初雪、墓参り、そして帰路のざわめき
冬将軍が、本格的に街を覆い始めたある朝、目を覚ますと、外は静かな白一色の世界だった。
その冬、初めての雪だった。細かく、軽やかな雪片が、まるで天からの羽根のように、音もなく舞い、ゆっくりと地上に積もっていく。街の喧騒は、雪に吸い取られ、いつもよりずっと静かだ。「七星堂」の窓から見える商店街の屋根も、道行く人々の傘も、街路樹の枝も、すべてが柔らかな白いベールに包まれていた。
午前中、三人は特に口にすることもなく、厚手のコートを着込み、マフラーを巻き、静かに出かける準備をした。行き先は、言わずとも決まっていた。
たまの眠る墓所は、都心から少し離れた、静かな丘陵地にあった。タクシーを降り、雪に覆われた参道を歩いてゆく。足跡が、新雪にざくざくと音を立てる。吐く息が白く煙る。空気は、冷たく、澄み切っていた。
墓所に着くと、すでに雪は数センチ積もっており、無数の墓石が、白い帽子をかぶったように見えた。たまの墓も、例外ではなかった。新しい墓石の表面には、雪がうっすらと積もり、「婁 たま」の文字も、かすかに白く縁取られているだけだった。
はるかは、その墓の前に立った。彼は、葬礼の日のように、じっと固まって立っているわけではなかった。彼は、少しうつむき、墓石を見つめ、それから、懐から取り出した小さなハンドブラシを手に取った。そして、膝をつくわけでもなく、腰をかがめ、墓石の表面に積もった雪を、丁寧に、ゆっくりと、一筆一筆描くように払いのけ始めた。
雪は柔らかく、すぐに落ちる。彼の動きは、無駄がなく、静かだ。雪を払い終えると、今度は、もう一つの懐から、小さな布の包みを取り出した。中から現れたのは、一枝の紅梅だった。蕾がほころびかけ、ほんのりと紅色がかった白い花びらに、雪の粒がいくつか、きらりと乗っている。ほのかな、甘い香りが、冷たい空気の中に漂う。たまが、かつて、庭の梅の花の香りを「理屈抜きで好き」と、かすかに微笑みながら言ったことがあった。
はるかは、その梅の枝を、墓石の前の花立てに、そっと挿した。それから、彼は、再び墓石を見つめ、口を開いた。声は、雪に吸収され、かすかだが、ことりと大輔の耳にも、はっきりと届くくらいの大きさだった。それは、報告をするでも、祈りを捧げるでもない。ただ、話しかけるような、ごく自然な調子だった。
「……たま。雪、降った」
彼の吐く息が、白く広がる。
「事務所は、相変わらずだ。仕事も……ゆっくりだけど、やってる」
彼は、一瞬、言葉を切る。雪が、彼の長い睫毛の先に、一枚、ひらりと乗る。彼は、瞬きもせず、そのまま続ける。
「ことりは……相変わらず、うるさい。浄化の術は、まだまだだけど……料理の方は、まあ、なんとかなるようになった」
少し離れて立つことりが、思わず「えっ!?」と小さく声を上げそうになるのを、大輔がそっと腕で制する。
はるかは、ことりの反応には気づかず、淡々と続ける。
「大輔も……相変わらずだ」
彼は、ここで、長い沈黙を置いた。雪が、彼の肩や髪に、静かに積もっていく。彼は、深く息を吸い込み、吐く。その息が、特に白く、長く伸びる。
「……俺は……」
言葉が、喉の奥で引っかかる。彼は、目を閉じ、また開ける。その目は、深い悲しみをたたえているが、以前のような虚ろな絶望はない。ただ、重く、静かな、しかし確かな感情が、そこにある。
「……まだ……お前を送る途中だ」
「歩みは……遅い。とても、遅い」
「でも……止まっては……いない」
それだけ言うと、彼は、もう何も言わなかった。ただ、雪の降りしきる墓石の前で、しばらく、静かに立っていた。梅の枝の、かすかな香りが、冷たい風に乗って、ほんのりと漂ってくる。
少し離れた、別の墓石の陰で、ことりと大輔が立っていた。ことりは、はるかの背中を見つめ、目頭を熱くしていた。でも、涙は流さなかった。彼女は、こらえた。今日、泣く日ではない。彼が、あんなに静かに、確かに、前を向いて立っているのだから。
大輔が、ごく低い声で、ことりの耳元に囁いた。関西弁は、いつもの軽さを抜き、深い慈しみに満ちていた。
「……見たか、ことり」
「あの子……やっと、『こっち』を見始めた」
「ゆっくりや……ゆっくりで、ええんや」
ことりは、こくんとうなずいた。彼女の胸の奥で、温かいものが、じんわりと広がっていく。彼が、たまさんの元を、きちんと“見送る”ことができた。そして、彼が、まだ歩みは遅くとも、確かに、彼らがいる“こっち”——生きている人たちの世界——に、意識を向け始めた。それだけで、今日、この雪の中をやってきて、良かった。
しばらくして、はるかがゆっくりと振り返った。彼の肩にも、髪にも、薄く雪が積もっている。彼は、ことりと大輔の方を見て、ごくわずかに、うなずいた。それだけだ。でも、それで十分だった。
三人は、黙って、参道を戻り始めた。
