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残された声のゆくえ~最後の声、届けます~送り人、趙はるかの記録~  作者: 「大和 尚羅夢」小花羅夢一生推し


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最終決戦・受け止め、贖いの叫び

はるかの、魂を引き裂くような絶叫は、直接的な声として届くには遠すぎた。しかし、その叫びに込められた、絶望、苦痛、そして必死の呼びかけの波動は、ある種の目に見えない糸を通じて、ある者の心を、鋭く刺し貫いた。

「七星堂」で、夕食の支度をしていたことりが、突然、胸を押さえてうずくまった。

「……っ!」

鋭い、焼けるような痛みが、胸の奥深くを走る。それは、物理的な痛みではない。彼女とはるかの間に、この一年で無意識に、しかし確かに紡がれてきた、かすかな霊的な繋がり——ことりの浄化の力が、はるかを何度も支え、彼の内に封じられた“業”の一部に触れる中で、自然にできあがったもの——を通じて、彼の危機が、直接的に伝わってきたのだ。

同時に、階下で新聞を広げていた大輔の携帯がけたたましく鳴った。電話の主は、かつての侠客仲間で、今は山間部で情報屋をしている男だ。声は焦りに満ちていた。

『大輔さん! 例の山奥の村、やばい! さっきから、不気味な光と地鳴りがすごい! 近づいた兄弟が、村の連中に襲われて返り討ちに遭った! 連中、目が死んでる! まるで操り人形だ! お宅の若造、確かあの村に仕事で行ったって聞いたが……!』

大輔の顔が一気に引き締まった。はるかの不自然な沈黙。山奥の村。そして、ことりの異変。全てがつながる。

「くそ……墨の野郎か……!」

彼は、階段を二段飛ばしで駆け上がり、苦悶の表情で胸を押さえることりの元へ駆け寄った。

「ことり! はるかか!?」

ことりは、蒼白な顔でうなずく。涙が、恐怖ではなく、怒りと焦りで目ににじんでいる。

「趙さんが……苦しんでる……助けを……求めてる……!」

「わかってる!」大輔が、短く言い放つ。「今すぐ、向かう! てめえ、大丈夫か!?」

ことりは、ぐっと唇を噛みしめ、立ち上がった。顔には、まだ痛みの歪みが残っているが、その目は、鋼のように固く、燃えるように輝いていた。

「大丈夫。絶対、連れ戻す」

その直後、玄関の呼び鈴が鳴った。慌てて開けると、そこには、スーツ姿の周皓辰と、数人の、どこか厳つい顔つきの男たちが立っていた。周皓辰の顔は、普段の穏やかさを失い、緊迫している。

「大輔様、ことり様。墨の動向を察知し、こちらに向かっていました。どうやら、彼の本拠地と思われる山間の村で、大規模な術法の気配が確認されました。趙はるか様は……?」

「あの村にいる! 今、向かう!」大輔が吼える。

周皓辰は深くうなずく。「我々も同行します。墨の手下は、少なくありません。現地での戦力になるはずです」

事態は、一刻の猶予も許さなかった。大輔、ことり、周皓辰とその部下たちは、すぐに車に分乗し、夜の闇を裂くようにして、山間の村へと向かった。


村に着いた時、そこは、すでに地獄絵図の様相を呈していた。

村の入り口では、目つきの悪い、しかし明らかに操られた村人たちが、棍棒や農具を手に、うごめいていた。彼らの背後では、墨の手下と思われる、黒い法衣をまとった術者たちが、複雑な陣形を組み、守りを固めている。

一方、村の奥、丘の方向からは、不気味な暗紅色の光がゆらめき、地鳴りのような低いうなり声が絶え間なく響いてくる。空気は重く、粘り気があり、呼吸するのも苦しい。そこには、はるかの気配と、それに絡みつく、巨大で邪悪な“何か”の存在が、濃厚に感じられた。

「やはり……『業』そのものを、無理やり引きずり出そうとしている……!」周皓辰が、苦渋に満ちた表情で呟く。

「ここで時間を食ってたら、はるかがもたん!」大輔が、金属バットを肩に担ぎ、関西弁で怒鳴る。「こっちは、おれと周の連中が引き受ける! ことり! お前は、一直線にはるかのところへ行け! あの光ってるとこだ!」

