第十五話 死に到る病
第十五話 死に到る病
枯れてしまった樹に少女は水を掛けていた。
何度も何度も涸れた井戸から僅かな水を汲む。
他の誰かが野次を飛ばす。
そんなの無駄だ。
諦めろ。
それでも少女は日に何度も何度も水を運ぶ。
やがて、涸れ井戸が水を一滴も吐き出さなくなった頃。
少女は己の血を少しずつ与えるようになった。
誰もが言った。
もう止めろ、と。
それでも少女は血を注いだ。
どんなに苦しい時でも、どんなに渇いた時でも。
やがて、彼女に誰も何も言わなくなった。
少女は年月を費やした。
枯れ枝に新芽が芽吹いたのは少女がいなくなった後。
少女はついに花を咲かせた樹を見る事は無かった。
そんな夢を見た。
*
「ひさしげ」
ゆさゆさと揺さぶられて目を覚ました久重が欠伸を噛み殺す。
「・・・ひさしげって大物な気がする」
半眼のソラが溜息を吐いた。
「悪い。だが、こうも交渉が長期化すると・・・ふぁ・・・」
二人が座ったソファーは革張りの高級品だった。
「「「「「「・・・・・・・・・」」」」」」
久重が視線に気付いて横を見る。
強面なセールスマンが六人ほど直立不動で立っていた。
「今夜で四日目。 アズにしては珍しい」
「そうなの?」
「まぁ、こういう所でここまで話が長引くってのは中々無いな」
ソラが辺りを見回した。
何故か国旗と大きな家紋らしき文様を縫い付けられた布が並んでいた。
何故か日本刀が二つの布の下に置かれている。
何故か虎の毛皮が壁には掛けられている。
最初こそ驚いたものの、四日もくれば見慣れた景色にソラが今の今まで黙っていた疑問を久重の耳にヒソヒソと呟く。
「・・・・・・ねぇ久重。ここってあの有名な【YAKUZA】の事務所?」
「何が有名かは訊かないが、あまり違わないな」
「?」
「基本的にお世話になりたくない場所という意味じゃ同じか?」
解らないという顔をするソラに久重が向き合う。
「ここは簡単に言うと和僑の事務所だ。厳密にはヤクザとは違う。外国からの逆輸入な分、現在の日本のヤクザより昔堅気なヤクザなんて希少価値かもしれない。解り易い例えにすると日本人より日本好きな外国人みたいなもんだな」
ジロリと一斉に視線が二人に突き刺さる。
「ひ、ひさしげ!? そ、そんな事言っていいの?」
ソラがサラリと言ってのける久重の言葉に慌てた。
案の定。
細身でメガネを掛けた強面のセールスマンが二人の前に進み出る。
「!?」
ソラがビクリと体を震わせると近づいてきたその男がニッコリと微笑んだ。
「お嬢さん。そう身構えなくともいいです。横の方の言っている事は殆ど当たりですから」
外見とは裏腹に柔らかな物腰にソラが拍子抜けしたように男を見つめる。
「我々のような和僑。とりわけ、外国で最下層から組織に拾われたような人間は日本のヤクザなんかとはそもそもの成り立ちが違います。日本は様々な差別や貧困層からあぶれた人間がよくこちらの道に来ますが、我々は基本的に自警団的な意味合いが強い組織がコミュニティーを守る為の尖兵として招き入れるのが常道。故にどちらかと言うと本当に昭和までは残っていた日本古来のヤクザに近い立ち位置なんです」
「そ、そう、なんですか・・・?」
おずおずと訊くソラに男がニッコリとして名刺を差し出す。
「【大牙会】で税理士をしている『伊佐・ジョージ・由木』です。どうぞよろしく」
「は、はい・・・」
ソラが差し出された名刺を受け取ると久重が伊佐に振り向いた。
「伊佐さん、でいいか?」
「ええ、構いません」
「あんた三日目まではいなかったよな? 今日はどうしてまた?」
