終わらない日常
ある、ごく平凡な夕暮れ時だった。
西日に照らされ、「七星堂」の窓ガラスが、深いオレンジ色に染まっていた。事務所の中は、書類の山と古本の匂い、そして、今日一日の仕事の残り香のような、どこかほこりっぽいが穏やかな空気で満ちていた。
「パパ! もう、ずるいよ!」
ことりの甲高い声が、静かな室内を切り裂く。彼女は、事務所の中心で、大輔の後を追いかけ回していた。手には、今月の収支が書かれたメモ帳をぶんぶん振りながら。
「先週の、あの旅館のご隠居さんの依頼! あれ、ほとんど私がやったんだから! 浄化も、交渉も! なのに、ボーナスの配分、私の分が少なすぎる!」
大輔は、机の陰に身を隠すようにしながら、けたたましく笑っている。
「お前、その金、また飲み代にもならんゲームか、わけのわからんオカルトグッズに消えるだけやろ! もったいない! はるか! ちょっとは、このわがまま娘になんとか言えや!」
はるかは、いつもの作業台の前に座り、今日処理した依頼の報告書を淡々とまとめていた。彼の手元には、細かい字で記されたメモと、いくつかの写真が並んでいる。ことりと大輔の騒がしいやりとりは、彼の耳を素通りしているようだった。しかし、よく見ると、彼の口元が、ごくわずかに、しかし確かに緩んでいる。眉間に刻まれた常の皺も、少し浅くなっているように見えた。それは、微笑みと呼ぶにはほど遠い、筋肉のほんのわずかな弛緩に過ぎない。だが、一年前の、あの凍りついたような無表情と比べれば、それは明らかな変化だった。
「ふん! ゲームだって、立派な文化だし、オカルトグッズだって、勉強になるんだから!」
ことりが、さらに詰め寄る。彼女は、大輔を追い詰めようと、勢いよく机の脇を回り込んだ。その時、彼女の足が、床に積まれた古い資料の山の端に、思いがけず引っかかった。
「わっ!?」
バランスを崩し、ことりは小さな悲鳴を上げ、そのまま前方へ、よろめきながら倒れこもうとした。
その瞬間——
はるかの体が、椅子からすっと立ち上がった。彼の動きは、驚くほど速く、滑らかだった。思考よりも体が先に動いた。一歩、二歩と踏み出し、伸ばした手が、ことりの、今まさに倒れようとする腕を、しっかりと、しかし優しく掴んだ。乱暴に引っ張るのではなく、彼女の体を、そっと支え、元の位置に戻すような力加減だ。
ことりは、ひょいっと体勢を立て直され、ぽかんとした顔で、はるかの方を見上げた。彼女の目と、はるかの目が、至近距離で合う。彼の顔は、相変わらず無表情に近い。しかし、その瞳の奥には、かすかな焦りの名残と、彼女が無事でいることへの安堵が、ちらりと光っていた。
そして、はるかは、もう一方の手を上げた。それは、ことりの、柔らかくふんわりとした髪の毛の上に、ごく自然に、そっと載せられた。まるで、転びそうになった小さな子の頭を、無意識に撫でるように。彼の手のひらは、大きく、少しごつごつしていて、しかしその動きは、驚くほど軽やかだった。
彼は、ことりの髪を、二度、三度、ごしごしと、乱暴なくらいに揉んだ。その間、彼の目は、ことりの瞳をまっすぐに見つめたままだった。そして、ごく低い、平静な声で、言った。
「……気をつけろ」
それだけだ。それ以上の言葉はない。そして、彼は、ことりの腕から手を離し、彼女の頭からも手を引っ込めた。まるで、何もなかったように、静かに自分の作業台へと戻り、再び椅子に腰を下ろす。報告書を手に取り、ペンを持つ。耳の付け根あたりが、夕日の光で、ほんのり赤く染まっているようにも見えたが、気のせいかもしれない。
一方、ことりは、完全に石化していた。
彼女の目は、見開かれたまま、瞬きさえ忘れている。口はぽかんと開き、頬から耳の先まで、みるみると真っ赤に染まっていく。まるで、熱湯をかけられたエビのようだ。頭の上には、はるかに揉まれたせいで、ぼさっと逆立った一房の毛が、ぴょこんと立っている。
彼女の脳内は、完全にフリーズした。思考が停止し、言葉が消え、感覚だけが、頭の上に残された、あの大きくて少し冷たい手のひらの感触と、彼の、ごく近くで見た、深い灰色の瞳の奥にちらついた、かすかな感情のきらめきを、無限ループで再生し続けている。
数秒間、沈黙が流れた。大輔が、机の陰から顔を出し、この光景を目撃し、口をへの字に曲げて笑いをこらえている。
そして、ことりの中で、ブレーカーが跳ねた。
「わ、わ、わかったわよーっ!!」
彼女は、飛び上がるようにしてはるかから離れ、顔を真っ赤にしたまま、彼を指さして叫んだ。声はひっくり返りそうだ。