「でも、パパ……!」

「行け! あいつが、お前を呼んだんや! お前しか、あいつを止められん!」

ことりは、一瞬、唇を噛んだ。そして、こくんと強くうなずく。

「……わかった!」

大輔と周皓辰たちが、村の入り口で戦いを開始する。金属のぶつかる音、怒号、術法の炸裂音。現実側の、血みどろの戦場が、いま、ここに展開される。

ことりは、その脇を、浄化の力をわずかに張ったバリアで身を守りながら、全速力で駆け抜けた。操られた村人が立ちはだかれば、彼女は攻撃せず、浄化の光でそっと押しのけ、気絶させるだけだ。彼女の目的は、戦うことではない。はるかの元へ辿り着くことだ。

丘の上、お堂の前の光景は、さらに凄まじかった。

地面は、無数の光る裂け目に覆われ、その裂け目からは、漆黒の、不気味にうごめく“業”の触手が、無数に湧き出ていた。それらは、中心に倒れ、業痕が激しく脈打つはるかを、しっかりと縛り付けている。そして、はるかの傍らには、墨が杖をつき、悠然と立っていた。墨の背後では、数人の幹部格の術者が、巨大な陣の維持に集中している。

はるかは、まだ意識があるようだった。しかし、その顔は苦悶に歪み、目は虚ろに開かれ、時折、体を痙攣させている。彼の体からは、先ほどよりもさらに強大で、混濁した“業”の気配が、洪水のように溢れ出している。墨が、彼を通じて、地中の“奔流”から力を引き出し、増幅させ続けているのだ。

「趙はるか殿! もう、お分かりでしょう! これが、この世界に蔓延る『業』の、ほんの一端なのです!」

墨の声が、不気味に朗々と響く。

「この苦痛! この絶望! これらを、この世界に蔓延らせておくことが、果たして『慈悲』と言えるでしょうか!? いえ、これは、放置された病巣です! 早急に、焼き払わねばならぬ毒なのです!」

はるかは、微かに首を振ろうとする。しかし、言葉は出ない。体が、内と外からの“業”の圧力に、押しつぶされそうになっている。

その時——

「趙さん———!!」

ことりの、泣き叫ぶような呼びかけが、闇を切り裂いた。

彼女は、お堂の前の広場に飛び出し、眼前の地獄絵図を見て、息をのんだ。しかし、彼女は立ち止まらなかった。彼女は、まず、周囲に無数に湧き出る“業”の触手に向かって、両手を広げた。

「離しなさい———っ!」

彼女の全身から、これまでにない強さの、清浄無比な白い光が放たれた。光は、うごめく触手に触れると、それをかすかな煙へと変え、消し去っていく。しかし、触手は次から次へと湧き出る。ことりの浄化は、焼け石に水だった。それでも、彼女はやめない。彼女の浄化の光が、はるかを縛る触手の束に、わずかながらも隙間を作り出し、彼への直接的な圧力を、ほんの少し軽減する。

墨が、ちらりとことりを見た。その目に、一瞬、興味深そうな光が走る。

「ほう……『浄明』の末裔か。その力、なかなか見事だ。しかし、残念ながら、君の力では、この『浄化』は、到底及ばない。なぜなら、君の力は、『個』を癒やす力。私は、『世界』そのものを浄化せんとしている。規模が違うのだ」

「ちがう……!」ことりが、歯を食いしばりながら叫ぶ。「あなたのやってることは……浄化じゃない! ただの……破壊だ!」

「愚かなり」墨が、憐れむように首を振る。「痛みから目を背け、この穢れた世界にしがみつく。たま殿も、そうだった。そして、お前もか」

墨は、再びはるかに意識を集中させる。

「さあ、趙はるか殿。もう一度、問おう。この世界の、この『業』に満ちた真実を見て、なお、『そのまま』でいいと言えるか?」


はるかの意識は、現実と、墨によって増幅された“業”の記憶の洪水の間で、引き裂かれそうになっていた。墨の声は、直接、彼の精神に、毒のように染み込んでくる。

『見よ、この兵士の無念。愛する者を守れなかった罪悪感。』

視界に、燃える家屋と、泣き叫ぶ子供たち。自分は動けない。

『見よ、この母親の絶望。病に斃れた我が子への、どうしようもない愛と無力感。』

小さな体が、冷たくなっていく。握った手に、力が戻らない。

『見よ、この裏切られた者の怨恨。信じた者に奪われた全てへの、燃え上がる憎悪。』

刃が閃く。血の味。そして、深い、底なしの孤独。

一つ一つの記憶が、はるか自身の、たまを失った痛み、守れなかった無力感、生き残った罪悪感と、深く共鳴し、増幅する。墨の言う通り、この世界は、苦痛に満ちている。そして、その苦痛は、確かに、伝染し、増殖しているように思える。

(たま……お前の犠牲……本当に……無駄だったのか……?)

