闇影再臨・狙われし器
たまの一周忌が過ぎ、季節は再び巡り、ほんのりとした初夏の気配が街に漂い始めていた。「七星堂」には、前巻で描かれたような、傷つきながらも確かな日常のリズムが、ようやく根付き始めていた。はるかの沈静、ことりの成長、大輔の守り。三人の関係性は、血縁を超えた、独特の家族の形を固めつつあった。
そのような、かすかな平穏の中を、不気味な影が、静かに、しかし確実に忍び寄る。
ある午後、玄関の呼び鈴が、普通とは少し違う、低く響く音を立てた。ことりがドアを開けると、そこには、一人の老紳士が立っていた。
その人物は、背筋がぴんと伸び、髪は銀髪で、きちんと後ろで束ねられていた。顔立ちは彫りが深く、知性と威厳に満ちているが、どこか古風で、現代の街並みにはそぐわないオーラを放っていた。身に着けているのは、上質だが地味な、古代中国風のゆったりした上衣と袴。手には、黒檀の杖を持っている。年齢は、七十歳前後だろうか。しかし、その目は、青年のような鋭い光を宿し、ことりを一瞥しただけで、彼女の存在そのものの“特異性”を見抜いたような、冷たい視線を走らせた。
「ご無礼。趙はるか殿、お在宅でござろうか?」
老紳士の声は、低く、滑らかで、聞き心地は良いが、その奥に、金属のような冷たさが潜んでいる。ことりは、背筋に一瞬、鳥肌が立つような感覚を覚えた。この人物、ただ者ではない。しかも、彼の放つ気配は、たまや、かつての呪い師たちとはまた違う。より洗練され、より根源的で、そして、どこか歪んだ理念に貫かれているような、不気味な重みがあった。
「……どちら様でしょうか?」ことりが、警戒を込めて尋ねる。
「私は、墨と申す。かつて、婁家と深い縁にあった一族の、名ばかりの長でござる」
“墨”。そして、“婁家”。その言葉に、ことりの表情が硬くなる。階下から、はるかが上がってくる気配がした。彼もまた、玄関の異様な気配を感じ取っていたのだ。
はるかが、ことりの脇に現れた。彼の目は、老紳士“墨”を捉えると、一瞬で細くなる。警戒の色が濃い。彼は、この男が、ただの古老の術者ではないことを、直感した。
「趙はるか殿。お目にかかれて、光栄に存じます」
墨は、深く一礼する。動作は流れるように美しいが、そこには、真の敬意は微塵も感じられない。儀礼を演じているだけだ。
「用件は?」はるかの声は、低く、警戒に満ちている。
墨は、にっこりと、上品な笑みを浮かべた。しかし、その目は笑っていない。
「少々、お時間を頂き、私の考え——この世界の、『業』についての、ほんの些細な考察をお聞きいただけませんでしょうか?」
事務所内、墨は、たまがかつて座っていた窓際の椅子(ことりが今は使っている)に腰を下ろし、紅茶(ことりが用意した)には手を付けず、静かに語り始めた。
「『業』——この言葉は、あなた方にとって、どのようなものでございましょうか?」
彼の声は、講義をする老教授のようだった。
「亡者の未練。積もり積もった怨恨。消えぬ苦痛。それらは、まるで、この世界に付着した、頑固な汚れ、あるいは……悪性の腫瘍のようではございませんか?」
彼の目が、はるかの右半身の、深く刻まれた業痕を一瞥する。その視線には、嫌悪も同情もない。ただ、観察対象としての興味があるだけだ。
「この『業』は、増殖し、拡散し、やがては生者をも蝕む。戦争、災害、疫病、あらゆる人々の争いと悲劇の裏には、必ず、この『業』の増幅、あるいはその影響が存在します。世界は、この『汚れ』によって、ゆっくりと、しかし確実に、病み、蝕まれつつある」
彼は、そっと杖を床に立てる。
「婁家の巫女たちは、長年、その『浄化』と『封印』に尽力してまいりました。崇高な犠牲です。しかし——」
彼の声が、かすかに、鋭さを増す。
「それは、あくまで対症療法に過ぎません。汚れた水を、一時的に大きな壺に封じ込めるようなもの。封じ込めれば封じ込めるほど、壺の中の『汚れ』は濃縮され、増幅する。たま殿のあの崇高なる最後も、結局のところ、あの『奔流』の暴発を、ほんの百年、せいぜい二百年、先延ばしにしたに過ぎない。そして、次に暴発する時、その威力は、前回を遥かに凌ぐものとなるでしょう」
その言葉が、はるかの胸を、冷たいナイフで貫く。たまの死が、ただの“先延ばし”だと言うのか? 彼女の覚悟、彼女の愛、全てを否定するのか?