「はい。そろそろ話が付きそうだと言うので様子を見に来まして」
伊佐の笑みに久重が内心で警戒心を引き上げる。
「【大牙会】って名前はあまり聞かないんだが、日本で活動し始めたのって近頃の話なのか?」
「そうですね。日本での活動はここ数年の話で未だ新参者と言っていいかと」
久重が僅かな違和感に首を傾げる。
「和僑の殆どは貿易商を兼ねてるのが常識だが、何でジオプロフィットに手を出した? こっちの分野は基本的に地元の同業者が食い合うから、新参者が参入するには辛いはずだろ?」
「いえ、ウチの頭は先を見据えなさる人で。それでこれからはこっちで食っていけるんじゃないかと道を模索してる最中なんですよ」
「アズが出張るなんて相当に珍しいからな。大成功ってところじゃないか?」
「褒められても何も出せない台所事情でいつもカツカツですよ。恥ずかしいですが組のもんに食わせていくのが精一杯でして」
頭を掻きながら伊佐が苦笑いした時だった。
何かが割れる物音がした。
反応して伊佐が目つきも鋭く横の別室に向かう。
久重とソラが即座に立ち上がり、それに続いた。
「どういう意味だコラァ!?」
「止めねぇか。馬鹿たれ」
別室で床に灰皿が割れていた。
一人激昂している比較的若い男の額には青筋が浮かび、もう一方の黒い羽織姿の六十代の男が若い男を制止していた。
「ちなみにこれは僕からの純然たる善意であるとお忘れなく」
いつもの胡散臭い笑みでニコリとしたアズの顔に久重がドッと疲れた顔をする。
「・・・アズさん。あんたの言葉が真実だとすりゃ、オレ達はさっさと此処を引き払わないと壊滅するって聞こえるんだが。そういう事でいいのかい?」
「ええ。ちなみにこっちは商売相手が消えると色々と不都合があるので情報はサービスにしときます」
「ちなみに期限は?」
「今すぐにでも」
「さすがにそりゃ無理ってもんだ。組の連中を全員移動させるとなりゃ色々と運ばなきゃならんもんが多過ぎる」
「お宅が運んだものはそれだけ危ないものだったという話です。運ぶものくらいは選んだ方が良かった」
「そんなにアレが拙いものだって言うのかい?」
「拙いで済めばいいですが」
「・・・・・・おい。組のもんに全員集合を掛けろ。事務所を移す」
「頭!?」
その場にいた誰もが六十代の男の発言に驚いていた。
「こんな若い女の言葉を信じるんですかい!?」
「君にも見習わせたい発言だよ。久重」
「お断りだ」
アズの微笑にキッパリと久重が返す。
「勘てのは無視すると時々酷ぇ目に合う。オレの勘が正しけりゃ、この人の言ってる事に間違いは無ぇな」
最初に灰皿を落とした男がその言葉に何かを言おうとした時だった。
「そん―――?」
ビチャリと男の口から血が飛び散った。
【!?】
その場の誰もが固まる。
そして、男が倒れ、咳き込み始める。
咄嗟にその場から一歩引いたアズが久重に視線を走らせた。
「おい!? 大丈夫か!?」
倒れた男に伊佐が駆け寄ろうとした時、久重がその手を掴んで止める。
「何を!?」
「何かのウィルスや病気だった場合、血に触れればアウトって事もある。まずは救急車とこの場の全員を退避させた方が無難だ」
「・・・解った。おい!! 今からこの部屋は立ち入り禁止だ。他の連中にも声を掛けて警戒させておけ!! それから基本的に二人一組で必ず行動するようにと―――」
伊佐が場を取り仕切り始める。
慌しくなっていく事務所内で黒の羽織を着た男がボリボリと頭を掻いた。
「こりゃ行動するのが遅れちまったか?」
「まずは病院に行って検査した方が身の為だと忠告しておきます」
アズの言葉に男が倒れこんだ部下に視線をやる。
