第五十五話 それぞれの視線
一か月更新できませんでしたm(__)m もう少し早めに出せれば良かったのですが、書いている間に長くなった場所の修正やらで苦しくなった次第です。今回は敵へ焦点が絞られていく過程が長いかと思われます。では、第五十五話それぞれの視線を投稿します。(主人公達がまだ戦ってない・・・次回こそはきっと戦いが始まるはず!!)
第五十五話 それぞれの視線
久木鋼は己が凡百の人間以下である事を自覚する。
何か取り得を一つだけ上げるとすれば、妙に他人から虐げられる素質がある事くらいだろう。
別に特殊な性癖ではない。
何て事ない自信の無さとか。
人一倍の努力なんて出来ない性分だとか。
人と関わる為に必要なコミュニケーション能力が不足しているだけだ。
別に取り立てて醜いわけではないが、イケ面なわけでもない。
成績が悪過ぎるわけではないが、平均には少し足りない。
よく虐めで自殺なんて話がニュースを賑わすが、それら人の気持ちも多少しか共感できない。
人並みに怒る感情はあるが、それよりも諦観の方が強い。
つまり、総合的に見て「社会的不適格者」というのが自分のレッテルとしては正しいと久木は思っている。
家庭環境の不和なんてものは何処にでもある。
肉体的・精神的虐めなんてのは社会に出てからが本番だろう。
だが、それらに上手く適応出来ない。
どうしようもなく脆弱に過ぎる。
それを人生の早い時期から自覚していた久木は不幸だと言えるかもしれない。
大人達は誰も教えなかったが、人間は才能と家柄、努力は資質の問題、コミュニケーション能力の低い奴や性格の暗い奴は虐げられる、作業の出来が悪い者は評価されない、といった現実を知らなくてもいい年頃でも理解出来てしまっていた。
そんな子供だったからか。
人一倍備える事が久木にとっては重要だった。
自分が何処までも『そういうの』だと知っていたから、失敗の予防線を張る事は欠かさなかった。
ネットでそのプログラムを拾った時も最初は単純に学校で物を隠されてしまった時を想定してダウンロードしたのだ。
それが恐ろしい程に高度なプログラムだと気付いて、虐めてくるクラスメイトを影から罰せるような武器を求めたのは誰にでもある全能感、漫画の主人公気取りで【強さ】というものを一度くらい味わってみたかったからだ。
勿論、そうする為に示された路はかなり険しかった。
様々な会社から匿名で原料を仕入れて痕跡を消し、製造の為の機材を殆ど違法スレスレで足が付かないよう無償で手に入れ、家族にも隠蔽して少しずつ少しずつソレを形にしていく。
不意に製造を中止したのはネット上でプログラムを巡っての陰謀、その片鱗を味わったからというだけでもない。
それもあるにはあったが、一番の原因は久木自信の恐怖だった。
武器を作っても、それでいざ他人を傷付ける事を想像して怖くなったのだ。
ある種正常な判断は自身を絶望させて余りあった。
どんな力を手に入れようとしたところで、それを振る人間は所詮強くない。
精神的にも肉体的にも強かろうはずもない。
そう自身に思い知らされた。
自信の無さ。
それが久木を敗北主義者にした。
怖くなった日から虐められようと理不尽な目に合おうと我慢と忍耐だけを持って学校に通った。
一度だって手を上げて反抗すらしなかった。
ただただ、相手に罪悪感を抱かせるまで見つめるだけに留めた。
それから・・・それからの日々は慣れだった。
何も期待などしなくなった。
何も感慨など沸かなくなった。
心を閉ざしたのではない。
強くなったわけでもない。
耐えられていたわけでもない。
バランスを保ったのだ。
崩れてしまわないように、壊れてしまわないように。
「久木? 久木!!」
「何?」
霜山円子。
ちょっと久木好みなお嬢様復讐鬼。
拳銃をまともに正面の人間に撃つくらいには【EDGE】よりも度胸がある少女。
その眉間に皺を寄せた顔が怒っていた。
「ボーっとしないで頂戴。一体誰のせいでこんな事してると思ってるの!!」
「・・・・・・」
【ゴミクズだから仕方ないでしょ。まったく生産性が無いったらありゃしない。で、少しは情報集ったの? 一人善がりは嫌われちゃうわよ。エターナル・チェリー君】
追い討ちを掛けたのはARグラス越しにしか存在しないヒラヒラした衣装を着る美少女。
人気アニメ『神裸フリークス』の主人公【祠堂詩亞】。
経済系毒舌魔法少女という何が受けているのか分からない作品の主役にして現在進行形で未来を託していると言っても過言ではない探査プログラムの対人インターフェース。
恐ろしく高度な検索能力を全開で使用した場合、高確率で死亡する要因になる可能性を秘めた二人にとっての諸刃の剣。
【ホント、少しは役に立ちなさいよね】
「いや、それは君の方じゃない?」
【ああん? 何か文句あるの? 二年もほったらかしにしてた久木鋼君】
何気に怖くなってほったらかしにした事を恨まれている。
その鋭い視線に久木は相手が現実にはいないARだという事も忘れて視線を逸らした。
逸らしたところで瞬時に視界に位置取りし、ARグラスを外さなければ罵詈雑言が飛んでくるとしても基本的に怒った他人と目を合わせていられるような性格はしていないのだ。
