消防士のヘルメット
訪れたのは、はるかの幼馴染だった。
佐藤健一。はるかと同じ二十五歳。地元の消防署に勤める現役の消防士だ。彼は普段は陽気で、はるかの仕事を「暗い仕事」とからかいながらも、どこか心配そうに見守ってくれる数少ない旧友の一人だった。しかし今、健一の顔は憔悴しきり、目は強張り、黒い輪がくっきりと刻まれている。
彼の両手に抱えられていたのは、一つの消防用ヘルメットだった。黄色の塗装はところどころ剥げ、前面は煤で真っ黒に汚れている。前面のシールド(防火面)には、熱で歪んだような跡があった。全体から、微かに、焦げたような、しかしどこか人間的な「熱気」が漂っているように感じられた。
「……趙……はるか……」
健一の声は、砂を嚙むようにかすれている。彼はゆっくりと、大切なものを持つように、ヘルメットをはるかの作業台の上に置いた。
「これ……隊長の……島津隊長のヘルメットだ」
はるかの心臓が、一度、強く鼓動した。
島津大輝。三十八歳。地元消防署の救助隊隊長。はるかが中学生の頃、地区の防災訓練で出会い、以来、何かと面倒を見てくれた兄貴分のような存在だ。筋骨隆々の大男で、笑うと歯をむき出しにし、はるかのことを「お前、またあんなオカルトっぽいことやってるのか? もっと太陽の下で働けっつーの!」と、からかっては大きな手で彼の頭をごしごしと揉みくしゃにする、そんな人だった。
「一週間前……郊外の倉庫火災」健一が、うつむきながら言葉を絞り出す。「爆発があった……隊長は、中に取り残された作業員を助けに出た……そのまま……」
彼の声が詰まった。肩が震える。
「遺体は……なんとか収容できた。でも、このヘルメットは、隊長が最後までかぶっていたものだ。遺族に返そうとしたんだ。でも……隊長の娘さん、小学二年生のさくらちゃんが……これに触れると、泣き叫ぶんだ。『パパが、熱い、熱いって言ってる!』って……」
健一は顔を上げ、はるかを見つめた。その目は、助けを求めるように、そして深い悲しみに曇っていた。
「お願いだ、はるか。隊長を……安らかに送ってやってくれ。さくらちゃんが、お父さんの形見に、ちゃんと触れられるようにしてやってくれ」
はるかは、机の上の、煤だらけのヘルメットを見つめていた。島津隊長の、あの豪快な笑顔が、まぶたの裏に浮かぶ。一緒に食べた焼き肉。ふざけて背中にぶら下がられたこと。彼が結婚し、娘が生まれた時に見せてくれた、少し照れくさそうな幸せそうな顔。
「……うん」
はるかの声は、思った以上に低く、渇いていた。
「任せてくれ」
健一は、深々と頭を下げ、何度も「ありがとう」を繰り返しながら、涙を拭いながら事務所を去った。
ドアが閉まり、部屋に重い沈黙が流れた。ことりが、心配そうにはるかの顔を覗き込んだ。たまも、古籍から視線を上げ、机の上のヘルメット、そしてはるかの硬い表情を静かに見つめている。
はるかは、ゆっくりと白手袋をはめた。いつもより、少し時間がかかった。左手の、肘まで達した濃灰色の業痕が、微かに疼く。彼は深呼吸を一つ、また一つと繰り返した。しかし、いつものように、静寂の中で集中力を高めることはできなかった。胸の奥で、何かがざわついていた。嫌な予感。いや、予感ではない。確信に近い。
このヘルメットに触れることは、今までとは違う、ある種の地獄に飛び込むことになる――そんな確信。
だが、彼は手を伸ばした。
指先が、煤に覆われたプラスチックの表面に触れる。
──世界が、燃え上がった。
灼熱。息ができないほどの灼熱。防護服の内側に、火の粉が這い上がるような、肌を焼くような熱さ。視界は、橙と黒の渦。爆発の轟音。木材がきしみ、崩れ落ちる音。仲間の叫び声。
『隊長! ダメだ! もう戻れ!』
『作業員は……奥に……! もう一人……!』
視点は揺れる。重い装備を身にまとった体が、燃えさかる梁の下をくぐり抜ける。手に持った放水ホースの先から勢いよく水が噴き出すが、巨大な炎の壁の前ではまるで子どもの水鉄砲のようだ。
倒れた棚の下。うずくまる人影。防護マスク越しに、『大丈夫か!? 起きろ!』と叫ぶ自分の声。
助け起こした作業員を、脇に抱え、炎の隙間を探しながら戻路を急ぐ。熱い。あまりに熱い。防護服の限界が近い。呼吸も苦しい。
その時、頭上で、不気味なきしみ音。
『隊長! 上!』
誰かの絶叫。彼は、抱えていた作業員を、思いっきり前方――炎のまだ及んでいない方向へと押し出す。
次の瞬間。
ドッカ――ン!!!
