暑い夜
「こっちをみてよ」
ひどく甘い声がつるりと滑るように耳のふちをなぞって鼓膜を揺らした。
蝋燭を一本だけ立てた部屋はまだまだ暗い。
私の目の前の障子には、反対の隅に灯してある唯一の光源の火の明かりが橙にぼんやりと照っていて、それでもなお侵入してくる夜の闇をすかしている。
白い寝間着の着物を着ている私は、そんな声などお構いなしに水浴びしたばかりで濡れている髪を手拭いでぬぐう。
じんわりと暑い。
早くも汗が滲んできそうなほどに暑い。
横に長い髪を流しているため、私のうなじはあらわになっている。
「こっちをみてよ」
肩に不快な冷たさを伴った手がおかれた。白いはずのうなじに湿った息がふっと掛けられた。
さすがにこれは見逃せない。
「やめて。心地がわるいわ」
斜めに落とした視界に上物の紅い着物の端が映ってきた。
嬉しそうにさわりと震えた着物。
「やっと応えてくれた。でも、ねぇ、こっちをみてよ」
崩して座っているために、着物から出た足に私よりも着物よりも白く滑らかな手が触れる。
ひんやりと清水を思わせるような冷たさを持ったそれが、肩に乗せられた手とともに撫でるように私の肌の上を撫でる。
緩やかに、滑らかに、艶やかに、流れるように動く手を見る。赤い着物の裾はおかしそうに小刻みに震えている。
正直気持ちが悪い。うなじにかかる湿った息もぞわぞわする。
眉根を寄せた私の耳に、鈴虫の声が届いた。
「嗚呼、鈴虫の声ね」
思わず呟いてしまった私は、瞬間に後悔した。
呟いた声につられて上げた視界には、火を遮って座る私の姿と後ろの影。その影がゆらりと妖しげに揺れて、私の肌を愛おしげに撫でていた手が止まり、小刻みに震えていた着物の裾が固まった。
徐々に掴むように力を込められる手は爪を立てるように曲げられてゆく。
うなじにかけられていた湿っただけだった息もなんだか生ぬるくなっていく。
「絹……」
つい、後ろの人の名前を呼んでしまった。
絹は怒気を静かに含ませた声を紡いだ。
「椿、駄目よ。あたしがいるじゃないの。鈴虫の声がどうかしたの。そんな虫けらよりもあたしの声の方が美しいじゃない。そうでしょう椿。なんでこっちを見ないのよ。あたしがこっちにいるじゃない。椿椿椿椿。嗚呼、鈴虫があなたの興味を惹くのならあたしが全部殺してあげましょう」
ぎりぎりと音を立てるように握られた肩が痛い。
不快感とは別に眉が寄った。
怒気のせいか、蝋燭に灯った火がゆらゆらと大きくなったり小さくなったりと揺れている。風は吹いていない。
「ちがうよ絹。もうそんな時期かと感心しただけだよ。ほら、肩が痛い。つぶされてしまうよ」
「いいじゃないか。椿、跡が残ってもいいじゃないか。椿はあたしのものだってわかるだろう? 椿、こっちを向いておくれよ」
「ああ、ああ、わかったよ。ほら、おいで」
まだ濡れているけれど仕方ない。手拭いを畳の上に畳んで、私は振り向いて手を広げた。
無防備に晒した胸の中に赤い着物を着た長い髪の美しい娘が飛び込んでくる。
厚い着物を召していても汗一つかいていない絹からは甘い香が漂った。
蝋燭の方を向いた私の視界にはもう赤く美しい着物しか映っていない。
「椿、椿、椿椿椿椿つばきつばきつばきつばき……」
「なに、絹」
まだ耳に鈴虫の声は届いている。
「あたしだけを見て。あたしだけを愛して。あたしの声だけを聞いて。あたしだけを好きになって。あたしの体だけを抱いて。あたしの口にだけ接吻をして」
背で腕を交差させて私の肩に乗せた絹。からめとられたように動けない私の体は絹の纏う香の香りだけを嗅いでいる。
正直とても暑い。
「あたしだけにして。あたし以外を見たらその目、くりぬいて食べるから」
「うん」
「あたし以外の声を聞いたらその耳、切り落とすから」
「うん」
「あたし以外の体を抱いたらその腕、切り落とすから」
「うん」
「あたし以外の口に接吻したら……」
「うん」
「したら……」
「どうするの?」
「椿を殺してあたしも死ぬわ」
絹の愛は必要以上の依存と執着をもって迫ってくる。
絹は異常だ。
だけど
「わかってる。絹以外愛するわけないじゃない」
その愛に応える私も結構異常なわけでして。
ある夏の日。
付け加えるならば脳がとろけるような暑い夜。
障子に映る火が揺れた。
読んでくださってありがとうございます!