「おい。こんなとこで死ぬなよ? まだテメェもやりてぇ事一杯あるだろ?」
「―――は・・い。おか・・・しら・・・」
途切れ途切れの返答を耳にしながらその場の全員がすぐに部屋を退出した。
ドラックストアから買ってきたのか。
男達が数分後にはマスクと手袋を次々に着用し始める。
「あんた達も」
伊佐がマスクを渡そうとしてくるとアズがソラに視線を向ける。
「必要かい? ソラ嬢」
「要らない。でも、このウィルスは・・・危険」
「解るのかソラ?」
久重の声にソラが頷く。
「この系統のウィルスにしては繁殖力が尋常じゃない。空気感染しないみたいだけど血に触れたらアウトだと思う」
ソラが難しい顔で虚空を見つめている光景に伊佐が僅かに目を見開いた。
「その・・・お嬢さんは一体何をしてなさるんですか?」
「色々と」
アズが笑顔で答えた。
「色々・・・ですか」
「ええ」
その返答から答える気が更々無い事が解ったのか伊佐が他の組員へとマスクと手袋を配りにその場から遠ざかっていった。
「ちなみにこの場にいた他の人間に感染してるかどうかは解るか?」
「ひさしげとアズは大丈夫。私といる時はいつもNDで基本的に守られてるから。私の場合はウィルスや病原体に対してNDが繁殖する前に除去してくれるから何ともない。他の人は体温が普通だからまだ大丈夫だと思う」
「つくづく便利だなNDって奴は」
感心する久重にソラが難しい顔をして首を振る。
「それでもやっぱり感染症なんかの重篤患者までは治せない。DNAの解析データと現在の細胞構造。他にも色々な情報が無いとNDでの治療は無理だから・・・」
自分では治せない罪悪感から暗い顔をするソラの頭を久重が撫でた。
ソラが久重の服の端をキュッと握り、撫でられがままに受け入れる。
「頭!! 救急車が後数分で着くそうです」
ソラがその声に反応して伊佐に近寄った。
「何ですか。お嬢さん?」
伊佐の耳元でソラが囁く。
「それは・・・本当ですか?」
僅かに驚いた顔の伊佐にコクリと頷いてソラが真摯な顔で頷く。
「解りました。救急隊員にはそう伝えておきます」
ソラが久重の下へと戻ろうとするとその背中に声が掛かる。
「ありがとうございます」
伊佐の丁寧な言葉にソラは振り返って再び頷いた。
そろそろ潮時かと事務所内部で部下達に指示を出していた黒い羽織の男にアズが声を掛ける。
「それじゃ、僕達はそろそろお暇させてもらいます」
「大丈夫ですかい?」
「ええ。そちらこそ気を付けた方がいい。相手が本気になる前に此処を引き払う事をお勧めしておきます」
「今回の件はやはりさっきのくだりで出てきた?」
「ほぼ、間違いなく。あなた達が運んだものの手口と一緒です」
「・・・解りやした。その情報への対価は必ず」
「サービスですから。お宅も大変でしょうし、商談はまた後日。一息着いたら連絡を」
そう言い置いてアズが番号だけが書かれた名刺をそっと手渡し、事務所を後にした。
クーペが事務所から遠ざかるのと同時に救急車のサイレンが聞こえ始める。
慌しい事務所周辺を見えなくなるまで後部座席からいソラが見つめていた。
「それでアレって何の事なんだ?」
助手席の久重の疑問にアズが視線も寄越さず声だけで答える。
「【大牙会】が近頃運んだものが相当にヤバイ代物だったのさ」
「テメェが言うならさぞかし危険なものに違いないと思うがバイオテロされる程のものなのか?」
「本来は第三世界、アフリカで猛威を振るっていたらしいけどね。何の因果かこっちに流されてきた。情報だけは入っていたけど運び屋が何処かまでは掴んでなくて。ようやく運び屋の名前が解ったと思ったら」