天井の一部が、崩れ落ちてきた。灼熱の木材と金属の塊が、彼の視界を覆う。激しい衝撃。体が吹き飛ばされる。背中から床に叩きつけられる。何かが、胸の上にのしかかる。重い。熱い。息が……できない……
視界が揺らめく。ヘルメットのシールドの向こう、崩れ落ちた資材の隙間から、炎と煙が渦巻く天井が見える。痛み。全身が、焼かれるような痛み。しかし、それ以上に、脳裏を駆け巡る思い。
『さくら……』
七歳の娘の、笑顔。来週の日曜日が誕生日だ。約束した。あの、大きくてふわふわのクマのぬいぐるむを買ってやるって。一緒に、動物園に行くって。
『ごめん……な……』
約束、守れない。誕生日、一緒に祝えない。これから先、ずっと、そばにいてやれない。
『さくら……幸せ……に……』
愛おしさ。無念。責任感。そして、深い、深い愛情。
これまでの“業”――兵士の無念、令嬢の怨恨、作曲家の執着――とは、まったく質の異なる感情の奔流が、はるかの意識を襲った。それは、他人を呪い、引きずり込みたいという悪意ではなく、自分以外の誰かを、ただただ心から思い、守りたい、幸せでいてほしいという、あまりに純粋で強い“想い”だった。その想いが、叶わなかったという事実によって、逆に、宝石よりも重く、熔岩よりも熱い“業”と化して、ヘルメットに染み込んでいた。
はるかは、それに飲み込まれそうになった。共感ではなく、同化だ。島津隊長の、父親として、隊長としての全ての愛情と責任感を、自分のものとして背負い込みそうになる。その重さに、魂が押しつぶされそうだった。
現実の事務所で、異変が起きる。
まず、気温がみるみる上昇した。夏の炎天下のような、むっとする熱気が部屋を満たす。机の上の紙が、端から茶色に焦げていく。窓ガラスが、曇り、歪んで見える。
はるかの体は、火照り、真っ赤になった。汗が噴き出し、すぐに蒸発する白い湯気となって立ち上る。彼の全身を覆う業痕――特に、左腕の濃い痕が、うごめくように脈打ち、ときおり、灼熱の炭火のように暗紅色に光った。彼は椅子の上で体を硬直させ、歯を食いしばり、喉の奥でうなるような唸り声を漏らしている。指先は、机の上で無意識に痙攣し、あたかも炎の中でもがくように動く。
「趙さん!」ことりが悲鳴に近い声を上げた。彼女は、熱波に押されそうになりながらも、一歩前に出た。「たまさん! どうしよう!?」
たまは、古籍を置き、素早く立ち上がった。彼女の顔も、熱気と緊張で少し紅潮している。彼女の細い指が、空中に複雑な軌道を描く。目に見えない結界が張られ、部屋中に広がる異常な熱気と、ヘルメットから溢れ出す“業”の奔流を、何とか食い止めようとする。
「“業”の性質が……強い“愛”と“未練”……浄化ではなく、“受け止め”と“転換”が必要……」たまの呟きは速い。彼女の額に汗が光る。結界が、熱と感情の奔流に押され、きしむように軋んでいる。「趙はるか! 同化するな! あなたは“送り手”だ!“受け手”ではない!」
しかし、はるかには届かない。彼は、火炎と崩壊音と、胸を締め付ける無念の只中にいた。
ことりは、たまの結界のそばで、ただ見守るしかないことに、もどかしさと恐怖でいっぱいだった。でも、何もしないわけにはいかない。彼女は、震える足を一歩前に踏み出し、熱風をかいくぐり、はるかの座る椅子の傍らにしゃがみこんだ。そして、彼の机の上で痙攣している右手を、自分の両手で包み込んだ。
「趙さん! 帰ってきて! ここにいるよ! 私たちが、ここにいるから!」
彼女の手は、はるかの熱く震える手に比べれば、ずっと小さい。でも、彼女は精一杯、ぎゅっと握り返した。彼女の涙が、はるかの手の甲に、ぽたぽたと落ちた。
たまは、結界を維持しながら、はるかの様子を見ていた。彼の意識が、どんどん深みへと沈んでいく。業痕の光が不安定にちらつき、これはもう、限界に近い。このままでは、彼の精神が、島津隊長の最後の“想い”に完全に飲まれ、戻ってこられなくなるかもしれない。