帰り道、雪はさらに勢いを増していた。細かい雪が、横なぐりに吹き付け、視界が悪くなる。三人は、駅まで十分ほど歩かなければならない。
道すがら、ことりが、突然、ぽつりと言った。
「あ……! 傘、持ってくるの、忘れた……!」
彼女は、自分の手ぶらなのを確認し、顔をしかめた。雪は、彼女のコートの肩や、髪の毛に、どんどん積もっていく。
はるかは、歩みを止めず、ちらりと彼女を見た。彼は、何も言わない。ただ、自分が首に巻いていた、長い黒のマフラーを、すっぽりと外した。そして、振り向きもせず、後ろ手に、それをことりの頭の上に、ばさりと載せた。まるで、荷物にカバーをかけるような、乱暴なやり方だ。
ことりは、突然視界を遮られ、「わっ!?」と声を上げた。マフラーの厚手の生地が、雪と冷たい風をかなり防いでくれる。彼女は、マフラーの中から顔を出し、はるかの背中に文句を言おうとした。
「はるか! いきなりそんなことしなくても……!」
「うるさい」
はるかは、相変わらず前を見て歩きながら、短く言い放った。その声には、怒りもなければ、いたわりの色もない。ただ、事実を述べているだけだった。
でも、その一言に、ことりは、ぱっと顔をほころばせた。彼女は、マフラーに包まれた頭で、小走りにはるかに追いつき、わざとらしく彼の横に並んだ。そして、軽く、彼の肩をぶつけた。
「うるさくて何が悪いの! これからも、もっともっとうるさくするからね!」
彼女の声には、泣き声の代わりに、弾けるような笑いが混じっていた。雪の中で、それは宝石のようにきらめいて聞こえた。
大輔は、二人の少し後ろを歩きながら、ポケットからタバコを取り出そうとしたが、雪の中で火がつくかどうか考え、やめた。代わりに、口元に、ほんのりと、満足げな笑みを浮かべた。彼の関西弁が、静かな雪の中に、温かく響く。
「……ま、これで、ええわ」
雪は、ますます激しくなっていた。街灯のオレンジ色の光が、降りしきる雪のカーテンを通して、ぼんやりと輪を晕している。通りを行き交う人も車も少なく、世界は雪と静寂に支配されていた。
三人は、並んで歩いていた。はるかが右、ことりが真ん中、大輔が左。新雪の道に、三つの足跡が、並んで、深く、浅く、刻まれていく。
その静寂の中、突然、ことりが、鼻歌を歌い始めた。それは、何の歌かよくわからない、覚えきれないような、幼稚園か小学校で習ったような、雪や帰り道に関する童謡の断片だった。明らかに音痴で、リズムもところどころずれている。でも、彼女の声は、澄んでいて、雪の音に負けずに、小さく、しかし確かに響く。
♪雪やこんこ あられやこんこ
♪ふっては ふっては ずんずんつもる
♪はやく いそいで かあさんに……
……えーと、次、なんだっけ……
彼女は、歌詞を忘れて、ふふっと笑い、また適当にでたらめなメロディを続ける。
はるかは、無言で歩き続けた。彼は、ことりの鼻歌を止めようともせず、無視しているわけでもなかった。ただ、聞き流しながら、しかし確かに、その雑音を、耳に入れていた。雪が、彼の頬に触れ、溶ける。冷たい。でも、以前ほど、骨にしみるような、絶対的な冷たさではない。
彼の脳裏に、ふと、ある記憶がよみがえった。たまの日記の、最後の方のページ。あの、彼女があまりに幸せだった、と書いた夜の一節。
『幸福すぎて、もうすぐやってくる「さようなら」に、ほんの少しだけ、向き合う勇気が、湧いてくるくらいに。』
(たま……)
彼は、心の中で、そっと呟いた。
(今の俺に……“さようなら”に向き合う勇気は、まだない)
(でも……せめて……“帰る”力……ほんの少し……だけど、戻ってきたみたいだ)
ことりの鼻歌が、突然、大輔の低いハミングに合わせて、よりひどい音痴の合唱へと変わる。大輔も、歌詞を適当に変え、関西弁混じりで、とんでもない替え歌を歌い始めている。ことりがそれに笑い転げ、雪の中でよろける。
はるかは、その騒がしさを背中に受けながら、歩みを止めなかった。彼の足取りは、重く、遅い。でも、確実に、一歩、また一歩と、前へ、踏み出していた。
遠くの方に、「七星堂」の窓から漏れる、温かな電灯の明かりが、雪煙の向こうに、ぼんやりと、しかし確かに見え始めている。あの、少し埃っぽく、本と書類に埋もれ、時折おかしな依頼が舞い込み、騒がしく、そしてどこか安らぐ、帰るべき場所の灯りだ。
雪は、静かに、しかし絶え間なく降り続ける。それは、過ぎ去った日々を覆い、悲しみを和らげ、そして、これから歩んでいく道をも、真っ新な白で覆い隠していく。
けれど、三人の足跡だけは、深く、そして確かに、雪の絨毯に刻まれ、遥か彼方のあの温かい灯りへと、一本の道を作り出していた。その道の先には、まだ見ぬ明日があり、続く悲しみがあり、そして、きっと、新たなざわめきと、小さな幸せが、待ち受けている。
(第四巻 完)
雪は墓碑を覆い、来し方をも覆い隠した。
そして彼らの足跡は、深く浅く、家路へ、そしてまだ知らぬ明日へと、確かに続いていた。




