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鳳凰、塵土より舞い上がる ―― 大明帝国始祖・洪武帝伝 ~親兄弟餓死、托鉢乞食放浪から「世界最大の帝国」を創始した男の実話~ ――  作者: 如月妙美


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第2章 鳳陽の焦土 ―― 家族の死と少年の咆哮

 至正四年(一三四四年)の春、淮河わいがの流域を包み込んだのは、命を育む萌芽の気配ではなく、死を予感させる乾いた沈黙であった。  安徽省鳳陽。この地を統べるモンゴルの帝国「元」の支配は、すでに末期の様相を呈していた。都の大都(北京)では宮廷の権力争いに明け暮れ、地方へ下る救済の金はことごとく官吏たちの懐へと消えていた。天は、そんな人間の腐敗をなぞるかのように、容赦のない審判を下し始めた。

 その年の雨季、空は一度も涙を流さなかった。  三月が過ぎ、四月になっても、地を湿らせる雨粒一つ落ちてはこない。大地は象の肌のように深く、無残にひび割れ、そこから立ち上る熱気が陽炎となって視界を歪める。かつて豊かな恵みを運んだ水路は完全に干上がり、底にへばりついた魚の死骸が、白く乾いた腹を天にさらして腐臭を放っていた。

「重八……、まだか。水は、まだ来ぬのか」  朱家のあばら屋の隅、粗末な筵の上で、父・朱五四が掠れた声を絞り出した。十六歳の重八じゅうはち――後の朱元璋――は、空の桶を傍らに置き、力なく首を振った。  「お父。井戸も死んだよ。泥を掬うのがやっとだ」  重八の声もまた、砂を噛むように乾いていた。朱家は代々、小作農として汗を流してきた。彼らには蓄えなどない。その日暮らしの労働が途絶えれば、それは即座に死を意味する。

 干ばつの次にやってきたのは、空を覆い尽くすほどの蝗害こうがいであった。  ある日の午後、西の空から黒い雲のようなものが押し寄せてきた。それは嵐ではなく、数億、数兆というイナゴの大群であった。不気味な羽音が大地を震わせ、彼らが通過した跡には、僅かに残っていた作物の芽も、樹木の皮も、草の根さえも残らなかった。鳳陽は一夜にして、色彩を失った灰色の世界へと変貌したのである。

 そして、飢えで抵抗力を失った民を、最悪の死神が襲った。疫病である。  高熱にうなされ、体中に腫れ物ができるその病は、またたく間に村中に広がった。朱家の家の中でも、死の足音がはっきりと聞こえ始めていた。

 四月初旬、まず長兄が逝った。  前日まで「腹が減った」と泣いていた兄は、翌朝には冷たい塊となっていた。泣く気力さえ残っていない重八は、兄の亡骸をただ見つめることしかできなかった。  そして、その三日後、父・五四が崩れ落ちるように息を引き取った。  「重八、生きろ……。何としても、種を絶やすな。朱の家を、ここで終わらせては……ならぬ……」  それが、一国の皇帝の父となるはずだった男の、最後にして唯一の遺言であった。かつては重い鍬を振るい、三人の息子を育て上げた逞しい腕は、今や枯れ木のように細く、節くれ立っていた。

 悲劇は止まらない。父の後を追うようにして、その翌日には母の陳氏が、さらに三日後には次兄の妻が、静かにこの世を去った。  朱家のあばら屋には、重苦しい死臭と、家族の最期の残り香だけが漂っていた。重八は、あまりの喪失感に、心の一部が壊れていくのを感じていた。  だが、彼には立ち止まる自由さえ許されなかった。亡骸をそのままにしておくわけにはいかない。せめて、土に返してやらねばならない。

 重八は、生き残った次兄の重六と共に、地主である劉大公のもとへ向かった。  劉大公の邸宅は、高い塀に囲まれ、飢饉の最中であってもその威容を誇っていた。朱家はこの男の土地を耕し、収穫の半分以上を吸い上げられてきたのだ。  「劉様、お願いでございます! せめて親を埋める一角、ほんの少しの土地を貸してください!」  重八は劉大公の足元に縋り付き、乾いた泥に額を擦り付けて土下座した。  「一生、あなたの奴隷として働きます! どんな過酷な仕事でもします! だから、どうか……!」

