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鳳凰、塵土より舞い上がる ―― 大明帝国始祖・洪武帝伝 ~親兄弟餓死、托鉢乞食放浪から「世界最大の帝国」を創始した男の実話~ ――  作者: 如月妙美


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第5章 「大足」の賢妻 ―― 絆という名の最強の鎧

 濠州ごうしゅうの城内に春の風が吹き抜ける頃、紅巾軍の兵舎には祝祭の響きがあった。元朝の腐敗を撃つべく立ち上がった荒くれ者たちの集団にあって、朱元璋という一人の若き将の台頭は、希望の光であると同時に、複雑な権力争いの種をも蒔いていた。  主君・郭子興かくしこうは、乞食僧あがりのこの男が持つ底知れぬ才覚を見抜き、自らの養女である馬秀英ばしゅうえいを娶らせることを決断した。それは、朱元璋を完全に一族に取り込み、その忠誠を繋ぎ止めるための、冷徹かつ情熱的な政略結婚であった。

 婚礼の夜。朱元璋は、それまで纏っていた血生臭い鎧を脱ぎ、郭子興から贈られた鮮やかな紅色の礼服に身を包んでいた。慣れぬ絹の肌触りに戸惑いながらも、彼は自らの前に座る一人の女性を、篝火かがりびの光の中で見つめた。  彼女こそが、宿州の富豪・馬公の娘にして、郭子興の慈愛を受けて育った女性、秀英であった。

 当時の中国において、女性の美徳は「纏足てんそく」にあると信じられていた。幼少期より足を布で固く縛り、骨を砕き、三寸(約十センチ)足らずの歪な形に作り上げる。それは「金蓮きんれん」と呼ばれ、一人では歩くこともままならぬほどに女性を無力化し、男たちの所有欲を満たす残酷な因習であった。  しかし、秀英は違った。彼女は実の父の遺志により、一度もその足を縛られたことがなかった。彼女の足は、大地をしっかりと踏みしめる「大きな足」のままであった。

「元璋様、何をそんなに見つめていらっしゃるのですか」  秀英の声は、澄んだ鈴の音のように凛としていた。朱元璋は、思わず視線を彼女の瞳へと戻した。 「……いや。お前が、噂に聞く『大足だいそく』の姫君だと思っただけだ」 「あら、失望なさいましたか。三寸金蓮の淑やかさを持たぬ私を、郭様の家臣の方々は影で笑っているとか」  秀英は悪戯っぽく微笑んだ。しかし、その眼差しには、周囲の嘲笑を跳ね返すような、深い知性と自尊心が宿っていた。

 朱元璋は、その瞳を見て、かつて鳳陽の荒野を一人で歩き、托鉢の鉢一つで生き抜いた己の魂が、強く呼応するのを感じた。 「失望などするものか。俺が三年の放浪で学んだのは、飾り立てた美しさの無力さだ。大地を歩けぬ足に、何の意味がある。俺は、俺と共に風雪を歩んでくれる伴侶を求めていた。お前のその足こそ、俺が必要としていた『誠実さ』の証だ」

 朱元璋の言葉に、秀英は一瞬驚いたように目を見開き、やがて優しく微笑んだ。 「元璋様。あなたは他の殿方とは、見ている景色が違うのですね」  この夜、二人はただの夫婦ではなく、乱世を共に戦い抜く「唯一無二の同志」となったのである。

 しかし、幸福な時間は長くは続かなかった。朱元璋の戦功が重なるにつれ、郭子興の息子たち――郭天叙かくてんじょ郭天爵かくてんしゃくらの嫉妬は、殺意に近いものへと変貌していった。 「あのような乞食坊主が、父上の寵愛を独占するなど許せん。奴はいつか我ら兄弟を追い落とし、この軍を乗っ取るつもりに違いない」  息子たちは父である郭子興に、朱元璋が反逆を企てているという虚偽の報告を繰り返した。猜疑心の強い郭子興は、次第にその言葉を信じるようになり、ある日、朱元璋を「軍規違反」という名目で捕らえ、地下の暗い兵糧庫へと幽閉してしまった。

 その沙汰は苛烈であった。「水すら与えてはならぬ。自らの罪を悔い改めるまで、餓死させるつもりで放置せよ」という厳命が下されたのである。  朱元璋は、窓もない冷たい石壁の部屋で、一人座していた。 (またか……。また俺は、この暗闇の中で飢え死にするのを待つだけなのか。父上や母上の時のように、ただ消え去る運命なのか)  腹をすかせ、体力が削られていく中、彼の心には黒い絶望の霧が立ち込めた。