はるかの目に、かすかな怒りの色が走る。しかし、墨は、それを涼しい顔で受け流す。
「私の一族は、長きにわたり、この『業』の問題に、別の角度から取り組んでまいりました。私たちが追求するのは、『封印』などという姑息な手段ではありません。『究極の浄化』です」
“究極の浄化”。その言葉に、不気味な響きがあった。
「この世界そのものが、『業』という悪性の腫瘍に侵されているのであれば、治療法は一つ。その腫瘍を、根源から、徹底的に焼き払うことです」
墨の目が、熱を帯び始める。それは、狂信的な光だった。
「全ての『業』の源、あの『奔流』の核心に火を点け、この世界に蔓延る全ての『苦痛』、『怨恨』、『執着』という『不純物』を、一気に燃やし尽くす。世界を、一度、『無』 に還すのです」
“無”。ことりが、思わず息をのんだ。この人は、何を言っているんだ?
「しかし、ご安心を。『無』は、終わりではありません。始まりです。全ての汚れが焼き払われた、純粋な『無』の状態から、もう一度、新たな世界——『業』という病を知らぬ、真に平和で、清らかな理想郷を、築き上げるのです。これが、我が一族の、永きにわたる悲願であり、使命なのです」
その途方もない、そして恐ろしい理念に、事務所の空気が凍りついた。はるかは、じっと墨を見つめ、冷たい声で言った。
「……狂っている」
墨は、けらけらと、上品だが気味の悪い笑い声を上げた。
「狂気ですか? まあ、そうかも知れません。しかし、趙はるか殿。あなたは、この計画の、最も重要な鍵なのです」
はるかの眉が動く。
「あなたは、これまで、膨大な『業』を、自らの内に取り込み、封じ込めてきた。普通ならば、とっくに自我を失い、怪物と化していたはずです。それなのに、あなたは、かろうじて、しかし確かに、『器』としての機能を保ち続けている。しかも、たま殿が最後の浄化を行った時、あなたは彼女と深く結びつき、あの『奔流』の一部さえ、間接的に内に封じ込めた。これは、偶然の産物でしょうか? いえ、これは、必然です」
墨の目が、はるかを、貪るように見つめる。
「あなたは、生きた『器』であると同時に、現世と、あの『業の奔流』の核心とを結ぶ、生きた橋なのです。あなたを通せば、『奔流』の核心に、直接、働きかけることが可能となる。私が必要とするのは、あなたという『門』を開き、その先にある『一切の業』に、浄化の炎を灯す、ただ一つの『導火線』としての役割です」
はるかは、ゆっくりと立ち上がった。彼の目は、冷たい怒りに輝いている。
「断る。出て行け」
その拒絶は、揺るぎない。墨は、少しも動じない。彼もゆっくりと立ち上がり、杖をつきながら、深々と一礼する。
「お考えは、ごもっとも。急に、このような話をされましても、納得できませぬでしょう。しかし、どうか、私の言葉を、心の片隅に留め置いてください。時が来れば、あなたも、この世界の真実の『穢れ』と、それゆえの『苦しみ』に、うんざりされる日が来るでしょう。その時、私の元へ、自らお越しになることを、願ってやみません」
そう言うと、墨は、何事もなかったように、静かに事務所を後にした。ドアが閉まる。重い沈黙が残る。
ことりが、震える声で言った。「あの人……なに、言ってるの? 世界を『無』に……?」
はるかは、うつむき、拳を握りしめていた。墨の言葉は、明らかに狂気だ。だが、その狂気の根底にある、「この世界は業に侵されている」という認識と、それに対する「根本的な解決」を求める強い意志——それらは、はるか自身が、無数の“業”と対峙し、苦しんできた中で、ふと頭をよぎったことのある、危険な共鳴を呼び覚ますものだった。
(この世界が……苦しみそのものに満ちているのは……確かだ)
(たまの犠牲も……結局、その一部を、先送りにしただけ……)
(でも……)
