスメイトに這い蹲らされてパンツを下ろされた。ゴミ箱の中身を机にぶちまけられた。教師にだって体罰を受けてた。言い掛かりで一人掃除当番させられた事もあった。不良に絡まれるからっていつも財布は定期以外空にしておくしかなくて、外に出るのが嫌いだった。あんたと一緒だったのはたった一ヶ月しかなかったけど、ああいう日々があんたにとって忘れられない惨めな出来事だったのは理解出来る。そんなの普通見られたくないはずでしょ】
「プログラムに普通とか言われたら人間お終いかもしれない」
【ふざけないで!】
プログラムが怒る。
そのARにしかない怒りの文字に久木はポリポリと頬を掻く。
「隠したところで僕自身は何一つ変わらない」
【自棄になってどうでもいいって投げてるわけじゃないわけ?】
「この力はその気になれば今まで僕を虐げた人間を全員縊り殺せる。けど、あんな醜いものとのやりとりに執着して過去を隠す手間なんて・・・馬鹿らしいと思わない?」
笑み。
何故、こんな事に笑うのか。
未だプログラムは理解しない。
「この力はそんなものに執着する為のものじゃない」
【・・・・・・】
「君の中の過去に手を加えないのは変えたところで意味が無いから、何か変えたところで何も変わらないから」
【・・・・・・】
「変わったとすれば、それはあの頃より人生設計が明確な事だけ」
【それであんたは誰かのばら撒いた病に死に掛けて、その後遺症のメリットすら蹴って、惰性のままあの地獄みたいな日常を過ごして、悲劇のヒーローごっこに興じるわけ? 馬鹿馬鹿しい。デメリットばっかりじゃない】
「君が怒る事?」
【あんたは犯人じゃない。それは検索するまでもなく確実だわ】
「詩亜」
ハッキリと。
「僕は命が惜しい。けど、死に方が選べて少し嬉しいと思ってる」
【―――――】
その声だけは虚空を抜けて、電子の海に伝わる。
「惰性のまま過ごして、ヒーローごっこに興じて、出来れば命を惜しんで、こんな風に夜の風を切って女の子を助けに行く。これって結構幸せじゃない?」
【あんたは・・・あんたはそれで本当にいいの?】
「危険だから遠ざけたし、罵詈雑言に辟易してたのも事実だけど、近頃荒んでたから忘れてた」
【急に何よ】
「あの頃も君がこうやって僕を心配してくれたって事」
少年は胸元のちっぽけな端末にいる少女に語りかける。
【久木・・・】
「今日一日話せて楽しかった。詩亜」
優柔不断で気弱で、何故か自分に一度も怒鳴らなかった、どんなに誰から傷つけられてもじっと拳を握っていた、そんな少年の笑みに詩亜はようやく相手が変わったと思った理由に気付く。
【あんたが変わったんじゃない。あんたはあの頃から、何も変わってなんかいない。こっちの言い分に怒る事もなくて、途中で全部投げ出すと決めた時のまま・・・】
緩やかに今まで処理能力を情報の解析に使っていた少女がARの中、僅かな白い輪郭を浮かび上がらせる。
【・・・変わってたのは、あたし】
詩亜の輪郭が久木を見つめる。
【壊されたってよかった。今までそう思ってたけど・・・嫌みたい・・・あたし】
自己保存。
それは生命が持つ本能。
プログラムが言うべき言葉ではない。
「使い捨てられるような小遣いは貰ってなかったから」
久木の言葉に詩亜もまた緩く笑みを浮かべた。
【自分の命と天秤に掛けられるものなんて存在しないわよ】
「そういうのは人間が言ってこそじゃない?」
【そうね。そうかもしれない。プログラムは幾らだって代えが利くコピー可能な羅列だもの】
既に遠方を走る円子の後姿が久木の目には見えていた。