(この苦しみの連鎖……永遠に続くのか……?)

深い絶望が、はるかの心を覆おうとする。その時、胸の奥で、ほんのりとした温かさが、かすかに脈打った。あの、闇の中で見た、たまの幻影が遺していった、小さな光の粒だ。そして、現実から、かすかに聞こえる、ことりの必死の呼びかけと、彼女の浄化の光が、ほんのわずかながら、彼を縛る“業”の重圧を、和らげている。

その一筋の光と、かすかな温もりが、はるかの、混乱と絶望に満ちた思考を、ほんの少し、澄ませる。

彼は、墨が次々と提示してくる、苦痛の記憶の数々を見つめ直す。兵士の無念。母親の絶望。裏切られた者の恨み。確かに、どれも痛ましく、理不尽だ。

でも……よく見る。

兵士の無念の奥には、守りたかったものへの愛がある。母親の絶望の底には、我が子への、深い愛情がある。裏切られた者の怨恨の根元には、かつて信じたものへの信頼がある。

それらは、ただの“苦痛”や“穢れ”ではない。生きた証だ。愛し、信じ、守ろうとし、そして、傷つき、失い、裏切られた、生身の人間の、避けられない痕跡なのだ。

たまは、それらを“穢れ”として封じ込めようとしたのではない。彼女は、ただ、それらの“声”を聞いた。そして、聞いてしまった以上、応えずにはいられなかった。彼女の“返事”は、世界を“無”に還すためではなかった。ただ、苦しんでいる声に、「聞こえてるよ」と伝えるためだった。

そして、はるか自身は……?

彼は、自分の体に刻まれた、醜く深い業痕を見下ろす(精神の中で)。これらは、他人の苦痛を、無理に引き受け、封じ込めた代償だ。罪悪感。無力感。自責の念。たまを失った、消えることのない悲しみ。それらもまた、立派な“業”だ。彼自身の、生き、愛し、傷ついた証だ。

墨のように、それを“浄化”し、消し去ることができるだろうか? いや、できない。たとえできたとして、彼は、それを望まない。それらを消し去ることは、たまと出会い、愛し、別れたことすら、無かったことにすることだ。ことりや大輔と過ごした、この一年の、重くも温かい日々を、否定することだ。

はるかの意識が、急に、驚くほど静かに、澄んでいく。

彼は、精神世界(あるいは、その共有された空間)で、墨を、まっすぐに見つめた。その目には、もはや混乱も絶望もない。ただ、深い、静かな理解と、それに基づく、揺るぎない覚悟があった。

そして、彼は、口を開いた。声は、この精神世界に、はっきりと、静かに響く。

「……お前は、間違っている」

墨の、余裕に満ちた表情が、一瞬、かすかにひきつる。

「“業”は、消し去るべき“不純物”なんかじゃない」

はるかの言葉は、ゆっくりと、しかし確実に、重みを増していく。

「それは……生きて、愛し、憎み、後悔し、喜んだ……消えることのない“存在”の跡だ」

彼の脳裏に、たまの、あの穏やかな笑顔が浮かぶ。

「たまがしたことは、“穢れ”を封じ込めることじゃなかった。ただ……“声”に、耳を傾け、“返事”をしただけだ」

彼は、自身の胸——心の、深くえぐられたような空洞——に、そっと手を当てる。

「俺は……全ての“業”を“浄化”することはできない。たまを忘れることも、自分の苦しみや罪を消し去ることもできない」

彼の目が、再び墨を見据える。その瞳の奥に、かすかな、しかし確かな炎が、静かに灯っている。

「俺にできることは、ただ一つ。それを、背負い、理解し……そして、その重みを抱えたまま、前へ進むことだ」

「これが……俺の、“送り”だ」

その宣言は、あまりに静かで、地味だった。墨の、世界を焼き払って新たに造り替えようという壮大な理念に比べれば、ちっぽけで、非力で、あきらめにすら聞こえるかもしれない。

しかし、その言葉には、数えきれぬほどの“業”と対峙し、深く傷つき、愛する者を失い、それでもなお、地面に足を着け、一歩を踏み出そうとする者の、圧倒的なリアリティと、静かな強さが込められていた。

