婁家の玉佩
依頼品は、一つの翡翠の玉佩だった。
大きさは親指の腹ほど。彫りは精緻で、雲と龍が絡み合う文様が施されている。しかし、その中央を、一本の不規則な裂け目が真っ二つに断ち切っていた。色は深い緑だが、裂け目からはかすかに、鈍い灰色のような、不健康な光沢が滲んでいるように見えた。
持ち主の中年男性は、神経質そうにハンカチで額の汗を拭いながら言った。
「これ、曾祖父の形見でしてね……ずっと仏壇に祀ってあったんです。ところが、ここ数ヶ月、私も妻も、同じ夢を見るようになりまして……」
「夢というと?」はるかが静かに促した。
「水の中に沈んでいく夢です。深い、暗い水底へ。手足が動かせない。息ができない。そして、この玉佩が、胸のあたりで、冷たく、重く光っている……そんな夢を、何度も繰り返し見るんです。目が覚めても、胸が締め付けられるような、息苦しい感覚がしばらく続く。これは、ただ事ではないと思いまして……」
はるかは、そっと手袋をはめ、玉佩を手に取った。触れた瞬間、指先に走ったのは、これまで感じたどんな“業”とも違う、重く、古く、広大な何かの気配だった。個人的な怨念や悲しみではない。もっと、公的で、儀式的で、途方もない規模の“何か”の一片が、ここに封じ込められている。
彼が玉佩を観察していると、事務所の奥、書架の傍らで静かに本を読んでいたたまが、何気なく視線を上げた。
その瞬間、彼女の動きが完全に止まった。
パタン、という乾いた音。
彼女が手にしていた古籍が、床に落ちた。頁がばらばらに開く。
はるかとことり、依頼主の男性が一斉に彼女を見た。
たまは、机の上の玉佩を、見開かれた目で見つめていた。顔から血の気が完全に引き、蝋細工のように青白い。彼女の細い指が、微かに、しかし明らかに震えている。呼吸が浅く、速くなっているのが、離れた場所からでもわかる。
「……たまさん?」ことりが心配そうに声をかけた。
たまはその声には反応せず、ゆっくりと、まるで夢遊病者のように、机の方へ一歩、また一歩と近づいた。彼女の視線は玉佩に釘付けだ。その目には、はるかがこれまで見たことのない、純粋な恐怖に近いものが浮かんでいた。
彼女の唇が、かすかに動いた。声にならない呟きが、漏れる。
「……まさか……これは……」
彼女は、震える手を伸ばし、はるかが持つ玉佩に触れようとしたが、寸前で手が止まった。まるで、触れると火傷するかのように。
「……婁家の……“鎮魂玉”……」
その言葉は、絞り出すように、かすれていた。
「なぜ……ここに? なぜ、流れて……なぜ、裂けている……?」
依頼主の男性が、たまの異様な様子に恐れをなしたように、「わ、私はこれで……」とおずおずと言い、契約書に署名を急いで済ませると、玉佩を置き去りにするようにして事務所から去って行った。ことりが、困惑しながらも礼を言って見送る。
ドアが閉まり、事務所には重い沈黙が残された。
机の上には、ただ、裂けた玉佩が置かれている。
たまは、依然としてそれを見つめ続け、青ざめた顔で立ち尽くしていた。はるかは、彼女と玉佩を見比べた。たまの姓は“婁”。これは、彼女の“家”に関わるものなのか。
「……たま」はるかが、低く、しかしはっきりと呼んだ。「これは、何だ?」
たまは、ゆっくりとはるかの方に顔を向けた。彼女の目は、混乱と動揺と、深い絶望に曇っている。彼女は口を開いたが、言葉が出てこない。代わりに、彼女は無言で、玉佩を、まるで火中の栗を拾うように、慎重に、しかし迅速に風呂敷で包み、机の引き出しにしまった。
「……この仕事は、断りなさい」
彼女の声は、低く、震えている。
「今すぐ、依頼主に連絡して、お断りしなさい」
「たまさん、どうしたの? そんなに怖いものなの?」ことりが心配そうに尋ねた。
たまはことりには答えず、はるかをじっと見つめた。その目は、必死の訴えを湛えていた。
はるかは、机の引き出しを見下ろし、それからたまの目を見た。
「理由を教えてくれ」彼は静かに言った。「それが何で、なぜ危険なのか。お前がそんなに動揺する理由を」
たまは唇を噛んだ。彼女の目が一瞬潤んだように見えたが、次の瞬間、彼女は強く目を閉じ、深呼吸を一つした。目を開けた時、そこには、いつもの冷静さ――ぎりぎりの線で保たれた、薄っぺらな冷静さが、わずかに戻っていた。