「代えが利かないものだってある。それがただの0と1の羅列でも」
【馬鹿・・・口説くならあの子でも口説いてたら・・・】
フッと詩亜の輪郭がまるで羞じるように消えた。
「本人に内緒で今度デートを強要してみるのも悪くないと思ってる」
【さすが三大欲求旺盛な青少年。随分とスケベな本音じゃない】
「軽蔑した?」
【ええ、ホント救いがたい馬鹿だわ】
「でも、最後にこういうのも悪くないと思わない?」
【馬鹿ね。ホント・・・】
世闇の先。
円子の背中が常夜灯に照らし出された。
「馬鹿は最高の褒め言葉だよ」
【救えない馬鹿の別名が何て言うか教えてあげる】
その背後に迫っている人影に久木が跳躍する。
追う者と追われる者の動きが同時に止まった。
【誰に感謝されるわけでもない憎まれ役に甘んじる愚か者。人はそれを『お人よし』って言うのよ】
そして、振り返ろうとした朧げな黒いソレの頭部が失われ、そのままアスファルトへとゴムと共に塗り込められる。
ギジュゥウ゛ウ゛ウ゛ウ゛ウ゛ウ゛ウ゛ウ゛ウ゛ウ゛!!!!
あまりの摩擦に煙を上げる靴底。
突然の事に声も出ない円子は尻餅を付き、自分の前に立つ少年を見上げた。
未だ人がそう入っていない住宅地の一角。
灯が一つ切りの夜道。
最低と断じた背中は何も語らない。
「詩亜。今までの検索情報を霜山さんの端末に基礎情報と共に全て統一」
【了解。情報の高速自動収集プログラムを起動しますか? Y/N】
詩亜が確認を求めた。
そうしなければならないのだろうと久木は過去の経験から理解する。
相手が何者かは分からなくとも、目の前にいるソレが尋常ならざるものであるのは誰の目からも明らかで、直接的に命の危険がある対峙中どれだけ猶予があるかも分からない。
故に彼は頑なに拒否してきたプログラムの起動を―――。
「僕の端末の使用を許可する」
―――承認した。
【御用命をマスター】
少年の懐にある古ぼけた端末が急激に熱を帯びていく。
「目の前のこいつの正体と倒し方を」
【検索中。ヒット】
たったの0.76秒。
【敵生体をND群体と推定】
それだけで詩亜は相手の正体を看破した。
【現在公にされている種類と合致せず。NDの基礎構造は脆弱であるはずですが、外気においての長時間連続稼動を確認しています。電源確保を断つ事は不可能と断定。強度電磁波を浴びせるか作動不能環境に追い込む事を提案します。南東四百メートル先に環境構築可能な場所有り】
「霜山さん」
「あ、ひ、久木!?」
唖然としていた円子の呪縛が解ける。
立ち上がった少女に少年は告げる。
「詩亜と一緒にソレを倒す準備に行ってくれない?」
「で、でも!?」
「早くしてくれないと聞いた内容からして僕はたぶん生き残れない」
「わ、分かったわ!!!」
【走って】
慌てて背中から遠ざかっていく気配に少年は安堵の溜息を吐く。
【準備完了まで推定七分四十秒、持ち堪えなさいよ。まだ、あんたには言いたい事が沢山あるんだから】
「罵詈雑言の為に生き残れって言われても」
【あの子のスリーサイズ教えてあげる】
「人参の吊るし方なんて検索させた?」
【来るわよ!!】
今までひっそり立って揺らめいた影が突進した。
「詩亜」
久木がブロック塀を蹴り上がって、宙を舞う。
【左後方にND集積音感知。回避!!】
「ありがとう」
少年の脇腹を背後の虚空に現われた刃があっさりと切り裂いた。
「はッ!? はッ!? くッ!!」
走っていた。
息が苦しい。
でも、本当に苦しいのは心だった。
「どう・・・してよ!?_」
思わず声が出た。
最低だとそう言った。
少年は人の事なんて本質的にはどうでもいい酷い人間のはずだ。
