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鳳凰、塵土より舞い上がる ―― 大明帝国始祖・洪武帝伝 ~親兄弟餓死、托鉢乞食放浪から「世界最大の帝国」を創始した男の実話~ ――  作者: 如月妙美


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第4章 紅巾の志 ―― 姓名を捨てて「元を璋(う)つ」男へ

 至正十二年(一三五二年)、春。中国大陸を覆う動乱の嵐は、ついに安徽の鳳陽にまでその牙を剥き始めていた。  三年の放浪を経て皇覚寺に戻り、ひたすら経典と己の記憶に向き合っていた朱重八のもとに、一通の密書が届いた。送り主は、かつて共に牛を追い、共に泥にまみれた幼馴染の湯和とうわであった。

 「重八よ。時代は動いた。我ら白蓮教の徒、ついに濠州ごうしゅうにて旗を揚げた。郭子興かくしこうという英邁なる主君のもと、不条理なる元朝を打倒し、漢民族の世を取り戻す。お前のような智勇兼備の男を、天は眠らせてはおかぬはずだ。濠州へ来い。共に新しい天を築こうではないか」

 重八は、薄暗い蔵の中でその手紙を読み終えると、火に投じた。  燃え上がる紙片を見つめる彼の瞳には、経典の文字ではなく、かつて放浪の旅で見た「飢えた民の叫び」と「役人の嘲笑」が鮮明に浮かんでいた。  しかし、重八はすぐには動かなかった。彼は三年の放浪で「慎重さ」という武器を手に入れていたのだ。  (俺が行けば、この皇覚寺はどうなる。元朝の役人は、反乱軍に通じた者がいるとして、この寺を焼き払うだろう。しかし、ここに留まれば、俺はただ餓死を待つだけの僧侶として一生を終える。……天よ、俺に道を示せ)

 重八は、三日間、仏像の前で微動だにせず座禅を組んだ。  四日目の朝、彼を動かしたのは天の啓示ではなく、元朝の兵たちの暴力であった。  寺の門を乱暴に蹴破り、土足で本堂に踏み込んできた兵士たちは、修行僧たちを数珠繋ぎにして引きずり出した。 「おい、この中に『重八』という名の坊主がいるはずだ! 濠州の賊軍から手紙が届いたという通報があった。賊の仲間は、全員処刑だ!」

 重八は、草陰に身を隠し、その光景を冷徹な目で見つめていた。  何の罪もない仲間の僧侶たちが、兵士たちの剣の錆となっていく。断末魔の叫びが、春の朝の空気に突き刺さる。  (仏は、彼らを救わなかった。……ならば、俺がこの手で、仏に代わって奴らを裁くしかない)

 重八は、寺の裏から一本の棍棒を手に取り、闇に紛れて濠州へと走った。  背後では、皇覚寺が炎に包まれていた。かつて自分が親を失い、身を寄せた唯一の場所が、灰となって崩れ落ちていく。重八は一度も振り返らなかった。振り返れば、そこにあるのは絶望だけだからだ。前を見れば、そこには血塗られた、しかし輝かしい「野望」という名の荒野が広がっていた。

 数日後。濠州の城門の前に、一人の汚れ果てた僧侶が立っていた。  門番の兵士たちは、赤い布を頭に巻いていた。紅巾軍である。 「止まれ! 乞食坊主が何の用だ。ここは戦場だぞ!」  兵士の一人が、長槍を重八の喉元に突きつけた。重八は動じなかった。三年の放浪で石を投げられ続けた彼にとって、槍の穂先など挨拶に過ぎない。 「湯和に会いに来た。彼に伝えろ。『鳳陽の重八が、天を盗みに来た』とな」

 その言葉の重みに、兵士たちは気圧された。ただの物乞いではない。その男の目には、命を懸けた者だけが宿す、不吉なまでの光があった。  やがて、城内から馬を走らせて一人の武将が現れた。見事な鎧に身を包み、赤き布を翻すその男こそ、湯和であった。 「重八! 本当に来たのか!」  湯和は馬から飛び降り、重八の肩を強く抱いた。 「お前なら必ず来ると信じていた。さあ、郭子興様に御目通りだ!」

 濠州の軍本営。そこに座る郭子興は、五十を過ぎた貫禄のある男であった。彼は地主の出身でありながら、元朝の腐敗を憂い、私産を投じて義勇軍を組織した人物である。  郭子興は、ボロボロの法衣を纏った重八を、上から下まで値踏みするように眺めた。 「お前が湯和の言う、鳳陽の麒麟か。……名は?」 「朱重八と申します」 「重八か。農民の並び名だな。これから天下を競おうという男が、それでは心許ない。お前の志を、名に刻め」

 重八は、その場に跪き、力強く答えた。 「ならば、これからは私を『朱元璋しゅげんしょう』とお呼びください」 「元璋……。しょうとは、祭祀に用いる鋭き玉器だな。なぜその字を選んだ?」 「あかき色が、げんつ。すなわち、我ら紅巾の赤き炎が、腐り果てた元朝を粉砕する鋭き刃になるという決意です」