彼は、強く首を振る。たまが、あの“奔流”に飛び込んだのは、世界を“無”に還すためではなかった。あの、無数の声に、ただ「聞こえてるよ」と返事をするためだった。そして、彼女は、その過程で、はるかと出会い、愛し、少しの幸せを掴んだ。たとえ儚くても、その“生”の痕跡は、確かに存在した。
墨のやり方は、その全てを、無かったことにすることだ。それは、たまの死そのものの否定だった。
「無視するしかない」はるかが、低く呟く。「あんな狂気に、付き合っている余裕はない」
ことりは、心配そうにはるかの顔を見つめた。彼の目には、墨の言葉によってかき立てられた、深い疲労と、かすかな動揺が浮かんでいる。彼女は、こくんとうなずいた。
「……うん。変な人だもん」
しかし、二人の胸には、墨という存在が、単なる“変人”では済まされない、大きな、不吉な影として、深く刻み込まれた。
墨の訪問から数日後、一つの依頼が舞い込んだ。
依頼主は、都心からかなり離れた、山あいの小さな村の代表者を名乗る老人だった。電話越しの声は、困惑と恐怖に震えている。
「村の外れにある、古いお堂……そこに伝わる、一つの中世の武具が、最近、おかしなことをするんです。夜な夜な、鎧が鳴る。刀身が泣くような音を立てる。近づくと、ひどい悪寒と、わけのわからない怒りに襲われる。村人たちも、不気味がって、もう誰も近づきません……」
依頼内容は、ごく標準的な、強い“業”を宿した品物の鎮めだ。場所が遠いが、報酬は悪くない。大輔は、少し眉をひそめた。「山奥か……気をつけろよ。変なもんが出るかもしれん」
はるかは、淡々と頷いた。墨の件以来、彼は、より一層、外部との接触に慎重になっていた。しかし、この依頼自体には、特に不審な点は見当たらない。村の名前も、実在する場所だ。ことりも同行を希望したが、今回は、対象が“武具”であり、ことりの浄化の特性が逆に刺激する可能性があるとして、はるかは一人で行くことを主張した。彼女は、不満そうだったが、はるかの堅い表情を見て、渋々引き下がった。
はるかは、翌朝、車を走らせ、山道を辿って、依頼の村へと向かった。
村は、確かに存在した。しかし、そこには、不自然な静寂が漂っていた。時折、人影は見える。畑を耕す老人。洗濯物を干す女性。しかし、彼らの動きは、どこかぎこちなく、ロボットのように滑らかでない。視線が、はるかの車を追うが、その目は、焦点が合っていないように見える。まるで、操り人形のようだ。
不穏な予感が、はるかの背筋を走る。彼は、車を村の入口付近に止め、依頼のあった“古いお堂”の方向へと、慎重に歩き始めた。
お堂は、村のさらに奥、鬱蒼とした杉林に囲まれた小さな丘の上にあった。石段を上がる。周囲の木々のざわめきが、不自然に低く、重苦しい。鳥の声も聞こえない。
お堂の前に立った時、はるかは、確信した。罠だ。
お堂そのものからは、強い“業”の気配はほとんど感じられない。むしろ、地面の下から、かすかだが、不気味に脈打つ、巨大な“何か”の気配が、ゆらゆらと立ち上っている。それは、あの“業の奔流”の、ごくわずかな、しかし確かな支流が、この地の深くに、ひそかに流れていることを示していた。
そして、お堂の周囲、地面に刻まれた、目には見えないが、霊感で感じ取れる複雑な紋様——強力な誘導・接続の陣が、幾重にも張り巡らされている。
はるかが、咄嗟に後退しようとした時、遅かった。
彼の足元の地面が、突然、光る紋様で浮かび上がる。それは、蜘蛛の巣のように、彼の足を絡め取り、ぱっと強く締め付ける。同時に、お堂の扉ががらりと開き、中から、墨の姿が、ゆっくりと現れた。彼の後ろには、数人の、無表情で、目つきの悪い術者たちがいる。
「ようこそ、趙はるか殿。お待ちしておりました」
墨の顔には、満足げな微笑みが浮かんでいる。
「ここは、かつて、小さな戦いがあった場所です。その時の血と怨念が、偶然、地中を流れる『奔流』の、ごく細い枝に触れ、小さな“淀み”を形成していました。私は、それを、少し……増幅させ、あなたを迎えるための、ちょうどよい“接点”として整えさせていただきました」