墨は、しばらく沈黙した。そして、彼の顔に、今までにない、深い怒りと、侮蔑がにじみ出た。彼の平静な仮面が、ついに剥がれた。

「……なんと、愚かで、情けなく、そして……軟弱な!」

墨の声が、低くうなるように響く。

「背負う? 理解する? 前へ進む? 戯れ言め! それでは、何も変わらん! この世界の苦しみは、永遠に繰り返されるだけだ! お前のその『優しさ』こそが、この世界を腐らせ続ける『甘さ』なのだ!」

墨の目が、狂信的な熱を帯びて輝く。

「ならば……この愚かな“器”ごと、全てを、浄化の炎へと捧げるまでだ! お前の存在そのものが、この世界の『業』と、私の『浄化』を結ぶ、最高の導火線となる!」

墨が、両手を高く掲げ、凄まじい霊力を迸らせる。はるかを縛る“業”の触手が、一気に力を増し、彼の体を締め上げる。同時に、墨自身の意識が、強力な攻撃として、はるかの精神世界へと、怒涛のように押し寄せてくる。墨は、自分自身の存在ごと、はるかという“器”に流し込み、暴走させ、無理やり“奔流”への大規模なゲートを開こうとしている!

現実でも、はるかの体が、今までにない激しい痙攣を起こす。業痕が、みるみると広がり、色は漆黒に近づき、皮膚の下でうごめく光が、彼の体を内側から引き裂かんばかりだ。彼の喉から、押し殺したようなうめき声が漏れる。もう、限界だ。


「趙さん——!!」

ことりが、絶叫する。彼女の浄化の光は、墨の全力と、増幅され続ける“業”の前では、蚊帳の外だった。彼女は、墨の術者たちが張る結界を破ることもできない。ただ、無力に、はるかが苦しみ、崩壊していくのを見守るしかない。

(だめ……だめだ……!)

(助けて……たまさん……! 誰か……!)

彼女の祈りにも似た叫びが、胸の中で渦巻く。その時、彼女のポケットの中で、ぽっかりと温かくなった。

彼女は、慌ててポケットに手を入れる。出てきたのは、たまが彼女に託した、あの手作りの御守りだった。中には、たまの、ある朝の平凡な記憶が封じられていた。そして、「はるかが深く沈んだ時、握りつぶせ」という、最後の頼み。

今だ。今が、その時だ。

ことりは、御守りを、ぎゅうっと、力いっぱい握りつぶした。

ぱちんという、かすかな音。

御守りの中から、ほのかな、温かい光の粒が、ぱっと広がる。それは、ことりの周りをゆらりと舞い、そして、一筋の細い光となって、墨の術者たちの結界を、いとも容易くすり抜け、苦悶するはるかの胸へと、まっすぐに飛び込んでいった。


はるかの精神世界は、墨の怒涛の攻撃と、自らの限界を超えた“業”の重圧で、今まさに砕け散ろうとしていた。

その時——

ふわりと、懐かしい香りが漂った。

煎りたてのコーヒーの、ほんのり苦い香り。そして、朝の、柔らかな陽射しの温もり。

視界(精神)の端に、ほんのりと明るい光が広がる。それは、「七星堂」の、朝の厨房の光景だった。窓から差し込む優しい光。湯気の立つコーヒーポット。そして、流し台でカップを洗う、ある少女の、細い背中。

たまだ。彼女は、振り向かない。ただ、そっと呟く声が、はるかの心に、直接、優しく響く。

『……おはよう、はるか』

その一瞬、墨の攻撃も、“業”の重圧も、すべてが、遠い世界のもののように感じられた。ただ、この、ありふれた朝のひとときの、かけがえのない温もりだけが、はるかを包む。

そして、たまの声が、続く。

『大変な時は……無理に、一人で背負わなくていいんだよ』

『ことりが……きっと、そばにいるから』

その言葉と共に、御守りの光は、はるかの意識の中心で、静かに輝いた。それは、救済の光ではない。道標だ。暗闇の中で、どこへ向かえばいいのか、彼に示す、ほんの小さな目印。

はるかは、悟った。

墨を止めるために、抵抗し、押し返す必要はない。墨の理念も、その狂信も、そして、墨が無理やり引き出そうとしている“業”の奔流の力も——それら全ては、結局のところ、巨大な、歪んだ“業”の一つに過ぎない。