「それで詩亞さん。集めた情報でどうにかなりそうかしら?」
久木は少し落ち込んだ。
人間とAR。
差は明白だが、プログラムよりも優先順位が低く、尚且つさん付けすらされていない自分はどれだけ嫌われているのだろうかと。
勿論、もしかしたら兄の仇かもしれない久木を少女が信用する事など在り得ないのだろうが、せめてプログラムには待遇で勝ちたいところではある。
【入力情報からルート構築中・・・捜索目標【EDGE模倣犯】・・・殺害現場及び当日の現場周辺の情報収集率44.4223%目下上昇中・・・作業完了まで約9334時間】
プログラムの回答とは思えないような高度な返答をサラッと返して再びAR内の詩亞が怒ったように顔を顰めた。
【情報の高速自動収集プログラムが起動されない場合、時間経過と同時に作業完了までの時間が延びる可能性があります。プログラムを起動しますかY/N】
久木がキッパリと告げる。
「N」
それに更なる不満顔で詩亞が繰り返した。
【情報の高速自動収集プログラムが起動されない場合、時間経過と同時に作業完了までの時間が延びる可能性があります。プログラムを起動しますかY/N】
「N」
【・・・だから、DOTEEEEEEなのよ(ボソ)】
膨大な情報を一瞬で精査する高度な検索能力を有する詩亞だが、そのプログラムの反応はネット上で監視されているとみて間違いない。
それはつまり検索した瞬間に何処かの誰かに自分が誰なのかを教え、危険に晒される事と同義だ。
だから、久木はどれだけ詩亞(AI)にしつこいインテリジェンスの警告メッセージを出されようと頑として情報の高速自動収集は認めていなかった。
警告メッセージどころか嫌がらせのような言い掛かりを付けられても、足で情報を稼いで入力している。
もうネット上で拾えるだけの情報は手動でほぼ拾ってしまったのは昼頃の事。
詩亞が本来持っている超高速検索能力からすれば、それですら不十分な検索らしかったが、だからと言ってネットにそれ程詳しいわけでもない二人に検索できる情報には限界があった。
「ぅ・・・」
日差しにやられたような気分で久木は頭を片手で押さえる。
潮騒が聞こえて、船の汽笛が遠方から聞こえた。
御台場。
嘗て異国の敵に備える砲台が列された場所も今は昔。
秋だと言うのに晴れている空は秋風よりも熱い日差しで煮え滾っていた。
【周辺環境情報を外部端末から取り込みリアルタイムで更新中。周辺船舶の情報を超低速取り込み中】
高速検索を封じられた状態でならネットに繋げてもそこらの検索エンジンと代わらないだろうと詩亞からの助言を受けて恐る恐るネットに繋げた成果か。
ベンチ付近で端末と連動している双眼鏡片手に周辺を観察していたのも相まってARに表示される情報収集率が44から45に変わった。
(まだまだか・・・)
数時間もすれば100になるだろうという希望的憶測は二人が手動で情報を集める最初の段階で詩亞に潰されている。
本来、あらゆるネットの情報を検索して指定されたモノに辿り着くルートを提示する詩亜の検索項目にはキロバイト以下の文字列、ネットの片隅でリンクも張られずに埃を被っているゴミ情報、既に何も無いページ跡地ですら入っている。
消された情報も大本の情報の断片を繋いで類推する事や情報の復元までやってのける為、ほぼどんなデータだろうと再現が可能だ。
そういった高度過ぎる能力を集約した結果としてプログラムの所有者が入力した目的まで辿り着くルートを構築するわけだが、それにはリアルタイムでの検索が不可欠だった。
例えるならパズルのピースとして一日前の情報が欲しいのに形の合わない三日前の情報を入力されても上手くルートの構築に組み入れられないという事になるだろうか。
糅てて加えて現在検索しているEDGE模倣犯の犯行現場は複数在って離れており、一日で全て回るのは学生の身分である二人には不可能だった。
お嬢様である円子が移動する資金を都合してくれてはいるものの、それでも夜の夜中まで学生が二人で犯行現場を徘徊するのは無理がある。
更に情報の痕跡は時間に比例して消えていく。
復元や類推も困難になる。
それはつまり100%という値が永遠に到達しない数かもしれないという事を指す。
どれだけ情報を集めても99.9999で止まっては意味が無い。
80%の確度でルートを構築したところで辿り着くモノが五分の一で間違いとあっては犯人かどうか知れたものではない。
円子にしても五分の一で間違いの犯人を破滅させるわけにも行かないわけで結局の所は地道に犯行現場を回って情報を集めるしかないという結論に二人は達していた。
【警察のサーバーに侵入すればいいんじゃない?】
久木は詩亜を投入進展して尚暗礁に乗り上げつつある手詰まり感に内心溜息を吐く。
超高度な検索が可能な詩亜はハッキングやクラッキング紛いの事も平然とこなせる。
そうでなければ久木が一人で暗器の材料を揃える事は出来なかっただろう。
だが、だからと言って警察に喧嘩を売るような真似は自殺行為だと久木にも分かっていた。
それは警察に対してのハッキングを日本人らしい道徳観念が邪魔しているわけではない。
単純に近年警察が電子空間上で恐ろしい程に優秀な為である。