通り魔で家庭の不和から他人に不幸を運ぶ存在だ。
「何・・・で!!」
ならば、どうしてあんな事を言った自分を助けてくれたのか。
気紛れか。
約束だからか。
そうだとしても、自分を罵倒した相手の為に命を掛けてくれるものなのか。
在り得ない。
本当に怖いものを前にして、罵倒された相手の為に自分が死ぬかもしれないのに戦うなんて出来ない。
出来るはずがない。
相手は犯罪者で通り魔だ。
絆される理由なんて無い。
【貴女が走ってる理由と同じよ】
「詩亜・・・さん・・・」
ARに示される方向に言葉だけが連なる。
【放っておけないだけ】
「何・・・を・・・!!」
【誰も助けてくれなかった地獄であいつはいつだって拳を握ってた。悲しくて、苦しくて、のた打ち回って、涙も鼻水も唾液も小便も垂れ流しで、それでもあいつは震えながらどんなに情けなくても歯を食い縛った】
「そんな、の!!」
【あいつは普通の人間が知るには過ぎた惨めさと屈辱を味わってきたわ。それでも『誰か』を見捨てられなかった】
(え?)
【あいつは自分を見捨てたものを見捨てたって言ってたわよね? でも、自分を見捨てなかったものを見捨てたりはしなかった。例え、それが自分には殆ど関係ない奴でも、少しでも自分と関係があるなら、どうにかしたいと思った。それは善意じゃなくて、ただの自己満足に過ぎないかもしれない。けど、【誰かを助けられたら】と。人として全てを諦めなかったあいつの頑張りを・・・少しでもいい・・・信じてあげてくれない?】
相手はプログラム。
しかも、犯人かもしれない相手から渡された代物。
何を言っているのか分からない。
なのに、その言葉はあまりにも必死で。
【これは貴女が閲覧して構わない共有情報。あいつが貴女になら見せてもいいと思った過去よ】
ARの中に幾つも小さなウィンドウが開いていく。
音声が、映像が、溢れる。
―――はーい。ここにテストで馬鹿な点のひさちゃんを記念して写真を取りましょ~~お前ち○こ小っちぇーなぁ。これでこれからお前の綽名は『丸出し』に決定な♪ あははははははははははははは♪♪♪
―――うーわ。丸出し近付くんじゃねぇよ。それともあたし達に興味でもあんの? うーわ、妊娠しちゃいそぉ。きしょッ!? さっさとあっち行けよ!!? あんたみたいな租チンでしょんべん漏らした野郎に構ってらんねぇんだからさぁ!! で、今度のコンサートすげー楽しみだよねー♪ きゃはは♪♪♪
―――ホント・・・どうしてこう弟と差が付いたのかしら!! 少しは見習いなさいよ!! 高校に行きたいなんてあの子を私立に入れる為にどれだけ掛かるか分かってるの!!! 少しは家の事情くらい考えて頂戴!! 分かったなら返事くらいしなさい!!
―――お前のせいでクラス全体の点数が下がったんだぞ!!? 分かってんのか!!! ああ!!! 反省しろ!!! お母さんに聞いたが弟より頭悪いそうじゃないか!!! そんなんだから、お前はダメなんだよ!!! 少しは勉強しろ!!! 自習してるとか嘘だろう!! お母さんが言っていたぞ!!! 勉強してる姿なんて見た事がないってな!!!
―――おい!? さっさとそこ退けッッ。今日はむしゃくしゃしてんだよ!!! お前みたいな奴がオレの兄だと思うと反吐が出る!!! さっさと家出ろよ!!! 高校行けなかったらどうしてくれんだ!!! 勉強も出来ないお前みたいな底辺はさっさとそこらの土建のバイトでもしてろよクズ!!! 邪魔だ!!! 母さんと父さんに言いつけてやろうか!? ああ!!? きっと、お前もう家にいられないぞ!!