 郭子興は、その言葉の苛烈さに一瞬息を呑み、次いで豪快に笑った。 「はっはっは! 『元を璋つ』か! 実にいい。気に入ったぞ、朱元璋! 今日からお前を我が親衛兵の長に任じる。その鋭き刃で、元朝の喉元を掻き切れ!」

 こうして、朱重八という名は歴史の影に消え、朱元璋という名が乱世の表舞台に刻まれた。  朱元璋の初陣は、それから間もなく訪れた。元軍の小隊が、濠州近隣の村を略奪しているという報が入ったのだ。  郭子興は朱元璋に五十人の兵を預け、その排除を命じた。 「元璋、これはお前の試金石だ。首を獲ってこい」

 朱元璋は、与えられた兵たちの顔を見渡した。彼らもまた、かつての自分と同じく、家を焼かれ、家族を殺された農民たちであった。 「皆、よく聞け。俺たちは賊ではない。義軍だ。元朝の犬どもは、数に頼って俺たちを侮っている。しかし、俺はこの土地の隅々を知っている。奴らがどこで休み、どこで油断するかをな」

 朱元璋は、かつて托鉢時代に何度も野宿した「黒龍峠」という要害に目をつけた。そこは細い一本道が続き、両側は切り立った崖になっている。  彼は兵たちに、農具を改造した槍や、重い石を準備させた。 「一人一殺。声を出すな。俺が笛を吹いたら、一斉に石を投げ落とし、その後で雪崩のように駆け下りろ」

 深夜。元朝の兵たちが、略奪した酒と女に溺れ、黒龍峠の麓でキャンプを張っていた。彼らの鎧は豪華だったが、その心は驕りに満ちていた。  朱元璋は、闇の中で笛を構えた。彼の脳裏には、餓死した母の顔、そして冷酷に自分を蹴り飛ばした地主の顔がよぎった。 (これは、俺個人の恨みではない。この大地を汚す、すべての不条理に対する裁きだ)

 ピー、と鋭い笛の音が静寂を切り裂いた。  次の瞬間、崖の上から巨大な岩が雨のように降り注いだ。元兵たちは何が起きたか分からぬまま、岩に潰され、悲鳴を上げた。 「突撃せよ!」  朱元璋は先頭に立って崖を駆け下りた。彼の手に握られているのは、戦利品の曲刀ではなく、あの日皇覚寺から持ち出した竹の杖の先に、折れた剣を縛り付けた急造の槍であった。

 「うおおぉぉ!」  朱元璋の槍が、元朝の隊長の喉を正確に貫いた。血飛沫が彼の顔を赤く染める。初めて人を殺めた感触。それは、恐ろしさよりも、不思議な「充足感」を彼にもたらした。  (ああ、こうすれば……力があれば、不条理は正せるのだ)

 戦いは、わずか刻足らずで終わった。五十人の義軍に対し、百人近い元軍はほぼ全滅。残った兵も、森の奥へと逃げ去った。  兵たちが歓喜の声を上げ、略奪品に手を伸ばそうとした時、朱元璋の冷徹な声が響いた。 「待て! その金品には手を触れるな」  兵たちが不満げに振り返る。 「元璋様、これは俺たちの取り分じゃないのか?」 「違う。これは元々、この先の村から奪われたものだ。村に返せ。俺たちは『義軍』だと言ったはずだ。民から一粒の米も奪わず、民を守る。それが俺の、朱元璋の軍の掟だ。破る者は、俺がこの手で斬る」

 朱元璋の鋭い眼光に、兵たちは思わず震え上がり、手を引っ込めた。  この軍紀の厳正さこそが、朱元璋という男を、単なる反乱軍の首領から「一国の王」へと引き上げる最大の要因となる。

 数日後、村に略奪品を返したという噂は、瞬く間に濠州全土に広がった。 「朱元璋という男が率いる軍は、民の味方だ」 「奴らは決して略奪をせず、むしろ助けてくれる」  朱元璋のもとには、鳳陽や濠州近辺から、屈強な若者たちが続々と集まり始めた。その中には、後に「大明帝国」の双璧と称される名将・徐達じょたつの姿もあった。

 郭子興は、戻ってきた朱元璋を、これ以上ないほどの称賛で迎えた。 「元璋、お前はただの兵法家ではないな。人の心を掴む、天性の王だ」  郭子興は、朱元璋の実力を確信し、自分の養女である秀英ばしとの縁談を切り出した。 「お前には、俺の娘を娶ってほしい。朱元璋、お前なら、この乱世を終わらせることができるかもしれん」

 朱元璋は、郭子興の隣に控えていた、一人の女性を見つめた。  彼女は、当時の貴族女性のような華やかさこそなかったが、その瞳には、朱元璋と同じ「逆境を生き抜く強さ」があった。  彼女こそが、後に「大明帝国」の国母として、朱元璋の荒ぶる魂を唯一鎮めることになる馬皇后であった。

 姓名を捨て、過去を捨て、ただ「一億の民を救う」という巨大な呪縛のような使命を背負った男、朱元璋。  彼が率いる「義」の炎は、今、漆黒の元朝を焼き尽くすために、赤々と燃え上がり始めたのである。  鳳凰の羽ばたきは、もはや誰にも止めることはできなかった。


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