 だが、金糸の刺繍が施された絹の長袍チャンパオを纏った劉大公は、不快そうに鼻を鳴らし、重八を蹴り飛ばした。  「不浄な貧乏人め、疫病がうつるだろうが。死人を埋める土地があるなら、そこに一粒でも多く豆を植えた方がマシだ。貴様らのような小作人が死のうが知ったことか。さっさと失せろ!」  地主の冷酷な言葉は、重八の心に、それまでの人生で感じたことのない激しい「炎」を灯した。それは悲しみを超えた、不条理な階級社会への憎悪であった。  (天は、これほどまでに残酷なのか。地は、これほどまでに無情なのか。富める者は肥え太り、泥を啜る者は死ぬことさえ許されぬのか……)

 絶望に打ちひしがれ、あばら屋へ戻る途中で、一人の男が声をかけてきた。隣人の劉継祖りゅうけいそである。彼は地主の劉大公とは対照的に、貧しいながらも朱家とは長年の付き合いがあった。  「重八、見たぞ。あの強欲爺には、何を言っても無駄だ。俺の持っている荒れ地の一角を使っていい。親御さんを、あんなあばら屋に置いておくわけにはいかないだろう」

 その言葉は、暗闇の中で重八が見つけた唯一の光であった。  重八と次兄は、ボロボロの筵で包んだ父と母の亡骸を担ぎ、劉継祖の示した土地へと向かった。そこは石ころだらけの、農作には適さない痩せた土地であったが、今の重八にとっては「聖地」にも等しかった。

 シャベルも鍬もない。重八は自分の指を使い、土を掻き出し始めた。  数日間、何も食べていない。手足は震え、視界は何度も暗転した。だが、彼は手を止めなかった。  ガリッ、と爪が剥がれる音がした。指先から鮮血が滲み、土を赤く染める。だが、痛みを感じる神経はすでに麻痺していた。  (親父、母ちゃん。今、寝床を作ってやるからな。地主の爺には、俺がいつか、必ず……)

 土を掴む爪の間から血が溢れ、泥と混じり合って重八の腕を伝う。彼は泣かなかった。いや、涙すらも体から枯れ果てていた。  ようやく掘り上げた浅い穴に、二人の亡骸を横たえる。  その時、突然、それまで静まり返っていた鳳陽の空に、激しい雷鳴が轟いた。  「……!」  重八が天を仰ぐと、乾ききった大地に、数ヶ月ぶりの大粒の雨が降り注ぎ始めた。  だが、その雨は祝福ではなかった。あまりの勢いに、掘り起こしたばかりの墓穴の土が流され、父と母の亡骸が剥き出しになっていく。

「待て! 行かせない、行かせないぞ!」  重八は半狂乱になって、流れる土を必死に手で押さえた。だが、自然の力の前には、少年一人の抵抗など無力に等しい。  その時、奇跡とも呼べる現象が起きた。雨によって崩れた背後の斜面の土が、雪崩のように滑り落ち、父と母の亡骸を優しく、そして厚く覆い隠したのである。  それは、天が少年の孝心に打たれて墓を築いたかのような、不思議な光景であった。

「お父、お母……」  全身を泥にまみれ、雨に打たれながら、重八はそこに膝を突いた。  彼はその墓の前で、天に向かって咆哮した。  「俺は生きる! 何が何でも生きて、この理不尽な世の中に叩き返してやる! 仏も神もいないこの大地で、俺が、俺自身の道を作るんだ!」

 その叫びは、鳳陽の焦土に響き渡り、遠く南京や大都の宮廷を震撼させる未来の龍の産声であった。  雨が上がり、再び無情な太陽が顔を出した。  生き残った次兄の重六とは、ここで別れることになった。二人でいれば、二人とも飢え死にする。  「重八、達者でな。必ず、どこかで会おう」  「兄貴も……。死ぬなよ」  一家離散。文字通り、帰るべき家もなく、縋るべき肉親もいなくなった。重八の背後には、荒れ地に盛り上がった小さな土の山――両親の墓があるだけだった。

 重八は、唯一の頼りであった幼馴染の湯和のアドバイスに従い、近隣の皇覚寺こうかくじの門を叩くことに決めた。  そこに行けば、修行という名の代わりに、一日一膳の粥が食えるという。  「俺は、信仰のために行くのではない。生き延びるために、仏を喰らいに行くんだ」

 ボロボロの麻の服は、返り血と泥で黒ずみ、足は裸足のまま。  十六歳の少年、朱重八。  彼の目には、もはや子供の無邪気さは微塵もなかった。  そこにあるのは、地の底から這い上がろうとする狼の如き、鋭く、そして冷徹な意志の光であった。  これが、世界最大の帝国を築き上げる男の、本当の「始まり」だったのである。

 この日、鳳陽の焦土に刻まれた足跡は、やがて中国全土を覆い尽くし、一億人の運命を塗り替える巨大なわだちとなっていくことを、まだ誰も知る由はなかった。


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