はるかは、足元の光の束縛を振りほどこうとするが、動かない。この陣は、彼の霊力そのものを吸い取り、無力化するように設計されている。
「無駄です。この陣は、あなたという『器』の特性を、徹底的に研究した上で、私が特別に設計したものです。あなたを傷つけるためではなく、ただ、あなたと、あの『奔流』とを、強制的に、深く結びつけるためのものです」
墨が、杖を高く掲げる。彼の背後にいる術者たちが、一斉に詠唱を始める。地面の紋様が、より強く輝き、はるかの体が、内側から引き裂かれるような吸引力に襲われる。
「ぐあっ……!」
はるかは、膝をついた。彼の右半身の業痕が、一気に暗紅色に激しく脈打ち始める。陣が、彼を媒介として、地下の“奔流の支流”に、無理やり接続しようとしている。そして、それだけではない。墨の術法は、はるかという“門”を通じて、その先にある、“奔流”そのものの力を、逆に引き出し、活性化させようとしているのだ。局地的に、“奔流”の力を暴走させ、小さな“崩壊”を引き起こす。それを見せつけ、はるかに、この世界の“業”の本質と、彼の計画の“正当性”を、痛みをもって理解させようというのだ。
「見るがいい、趙はるか殿! これが、この世界の、隠された病巣の、ほんの一部の力だ!」
地面が揺れる。お堂の壁にひびが入る。周囲の木々が、みるみると色を失い、枯れていく。村全体から、かすかな悲鳴やうめき声(おそらく、術に操られた村人たちの)が聞こえてくる。
はるかの体の中で、地獄が再び始まる。彼の内に封じた、無数の他人の苦痛の記憶が、外部からの“奔流”の力と共鳴し、暴れ狂う。頭蓋骨の中で、何千という声が同時に絶叫する。視界が割れ、色が滲む。皮膚の下で、業痕が蛇のようにうねり、骨を焼くような痛みが走る。
彼は、歯を食いしばり、うめき声を漏らす。意識が、漆黒の、感情の海へと、引きずり込まれていく。
深い、深い闇。
苦痛。絶望。怒り。無念。それらが、無秩序に渦巻き、彼の魂を引き裂こうとする。墨の声が、遠くで、しかし確かに響く。
『見よ……これが、真実だ……この世界は、もはや、救いようのないほどに穢れている……』
『たま殿の犠牲も、無駄だった……いや、むしろ、この“膿”を、より濃厚にしただけだ……』
『さあ、目を開け……受け入れよ……お前こそが、この穢れを、一掃するための、最後の“焔”なのだ……』
その言葉が、はるかの心の、最後の抵抗を、ゆっくりと蝕んでいく。確かに、この苦しみは、あまりに大きい。たまが命を賭しても、ほんの一時しのぎに過ぎなかった。この先、何百年、何千年、同じ苦しみが繰り返されるだけなのか? それなら、墨の言うように、全てを焼き払って、無に還った方が、どれだけ楽か……
(たま……)
(俺……もう……だめだ……)
(限界……だ……)
彼の意識が、深い闇の底へ、沈み始める。もう、抗う力も、望みもない。このまま、すべてを、この苦痛の海に、委ねてしまおう……
その時——
ぽつり、と、一点の、温かい光が、闇の深淵から、かすかに、しかし確かに灯った。
はるかの意識(あるいは、その残滓)が、そちらを向く。光は、ゆらゆらと揺らめき、だんだんと、ある形を成し始める。
細い体。長い黒髪。整った顔立ち。そして、深く、優しい目……
たまだ。
しかし、それは、かつて共感の中で見た、あの鮮明な幻影とは違う。輪郭がかすみ、色が薄く、まるで、遠くの蜃気楼のように揺らいでいる。記憶の、一番深い、一番大切な部分にしまわれた、一枚の写真が、ほんの少しだけ、光に照らされたかのようだ。
彼女は、微笑んでいる。あの、最期に見せた、安らかで、どこか寂しげな、しかし心から満ち足りた笑顔。
はるかの意識(あるいは、その叫び)が、闇の中に響く。