一瞬、彼女の目に迷いがよぎった。だが、それはすぐに、ある決意に変わった。
彼女は結界を維持したまま──それは彼女の全神経を集中させる負荷の高い作業だが──ゆっくりと、机の向こう側、はるかの正面へと歩み寄った。熱気と“業”の圧力が、彼女の動きを阻もうとするが、彼女は微動だにせず、一歩、また一歩と進む。
彼女は、はるかの前にひざまずいた。
そして、両手をそっと、ゆっくりと伸ばした。彼女の冷たい指先が、はるかが汗と熱気でびっしょりの、火照った頬に触れる。その冷たさに、はるかの無意識の痙攣が、ほんの一瞬、止まった。
たまは、その手ではるかの顔を、優しく、しかし確かに包み込むように持ち上げた。彼のうつろな、炎に映る目を、じっと見つめる。
そして、彼女は、自らの額を、はるかの灼熱の額に、そっと、ぴたりと寄せた。
目を閉じる。
二人の間には、結界の微かな光の輪が、今、直接的な接触によって、より強く、密に結ばれた。たまの、常に冷たく計算高い心の奥底から、一筋の、揺るぎない、静謐な意識の流れが、はるかの混乱し、燃えさかる精神世界へと、静かに流れ込んでいく。
『はるか』
彼女の声が、直接、はるかの魂に響く。炎の咆哮や崩壊音をすべて掻き消す、冷たく、透き通った声。
『私が、ここにいる』
火炎地獄の幻影の中、はるかの眼前に、たまの顔が浮かび上がる。炎に揺らめくのではなく、しっかりと、静かに。彼女の、細い縁の眼鏡の奥の、冷静で、今は深い憂いをたたえた瞳が、彼を見つめている。
『私を見て』
その瞳に、はるかは引き寄せられる。狂おしいほどの熱と悲しみの海の中で、たまの存在だけが、冷たく、確かな“陸地”のように感じられる。
『……帰ってきて』
その言葉が、最後の命綱となった。
はるかは、全ての力を振り絞り、島津隊長の圧倒的な“想い”の奔流から、自分自身を引き剥がす。同時に、その“想い”そのものに対して、彼はただ、受け止め、肯定する。
『わかっています……あなたの気持ち……』
火の中、倒れ伏す隊長の幻影に向かって、はるかが念じる。
『さくらちゃんのことは……きっと、大丈夫です。あなたが、どれだけ彼女を愛していたか……その想いだけで、彼女は、強く、優しい人に育っていけます』
『あなたは……よく頑張りました。たくさんの人を救いました。立派な消防士でした。そして……何よりも、素晴らしい父親でした』
『だから……もう、休んでください』
『あなたの想いは、消えません。彼女の心に、しっかりと残っていますから』
幻影の中の隊長が、微かに、とても苦しそうに、しかしどこか安堵の表情を浮かべた。そして、その姿が、燃えさかる炎とともに、ゆらりと散っていく。
現実の事務所で、ヘルメットが、ほのかな、温かいオレンジ色の光を放った。それは、炎のような熱さではなく、夕日のような、穏やかで懐かしい光だった。光はヘルメット全体を包み、煤と焦げ跡を、まるで優しく洗い流すように消し去っていった。そして、光は静かに収束し、ヘルメットは、きれいに洗われ、手入れされたような、静かな佇まいに変わった。もはや、異常な熱気も、重苦しい“業”の気配もなかった。
はるかは、たまの額からゆっくりと離れ、がくっと前に崩れ落ちそうになった。たまとことりが、同時に彼の体を支えた。はるかは、二人に寄りかかり、目を閉じて、肩で荒い息をしていた。全身の火照りは引き、代わりに、深い、底なしの疲労が襲ってきた。左腕の業痕は、相変わらず濃い灰色だったが、脈打つような疼きは治まっていた。
彼はかすかに目を開け、まず、目の前のたまの顔を見た。彼女の額にも汗がにじみ、顔色は青白く、彼を支える手が微かに震えている。だが、彼女の目は、はるかをしっかりと見つめ、心配そうに、そして、ほっとしたような表情を浮かべていた。
「……たま……」はるかの声は、ひどくかすれていた。
たまは、ほんの少し、うなずいた。何も言わず。
ことりの方に視線を移す。彼女は、涙でぐしゃぐしゃの顔で、必死に笑おうとしている。「よ、よかった……趙さん、戻ってきて……ほんと、よかった……」