 その時であった。  兵糧庫の分厚い扉の隙間から、微かな物音が聞こえた。 「元璋様……元璋様、いらっしゃいますか」  聞き間違えるはずのない、秀英の声であった。朱元璋は這うようにして扉に近づいた。 「……秀英か。なぜここへ。郭様の命令を破れば、お前も無事では済まぬぞ」 「構いません。あなたが死ぬのなら、私が生きる意味もありません」

 扉の小さな通風孔から、一つの包みが差し入れられた。 「さあ、これをお食べください。今、厨房で炊き上がったばかりの餅です」  包みを開けると、そこには驚くほど熱を持った、出来立ての餅が入っていた。朱元璋は震える手でそれを口に運んだ。喉を焼くような熱さと、米の甘みが、消えかけていた生命の炎を再び燃え上がらせた。 「……なぜだ。なぜ、これほどまでに熱いのだ。厨房からここまで、見つからずに運ぶのは容易ではなかったはず」

 朱元璋は、ふと秀英の胸元に目をやった。  彼女の薄い麻の衣の胸元が、不自然に赤く染まっていた。 「……秀英、お前、その胸は……」  秀英は、顔色一つ変えずに微笑んだ。 「兵たちの目を盗むため、懐に隠して参りました。服の中に忍ばせれば、誰も餅を持っているとは思いませんから」  焼きたての餅を、直接肌に触れる胸元に隠して運んできたのだ。その熱さは、皮膚を焼き、肉を焦がすほどのものであったはずだ。  朱元璋は、扉の向こう側にいる妻の手を、隙間から強く握りしめた。 「秀英……。俺は、一生お前を忘れない。この傷の痛みは、俺の魂に刻まれた。俺が天下を獲る時、お前は俺の隣で、誰よりも高い場所に座るのだ。必ずだ!」

 秀英の献身はそれだけにとどまらなかった。彼女は義父である郭子興のもとへ走り、涙ながらに訴えた。 「義父上、元璋様は忠義の士です。彼を失うことは、紅巾軍にとって右腕を失うも同然。どうか、息子たちの讒言に惑わされないでください。もし彼が裏切るというのなら、私のこの首を今すぐ撥ねてください!」  秀英の捨て身の嘆願と、朱元璋の幽閉を知った徐達じょたつら部下たちの不穏な動きを察知し、郭子興はついに朱元璋を釈放することを決めた。

 兵糧庫から出てきた朱元璋を、秀英は満面の笑みで迎えた。  朱元璋は多くの言葉を必要としなかった。彼は秀英の肩を抱き、その耳元で低く囁いた。 「お前が俺の『鎧』だ。どんな敵の矢も、お前の愛の前では届かない」

 その後、朱元璋は郭子興から離れ、自らの軍を率いて独立することになるが、その全ての決断の背後には秀英の助言があった。  彼女は、朱元璋が放浪時代に抱いた「民への慈悲」を、具体的な統治の策へと昇華させた。 「軍紀を乱す者は斬るべきですが、民の心を乱してはなりません。略奪する兵がいれば、その指揮官を公衆の面前で叱責しなさい。そうすれば民は、朱元璋の軍だけは違うと信じるようになります」

 朱元璋は、戦場で敵を打ち破るたびに、秀英に戦況を伝えた。秀英は、勝利に浮き足立つ夫を時に厳しく諫め、敗北に沈む夫を優しく励ました。  当時の衣装は、戦時は武骨な革鎧、平時は地味な麻の長袍であったが、彼女が繕う服には、常に一筋の赤い糸が忍ばされていた。それは「朱」の姓を象徴すると同時に、二人の絆を繋ぐ運命の糸でもあった。

 朱元璋は、どんなに軍が巨大になっても、秀英への貞節を貫いた。  「アルバトロス(アホウドリ)」という鳥がいる。彼らは一生に一羽の伴侶しか持たず、何千キロの荒海を超えても、必ず愛する者のもとへ戻るという。朱元璋は、まさにその鳥の如き忠誠を秀英に捧げた。  彼女がいたからこそ、朱元璋はただの「破壊者」に終わらず、一億の人々を安寧に導く「創造者」へと成長することができたのである。

「大足の秀英」  かつて人々が嘲笑したその名は、やがて中国全土の女性たちが憧れ、畏敬の念を込めて呼ぶ「馬皇后」という称号へと変わっていく。  絆という名の最強の鎧を纏った二人の歩みは、今、南京の地へと向かって、力強く加速し始めていた。

 鳳凰は、その力強い足で、新しい時代の土をしっかりと踏みしめていたのである。


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