ならば、彼の仕事は、いつもと同じだ。

受け止め、背負い、封じ込める。

墨が、自分ごと、はるかに流し込もうとしているその力と意志を、彼は、逆に、すべて、この身に引き受けようと決意した。墨ごと、墨の狂気ごと、墨が呼び起こそうとする災厄の一端ごと、全てを、彼という“器”に封じ込める。自らを、最後の“牢獄”とする。

それは、自殺行為に等しい。彼の体と魂は、おそらく、耐えきれない。

でも、それでいい。

たまが、彼女の全てをかけて、あの“奔流”に“返事”をしたように。

ことりが、泣きながらも彼を抱きしめ、ここまで来てくれたように。

大輔が、関西弁で叱咤し、背中を押してくれたように。

彼もまた、自分の全てをかけて、この瞬間に、“送り”を完了させる。

はるかは、目を見開いた(精神世界で)。彼は、墨の怒涛の攻撃に、逆らうのをやめた。代わりに、自身の内側にある、全ての“器”としての機能を、最大限に、開ききった。

来い。全て、持って来い。

お前の狂信も、お前の理想も、お前が呼び起こそうとする災厄も。

俺が、全て、受け止めてやる。

「うおおおおお———っ!!!」

現実の世界で、はるかが、地を揺るがすような咆哮を上げた。それは、苦痛の叫びでも、怒りの雄叫びでもない。決意の宣言だった。

彼の体に、墨の意識と、それに付随する膨大な“業”の力が、怒涛のように流れ込む。彼の業痕が、みるみると全身へと広がり、漆黒に輝く。皮膚がひび割れ、その裂け目から、暗紅色と漆黒が混ざり合った、不気味な光が噴き出す。彼の体が、不自然に膨れ上がり、歪み、今まさに物理的に崩壊しようとしている。

「趙さん! やめて! やめてぇ——!!」

ことりの絶叫。彼女は、結界を破り、はるかの元へ駆け寄ろうとするが、墨の術者たちの壁に阻まれる。彼女の浄化の光は、今のはるかに向けると、逆に彼を傷つけてしまいそうな、危険なオーラを放っていた。

はるかは、もはや、ことりの声すら聞こえていないかもしれない。全ての感覚が、内側からの、世界を引き裂くような圧力と、無数の声(墨の思い、無数の“業”の記憶)に占拠されていた。彼の意識は、砕け散る寸前だ。

その時、ことりの中で、何かが、切れた。

理性も、戦術も、恐怖も、全てを吹き飛ばす、あまりに純粋で、野蛮な想いが、彼女の心を支配した。

あの人を、死なせない。

絶対に、死なせない。

たまさんに約束した。自分にも約束した。

この人を、守ると。

「離しなさい——ーーっ!!!」

ことりが、今までにない、鬼気迫る叫びを上げる。彼女は、自身の浄化の力を、一切の制御を捨て、防御もせず、ただ、一点——はるかの方向へと、全力で放出した。

それは、浄化の“光”ですらなかった。感情そのものの奔流だ。彼女の、はるかへの思い。たまへの思い。この一年、共に過ごした日々への愛おしさ。彼を失うことへの、底知れぬ恐怖。全てが、混ざり合い、純白に、しかしあまりにも強烈に輝く、心の叫びとなって、はるかを包み込んだ。

その“光”に触れた墨の術者たちは、吹き飛ばされる。結界は木っ端微塵に砕ける。ことり自身も、その反動で口と鼻から鮮血を噴き出し、よろめく。しかし、彼女は倒れない。彼女は、そのまま、よろよろとはるかに駆け寄り、今まさに業痕に覆われ、歪み、崩壊しそうな彼の体に、思いきり抱きついた。

「死なないで——!! 趙はるか! 死なないでよ!!」

彼女の涙が、はるかのひび割れた頬に、熱くしたたる。血も混じっている。

「たまさんに約束したじゃない! 生きるって! 私にも約束した! 一緒に帰るって!」

彼女の声は、泣き叫びでひび割れ、ほとんど言葉にならない。でも、その一つ一つの言葉に、彼女の全ての想いが、込められていた。

「目を覚まして! 私の手を、掴んで! お願い……お願いだから……!」

彼女は、ぎゅうっとはるかを抱きしめる。彼の体は、氷のように冷たく、そして、内部で恐ろしい熱を発していた。彼女の浄化の光(心の叫び)が、はるかの体に染み込もうとするが、内側の暴走する力に阻まれる。でも、彼女は離さない。抱きしめる力で、彼がバラバラにならないように、必死に縋りつく。

その抱擁と、泣き叫ぶ声が、はるかの、深い闇に沈みかけた意識の、一番底に、かすかに届いた。

(……誰……?)