「こ、これからも、どんどん、うるさくしてやるから! 朝から晩まで、喚き散らしてやるから! 耳が腐るまで、うるさくしてやるから、覚悟しとけよ、このバカはるか!」
そう叫び終えると、彼女は、自分の鞄をがしっと掴み、ドアの方へ一直線に駆け出した。「行ってきます」の一言もなく、ドアを勢いよく開け、バタンと閉める。慌てた足音が、階段を下りていく。
事務所には、再び静寂が戻った。いや、大輔の、押し殺した笑いが、やがて爆発するように大きくなり、関西弁の大笑いに変わった。
「はははは! はるか! やったな! ようやった! あの娘、完全に、ぶっ飛んでったわ!」
はるかは、大輔の笑い声には一切反応せず、相変わらず報告書を書いている。しかし、彼の視線は、窓の外、ことりが消えていった路地の方を、ほんの一瞬、捉えていた。そして、その目元が、かすかに、しかし確かに柔らかくなっている。夕日が、彼の横顔に深い影を落とし、右半身の複雑な業痕を浮かび上がらせている。その模様は、かつてのように不気味に疼くことはなく、ただ、彼の一部として、静かに刻まれている。
夜が完全に訪れ、街の灯りが一斉に点った頃、「七星堂」には、再び平穏が訪れていた。大輔が台所で、何かをつくっている音と、彼の鼻歌混じりの関西弁が、静かに響いている。夕食の支度らしい。
はるかは、窓辺に立ち、外の夜景を眺めていた。ビルの窓の明かり。流れる車のヘッドライト。遠くのネオンのきらめき。全てが、ありふれた、都会の夜のざわめきだ。
彼は、無意識に、左手で、右手のひらを、ゆっくりとこすっていた。さっき、ことりの頭を揉んだ、あの手だ。彼女の髪の、ふわふわとした、柔らかな感触。そして、彼女が、あの瞬間、あまりに真っ赤になって固まった、あの表情。
彼の心の中で、静かに、言葉が紡がれていく。それは、報告でも、祈りでもない。ただ、胸に去来する思いを、自分自身に確認するような、静かな独白だった。
(たま……見てるか?)
窓ガラスに、彼自身の、やつれたが確かな輪郭が、ぼんやりと映る。その背後には、無数の街の灯りがきらめいている。
(お前のいないこの世界は……相変わらず、うるさくて、やかましくて……そして、どこか、温かく回り続けている)
彼は、そっと胸のあたり——心臓の、少し上、あの深い穴が空いているような感覚がする場所に、手を当てる。
(お前は……俺の中の、ずっと輝き続ける“星”だ。思い出すと、まだ、ここが、きりきりと痛む)
(でも……その光が、暗い夜道を、かすかでも照らしてくれているのも、確かだ)
彼の視線が、台所の方——大輔の、大きな背中へと移る。そして、さっきことりが駆け出していったドアへ。
(ことりと、大輔は……)
(俺が立っている、この揺るぎない“大地”だ。そばで、絶え間なく騒がしい“風”だ)
(息をし、立ち、一歩を踏み出せる、この“今”そのものだ)
彼は、深く、静かに息を吐く。窓ガラスが、わずかに曇る。
(悲しみの穴は……まだ、そこにある。多分……これからも、ずっと、塞がらないだろう)
(でも、ことりの騒がしい声も、大輔のくだらない関西弁も、湯気の立つ飯の匂いも、めんどくさい依頼も、明日締め切りの報告書も……そんな、取るに足らない、どうでもいい日常の一片が、無数に、じゃりじゃりと、その穴の中へ、落ち続けている)
(穴は、埋まらない)
(でも、その、 “生きている”という名の石ころを踏みしめながらなら……ゆっくりと、少しずつ、お前が見ていた、もっと遠い景色の方へ、歩いていけるかもしれない)
彼は、目を閉じる。そして、再び開ける。その目には、深い悲しみの影と、静かな決意、そして、かすかながら確かな穏やかさが共存していた。
これが、俺たちの物語だ。
失うこと。覚えること。傷と星明りを抱きしめ、騒がしい日常の中、ぎこちなく愛し、優しく別れ、そして……それでも、生き続ける物語。
その時、階段の方から、またしても、慌ただしい、しかしどこか活気に満ちた足音が聞こえてきた。ドアががらりと開かれ、ほほをまだ少し赤らめたことりが、息を切らして入ってくる。
「ち、ちぇっ! 財布忘れてた! パパ! 夜ご飯、まだ!? おなか減ったー!」
彼女は、はるかの方へは一瞥もくれず(いや、こっそりちらりと見て、すぐに目をそらしている)、そのまま台所へ駆け込んでいく。
大輔の関西弁が、にこやかに響く。
「おー、帰ってきたか! ちょうど、できたで! 今日はちゃんと作ったから、文句言うなよ!」