「自分の交渉相手だった・・・か」
アズの言葉を引き継いだ久重が苦い顔をした。
「ちなみに核心は?」
「僕が掴んだ限りじゃ、戦略兵器」
「―――さすがにんなもんを日本に持ち込めるものなのか?」
「それが本当に兵器の形をしていれば、持込は防げたかもしれない。でも、それが兵器とは無縁の形をしていたらどうだい?」
「兵器とは無縁・・・?」
「ちなみに持ち込まれた経緯までは掴んでる。ソレは自分の意思で運んでくれと【大牙会】に接触を持った。そして、ソレは自分の意思で日本まで来た。その跡をまるで掃除するように誰かが意図的に情報を消して回らなければ僕も感づかなかったね」
「自分の意思って・・・まさか」
「人間さ。そして、僕が掴んだ限りの情報を総合するとソレは限りなく真っ黒な兵器だ」
「今回の件と内容から察するに病原体の保菌者か?」
「今までもそういう例は世界に幾つもある。難病の抗体を持っている為、自分だけは病で死なず、自分の周囲に病気をばら撒く。でも、もし自分の周囲に病気を『意識的にばら撒く』事が出来るとしたらどう?」
「だから、戦略兵器なのか? 病気の種類にも因るが確かにヤバイな」
「それだけなら戦略兵器の名は要らないよ。問題なのはその病気の種類じゃなくて病気の数だ」
「何?」
久重の額に嫌な汗が伝う。
「僕が調べた限りだと第三世界で流行した疫病は三百種以上。その殆どが同時多発的に一定の区域から広まって広大なアフリカを覆い尽くした」
「今回のは運がいい。いや、手加減されたのか?」
久重があまりの話に思わずアズに訊く。
「ちなみに疫病とそれに端を発した紛争やらで二千万人は死んでる。紛争と言っても敵も味方もバッタバッタ逝ったから殆ど発生初期で自然消滅したらしいけどね」
「・・・・・・」
後味の悪い話に久重が口を噤んだ。
アズは躊躇無く話を続ける。
「誰が付けたか知らないけど、ソレの名を知っている輩はソレをこう呼んだ」
「テラトーマ」
「ソラ?」
久重が後ろを向くとソラが沈んだ様子で俯いていた。
後部座席から聞こえてきた言葉にアズがバックミラーを思わず見た。
「知ってたのかい?」
俯いたままのソラの表情を久重は確認できなかった。
「戦略兵器テラトーマ。【ITEND】のバイオ工学部門から兵器開発部門に移転された技術で生み出された唯一の兵器。【連中】が地球環境改善の為に人口コントロールの要として開発したの。でも、一個体が能力を完全開放しただけで人類が滅びかねないスペックだったから製造は初期ロットで中止。それ以降は造られてない」
いつの間にか路肩にクーペが止まっていた。
久重が思わずソラに手を伸ばそうとして、ソラがその手をそっと掴んだ。
「本来は私に積まれるはずだったもの・・・なの・・・」
「ソラ・・・もういい」
「逃げ出す時に見た情報だと【連中】の造ったテラトーマの完成度は七十%未満。運用データや病原体の種類なんかの完全な調整を含めて、私に移植される手筈になって」
「もういい」
「でも!?」
顔を上げた少女の目尻を久重が差し出した指で拭い、車を降りる。
「アズ。後は二人で帰る。いいか?」
「構わないよ。若い二人を邪魔する程野暮じゃないさ」
後部座席のドアを開けてソラの手を引いた久重がポケットから出したハンカチでソラの泣き顔を拭いた。
「それじゃ、明日はお休みだから」
気を利かせたらしいアズの声に内心で感謝しながら久重は車を見送った。
「・・・・・・」
「ゆっくり聞かせてくれるか?」
「・・・うん」
トボトボと覚束ない足取りの少女に寄り添いながら久重は話しかけもせず黙って歩く。