「……調べる必要がある」彼女の声は、まだかすれていた。「危険すぎる。私が、先に中身を確認する」
「たま!」
「あなたには無理だ!」たまの声が、思わず鋭くなる。「これは、あなたが今まで扱ってきたような、個の“業”ではない! これは……“流れ”そのものの、ほんの一片だ! 素人が触れれば、魂を引き裂かれる!」
はるかは、彼女の必死さに一瞬押されそうになった。だが、彼はゆっくりと首を振った。
「依頼は引き受けた。これは俺の仕事だ。お前が口を出さず、ただ見ていてくれればいい、と言うなら別だが……お前は、どうやらそれ以上のことを知っているようだ」
彼は、左手の手袋をきつく締め直した。業痕の下で、心臓が高鳴るのがわかる。危険な予感は、肌で感じていた。
「それに」彼は、たまの目を真っ直ぐ見た。「お前がそれほど動揺するものを、お前一人で調べさせるわけにはいかない」
たまは、言葉を失ったように彼を見つめた。彼女の目の中を、驚き、焦り、そして、ほんの少しの、どうしようもない諦めのようなものが駆け抜けた。
「……馬鹿だ」彼女の呟きは、ほとんど息の音のようだった。
はるかは答えず、風呂敷を解き、再び玉佩を机の上に置いた。ことりが、二人の間の緊迫した空気に息を飲み、小さく一歩後ずさった。
たまは、固まったように立ち尽くしていたが、やがて、ゆっくりと一歩、机に近づいた。彼女の顔はまだ蒼白で、唇はしっかりと結ばれている。彼女は、玉佩とはるかの間の位置に立ち、細い指を組み、目を閉じた。何か、静かで速い呪文のようなものを、唇の間で唱え始めた。それは、鏡の時とは違う、より古く、厳かな響きを持っていた。
はるかは、たまの“準備”が整うのを待った。彼女の周囲の空気が、わずかに、だが確実に、守りのように固く、澄み切っていくのを感じた。
「……やるなら、今だ」たまが、目を開けずに言った。声は、かろうじて平静を装っている。「私の結界は、完璧ではない。あの“規模”を前にすれば、紙の盾同然だ。覚悟は、いいな?」
はるかは、深く、深く息を吸い込んだ。そして、目を閉じ、指先を、冷たい翡翠の表面に触れた。
共感が始まる──というより、侵食が始まる、と言ったほうが正確だった。
意識が、深い、深い海の底へと、重力に引きずり込まれるように沈んでいく。光も音もない。ただ、途方もない“重さ”だけが、存在を押しつぶす。
そして、視界が、ゆっくりと、歪んだ形で開ける。
──暗い。空全体が、漆黒の、うごめく雲に覆われている。大地は震え、割れ、そこから、“業”の奔流が吹き上がる。
それは、これまで見てきたいかなる“業”とも次元が違った。無数の、歪んだ人間の顔。引きちぎられた手足。絶叫する口。泣き叫ぶ嬰児。燃える家屋。砕ける武器。すべてが、黒い泥のように混ざり合い、渦を巻き、巨大なうねりとなって、地平線の彼方から、天地を覆い尽くさんばかりに押し寄せてくる。その量と質量、そしてそこから放たれる、積もり積もった数百年来の、一切合切の衆生の苦しみと絶望が、はるかの魂を一瞬で氷漬けにした。
この、世界の終わりのような光景の前に、一人の人間が立っていた。
高い山の頂。彼女は、白い巫女装束を身にまとい、長い黒髪が狂うように風になびいている。顔は、たまにそっくりだ。いや、たまそのもののように見える。しかし、その目は、たまの知性的で冷たい目とは違う。深い慈愛と、断固たる決意、そして、計り知れない悲しみに満ちていた。
彼女の周囲には、数十人、いや数百人の道士や僧、神官らしき者たちが、陣を敷き、必死に印を結び、経を唱えている。しかし、彼らの結界は、黒い奔流の前では、泡のように次々と崩れていく。人々が、悲鳴を上げて倒れ、奔流に飲み込まれていく。
巫女──たまの先祖は、その光景を一瞥し、深く、深く目を閉じた。そして、振り返る。彼女の視線の先には、逃げ惑う民衆の群れ。幼子を抱えた母親。助け合う老人たち。普通の、何も知らない、ただ生きたいと願う人々の姿があった。
彼女の唇が動いた。はるかには聞こえない。だが、その口形から、何かを言っているのがわかる。
『……ごめんなさい』
そう、言っているように見えた。