嘗てIPアドレスが一致しただけで逮捕というお粗末な冤罪が蔓延っていたのは半世紀以上前の話。
テロリストの計画を事前に発覚させ、巨額の疑獄事件を解決し、移民労働団体の動きを公安並みに把握しているとされる警察の電子戦部隊は普通に聞こえてくる手柄だけでも違法アップロード者の摘発を年に五万件以上という実績を保有している。
その分蛇蝎の如くネット有志から嫌われているのだが、その働きぶりだけは神と皮肉混じりに語られている存在であり、本拠地のサーバーに侵入しようものなら早々に逮捕されるのは目に見えていた。
「まぁ、まだ一日目だから・・・」
「本当にそう思ってる?」
円子に睨まれて久木は何もいえなくなった。
他者に欺瞞を見抜かれるというのはそれだけで罰の悪いものだ。
それがその本人にとって何よりも優先すべき事柄だったなら、怒られても仕方は無い。
「・・・・・・」
勿論、EDGEを模倣して殺人を繰り返す犯人を野放しにしてはおきたくないのは久木も同じだったが、それよりも切実に彼は命の危機に直面している。
自分よりも小さな少年。
掴まれた凶器。
落ちてきた黒い何か。
(ぅ・・・さすがにあんなのには・・・)
久木が蠢く黒い人型を思い出して顔を顰めた。
大香炉という名前すら彼は知らなかったが、どれだけ足掻いたところで偶然力を手に入れてしまった人間にソレがどうこう出来る存在でない事は理解出来ていた。
密かに情報を集めつつ類推した久木にとって、その誰にでも分かりそうな結論は絶望以外の何物でもなかった。
契機となったウィルステロがどういうものか実態は民間にも殆ど知られていなかったが、誰かが実験紛いの事を組織だってやっているという漫画のような展開なのは久木も容易に想像できた。
そして、その結果を管理する人間達がいて、その人間の一人に目を付けられたのだろう事も納得は出来た。
一つだけ問題があるとすれば、ウィルステロ以降久木のようになってしまった者達を管理者達はそれ以上の力を持って制御できると確信している事だろう。
推測の域を出なくても【あんなもの】が全うでないのは久木の足りない頭でも理解できたし、それが最先端技術による代物ならば、少年の背後には国家規模の研究開発を行える資本が付いているはずで・・・結論は結局言われ通りにするしかないというものに落ち付く。
「久木? またボーっとして・・・本当にやる気があるの!?」
「・・・・・・」
ベンチの上で並んで双眼鏡を手にしている円子が目を逸らした久木を睨み付ける。
「出会った時はあんなに饒舌だった癖に・・・こんな時は静かなんて・・・それに暗いし、妙に視線も逸らすし・・・」
半ば愚痴だったが、サクッと久木の心にその言葉の刃は刺さった。
「あの時はそれなりにテンパってたから」
「テンパ・・・どういう意味?」
怪訝そうな顔の円子に育ちの良さが何となく垣間見えて久木は視線を逸らした。
「一杯一杯だったとか。そういう意味」
「冷静に人の一部を切り取れる人間がそんなわけないでしょう?」
何を馬鹿なと反論されて久木は自分が円子の中では未だに冷徹な通り魔なのを再確認した。
後から舐められる事はないだろうが、心を許す間柄にはなれそうもないなと少年としての心の何処かがガッカリし、EDGEとしての心の何処かがそれでいいと呟く。
「霜山さん。喉渇かない?」
「飲み物を買う暇があるなら、情報を収集したらどう?」
「この炎天下で途中倒れたら運ぶのは僕の方だけど」
「・・・二人分ですから」
財布から札を取り出す辺りが如何にも小銭なんて知りませんというお嬢様気質だったが、そんな事はおくびにも出さず、久木は近くの自販機に向う。
【お嬢様が好きな根暗君としてはナイト気取りなわけ?】
今まで黙っていた詩亜の言葉に久木がピタリとボタンの手前で指を止める。
「嘘は無意味なんだっけ・・・」
【近頃のARグラスはいいわよね~~生活測定ってのが製品の基礎だから心拍数とか発汗量まで分かるのよ?】
ユニバーサルデザインの一環で現代製品の多くには体の調子を計る装置が多く付け加えられている。
生活測定という名で広められた製品規格は寝台、便座、床、寝巻き、眼鏡と生活上常用するような品の殆どに端末との連動で肉体の値を簡易に測定する装置内臓を義務付ける。
嘗て嘘発見器や血圧計と言った商品が存在した時代は過去のものであり、今は身近な製品にそれらが超小型で内臓されている状況なのである。
それ故にその値から相手の状態を見抜くのは簡単だった。
勿論、ちゃんとした知識無しには相手の嘘など見抜きようがないわけだが、久木の相手はプログラム。
個人情報が駄々漏れな時点で嘘の付きようがない。
【ねぇ、それでどうして通り魔なんて始めたわけ? あんたはただの根暗君。しかも、折り紙つきの敗北主義者で最後に起動した時ですら【E‐STEEL】は廃棄しようとしてたじゃない?】
「そんな名前だったなんて僕も今始めて知った・・・」
【誤魔化せてないわ】
「幾ら人間みたいに振舞ってもプログラムに分からないって言ったら?」