はるかは、ゆっくりと窓辺から体を翻した。彼の目は、台所の明るい光に照らされた、ことりの背中と、大輔の大きな後ろ姿へと、自然に向かっていた。
そして、彼の口元に、ほんのりとした、しかし確かな微笑みが浮かんだ。それは、夕日に照らされた時よりも、少しはっきりとした、柔らかな曲線だった。
暖かい電灯の光に包まれた、少し埃っぽい事務所。
入り口に立つ、息を切らし、頬を赤らめ、しかし目をきらきらと輝かせた少女。
台所から漂う、味噌汁の香りと、「早うせえよ、ことり!」という関西弁の呼び声。
そして、窓辺に立ち、光と優しい闇の境界で、静かに彼らを見守る、傷ついた“送り人”。
彼の目には、もう、深い絶望の虚ろさはない。あるのは、この騒がしく、煩わしく、そして、どこにもない温かさに満ちた、彼らの、終わることのない——
(黑屏)
(字幕)
—— ざわめき。
(俺たちの、騒がしい声。)
(全五巻 完)
『ざわめき』について、そして、少し長い、愛しい時間のための“お休み”のお知らせ
親愛なる読者の皆さんへ
この言葉を書いている今、少し胸が詰まる思いです。まるではるかがたまのお墓の前に立つ時のように、言いたいことが山ほどあるのに、すべてが静かなまなざしになってしまう、そんな気持ちです。
まず、心から感謝を申し上げます。はるかやことり、大輔、そして、いつまでも輝いているたまとの、この長くて深い旅に、最後まで付き合ってくださって、本当にありがとうございました。皆さんが彼らの笑顔に笑い、涙に胸を痛め、沈黙を見守ってくれたからこそ、「七星堂」という小さな世界は、私の想像をはるかに超える広がりと温もりを持つことができました。
『ざわめき』は、私にとって、とっくに単なる“物語”ではありません。ある時期の私が、「愛」や「喪失」、「癒し」や「絆」について考えたすべてを注ぎ込んだ、大切な器です。彼らの日常を書くことは、まるで大切な陶器を拭くようで、一筆一筆がおっかなびっくりだったけれど、同時に、それ以上の幸せに満たされていました。
だからこそ、少し辛いのですが、この物語を一度、「長くて、愛しい時間のための“お休み”」に入れることにしました。
これは、完結ではありません。
少なくとも、私の心の中では、まだずっとずっと終わっていません。
はるかの体に刻まれた業痕のように、この物語も私の心に、「まだ埋まっていない、けれど優しい石が落ち続けている穴」を開けました。私はもう少しだけ、この想いを深く沈殿させる時間が必要です。この“世界”が次に何を語りたがっているのか、もう一度、静かに耳を傾ける時間が欲しいのです。「完結させなければ」という焦りから、彼らの未来を慌てて閉じてしまうような真似は、したくない。彼らは、もっと自然で、水の流れるような「その後」に値すると思うから。
ですから、これはお別れではなく、丁寧な“セーブデータ”のようなものです。
はるか は、業痕が疼く時にまだ窓の外を見るでしょう。でも、口元の緩みは、あとほんの少し、柔らかくなっているかもしれません。
ことり の騒がしい声は、決してやみません。彼女は相変わらず、自分のやり方で、拙くて全力で、事務所を満たし続けるでしょう。
大輔 の関西弁は、変わらず、一番安心できるBGMです。
そして たま の光は、背景で一番優しい星として、静かに輝き続けます。
彼らの時間は、この“セーブポイント”で一旦、止まりました。でも、彼らの世界の別の時間軸では、日々は確かに続いていると私は知っています——新しい依頼も、ささいないさかいも、静かな夕食も、時折訪れる過去の夢も、そして、可能性に満ちた明日も。
具体的にいつ“再開”するかは、お約束できません。本当の“続き”は、それが春の新芽のように、自ら自然に顔を出し、「さあ、彼らの物語を続ける時だよ」と教えてくれるのを、待たなければならないから。
その日が来るまで、どうか、物語の登場人物たちが互いを守り合ったように、
この本と、彼らのすべてを、あなたの心の温かい場所にしまっておいてくれませんか?
時々思い出したら、想像してみてください——今この瞬間も「七星堂」には、コーヒーか味噌汁の香りが漂っていて、ことりが夕飯のおかずで大輔と口論していて、はるかは窓辺にもたれ、この終わらないざわめきを聞きながら、これまでのすべての悲しみと優しさを胸に静かに、生きているのだと。
それこそが、最高の“つづく”なのかもしれません。
最後まで、本当にありがとうございました。
また、いつか、必ず。
—— この物語が、そしてそれゆえにあなたたちが、大好きな作者より