はるかは、ごくわずかに、唇をゆがめた。笑顔にはならなかったが、それだけでことりはまたぽろぽろと涙をこぼした。
二人の支えを借りて、はるかはゆっくりと椅子に座り直した。ヘルメットを、そっと風呂敷に包んだ。
「……終わった」彼が、力なく呟く。「島津さんは……もう、苦しくない」
その夜、深更。
事務所のバスルームから、ずっと、水の流れる音がしていた。はるかは、シャワーも浴びず、ただ洗面台の前に立ち、蛇口を全開にしていた。冷たい水が勢いよく流れ出し、排水口に吸い込まれていく音だけが、部屋に響く。
彼は、鏡に映る自分の顔を見つめていた。水しぶきで濡れた髪。目の下の深い隈。そして、何より、虚ろで、何の感情もないように見える目。
その目に、じわじわと、熱いものが滲み始めた。
ぽたっ。一粒の涙が、頬を伝い落ちる。続いて、もう一粒。止めようとした。歯を食いしばった。拳を握りしめた。しかし、無駄だった。
堰を切ったように、涙が溢れ出した。声にならない嗚咽が、喉の奥でこみ上げる。彼は洗面台の縁に必死にしがみつき、体を折り曲げ、肩を激しく震わせた。しかし、声は出なかった。口を大きく開け、胸を押し裂くような悲しみに喉を締め付けられながら、ただ、荒く浅い呼吸と、無声の涙だけが、止めどなく流れ続けた。
あの優しかった人が、もういない。あの大きな手で頭を撫でられることは、二度とない。一緒に焼き肉を食べ、馬鹿話をすることもない。彼の、新しく生まれたばかりの人生の、ほんの一部ではあったが、確かな“温もり”だったものが、一つ、消えてしまった。
その喪失感が、これまでに感じたどんな“業”よりも、彼の心をえぐり、空洞を作っていくようだった。
バスルームのドアの外。
たまが、立っていた。彼女は、はるかがバスルームに入ってからずっと、ここにいた。水の音。そして、今、かすかに聞こえる、息の詰まるような、しかし声を押し殺した苦悶の音。彼女は、ドアの前で、手を上げ、こぶしを少し固く握った。ドアをノックするべきか。声をかけるべきか。
しかし、彼女の手は、空中で止まった。何と言えばいい? どうすれば、この深い悲しみを、ほんの少しでも和らげられる? 彼女にはわからなかった。彼女の知っているのは、結界の張り方と、“業”の分析だけだ。人の心の痛みを、どう癒やせばいいのか、彼女は学んだことがない。
彼女は、ゆっくりと手を下ろした。そして、背中をドアにぴたりとつけ、そのまま、床に滑り落ちるように座り込んだ。膝を抱え、小さく縮こまった。彼女は、目を閉じ、ドアの向こうから漏れる、無言の慟哭に耳を澄ませた。彼女の胸の奥も、何か重く、苦しいものでいっぱいだった。彼の痛みが、透き通って、伝わってくるようで。
リビングでは、ことりが、ソファの上で丸くなっていた。彼女も、バスルームの方向をじっと見つめ、涙をぽろぽろとこぼしていた。趙さんが、あんなに悲しんでいる。たまさんも、ドアの前で動かない。自分には、何もしてあげられない。ただ、ここで、一緒に悲しんでいることしかできない。無力感が、胸を締め付けた。
遠く離れた、いつもの居酒屋。
カウンターで一人、酒を呷る大輔の元に、携帯に短いメールが届いた。差出人はことり。内容は短い。
『仕事、終わりました。趙さん、無事です。でも、すごくつらそうです。たまさんも』
大輔は、そのメールをじっと見つめ、やがて、深くため息をついた。手にした焼酎の盃を、一気に飲み干す。喉が熱く焼ける。
「……あの馬鹿め……」彼の呟く関西弁には、いつもの軽薄さはなく、ただ、重苦しい労いと、どうしようもない焦燥感がにじんでいた。「また……一人で、抱え込んでる……たまさん……ことり……そっちは、頼んだで……」
彼はグラスを置き、もう一杯注文した。そして、窓の外の、深夜の街灯を見つめたまま、無言で飲み続けた。
事務所の中では、三人の時間が、それぞれの悲しみを抱えながら、ゆっくりと、重く、流れていった。水の音は、いつまでも止まなかった。