【そうよ? そのプログラムに路を求めておきながらあんたは途中で投げ出した。弱者は所詮弱者。あんたは結局悪にも正義にもなれない一般人以下の半端野郎だった。『現在進行形』であんたの能力情報は更新してるけど、それでこんな馬鹿みたいな通り魔なんて始めたわけ?】
「今更止めろなんて言うのは手伝ってきた君に言えた事じゃない」
【止めないわよ。あんたが誰だろうと所有者として道を聞かれれば示すだけだもの。ただ、これは単純に高度な対人インターフェースである私の人格模倣確度の向上に必要だから聞いてみただけよ】
「今以上の存在になられても困るし・・・」
【今以上に虐めないから教えなさいよ】
「(絶対嘘だ)」
武器を作っている間も毒舌で散々にいびり倒された日々が久木の脳裏に甦る
【本当、本当♪】
美少女の姿を使ってプログラムがまったく仮借なく嘘を付くのだから、世も末なのかもしれないと彼は思った。
「ナチュラルに人の心を読まないなら教えてもいい」
【・・・いいわ。特定の動作以外の時は読まない。これでいい?】
ARを通して自販機の表面に張り付いた映像が真面目な顔で頷く。
「この力を手に入れたから僕は通り魔を始めた。でも、ただ単に理由もなく始めたわけでもない」
【今までの恨み?】
「僕がそんな事を動機に出来たのは君を最後に起動した時期くらいだから」
【じゃ、どんな理由なわけよ?】
「・・・・・・ウィルステロに付いては僕の考察も込みで情報は入力しておいたはずだけど」
【該当情報有り。ウィルス感染において覚醒した者には独特の生態が発生する】
「あの事件以来、嗅覚が変質してて・・・感染者が近くにいると妙な匂いがして気分が悪くなる」
【感染者特有の症状?】
「感染しても僕みたいに完全に発現してない連中はどうしてか逆に惹かれあってるみたいに集団になる事が多い。それで街を歩くと気分が悪くてしょうがない」
【気分が悪いから鼻を削がれたんじゃ、ただの通り魔確定じゃない】
「それだけなら別に家に引き篭もってれば良かったかもしれない。でも、一部だけ変化した人間が寄り集ってると妙に暴力的になって問題を起こしてた。それで一回そういうのに絡まれた事があって、殺されそうな勢いだったから変質した部分を思わず抉り取ったら―――」
『久木!!? いつまで悩んでるの!!?』
ボタンをサクッと押して落ちてきた飲料を取り出し、足がベンチへ向う。
【・・・尻に敷かれてるわね。さすがDOTE君】
話の腰を折られた形だったが、詩亜の暴言にも素知らぬ顔で久木はペットボトルを円子に差し出した。
「どっちがいい?」
「どっちでもいいわ。それよりもほら早くして頂戴!!」
サッとサイダーを奪い取り、双眼鏡を押し付けてくる相方に久木は何も言わず従った。
プシュッと缶が開き、爽やかな炭酸の弾ける音。
「今日は何処まで回るつもり?」
「全部と言いたいところだけど、終電を逃さない程度にするわ」
「それって全部・・・」
「何か文句があるのかしら?」
「僕の方にも協力する約束じゃなかった?」
「夕方からならいいわ」
「・・・了解」
【夕方から・・・ね】
久木だけに聞こえているのだろう詩亜の言葉に反応は返らず。
双眼鏡による現場の情報収集は続いた。
工場が立ち並ぶ一角。
駆けて行く二人の背中を見送って、虎は一キロ先の追尾車両を専用の義眼で観測していた。
尾行は一人。
どうやら事前の予想通り、公安とは違う組織、第十六機関のようだった。
「・・・・・・一流」
久重が外国で働いている間にソラと共にアズの下で働いた虎だったが、その中で多くの経験と知識を得て、少なからず【戦う人】としては練度を上げていた。
嘗て中国の犯罪組織の一員であった時はよく理解できなかった日本の組織の版図。
暗躍する多くの公式・非公式の組織達の関係。
それらをソラと共にアズから教育された。
家主が心配するかもしれないからと、その事実はソラと二人だけの秘密となっている。
裏社会の天才フィクサーからの教授を余す所無く吸収し、同時に幾つか専用の道具を与えられた虎は今や一介の工作員程度なら軽く捻る実力がある。
片手で専用義眼を通常のものと入れ替えた虎はトレンチコートの専用ポケットの中にそれを仕舞い込んで二重尾行を開始する。
「行く」
屋根から体が跳んだ。
トレンチコートの下にはアズから貸し出された強化服が着込まれている。
米軍の最新式は防弾能力は素材強度に頼る一方、何よりも取り回しと鋭敏さを重視する。
三世代程前まで強化服と言えば電池で動く着るロボット的なニュアンスを含んでいたものだが、そのトレンドは既に過ぎて、今では強化服の上からコートを着れば内側が分からない程に薄くなっている。
大きな銃器を振り回せるパワーは無い変わりにまるで獣の如く俊敏に作戦活動の展開を補助するパワードスーツは米軍の特殊部隊も実際に使用し、それなりの評価を得ていた。
弾丸など当らなければどうという事はない。
最終的に行き着いた強化服の至言はそこに尽きる。
無論、【ロボットを着る】方向の強化服は今も開発が進められているが、それは戦争でしか使えないような代物であり、威力や威圧感などを考慮しても使い勝手が良いとは言えない。
それを与えられた時、虎に渡された資料に刻印されたマークはソラに渡された黒いコートの時と同様のもの。