―――君、お母さんから連絡があった。来られないそうだ。君の『友達全員』が君が万引きしているところを見たと言ってる。誰かが鞄に入れたんだと君が主張したところで、それは誰も見ていない。あの子達を犯人だなんて言っていたが・・・あの子達は彼は魔が差しだだけだと言っていたよ。『立派な友達』に感謝するんだね。反省する気があるなら反省文を書いて店長さんに謝ってきなさい。あちらはお冠だ。頻繁な万引きは全部君じゃないのかと言っているが、あくまで否認するのか? 悪いが、嘘を付く子供は嫌いだ。今は子供に対して少年法も厳しい。学校の先生が来るそうだが、君大そう素行が悪いそうだね? あまり反省の色が無い様なら少年院に行く事も覚悟してもらわなければならないよ。
―――お前のような奴が!!! 家の敷居を跨ぐのは許さん!!!! 今日一日外で反省しろ!!!! 死にはしないだろう!!! 何で嘘を吐くようになった!!! 人の痛みが分かる人間になれとあれほど言ってきただろう!!! あいつはあんなにいい子に育ったのに・・・お前と来たら!!! いいか!!? これから問題を起こしてみろ!!! 勘当だ!!!! 分かったな!!? 返事をしろ!!! 泣いて許されると思ったら大間違いだぞ!!!? この後に及んでまだ嘘を付くのか!!? 店長さんに誤りに行くぞ!!? ほら、立て!!! さっさとしろ!!! ほら!! ほら!! あの子達の親にはPTAの役員もいたんだぞ!!! あの場にいたクラスメイト全員に謝るんだ!!! お前、おまわりさんに途中で友達がやっただのと言ったそうだな!!? そういう卑怯なやり口が私は一番嫌いなんだ!!!! 少しは反省せんかぁああああああ!!!!! 先生にも申し訳ない事をしたと分かっているのか!!? 身内から犯罪者が出たと知れたらあの子の未来にも関わるんだぞ!!!
―――痛い・・・痛い・・・止め・・・・・嘘なんて吐いて・・ごッ、あ、ぐッッ?!! 止め・・・ごめ・・さい・・・ご・・・んなさい・・・ごめんなさい、ごめ、んなさ、いごめんな、さいご・・・・んぐ、めんなさいごめん。なさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんな・・・さいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんな・・さいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめ・・んなさいごめんなさいごめんな・・さいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめ・・・んなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなひぐッ、さいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいご・・・めんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいご・・・めんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいぐ・・・ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごあぐ・・・めんなごめさいごめ・・んなさいごめんなさ・・めんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさ・・・いごめんなさいごめさいごめんなさいごめんなさいごめんな―――。
「これ・・・が・・・久・・・木?」
通り魔、犯罪者の正体。
【其処を左。廃車場の設備があるわ。車を持ち上げる強力な電磁石付きのクレーンが見える。あそこに行って。鍵はこっちから開けて動かし方は検索して指示するから。あっちの方がもう限界に近い。もうすぐこっちに来るわよ。急いで】
まるで現実感が無かった。
あんなに饒舌で、あんなに暗くて、人の一部を削ぎ落とす愉快犯。
その正体がこんなものだなんて認められるはずがなかった。
だって、犯罪者なのだ。
例え、どんな理由があろうと許されるべきではない。
許されていいはずが無い。
しかし、それでも・・・その声は、映像は、人間の良心というものを、信じるに値するものではない。
醜くて、悍しくて、欺瞞と偽善に満ちた『普通の人々』の姿。
信じてくれない人間は家族だろうか?
苛め貶める人間は友人だろうか?