傍にいてやる事しか出来ないもどかしさに歯噛みしながら、少女の手を決して離さないよう強く握った。
やがて、ポツリポツリとソラが語り始める。
「・・・・・・テラトーマはBSL-4、物凄く厳重な施設でしか生成出来ない兵器なの。無数の病原を一個体に共存させて尚且つ制御する。それは従来の科学技術では殆ど不可能に近かった。でも、博士の造ったNDはその常識を覆した」
「確かに凄い技術だよな・・・」
「うん・・・施設ではNDの実用的な計画を幾つかの分野に分けて研究開発してた。博士は専ら兵器開発部門担当だったけど、他の開発部門から研究成果を借りて人の為になる研究も幾つかしてた」
「その結果の一つがそのテラトーマって奴なのか?」
ソラが頷く。
「NDによる厳密な病原体の保存と管理、分かりやすく言うとNDを使った人工免疫プログラム。それがあれば病原菌を保持したまま日常生活が送れる。つまり、本来はエイズや他の病原体なんかの活性を抑えたりする事を目的にして開発されたのがテラトーマ・レゾナンス・システム。TRSだった」
「TRS?」
「病原体は発症する為の条件が幾つもある。だから、その発症条件を満たさない生体情報を、他の健康な人間の体なんかを基にしてリアルタイムで体に上書きする。NDの生体融合実験の過程で出来た技術の一つで、それがあれば幾つかの制約はあるけど現存するどんな病原体に掛かっても病気の進行や発症は抑えられるって・・・ひさしげ分かる?」
「つまり・・・あーなんだ。他人の健康な状態をNDで無理やり再現するって事か?」
「・・・ひさしげって結構頭いい?」
「結構は余計だ」
僅かにソラが笑うものの再び表情を硬くする。
「それで軍事転用技術としてもTRSは優秀だったから、ND保有者の肉体制御にも使われた。でも、病原体を制御する技術を【連中】は最も残酷な形で兵器に転用した」
「それが戦略兵器テラトーマ?」
「うん。テラトーマって日本語だと奇形腫って言葉になるんだけど、それは技術的なところから来てて。ひさしげは他の人間の生体情報を別の人間に上書きしたらどうなると思う?」
「それは・・・何かしらの弊害があるんじゃないか? 普通の臓器移植も他の人間から移植すると免疫系の薬とか一生飲まなきゃならないらしいし」
「そう。だから、TRSで上書きする健康な肉体情報をどこから持ってきたらいいかって話になる。だから、病原体が病気を発症させられない細胞の情報を保有する分身を作った」
「まさかクローニング技術か?」
呑み込みの早い久重にソラが首を横に振る。
「人間一人分をクローニングするのは凄い手間と時間が掛かる。整備費なんかも見合わない。だから、IPS細胞技術で作った正常な細胞の塊で奇形種テラトーマを人工的に作ったの。【連中】はその技術の先で逆に病原体を保存するテラトーマを人間の生体情報で管理するって方法を見出した」
「つまり、病原体を保持した自分の細胞の分身が兵器になるって事か?」
ソラが僅かに沈黙した。
「・・・戦略兵器テラトーマのオーナーはその体にテラトーマを取り込まされる。それはつまり生きた病原体の保管庫になるって事。NDとTRSで保存されたテラトーマを肉体に取り込んだ人間は歩く核弾頭に等しい存在になる。どんな国も滅ぼすのは簡単。能力を解放するだけでその国は滅亡するんだから」
「・・・・・・」
ソラが続ける。
「比較的死亡率の低い病原体で同じような発症条件を持つものを数個ずつ、それ以外の絶対に流行させてはいけない病原体は一つずつ、各テラトーマは保管してる。全身に植えつけられるテラトーマの数は大体四百個前後。人類を百度絶滅させて余りあるって言われてた」