「あはは・・・」と苦笑いしていたソラの顔を見て虎の脳裏に?が浮かんだのはつい最近の事である。
(気付かれてない・・・)
CNTを織り込んだ伸縮自在の強靭な繊維。
極薄で折り曲げ自在のリチウムイオン電池。
電圧によって柔軟に変化する磁性流体。
肉体の神経伝達情報を読み取り緻密な同期を可能にするニューロチップ。
それらを一体としたパッケージは【連動擬似筋肉】と呼ばれる。
肌とスーツの間にはマイクロレベルの細さを持つ生分解性でしなやかな探査針が複数在り、肌に侵入して肉体とスーツを緻密に連動させていた。
全ては最新のバイオエレクトロニクスによって生み出された義手製造にも使われるBMI技術の産物。
機械と肉体の融合というSFにおける命題への答え。
(・・・監視)
恐ろしく跳躍した肉体が十数メートル先へ無事に着地して再びの跳躍を開始する。
時速50キロ以上まで徒歩による加速が可能であるスーツの性能は高い。
ソラのNDによる強化も加わっている虎はその気になれば八十キロ以上の高速で移動する事すら出来た。
(何のため・・・)
車両は緩々と距離を保ちつつ二人を追走している。
今までも公安や警察らしき影が朱憐の誘拐事件以降、久重の生活には付いて回っていたが、それにしても仕事を依頼した人間を監視するとは不可解だった。
不正が内容に見張るなんて事は在り得ない。
そもそもがアズへの依頼は非公式で公に出来る類のものではない。
つまり、依頼している機関側からすれば、事件解決の手段がある程度非合法である事など折込済みであるはずだ。
それを理解しながら監視しているという事にはただ単純に仕事が為されているか確認している以上の意味があるのではないかと虎には思えた。
(ヒサシゲ言った通り・・・変)
三人で捜査していた途中、監視に気付いた久重は首を傾げていた。
今更のように国家機関に監視される覚えがないと。
アズを通してそういった連中には釘が刺されているはずで、ソラやアズの能力の前に諜報活動なんてものは為す術もなく無意味極まりない。
仕事上そういった事を熟知していた青年にとって、その尾行はあまりにも不可解だったのだ。
「続行・・・」
とりあえず少しでも情報を得ようと虎は車両に近付いていった。
【深夜。東京湾沿岸部海上保安庁所有大型船舶後部デッキ】
今まで付いてきていた入管職員の去っていく背中を見つめながら我大牙はこれから己が置かれる新たな環境に思いを巡らしていた。
(警察上層部とも話が付いてるってわけか・・・)
どんなルートを使ったのか。
犯罪者として扱われているはずの大牙会組員は我東を含めて全員が警察に世話になる事は無かった。
海上保安庁の船舶に乗せられて新たな新天地であるギガフロート二号機へ向うとのお達しは既に組員全員が知るところである。
無論、手錠と指錠と縄で雁字搦めではあったが。
(背中が痒い時に野郎の手とかゾッとするが、仕方ねぇか)
職員達に次々と部屋の中へ押し込められていく。
「人生何が起こるか分からねぇもんだ・・・」
世界を渡ってきた我東は夜という言葉を忘れてしまった都市の空を見つめて呟いた。
その様子にいつもの笑みを崩さない丘田がひっそりと笑う。
「ええ、何があるか分からないのが人生。ですが、それこそ醍醐味ではないですか?」
振り返った我東が「違いねぇ」と唇の端を歪める。
「どんな人生計画を立てたところでイレギュラーというのはあります」
波音に独り言とも取れる声が消えていく。
「当方、行き当たりバッタリってやつでな。予想外だらけの人生だ。はは」
「最高の選択が最良の選択とは限りません。それと同様にその人間にとって最高の人生が最良かどうかは分かりません。そういう生き方も後から考えれば、最高ではなくとも最良だったのかもしれない」
「そういうアンタは日本人らしく何事にも精確そうだがな」
「いえいえ、世の中というのは机上の空論よろしく上手くいかない事ばかりだ。理想論では何も進まず、事実を直視して客観的な修整を加えなければ、とてもとても・・・」
「オレ達の事も修整ってわけかい?」
「大きなものではありませんが、無視できるようなものでもない、と言ったところですか」
「「・・・・・・」」
互いの顔に嘘は無い。
たぶん、これからも長くなるだろう相手に二人の男はライトに翳る互いの顔を焼き付ける。
「これからどうなるかは分からねぇが、よろしくやってくれや」
「こちらこそ」
二人の手がどちらからともなく差し出され、ガッチリと握手する寸前―――。
世界が揺れた。
「なッ!?」
「ッッ?!」
二人が船の手摺に掴まるのと急激に盛り上がった海面の傾斜に船が転覆するのは同時だった。
穏やかな東京湾には在り得ない波。
海に投げ出された我東は手の先のでっぱりだけは離さなかった。
十数秒間、激流に身を揉まれながらも船にしがみ付いたのは判断として正しい。
海中に投げ出されて一番危険なのは上下を間違える事。
海面に上がる前に息が切れれば溺死する。
横転した船の船内にはまだ空気が残っているはずで、上下の確認も合せれば最良の判断と言えた。
船の下層へと下りていく階段を見つけて、必死に這い上がり、顔を出す。
(何が起こってやがる!?)
