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鳳凰、塵土より舞い上がる ―― 大明帝国始祖・洪武帝伝 ~親兄弟餓死、托鉢乞食放浪から「世界最大の帝国」を創始した男の実話~ ――  作者: 如月妙美


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第9章 連理の枝の別れ ―― 大帝の涙と孤独

 洪武十五年(一三八二年)、晩夏。南京の空は、ねっとりとした熱風が吹き去った後、不吉なまでに静まり返っていた。  一億の民の頂点、奉天殿の背後に位置する坤寧宮こんねいぐゅうは、本来であれば国母の慈愛が満ちる場所である。しかしその日、宮殿を包んでいたのは、重く湿った「死」の気配であった。数百人の宦官や女官たちは音を立てぬよう息を潜め、回廊にひれ伏している。彼らが恐れているのは、忍び寄る死神の足音以上に、今まさにその「死」と対峙し、理性を失いかけている主君の荒ぶる魂であった。

 寝所の奥深く。  そこには、一国の皇帝ともあろう男が、数日も着替えていない薄汚れた衣のまま、一人の女性の手を握りしめて床に座り込んでいた。朱元璋である。  彼の握る手の主、皇后・馬秀英ば・しゅうえいの顔は、かつての豊潤な輝きを失い、枯れ葉のように痩せさらばえていた。呼吸は浅く、喉からは微かな喘ぎが漏れる。

「太医は……、太医はまだか! 薬が効かぬのなら、別の処方を持ってこい!」  朱元璋の怒号が、静まり返った内殿に響き渡った。 「陛下、太医たちはすでに持てる限りの知見を尽くしておりますが……。皇后様の御病状は、もはや……」  震える宦官に対し、朱元璋は野獣のような目で睨みつけた。 「無能どもめ! 秀英を救えぬのなら、この国に太医院など不要だ。治らぬというのなら、太医とその家族、九族をすべて斬罪に処し、地下で皇后に仕えさせてやる! 何としても繋ぎ止めろ!」

 朱元璋のその狂気とも言える焦燥は、単なる愛妻家としての悲しみを超えていた。  彼にとって、馬秀英は単なる伴侶ではない。  あの日、鳳陽の焦土で家族をすべて失い、托鉢の鉢一つで地獄を歩き続けた孤児にとって、彼女は初めて出会った「裏切らぬ愛」そのものであった。戦場で傷ついた時、ライバルの陰謀で地下牢に幽閉された時、彼女だけは胸元に焼きたての餅を隠し、自らの肌を焼いてまで彼を救った。一億の民の頂点に登り詰めた今、周囲はすべて「皇帝」を恐れ、あるいは利用しようとする者ばかり。その中で唯一、彼を「朱重八」という一人の男として叱り、支え続けてくれたのは、この女性だけだったのである。

「……元璋様」  不意に、消え入りそうな声がした。馬秀英が、わずかに目を開けた。  朱元璋は、慌てて彼女の顔に耳を寄せた。 「秀英、ここにいるぞ。重八はここにいる。……何か食べたいものはあるか? かつてのあの餅か? それとも鳳陽の青菜か? 何でも、天下の果てからでも用意させる」  馬秀英は、力なく首を振った。その唇の端には、微かな微笑みが浮かんでいた。

「陛下……。もう、太医たちを脅すのはおやめください。人の命には……天が決めた刻限がございます。彼らが懸命に尽くしてくれたことは、私が一番よく分かっております……」 「黙れ! 天など、俺がこの手で塗り替えてきた! 俺が『生きろ』と言えば、天も逆らえぬはずだ!」 「ふふ……、相変わらず……強情なお人だこと……」  馬秀英の細い指が、朱元璋の頬に刻まれた深い皺を、慈しむように撫でた。

「重八様……。私が去った後……、どうか、一人にならないでください。あなたは、一人になると……、とても怖がりで、そして残酷になってしまう……。どうか、民を……私だと思って、慈しんでください。法で縛るのではなく……、あの日、私たちを助けてくれた劉継祖りゅうけいそ殿のような慈悲で……国を……。それが私の、最後のお願いです……」    最期の瞬間、馬秀英の瞳に一筋の涙が溢れた。  そして、しっかりと握りしめられていた彼女の手から、ふっと力が抜けた。  朱元璋は、その手が冷たくなっていくのを、ただ茫然と見つめていた。

「……秀英? おい、秀英。冗談はやめろ。寝たのか? お前が寝たら、俺は誰と話をすればいいのだ。一億もの民の声を、俺一人でどう聞けと言うのだ」  返事はない。  静寂が、重く、重く、大帝国の皇帝を押し潰そうとしていた。  彼はその後三日間、誰の謁見も許さず、馬秀英の遺体の傍らから離れなかった。朝議は止まり、帝国の機能は停止した。彼は彼女が繕った古い服を抱きしめ、暗闇の中で呻き続けた。

 やがて、馬秀英は「孝慈高皇后こうじこうこうごう」として南京の東郊、鍾山の麓に埋葬された。  朱元璋の悲しみは、時間が経過しても癒えるどころか、むしろ深く鋭いトゲとなって彼の心臓を突き刺し続けた。彼はその後、死ぬまで新しい皇后を立てることはなかった。彼の心の中の玉座には、常にあの「大きな足の、賢き妻」が座り続けていたからである。