「確かにそれなら戦略兵器で間違いない、か」
「隔離してない場所でもしオーナーが死ねばNDは全ての病原体を解放する。NDで特定の病原体を他人に運ぶ事も出来る。安全に倒す方法はオーナーと周囲の病原体飛散予想地域を同時に千度以上の炎で焼き尽くす事だけ。そして、それが実現できるのは今現在の兵器では・・・・・・」
(核弾頭や気化弾頭だけ、か)
ソラが何を言いたいのか察した久重はとりあえず、笑う事にした。
「ま、何とかなるだろ」
「ひさしげ?」
「オレはどんな状況だろうが二度と君を死なせないと決めた。それがもし誰かの犠牲の上にしか成り立たないと言うなら、覚悟はしよう。その時が来たら泣くかもしれない。でも、絶対に守った事に後悔はない。それだけは言える」
「ダメ・・・そんな事言われたら私・・・」
身を引こうとしたソラの手を久重が握る。
「頼っていい。オレは、オレ達はもう家族みたいなもんだろう?」
「か・・・ぞく?」
「一緒に飯を食って、一緒に笑い合って、何かもう何年も一緒に暮らしてるような気がしてるからな。迷惑か?」
手だけが握り返される。
その握り返された手に宿る力の強さが久重には嬉しかった。
「話してる間に到着っと」
ソラが顔を上げるともうアパートの前まで来ていた。
二人が二階の階段を上がる。
「「?!」」
暗闇の中進んだ二人が通路の先に人影を見つけた。
そのタイミングに恣意的なものを感じた二人が警戒心から止まった。
カツカツと硬い靴底の音。
歩いてくる姿がやがて常夜灯の僅かな光に照らし出される。
「―――――――!!?」
ソラが驚愕に体を強張らせた。
「へぇ、今はその人が貴女の保護者?」
ツインテールの髪が揺れる。
映し出されたのは端正な少女の顔だった。
十三歳程の日本人と久重には見えた。
小豆色の外套を羽織り、ソラよりも幾分か背が低い。
その顔には僅かなソラへの嘲りが込められている。
「【連中】からの命令を教えておくわ。ソラ・スクリプトゥーラは現時点では要監視対象である。対象の能力査定が済むまで一切の戦闘行動を禁じる。以下の条件において対象への干渉を許可する。一つ対象への敵対行動を取らない事。二つ対象を無闇に挑発しない事。三つ【D1】の調査を行う事」
ソラの目の前まで歩いてきた小柄な少女がソラを睨み付ける。
「グランマを死なせた貴女が博士すら死なせて未だ笑っているなんて滑稽だわ」
ソラが後ろに下る。
「自分がどれだけ罪深いか自覚してないの? それとも現実逃避? どちらにしろ貴女の友達は誰も貴女を赦したりしないわよ。ソラッ!」
少女が吼え、ソラはその声に威圧されながらも踏み止まった。
後ろにいる久重の事を思い出していなければ、逃げ出していたかもしれない視線を前にソラが拳を握る。
「シャフ・・・まさか貴女がテラトーマ!?」
ソラの驚きようにシャフと呼ばれた少女が嗤う。
「そうよ? どんなに近くで監視しようと絶対に貴女が手を出せない兵器。それがあたし」
「今日のあの事務所での一件も?」
「挨拶代わりよ」
ソラが僅かに震えた。
その様子にシャフが得意げ顔で笑う。
「大丈夫。まだ、死人は出てないはずだから。せいぜい半年も入院したら日本じゃ治るようなのにしといたし」
「他の人を巻き込まないで!」
「それはここまで他人を巻き込んだ人間の言う事じゃないわ。【連中】がご執心な【D1】の機能を赤の他人に渡した時点でアタシと貴女の何が違うっていうの?」
唇を噛んだソラがジッと耐えるように俯く。
見かねた久重がソラの前に出た。
「ひさしげ?!」