その跡を追うように水の中から丘田が顔を出した。
「げほッ!? ごほッ!? はぁはぁ・・・何がどうなっているのか知りませんが高波のようです。船内にいる船員と組員の避難を」
丘田が懐から二本の鍵を取り出す。
「手錠と指錠の鍵です。緊急時に手も動かずに溺死させたとあってはこちらの信用にも傷が付く。出来れば、脱出の後は大人しくして頂ければ幸いなのですが」
「あんたの好意を無碍にする程、耄碌してるつもりはねぇよ。警察に圧力掛けて犯人の引き渡しもしなかった権力者に楯突くのはどう考えても馬鹿だろ?」
「はは、なら今の仕事を止めたら国政にでも参加してみましょうか」
二つの鍵が渡された。
「これから私は外の状況を確認してきます。船内の海上保安庁の職員に従って下さい」
「了解だ」
「では」
丘田がスーツを脱いで潜った。
十秒程の潜水で船から出て海上に顔を出す。
「ぷはッ。さて一体な――――」
東京の明るい夜だからこそ見えたのかもしれない。
一面の黒々とした壁が東京湾にそそり立っていた。
真直に見たからこそ、最初それが一体何なのか丘田には分からなかった。
しかし、立ち泳ぎのまま岸壁へと下がっていく事で全体像が露になる。
「耄碌した方が世の中幸せかもしれません」
引き攣った顔で丘田は確信した。
(原潜。こんな大きさの現在知られるどんな原潜とも合致しないものが存在するはずがない・・・もし、こんなものを造れるとすれば、それは巨大国家なみのパワーを持つ存在・・・まさか今まで追いかけていた【あの集団】が?)
仄かに浮かび上がる船体は黒曜石のような光沢を放ち、異様な存在感を発している。
「!?」
ガシュッと機械の作動音が鳴ったかと思えば、船体の各部に何かパイプのような突起が幾つか出た。
その突起に嫌な予感を覚えた丘田が水の中に頭を下げたのと二百数十度に達する超高温の蒸気が周辺を覆い尽したのは同時だった。
高温の蒸気は蒸発する際、熱量を奪っていく。
瞬間的に多量の蒸気が放出された東京湾の半分以上が刹那、白く染まり、蒸気の途絶と共に海面表層を凍り付かせた。
更に船体の各部から無数の突起が海中に沈みこみ海底に突き刺さる。
船体を固定すると同時に極低温となった突起から海水が急激に氷結していく。
その湾全体を凍り付かせようかという膨大なエネルギーは一キロ以上にも及ぶ船体を動かす原子炉から齎されていた。
炉心の冷却で使用された蒸気が熱量を奪い、渇いた氷を張らせていった。
その厚く張った氷の上へ上部を晒していた船体が半分以上開き始める。
展開されていく潜水艦。
まるで冗談のような光景。
巨大な船体の内側から折り紙を開くように折り畳まれた薄い銀幕が広がっていく。
張られた厚さ三メートル超の氷の浮力を得て大型重機が載ってもびくともしない大地が東京湾に出現した。
それは常識を超えた技術の産物。
潜水艦とは本来圧力に耐える為に分厚い金属の壁を周囲に張り巡らせている。
それを根底から覆したのは【鋼詰様式(Fill Style)】と呼ばれる船体の製造法にあった。
一重に潜水艦に限界深度というものが設けられているのは潜水艦内部に外部からの圧力を受ける空間が存在するからだ。
例えるなら、潜水艦とは空気を入れた風船のようなものであり、気圧が掛かれば掛かる程に内部の空気は圧縮され、やがて風船は耐え切れなくなって破壊される。
だが、これがもしただの石ころだったならば、同じ圧力下でも破壊される事はない。
結局のところ潜水艦の限界深度を引き下げる理由は内部に外部からの圧力の影響を受ける場所が極端に多いという事に尽きる。
人間は空気が無ければ生きられない。
これが無人の潜水艇ならば現在は深度一万を越えるものが幾つか存在する。
圧力を受ける領域が少ない、空気というものが内部に無い、石ころのような詰まっている構造だから、それらの無人潜水艇は遥か深海にまで往く事が可能なのだ。
東京湾に現われた原潜の最大の特徴はその積まれているあらゆるギミックに【活用不能領域】(デッドスペース)が殆ど無く船体内部に空気がほぼ存在しない事だった。
それは人間が一人乗るのもやっとという事を示すが、同時に内部に莫大な機材を積み込めるという事でもある。
機材は全て真空下で特殊なフィルムによって包まれ、高圧の流体を流し込まれる事で保存される。
同時に船内の人間が行う全ての行動は機械化され、内部の保守管理を行う小型のデバイス達が動く経路には高圧の調整油が流れている。
東京湾で開かれた船体は中国軍閥内で開発された他の同型艦とは違い、人間を乗せる事を想定していない仕様・・・たった一人の乗組員である男がドクター・ミーシャの潜水艦を魔改造した末の【作品】だった。
大地に薄らと内部を埋めていた高圧の流体が流れ出していく。
ギギギギギギギギギギギ―――。
それを追うかの如く。