そして、彼女は、くるりと背を向け、両腕を大きく広げた。全身から、眩いばかりの純白の光が迸る。その光は、彼女自身を燃料として燃え上がり、巨大な光の柱となって、押し寄せる漆黒の奔流に、真っ向から突き進んでいった。
光と闇が激突する。世界を焼き尽くすような閃光。そして、轟音。
光は、奔流の中心深くまで食い込み、そこで爆散した。奔流の動きが、一瞬、止まる。光の破片が、闇を浄化し、封印する結晶のようなものに変わっていく。いくつかの光の欠片が、山の頂に落ち、そこにいた道士たちの手によって、何か――おそらくは玉佩のような形の“器”に封じ込められる。
巫女の姿は、もはやなかった。彼女は、光と共に、闇の奔流と共に、消え去った。
残されたのは、深い傷を負い、ようやく静まり返った大地。そして、わずかに残った封印の“器”。そして、生き延びた者たちの、深い、深い悲嘆と、誓い。
──この封印は、永遠ではない。時と共に弱まる。次の“流れ”が来るとき、また、犠牲が必要になる。それが、婁家の娘の使命だ。
その“知識”が、奔流の記憶と共に、はるかの脳裏に叩き込まれる。
この時、はるかは、自分が“共感”しているのではなく、“流れ”そのものの一部に、無理やり同化させられていることに気づいた。彼の自我が、数百年来の苦しみの記憶に、押し流され、溶解し始めている。彼はあの巫女ではない。彼には、あの光を放つ力も、あの覚悟もない。ただ、この途方もない“業”の海に、溺れるだけだ。
現実の肉体で、彼がうめき声を上げる。
左手の業痕が、爆発的に広がり始める。灰色の煙霞が、手首を越え、前腕を駆け上がり、肘を目指して這い上がる。皮膚の下で、血管のように、あるいは裂け目のように、不気味に光り、脈打つ。灼熱と極寒が同時に走り、骨まで痺れるような激痛。彼の意識が、遠のく。
危ない。このままでは、自我が完全に消え、この玉佩と化してしまう。
たまの、必死の叫び声が、遠くで聞こえる。
「離れろ! 趙はるか! 手を離せ!」
だが、手が離せない。指が、翡翠に凍り付いたように固まっている。
彼の視界の端で、たまが駆け寄ってくるのが見える。彼女の顔は恐怖に歪み、涙が浮かんでいる。彼女の手が、彼の業痕だらけの左腕に触れる。その手は、氷のように冷たく、震えている。
たまが、目をぎゅっと閉じ、何か、切迫した、古い言葉を早口で唱え始める。彼女の握る腕の周囲に、かすかな、青白い光の輪ができる。玉佩から溢れ出す漆黒のオーラが、その光の輪によって、わずかに、ほんのわずかに抑え込まれる。
その一瞬の隙に、はるかは、全ての力を振り絞り、現実へと意識を引き剥がす。
ぱちん、という小さな音。
はるかの指が、玉佩から離れた。
彼は、椅子からずり落ち、床に膝をつき、前かがみになった。喉の奥から、苦い胃液が込み上げてくる。全身が冷汗でびっしょりだ。左腕は、肘までを覆い尽くす、濃灰色の、まだ脈打つような業痕に覆われ、火傷のようにヒリヒリと疼いている。触れば、氷のように冷たい。呼吸が荒く、心臓が暴れ狂っている。
たまも、彼の傍らに膝をついていた。彼女の握っていた彼の腕を、まだ離さず、しかし、その手はひどく震えていた。彼女の顔は、はるか以上に青白く、目は虚ろで、涙が一筋、頬を伝って落ち、床に小さな染みを作っていた。
「……たま……さん?」ことりが、恐る恐る近づいてきた。彼女も、事態の異常さに完全に圧倒され、顔面蒼白だ。
たまは、はるかの腕から、ゆっくりと手を離した。彼女の手のひらには、はるかの業痕の、かすかな灰色の“気”が、薄く移っているようだった。彼女はその手をじっと見つめ、それから、よろめくように立ち上がり、棚の上の薬箱を取ってきた。
中から、独特の草木の香りがする軟膏の瓶を取り出す。彼女の手の震えは止まらない。蓋を開けようとして、二度も三度もすべる。
「……私がやる」はるかが、かすれた声で言った。
たまは、無言で瓶を差し出した。彼女の目は、はるかの左腕の、ひどい業痕から離れない。
はるかは軟膏を指に取り、焼け爛れたように見える皮膚に、そっと塗り広げた。清涼感が広がり、激しい疼きがほんの少し和らぐ。だが、痕そのものが消えるわけではない。これだけ濃く、広がった業痕は、初めてだ。
塗り終え、彼は顔を上げ、たまを見た。彼女はまだ、うつむき、震えている。
「……あれは、何だった?」はるかの声は、まだ力がない。