 それから一年が経過した、洪武十六年の秋。  礼部れいぶの長官である礼部尚書れいぶしょうしょが、緊張に顔をこわばらせながら朱元璋の前に参内した。 「陛下、申し上げます。孝慈高皇后様が崩御されてより、まもなく一周忌を迎えようとしております。つきましては、天下の臣民を挙げて、大規模な祭祀さいしを執り行うべきかと存じます。各地の官庁に廟を築かせ、僧侶を集めて法要を行い、国を挙げてその徳を偲ぶことこそが、亡き皇后様への最大の供養となります」

 礼部尚書の上奏に対し、朱元璋は執務机の書類から目を上げることなく、冷淡に問い返した。 「その祭祀には、どれほどの費用がかかる」 「はっ……。国中の僧侶への布施、儀式の装飾、祭壇の建立などを合わせれば、数十万貫かんの銀が必要かと。しかし、一億の民の母への敬意としては……」

 朱元璋は、ゆっくりと筆を置いた。その動作一つで、周囲の空気は瞬時に凍りついた。 「……却下だ」 「陛下!? なぜでございますか。皇后様の御遺徳は天下に鳴り響いており、民もまた、その死を悼んでおります」

 朱元璋は立ち上がり、窓の外に広がる南京の街並みを見つめた。 「良いか。皇后が生前、最も嫌ったのは何か。それは、民に不必要な負担を強いることだ。彼女は皇后となってからも、自ら布を織り、衣の破れを繕い、雑穀を食してまで、民の血税が浪費されることを防ごうとした。その皇后のために、一周忌と称して大金をつぎ込み、労働を強いる。それが果たして供養になると思うか」  朱元璋の言葉には、亡き妻への深い理解と、変わらぬ執念が宿っていた。 「祭祀など行えば、天下の人への負担となるだけだ。それは皇后の想いに真っ向から反すること。……俺は、彼女を悲しませたくない。一周忌の儀式は一切行わぬ。法要も不要だ。ただ、静かに時を過ごせ」

 結局、朱元璋は一周忌に際して何の公式行事も許可しなかった。  しかし、皇帝が命じた「沈黙」は、逆に臣下たちの心に火をつけた。彼らは朱元璋が皇后をどれほど深く、そして厳格に愛しているかを知り、その愛に呼応しようとした。  公式の祭祀が禁じられた代わりに、宮中では不思議な現象が起きた。文官たちがこぞって、馬皇后の生前の慈愛や質素な暮らしぶりを称えるを作り始めたのである。

「大足の国母、民の糧を慈しみ……」 「懐の餅、帝の命を繋ぎ留め……」  それらの詩は曲を付けられ、いつしか女官や宦官、さらには南京の市井の民たちの間でも歌われるようになった。朱元璋は、夜の帳が下りる頃、宮廷の至る所から漏れ聞こえてくるその歌声を、一人で聞き入っていた。  目に見える祭壇よりも、人々の口から溢れる歌声こそが、馬秀英という女性にふさわしい供養であると、彼は確信していたのである。

 後年、彼女にはその高潔な生涯にふさわしい、壮大な尊号が贈られた。 「孝慈貞化哲順仁徽成天育聖至徳高皇后(こうじていかてつじゅんじんきせいてんいくせいしとくこうこうごう)」    こう ―― 親に尽くし。   ―― 民を慈しみ。  てい ―― 節操を守り。  じん ―― 情け深く。  至徳しとく ―― 至上の徳を体現した女性。

 十六文字の金文字が霊廟の石碑に刻まれたが、朱元璋にとっての彼女は、最後まであの鳳陽の泥道を共に歩いた「秀英」であり続けた。  しかし、彼女という「最強の防具」を失った朱元璋の統治は、次第に氷のような冷徹さを増していく。 「秀英、見ていろ。お前が愛したこの民を、俺一人の手で守り抜いてみせる。たとえ、この手がどれほど血に染まろうともな……」

 彼は、かつての戦友である功臣たちを、次々と処刑し始めた。藍玉らんぎょく胡惟庸こいよう……。数万人が朱元璋の疑心暗鬼と、絶対的な「公正」への病的なまでの執念によって命を落とした。  多くの歴史家はこれを「独裁者の暴走」と断じる。しかし、その深層にあったのは、唯一自分を律してくれた人間を失った男の、癒えることのない飢えであった。

 朱元璋は、孤独な闘神となった。  彼は一日に数百通の書類を裁き、自らの睡眠を削り、一億人の平穏を守るための「精巧な機械」へと自らを改造した。  彼は、かつて放浪時代に歩いたあの泥道を思い出し、二度とそんな不条理な道を作らぬよう、全土の灌漑工事を命じ、学校を建て、食糧の備蓄を命じた。    その背中には、もはや寄り添う鳳凰はいない。  だが、彼が権力の魔力に屈しそうになる時、あるいは怒りに我を忘れそうになる時、ふと彼の脳裏に、あの「懐の餅」の熱さが蘇る。 「……秀英。俺は、まだ止まらぬぞ」

 「アルバトロス」は、片翼を失いながらも、その不屈の意志だけで一億の民が住まう広大な空を飛び続けた。  朱元璋。  人類史上、最も孤独で、最も力強く、そして最も深く「頑張り」の意味を知った男。  彼の生涯を貫いた、亡き妻との黄金の絆は、死後もなお、三百年続く帝国の礎石として、中国大陸の歴史の深層に沈み込んでいるのである。


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