「何アンタ? 聞いてないの? アタシに攻撃するって事は国を滅ぼすのを覚悟しろって話なのよ。ま、一番最初に死ぬのはアンタだけ―――」
バチンと世闇に響く程の音量が鳴った。
――――――――――――――――。
一瞬、静寂がその場を支配する。
シャフが信じられないように放心して、無意識に自分の張られた頬を触り、久重を見上げた。
「それが人に傷つけられる痛みだ。お前が誰かに向ける力がもたらす痛みはこんなもんじゃない。覚えておけ」
「ひ、ひさしげ!?」
慌てたようにシャフの頬を張った手をソラが掴んだ。
「―――な、ア、アタ、アタシにひ、平手!?」
混乱したように瞳の焦点をブレさせて、シャフの目尻からジワリと涙が浮く。
「来い」
ドアの鍵を回して扉を開けた久重がソラに掴まれているのとは反対の手でシャフの外套を首根っこから捕まえた。
「な、は、放?!」
「黙ってろ」
ポイッと部屋にシャフが放り込まれる。
唖然としたソラが呆然としていた状態から即座に復帰する。
「ひ、ひさしげ!? シャフはテラトーマでこんな事したら!?」
「悪いが少し世間を舐めてるガキに色々と教えておかないと気が済まない」
(ひさしげの目、据わってる!?)
ツカツカと玄関から内部へと入っていった久重を追ったソラが見たのは涙目で怒り喚くシャフを相手にせず救急箱を取り出すという意味不明なシーンだった。
遂に切れたシャフがNDの力で久重の背後から殴り掛かる。
ポーン。
その光景は擬音にするならば、そんな具合だった。
強化されていたシャフの身体能力を物ともせず久重が片腕で投げていた。
相手の力を利用しているのか。
一回転したシャフが畳みに強か体を打ちつけ、目を白黒させる。
何をされたか解ってないシャフが身を起こした時にはもう久重が救急箱から大きな絆創膏とスプレー状の傷薬を出していた。
「ジッとしてろ」
「な、何する気!?」
「黙れ。沁みるぞ」
「は、はぁ?!」
思い切り口を空けて驚くシャフの頬にブシャアアアアアアとスプレーが過剰気味に薬品を撒布した。
久重に頬を張られて僅かに切れていた口の中に薬剤が沁みこみ、シャフが思わず畳みの上を転げ回った。
「ほれ、立て」
「ひゃ、ひゃめ!?」
反射的に逃げ出そうとするシャフを捕まえ、久重が張った方の頬へ大きな絆創膏がベチリと貼り付けられる。
沁みる薬を擦り込まれ、シャフがビクンと全身を震えさせた後、グッタリと畳みにへたり込んだ。
「いいか。誰かを傷つける事に言い訳するな。お前がもしも人をオレ達への報復で殺すなら、それはオレ達のせいじゃない。ただ、お前自身の選択の結果だ。もしも、お前がオレ達の大切な人を殺したならオレはお前を憎む。この行動がお前を誰かの殺害に駆り立てるって言うなら此処でケリを付ける。もしもお前が此処で何らかの手を打っていたとしても無意味だ。オレにはオレの力で救える限界がある。だから、オレはそれが誰の命だとしても被害を最小限にして切り捨てる。理解したか?」
「アンタ自分が何言ってるか」
顔を上げ、久重を睨み付けるシャフの顔にはもう嘲りも嗤いも無かった。
「解ってないと思っているなら、それこそお前はオレの事を何も解ってない。オレがどういう人間でオレがどういう事を選択するのか。お前に解るとは言わせない」
久重の問いにシャフが立ち上がる。
「アタシは『海を渡る風』(シャフ)。世界平和を憎む簒奪者。アタシに手を上げた事、後悔してからじゃ遅いわよ?」
「なら、此処で死んでも止めるまでだ」
譲らない男を前にシャフは思う。
何をしているのかと。
未だ自分は混乱していると。
ここで戦う事になれば激戦は必至。