たまは、長い沈黙の後、ゆっくりと顔を上げた。涙の跡が光っている。彼女の目は、深い疲労と、絶望に近い何かで曇っていた。
「……もう、二度と」彼女の声は、かすれ、震えていた。「こんな……依頼は……受けるな」
「なぜだ?」はるかは、左腕をかばうように抱えながら、じっと彼女を見つめた。「あの玉佩は、お前の家のものだろ? あの巫女は……お前の、先祖か? あの“黒い流れ”は何だ? お前は、何を隠している?」
質問が、矢継ぎ早に飛ぶ。
たまは、目をぎゅっと閉じた。彼女の肩が、小さく震えた。
「……言え」はるかの声には、いつになく強く、しかしどこか切実な響きがあった。「お前が一人で背負おうとしているのは、あんなものなのか? あの、世界を呑み込むような……?」
たまは、ぱっと目を見開いた。その目には、一瞬、激しい感情が渦巻いた――怒り、悲しみ、恐怖、そして、どうしようもない焦り。
「だ・か・ら!」
彼女の声が、思わず大きく、鋭く跳ね上がった。普段の冷静さは、ここには微塵もない。
「触れるなって言ってるだろう! 知ろうとするな! あんなものに……関わったら……お前は……!」
彼女の言葉が、喉の奥で詰まった。彼女は、はるかの顔を、そして彼の左腕のひどい業痕を、交互に見つめ、唇を震わせた。
「……死ぬ」
その言葉は、絞り出すような、かすれた囁きだった。
「関われば……お前は、確実に、死ぬ」
はるかは、息を飲んだ。たまの目は、真剣だった。彼女は、本気でそう信じ、恐れている。
たまは、それ以上何も言わなかった。彼女は、床に落ちていた本を拾い、薬箱を片付け、そして、机の上の玉佩を、再び風呂敷でくるみ、それをしっかりと胸に抱きしめた。まるで、危険物を隔離するように。
彼女は、はるかとことりを、最後にもう一度、複雑な表情で一瞥した。そして、何も言わず、足早に、自分の部屋へと向かい、ドアを閉めた。
鍵が、かちゃり、と音を立てた。
深夜。
事務所の屋上には、一人の人影がいた。
たまだ。彼女は縁に腰を下ろし、膝を抱え、ぼんやりと星空を見上げている。手には、あの裂けた玉佩が握られていた。月明かりが、翡翠の深い緑と、不気味な裂け目を浮かび上がらせる。
彼女の顔には、昼間の動揺も恐怖もない。代わりにあったのは、深い、深い疲労と、どうしようもない無力感だった。彼女の、常に完璧で冷静な仮面は、ここには存在しない。月明かりに照らされ、彼女はか細く、孤独で、ただの二十二歳の女の子に見えた。
唇が、微かに動く。
『……あと……四ヶ月……』
夜空に呟く、かすかな声。
『曾祖母さま……あの方は……私に、何を望んでいたんですか……?』
彼女の目に、月明かりがきらりと反射する。彼女は玉佩を、そっと持ち上げ、額に当てた。翡翠の冷たい感触が、皮膚に染みる。
『私は……怖いです』
瞼を閉じる。長い睫毛が、頬に影を落とす。
『あの“流れ”に飲み込まれるのが。痛いのが。何もかも忘れて、消えてしまうのが』
『でも……それ以上に……』
彼女の目が、ぱっちりと開かれた。視線は、下階の、はるかの部屋の窓の方へ、自然と向かう。明かりは消えている。彼も、苦しい夢でも見ているのだろうか。あの、ひどい業痕は、まだ疼いているだろうか。
『……あの人を、巻き込みたくない』
彼女の声は、今にも消え入りそうなほど小さくなる。
『私のことなんて……どうだっていい。私は、そうなるために生まれてきたんだから』
『でも、あの人まで……あの優しくて、馬鹿で、誰よりも“声”に耳を傾けようとする人が……私のせいで……』
言葉が、再び喉の奥でつっかえた。
彼女は、額に当てた玉佩を、ぎゅっと、握りしめた。握力で、手のひらが白くなる。しかし、玉佩は微動だにしない。ただ、冷たく、重く、確かな“使命”として、彼女の手の中にある。
ぽつり。
一つの、小さな、温かい水滴が、彼女の頬を伝い、玉佩の表面に落ちた。翡翠の上で、きらりと一瞬光り、すぐに乾く。
ぽつり。ぽつり。
止めようとしても、止まらない。涙が、静かに、しかし絶え間なく溢れ出る。彼女は、声を殺して泣いた。肩が、小さく、小さく震える。
屋上の夜風が、彼女の長い黒髪を静かになびかせる。その下で、彼女はただ、玉佩を額に押し当て、孤独に、無言で、泣き続けていた。
月だけが、その姿を、哀れみ深く見守っている。