大地を高速で這うようにして六角形の小型機械群が艦内から次々に湧き出していく。
まるで津波のような、蟻の群れのような機械達に遅れて、小山のようなソレが姿を現した。
例えるなら柔らかい黒い水風船に棒が一本突き立っているようなと言うべきか。
車輪も無限軌道も無いソレがコロコロと回転しながら次々に東京へと上陸する。
十数メートルという冗談のような大きさでありながらソレは慣性の法則に振り回される事もなかった。
建造物の横や公園、ビルの狭間、公道の上、様々な場所に丸い体を柔軟に変形、引っ付かせ設置されていく姿はユーモラスですらあったかもしれない。
柔らかな球体に付いている棒が紛れも無く巨大な砲身である事を知らなかったならば。
多くの軍人とミリタリーマニアは認めないかもしれなかったが、それは紛れも無く戦車砲だった。
速度こそ無いものの自走砲や戦車には無い複雑な地形の走破性を兼ね備えたソレは紛れも無く戦争の道具だった。
人間の乗っていない自動化された戦車というものならば存在するが、ソレは人間が乗らない事を前提とした戦車という兵器に提示された新時代のスタイル。
従来兵器を自動化したのではなく。
車両兵器が自動化されたのでもなく。
自動化兵器が戦車だった場合の一形態だった。
固定化されていない砲身。
球体内部の流体を制御する事によって複雑な地形でも柔軟に形を変化させられる自由度。
伸縮自在・あらゆる天候・地域に対応し、大地に根を張るように砲身を固定できる柔軟性。
市街地戦において動きが制限される戦車にはない踏破性が生み出す三次元的な戦闘での攻撃力。
どれを取っても通常兵器とは一線を画している。
ガキン。
そう固定される音が響き、湾岸に展開されたソレの砲身がそれぞれの目標へと向いた。
第一射はソレの全ての設置が完了したと同時だった。
合計二十四発の砲弾が発射され、二十発が十キロ以上先の目標十五メートル圏内に着弾。
四発が誤差で百メートル以上離れた無関係の地域に落ちた。
砲身から上がる煙は戦場の狼煙。
東京の夜に阿鼻叫喚の地獄絵図が生み出された。
【第三世界サハラ以南疫病封鎖区域無人区画】
目的地に着くまで少し時間があるな。
ふむ・・・一つ哲学の話でもしないか。
唐突だって?
それは認めよう。
何故そんな話をするのか?
まぁ、単純にこれから君が足を踏み入れる場所にはそれが渦巻いているからさ。
一応、聞いておきたまえ。
これは先輩風を吹かせる男からの手向けだ。
どんな経緯で君が此処に来る事になったのかは知らないが、同僚になる以上は踏まえていて欲しいことがある。
こういう話は知っておいて損は無いし、そう難しい事でもない。
少なくとも宇宙の果てを想像するよりも簡単だ。
科学の話と本質的に何も違いはしない。
含蓄のある言葉やら人生における指針やら果ては人々を動かす思想に至るまで。
この世の全ては哲学というものを含んでいるという、それだけの事だからだ。
その一端が分かる哲学の用語を一般的に【止揚】と言うんだが、聞いた事はあるかな?
無いなら、少し聞いてくれたまえ。
哲学には事物は止揚されて結果を得て次の段階に移るという考えがある。
その繰り返しの中で人々は生きていると言ってもいい。
だから、一般的なものに例えれば、宗教にある輪廻だとか、企業にある改善だとか、そういうのは止揚というものを現すには丁度いいだろう。
良し悪しに関して言うならば、悪い事にもソレはある。
例えば、延々と続く民族紛争だとか、人々の憎しみだとか、終わらない不況だとか。
この一連を形とした時、それは螺旋や回転という言葉にする事も出来るが、それを断ち切るというのもまた【止揚する】という事に他ならない。
それは人が物事を捉えて噛み砕く時に使う目的・過程・結果という流れそのものだ。
止揚とは【世界】を端的に表した言葉であり、あらゆる言葉の中で最も事物の本質を捉えている。
きっと、文明が滅び、宇宙が消え、時間も空間も消え果て、素粒子すら去っても、世界は止揚され続けていく。
付いてこれているかね?
まぁ、観念的な話になってしまうが、止揚とはそういうものだ。
そして、その止揚されていく有様をすっかり飲み干す為に此処はある。
故に心の何処かに止めておいて欲しい。
世界は止揚され続けている。
結果は過程であり、過程は結果としての役割を果たして次へと向う。
此処での学問研究も同じ。
その役割は人を幸福にするだとか法則性を知って悦に浸る事ではない。
金を得たり、技術で何かを破滅させたり救ったりする事でもない。
突き詰めていく先に新たな結果を得て、それを過程として次へと向う。
それだけのものだ。
個々人の思い入れやお題目は持ってもいいが、それは副次的に手に入るだけの代物と思ってもらいたい。
次ぎへ。
それが唯一この場所が掲げる標語だ。
無論、現実的な目標が無いわけではないよ?