『……たま……疲れた……俺……もう……頑張れない……』
幻影のたまは、微笑んだまま、ゆっくりと、かすかに首を振る。声は、直接聞こえるわけではない。ただ、はるかの心に、そっと、優しい風のように、言葉が届く。
『……それなら……休めばいい……』
『無理に……立たなくても……いいんだよ……』
その優しさが、はるかの胸を、きゅっと締め付ける。彼は、もっと泣きたい。叫びたい。でも、もう、それすらできない。
『……でも……』
幻影のたまが、一歩、闇の中を、彼に近づく。その体は、さらに透き通り、光の粒が、ぽろぽろと零れ落ちていく。
『……止まらないで……はるか……』
『あなたの道……まだ、ずっと……先まで、続いている……』
『私の分……も……一緒に……歩いて……』
彼女が、そっと手を伸ばす。その手は、はるかの頬に触れることもなく、かすかな光の粒となって、彼の意識の深奥に、そっと散っていく。しかし、その一瞬の接触(あるいは、その幻覚)が、はるかの凍りついた心に、ほんのわずかな、しかし確かな温もりを、灯した。
それは、救済の光ではない。彼をこの苦境から直接引き上げる力もない。ただ、彼がもう忘れかけていた、ある事実を、そっと思い出させてくれただけだ。
彼は、一人じゃない。たまは、確かに、彼の心の中に、生きている。彼女の思い、彼女の覚悟、彼女の愛——それらは、墨の言うような“無駄”でも、“先延ばし”でもない。確かに存在した、かけがえのない“生”の証だ。そして、その証を胸に、彼は、まだ歩みを続けなければならない。たまの分まで。ことりや大輔と共に。
闇の中、はるかの意識の中心で、かすかな、しかし確かな光の粒が、ぽっと、強く輝いた。それは、たまの幻影が遺した、最後の灯火だった。
現実の世界で、地面に倒れ、業痕に覆われ、痙攣するはるかの体が、突然、強く震えた。
彼は、無理やり、ひび割れた瞼を開けた。視界は血と涙と歪んだ光で曇っている。耳は、轟音と無数の叫びで満たされている。体中が、粉々に砕かれ、焼かれているような痛みだ。
しかし、彼の心の奥で、あの小さな光の粒が、かすかに、しかし確かに脈打っている。
彼は、もう、墨の術法に逆らおうとはしない。その膨大な力を、無理に押し返そうともしない。代わりに、彼は、残された全ての意識を、一つのことに集中させた。
彼の位置。今、この瞬間の、絶体絶命の危機。そして、それを、誰かに伝えること。
彼は、自身の内に渦巻く、暴走する“業”のエネルギーと、墨の術法による“奔流”からの圧力を、無理やり、一つの、歪んだ、痛みに満ちた波動へと変換しようとする。それは、SOS信号のようなものだ。言葉ではない。ただ、彼の存在そのものの、悲鳴と、必死の呼びかけ。
彼の喉が、がらがらと唸る。血の混じった唾液が、あごを伝う。彼は、最後の力を振り絞り、震える声帯を、無理やり震わせる。それは、声というより、魂そのものの、引き裂かれるような絶叫だった。
「こ……と……り——ーーーっ!!!」
その叫びは、物理的な空気を震わせると同時に、彼が無理やり生み出した、悲痛な霊的波動と混ざり合い、まるで傷ついた獣の最後の遠吠えのように、山々を越え、街へ向かい、そして、「七星堂」の方角へと、必死に、しかし確かに、伝わっていった。
叫びを上げたはるかは、そのまま、力尽きて意識を失った。しかし、彼の体から放たれた、あの歪で痛ましい波動は、既に、暗い山々の向こうへと、旅立っていた。
墨は、はるかの最後の叫びを聞き、わずかに眉を上げた。
「……ふむ。まだ、しがみつくものが、あるようだな。しかし、無駄なあがきよ」
彼は、杖で地面を軽く叩く。
「さあ、彼を、本陣へと運べ。これで、計画の最終段階へと、いよいよ移れる」
術者たちが、倒れたはるかを運び始める。墨は、暗くなりゆく山間の空を見上げ、薄く笑みを浮かべた。
「『浄化』の時は、近い……」