(……うるさい……声……)

はるかは、無理やり、ひび割れた瞼を、ごくわずかに開けた。視界は、血と涙と歪んだ光でぼやけている。しかし、そのぼやけた視界の中心に、一人の少女の、涙と血にまみれ、必死に彼を見つめる顔が、はっきりと浮かび上がる。

ことりだ。

彼の唇が、かすかに動く。声は、ほとんど出ない。しかし、ことりには、はっきりと、その形が読めた。

「……こ……とり……」

それから、ほんの一瞬、彼の顔に、かすかな、しかし確かな柔らかさ——それは、苦笑いに近いものだった——が浮かんだ。

「……うるさい……声……だ……」

その言葉を聞いた瞬間、ことりの体中の力が、ふっと抜けるような感覚がした。でも、すぐに、より強い熱いものが、胸からこみ上げてくる。彼女は、わあっと、さらに大声で泣き出し、はるかを、より強く抱きしめた。

「うるさくて何が悪いの! うるさいうるさいうるさい!」

「一生、うるさくしてやる! 耳が腐るまで、喚き続けてやる! だから……だから……!」

彼女の泣き声と抱擁の中ではるかの体で、ある変化が起こっていた。

ことりの、制御を外した浄化の力——それは、浄化というより、彼女自身の、圧倒的な生への希求と、守りたいという愛そのもの——が、はるかの内側で暴走し、墨の意識と融合しつつあった“業”の塊に、静かに、しかし確かに染み込んでいった。

墨の狂信は、純粋な“破壊と再生”への渇望だった。ことりの想いは、純粋な“守りたい、繋がりたい”という願いだった。その二つのあまりに対照的な、しかしどちらも強烈な“想い”が、はるかという“器”の中で、衝突し、混ざり合い、そして、奇妙な均衡を生み出し始めた。

はるかの体中に広がり、彼を引き裂かんとしていた漆黒の業痕が、その拡大と歪みを、ゆっくりと止めた。そして、色が、少しずつ変わり始める。漆黒から、深い灰色へ。そして、その灰色の中に、かすかながら、白い光の筋と、暗紅色のうねりが、複雑に絡み合った、新しい模様へと、落ち着いていった。それは、美しいとは言い難い。しかし、以前のような、ただの“穢れ”や“傷”という感じではなく、何かを封じ込め、鎮めた、重い、しかし安定したもののように見えた。

はるかの体の痙攣が、弱まり、やがて止まる。彼の呼吸は、浅く、苦しそうだが、確かにある。彼は、完全に意識を失い、ことりの腕の中に、重く沈み込んだ。

周囲の、墨が張った巨大な陣が、ぱちぱちと火花を散らし、崩れ去る。墨の意識の気配は、完全に消えている。彼は、自らの全てをはるかに流し込み、そして、はるかとことりの力によって、その存在ごと、封じ込められてしまったようだ。墨の手下の術者たちも、主を失い、ある者は逃げ散り、ある者は気絶した。

地鳴りは止み、うごめいていた“業”の触手は、霧散した。村の操られた人々も、ばたばたと倒れ、意識を失っている。

戦いは、終わった。

辺りは、深い静寂に包まれた。ことりは、はるかを抱きしめたまま、崩れ落ちそうな体で、ただ、肩で息をしていた。彼女自身も、力を出し切り、全身が震え、目眩がする。でも、彼女は、はるかの胸に耳を当て、かすかだが確かな鼓動を感じ、ほっと深く、深く息を吐いた。

遠くで、駆け付ける足音。大輔と周皓辰たちが、傷だらけになりながらも、村の入口の戦いを制し、駆けつけてきた。

大輔が、ことりとはるかの無残な姿を見て、息をのむ。

「は、はるか……! ことり……!」

ことりは、ゆっくりと顔を上げた。涙と血でぐしゃぐしゃだが、その口元には、かすかな、しかし確かな微笑みが浮かんでいる。

「……大丈夫……趙さん……生きてる……」

そう言うと、彼女は、そのまま、はるかの上に崩れ伏すようにして、力尽きて意識を失った。

大輔が、慌てて二人に駆け寄る。周皓辰が、すぐに救急への連絡を始める。夜明け前の、最も暗い時間が、ようやく過ぎようとしていた。東の空に、かすかな、夜明けの光の帯が、静かに広がり始める。

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