此処は純粋に次へ向う為の場所だが、だからと言って世俗的な世界と無縁で居られるような場所でもない。
次へ向う事は出来ても何処に向うのか迷うのが人というものだから間違う事もある。
ただ、我々は法を犯し、倫理を越え、人としての良心など棄てて研究と成果を求めたからこそ此処にいるという事は忘れないで欲しい。
それ相応に代償というものは必ず払われる。
安らかな死は期待できず、絶望の只中で無為に死んでいく事は前提だ。
凡そ人間的な終わり方は望めないのは言うまでもない。
浮かない顔だな。
では、もう一つ教えておこう。
天国も地獄も我々の管轄外だが、まぁ一応ジンクス程度は此処にもあってね。
これは嘗て一人の男が言い出した言葉なんだが、此処の誰もが常にその言葉を胸に留めて研究に励んでいる。
男が此処の中で最も非凡だったからかもしれない。
真似というわけではないが、すっかり定着してしまってね。
きっとその男のようになろうと研究者の誰もがその言葉を使う。
我々は己の非人間性を自覚する時、あるいはその男の跡を追う己に気付いた時、誰もがこう言うんだ。
自嘲と僅かな誇りを抱いて。
いつか来る破滅に微笑んで。
己の墓穴を掘る音を幸せに聞いた男のような気持ちで。
悪魔に笑われている・・・とね。
――――――扉が開いた。
「おお、その彼が今日来る新人かい?」
「新人君。君は運が良いようだね」
「今日は祝うべき日だ」
「やっと我々の研究の成果の一端が・・・」
「これでようやく実戦データの収集に取り掛かれる」
「生憎と此処にはレーションとコーヒーしかないが共に祝おう」
「さぁ、【M計画】のフェーズが繰り上がるぞ」
「ははは、理解してない様子だがいいのかね?」
「構わないさ」
「【博士】・・・貴方の望んだ世界への一歩をどうか見守っていて下さい」
「【兵隊(D‐NON)】初期型の完成だ」
「【オリジナルロット】を制御コアにした我々の【Dではない者達】・・・此処まで来たか」
「【D3】より【D7】までの調整が終わったと中央本部、北米、中東、EU、ASEAN支部より入電」
「委員長の演説が始まります」
「委員会総員よる声明とはな」
「不思議そうな顔だな。だが、これから歴史が変わるのだから此処の人間である以上浮かれないわけもない。君も見ていくといい。彼らは現時点世界最高の頭脳集団だ。今日人類は蒸気機関や原子力を手に入れた時以上の力を持つ事となる」
巨大なスクリーンに可愛らしい子犬が映る。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・諸君。
親愛なる燦然たる嚆矢足りえる諸君。
僕はこの日が来た事を嬉しく思う。
満願成就は成らずとも計画は軌道に乗った。
これらは全て等しく諸君の功績だ。
我々は技術者であり科学者であり探求者であり、何よりも次の場へ向う冒険者である。
多くの血を流し、幾多の奈落を越え、この日へと至った。
犠牲にしてきたものは過大で、得てきたものは僅かに過ぎない。
それでも項垂れる事なく進んできたからこそ、今を迎える事が出来たのは言うまでも無いだろう。
全ては一重に諸君の努力と忍耐と閃きに拠る。
故に僕は・・・此処で革新する技術は、此処で完成した知識は、この世の人々を動かすに足ると信奉する。
諸君は必ず見るだろう。
我々が得てきた技術の精粋によって歴史が変わる日を。
諸君はきっと感じる事だろう。
我々の人生を掛けて培った知識が世界を変えていく様を。
諸君、次へ向おう。
この日を迎えられなかった者達の為に。
お前の発見した成果は、お前の確立した技術は、決して無駄ではなかったと、そう散った者達へ伝える為に。
この場にいない【彼】がいつか語った夢は物語ではない。
確かな重さを持って我々の手の中にある。
【彼】が残した【Dシリーズ】は今、我々の糧となって【D‐NON】へと昇華された。
【SE】はやがてこの手に戻り、その役目を果たすだろう。
全研究員に委員会の総意を伝える。
今日を持って【M計画】はフェーズ3へ移行。
これより我々は一月の後、関連ミッション137の内で最も難関とされた【カウントアップ・オペレーション】及び【モップアップ・オペレーション】を開始する。
目標、地球人類総人口及びG8主要軍事基地。
この日が人類にとって新たな転機となる事を切に願う。
計画の進展を待たずして逝った【彼】に哀悼の意を表して、これを委員長以下全委員の声明とする。
――――――暗く深い世界に明かりが点る。
「委員会から命令。現在、ニューヨークにて交戦中の人員へのバックアップに【D‐NON】の出撃命令が出ました」
「初出撃だな」
「北米の出撃可能個体数は?」
「全個体出撃可能だそうです」
「実戦投入する為の準備は全て整ったか。【D‐NON】の補正データの取得が主目的だな・・・」
「目標は【十三人】の一人らしいとの情報が」
「そうか・・・現在の諜報部実働部隊筆頭は【博士】の助手だったあの男だ。早々に敗北する事は無いだろう。彼の下にはND融合実験の基礎研究素体もある。何処まで食い下がるか見せてもらおう」
「勝てるでしょうか?」
「目標が彼らの一人だと言うなら相手にとって不足無し・・・委員会の動きには気を配っておけ。この場所を引き払うのも近いかもしれん」
「置いていかれているようなんだが、新入りがポカンとしてるぞ」
「済まないね。此処は良くも悪くも研究者連中ばかりだから気が回らないんだ。おい誰か!! 施設の案内を」
「お任せしても?」
「ああ、構わない」
「良かったな。新入り」
「まぁ、見るものなんて研究機器と研究素材の保管庫、それから研究中の実験体くらいしかありませんが、どうぞ気楽に回ってください」
「では、行こうか」
「・・・・・・見ておくといい。これから君を待っているのは科学者の業に裏打ちされた世界最高の研究設備と素材、そして地獄のような現実だけだ」
――――――火中に没する死者の気分で新たな【連中】の一人は破滅への扉を己の手で、開いた。