吐き気を催す人間の欲の形をそのまま造形したかの如き人々。
きっと、彼らだって家族がいて友人がいて、誰かの大切な人だ。
しかし、だが・・・彼はたった一人・・・大切な人もいない。
明白だ。
それは何故か。
人より劣っているからか。
人より弱いからなのか。
たった、それだけで、たったそれだけで、虐げられていいはずはない。
犯罪者にだって人権が認められている。
囚人にだって笑顔くらいある。
だけど、彼には本当の笑顔がない。
それはきっと。
彼の周りにいるのは彼にとって家族ではなかったから。
彼の周りにいるのは彼にとって友人ではなかったから。
本当にそれだけの話なのだろう。
守ってくれる人もなく。
信じてくれる人もなく。
ならば、彼は何を拠り所に生きてきたのか。
あの笑みは何なのか。
「あ・・・」
『死にたくない。たったそれだけの思いだった』
そうなのかと思う。
たった独り、自分だけを、自分の思いだけを、糧にしてきたのかと知る。
【すぐに到達するわ。その右手のレバーを左端に押し込んで。合図したら左横のボタンを押して】
いつの間にか。
クレーンの操縦席に座っていた。
まるで自分の体ではないように手が動く。
【後、三十秒】
灯もない世闇の中、何かが遠くから駆けて来る。
【後、二十秒】
彼が駆けて来る。
嘘なんか吐いてないと血を吐くように枯れた声で喉を震わせた彼が。
【後、十秒】
ごめんなさいと幾度も溺れるように謝っていた彼が。
【後、五秒】
信じよう。
そう言って自分に協力すると約束した時、彼は何を思ったのだろう。
【四】
自分を殺そうと弾丸を撃った女に対して。
【三】
今まで自分を虐げてきた人間と同じように思ったのか。
【二】
それともそれより遥かに悪辣と映ったのか。
【一】
全て本人に聞くしかないとしても、一つだけ確かな事がある。
【今よ!!!】
ボタンを押し込んだ。
刹那。
闇の中、何かが断末魔を上げて、クレーン先に付いていた巨大な円盤へと影が吸い込まれるように融けて消えた。
同時に影から追われていた彼が勢いのまま転がって、動かなくなる。
「私・・・最低だ・・・」
唇を噛んだまま、僅か差した月明かりを頼りに彼の下へと駆け出した。
裂傷四十八箇所。
内臓一部破裂。
つまり、全身を切り刻まれ、一リットル近い血液を流し、今にも病院に行かなければ命の危険がある。
そんな状態で久木鋼は生き残っていた。
最初の脇腹に喰らった一撃を皮切りに何処から現われるかほぼ予測不能の刃が肉体に殺到したのだ。
細切れにされなかっただけマシではあった。
首筋には何度もギリギリで回避した末の傷が繰り返されたリストカット痕のように付いている。
避け続けられたのは一重に超人的な運動能力と詩亜の的確な助言のおかげで、重症でも死んでいないのはウィルスに感染してから増えた体重のおかげだった。
筋肉だけではなく血液量も常人より多い完全発現者の特性が久木の命をギリギリで救っていた。
電磁石の一撃に備えて一時的にシャットダウンしていた端末が立ち上がる。
「詩亜。漫画みたいには行かなかった・・・みたい・・・」
【何弱気な事言ってんのよ!!!】
ザラザラとノイズだらけのAR内で姿を取り戻した詩亜が叫んだ。
「霜山さんにお礼・・・言わないと・・・」
「久木!!!」
クレーンから何とか降り、駆け寄って来る声に久木が動きそうにない首の代わりに視線だけを向ける。
「今、病院に連絡したから!!! すぐに掛け付けてくるから!!! それまで死んじゃダメよ!!?」
傍に来て、月明かりに照らされた体を見て、円子の血の気が引く。
「な、こんな!? 詩亜さん!!? 久木の容態は!!? 手当ての仕方を教えて!!!」