【連中】によって消滅させられる事すらありえる。
しかし、それでも目の前の男から視線を外せない。
周囲に配置してあったNDの多くはソラによって破壊されていたが、それでもいざとなれば、周囲数キロ圏内の民間人の殆どを人質に出来る状況下にあった。
シャフにとってそれは大きな力であり、即座に号令一つで都市一つを病に侵す事も出来た。
だが、シャフの前で男は宣言している。
最小限の犠牲なら、甘んじて飲もうと。
外に待機させているウィルスの殆どが致死率五パーセント程のもので、完全には都市部の人間を殺せない。
それどころか密室での戦闘ともなれば、至近にソラがいるだけでシャフの致死率は跳ね上がる。
所詮は間接的に人類を滅ぼせる程度の力。
条件さえ揃えば直接的に人類そのものを殲滅できる【D1】や【SE】の力はまともに戦えば負ける。
それに、そんな事をすれば、本気で男が攻めてくる。
今まで何とも思っていなかったはずの男の瞳に見えるものをシャフは知っている。
それは死を覚悟している者の目。
シャフが第三世界で見てきたテラトーマの犠牲者達の中には時折、そんな目をして反抗した者がいた。
直接戦闘を苦手とするシャフを追い詰めた者すらいた。
もしも、そんな目をしているNDの保有者と戦えば、結果は芳しくない。
更に言えば、今現在のテラトーマは日本内部への侵入に備えて弱体化されていた。
日本という完全に大陸から離れている場所で貴重なウィルスを散財したくない【連中】の思惑からシャフの持つ病原体の九割近く、テラトーマの八割が削られている。
そんな状態で戦ったところで身体を常時NDで守られている人間は殺せない。
奥の手と言えるものはあったが、それでも不安要素が多過ぎた。
ほんの少しだけ、シャフが頬を意識する。
「・・・馬鹿馬鹿しい」
シャフは全身から力を抜いた。
「止めるなら誰か殺したり、人質に取ったりするな」
「それも含めて止めるわよ。だから、いい加減アタシのNDを壊すの止めてくれない? ソラ」
次々に身体を保護していたNDを破壊されるアラートを脳裏に聞きながらシャフがソラに視線を向ける。
「・・・・・・」
「テラトーマの制御NDまで破壊されたらどうなるか。解るでしょ?」
ソラが体から力を抜いた。
それと同時にシャフの脳裏のアラートも消えた。
「また来るから」
そう言い置いてシャフがその場から立ち去ろうとして、ガシッと頭を掴まれる。
「な!? 何して!?」
声を荒げようとしたシャフに久重がビシッといつの間にか持っていた雑巾を突き出した。
「?」
怪訝そうな顔のシャフに久重が告げる。
「土足で人様の家に上がったんだ。拭いてけ」
「はぁ?!」
「嫌なら畳み代を置いていけ。ちなみにコレだけ」
指を三本立てる久重に唖然としたシャフがソラに顔を向ける。
ソラが何か居たたまれないようにポツリと呟く。
「ひさしげ。貧乏・・・だから」
「び、貧乏だけど! この頃ちょっと脱出気味じゃないのかとオ、オレは主張する!!」
「・・・・・・」
いきなり下らないコントを見せられたようにげんなりしたシャフが溜息を吐いたのは当然の成り行きだった。
その日、結局のところシャフは雑巾を持ち畳を拭く事になった。
畳みを綺麗にしろとガミガミ五月蝿い青年のリクエストに渋々応えている内に料理を振舞われるとは知る由も無く・・・。
妙に脱力させられてしまった結果にシャフは一体自分は何をしているのかと本気で首を傾げるしかなかった。
罰とは甘受する者にこそ与えられる。
別たれた明暗は期待の裏返し。
五分と五分。
ならば、何故違うのか。
第十六話「齟齬」
その声に彼女は絶望を知る。