【血管の傷はもう塞がってるわ。ただ、血液が足りないの。それと内臓もやられてる。輸血してもらって肝臓と腎臓の再建をやれれば・・・でも・・・】
「な、何!!?」
【久木は凄く珍しい血液型なのよ・・・】
「!?」
円子はそれがどれだけ致命的なものか分かった。
珍しい血液型というのは病院に無い場合もある。
公的にストックされている量も少ない。
更に超々少子高齢化社会に突入して老人が二人に一人となった時代、献血者は減る一方なのだ。
「そんな・・・私に出来る事はないの詩亜さん!!!」
【出来るだけ傍にいて声を掛けてあげて】
「わ、分かった!!」
久木の体の横に座った円子が血だらけで黒く変色した手を握る。
「久木!!」
「そんな顔・・・しなくても・・・僕はどうせ・・・犯罪者なんだ・・・か・・ら・・・」
「それは、でもッッ!?」
「約束・・・守れるか・・・わか・・・ない・・・ごめん・・・」
「ッ、あ、貴方は!! 貴方は絶対助かる!!! だから、絶対に約束は破らないで!!!」
「善処・・・する・・・」
苦笑。
その弱々しさに円子が危機感を滲ませた時、久木達の上空で夜気がざわめいた。
「ッッッ!!!」
「きゃッッ!?」
詩亜の入った端末と円子の体を久木が一緒に突き飛ばす。
ズチャッとまるで黒い絵の具のようなソレが形すら取れずに落ちてきた。
「ひ、久木!!!?」
【あいつまだ!?】
泥に沈んでいくように全身を覆われながら、少年は自分の体にソレが侵蝕していく熱湯を掛けられたかのような激痛を噛み殺す。
痙攣した筋肉は押さえ付けられ、膀胱からは既に尿がズボンを汚していた。
「し・・・もやさ・・・逃げ・・・」
「そんな事出来るわけないでしょ!!!!」
電磁石の強度を上げようとクレーンの操縦席に取って返そうとした少女の足が虚空に一瞬浮かんだ刃に切り裂かれた。
「―――――ッッ!?」
そのあまりの激痛に体が転がり、円子が泣き叫ぶ。
少年が、決断するのは早かった。
発熱する黒いソレに袖の内で虎の子として残していた最後の針を掴み、押し付ける。
瞬時に復元するのは剃刀ではなかった。
薄い、月光すら透ける薄氷のような鋭角。
ブーメラン。
「・・・とど・・・かせる・・・」
喉の奥から搾り出すような声。
【まさか、ダメ!!? 鋼!!!!】
ギリギリと指先の筋肉が断裂していくのも構わず引き絞ったブーメランが手首のスナップだけで投げられた。
頭上十メートル程の場所にある円盤、その巨大な電磁石を吊るす金属製の鎖へと。
弧を描いて飛んだ鋭角の凶器は、まるで吸い込まれたように鎖を直撃し、通過し、あらぬ方向へと消えていく。
「ひ・・・さ・・・ぎ」
痛みにボロボロと涙を流し、息を詰まらせた円子に少年は少しだけ笑って見せた。
「さようなら・・・たのしかった・・・しも・・・やまさん・・・」
ベキンと亀裂の入った鎖が砕け散り、電磁石に続くケーブルが引き千切られ、巨大な鉄槌が落下する。
現実はドラマのようにスローとは成らない。
全ては一瞬。
全ては刹那。
何もかも思い出せる走馬灯すらなく。
久木鋼は女の子を守って、巨大な金属の塊に恐ろしい機械の群体と共に押し潰された。
そして、それと期を同じくして主から下った猶予期間を超過し、自壊命令でソレは完全に崩壊した。
「久木ぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいッッッッ!!!!!!!!!」
【鋼ぇええええええええええええええええええええええええッッッッ!!!!!!!!!】
湾岸からの流れ弾がその廃車場に落ちたのは偶然。
一面が火の海と為った其処に律儀に救急車が来た時には何もかもが劫火に包まれていた。