画集、翻訳、そして最初の「ありがとう」
秋が深まり、街路樹の葉はすっかり色づき、風に散り始めていた。「七星堂」の重苦しい空気は、湖での“事件”以来、ほんのわずかながら、変化の兆しを見せていた。
はるかは、相変わらず無口で、表情に乏しかった。しかし、以前のような、完全に外界を遮断した“虚ろ”な状態からは、かすかに抜け出しつつあるように見えた。彼の目は、時折、物事を“見て”いる。朝、ことりが用意した朝食の献立を一瞬見つめたり、窓の外を飛ぶ鳥の群れに視線を追ったりする。それは、意識の回復というよりも、感覚が、ゆっくりと、しかし確実に戻り始めている証だった。
彼は、依然として“送り人”としての仕事を続けていた。機械的な“排除”作業からは少し脱し、共感の過程で、微かに眉をひそめ、息を詰めるような瞬間が見られるようになっていた。苦痛を“感じている”のだ。それでも、仕事が終われば、すぐに無表情の仮面を被り、何事もなかったように片付けを始める。
ことりは、そのわずかな変化を、鷹のように見逃さなかった。彼女は、はるかが朝食の玉子焼きを一口食べ、ほんの一瞬、咀嚼を止めた時(今日のは、塩加減が彼の好みに合っていたのかもしれない)、あるいは、彼が夜中に起き出して窓辺に立つ時、以前よりも少し短い時間で寝室に戻るようになった時、胸の奥でそっと手を握りしめた。彼は、ゆっくりと、氷解し始めている。まだ、触れば切れるほどに冷たく、脆い。でも、確かに、動き始めている。
そのようなある日、新しい依頼が舞い込んだ。
依頼主は、四十代半ばの、疲れた目をした女性だった。彼女は、大切そうに抱えた、分厚い画集を、ことりの前にそっと置いた。画集の表紙は、無地のダンボール紙でできており、ところどころテープで補強されている。手作り感が溢れていた。
「これは……息子の、遼の絵です」
女性の声は、かすれていた。彼女の息子、遼は、重度の自閉症を抱え、言葉によるコミュニケーションがほとんど不可能だった。代わりに、絵を描くこと——正確には、クレヨンや色鉛筆で、紙の上に激しい線や色の塊を繰り返し描くこと——が、彼にとって唯一の自己表現だった。一ヶ月前、彼は、持病の合併症で、十五歳の短い生涯を閉じた。
「この子は、私に、何も話してくれなかった。『ママ』とも、言えなかった」
女性の目に、涙が光る。しかし、彼女はこらえた。
「でも、この絵を見ると……彼の中に、すごくたくさんのものが、渦巻いていたような気がして。嬉しいのか、怖いのか、怒っているのか、私のことをどう思っていたのか……それが、全然、わからなくて」
彼女は、画集をそっと撫でる。
「最近、この絵をまとめて整理していると、部屋が……なんだか、『ざわざわ』するんです。遼が、まだ何かを伝えたくて、もがいているような。それじゃあ、あの子が安らかに眠れないと思うんです」
彼女は、ことりをまっすぐ見た。
「この子の、絵の中にある『声』……誰かに、聞いていただけませんか? そして、あの子に、もう、ゆっくり休んでいいって、伝えていただけませんか?」
ことりは、その画集を受け取った。手にした瞬間、かすかだが、確かな“気配”を感じた。それは、怨念や執着のような鋭いものではない。むしろ、溢れんばかりの、混沌とした感情が、無理やり紙の上に閉じ込められたような、もどかしく、しかしどこか純粋な“業”だった。強い意志と、深い絶望と、そして、かすかな、かすかな愛が、入り混じっている。
彼女は、はるかにその依頼を伝えた。はるかは、無言でうなずき、画集を受け取ると、作業台へと向かった。ことりは、いつものように、タオルと洗面器を用意し、廊下で待った。
はるかは、画集を開いた。
中には、無数の絵が詰まっていた。あるページは、黒と赤のクレヨンで塗りつぶされ、激しい渦巻きを描いている。次のページには、青い小さな点が、整然と、しかし執拗に数百も描かれている。また別のページには、緑のぐにゃぐにゃした線が、画面いっぱいに這い回っている。
一見、無秩序で、理解不能な絵の連続だ。
はるかは、目を閉じ、一枚の絵(赤と黒の渦巻き)に、手のひらをそっとかざした。
共感が始まる。
──感情の津波に襲われる。
喜び。恐怖。怒り。困惑。眩暈。焦燥。そして、その全ての根底に流れる、深い、深い孤独と、どこかへ向けられた、もどかしい愛おしさ。
はるかは、息をのんだ。これまでに感じたことのない種類の“業”だ。普通の亡者の記憶なら、特定の瞬間、特定の感情に焦点が当たっている。しかし、ここには、固定された“核”となる記憶がない。あるのは、ただ、色とりどりの、強烈な感情そのものが、時間の順序もなく、原因も結果もなく、渦巻き、混ざり合い、爆発し、また静まる――その永遠のループだけだ。それは、言葉を持たない魂の、ありのままの“内面”そのものが、そのまま“業”として現出したかのようだった。
はるかの眉間に、深い皺が寄る。彼は、その感情の奔流に飲み込まれそうになる。自分自身の、まだ癒えぬ傷口(たまを失った喪失感、無力感)と、この混沌とした感情の海が、どこかで共鳴し、彼の内側の暗い“業”をかき立て始める。右手の業痕が、かすかに疼く。
彼は、うめき声を漏らし、手を引っ込めようとした。無理だ。これでは、かつてのように機械的に“除去”することも、優しく“理解”して送り届けることもできない。毛ガラスを通して、向こう側の喧騒が聞こえるが、何が起こっているのか、まったくわからない。彼は、ただ、その圧倒的な感情の“音量”に押しつぶされるだけだった。
その時、彼の視界の端に、何かが動いた。
ことりが、静かに部屋に入ってきていた。彼女は、はるかの苦悶の表情と、開かれた画集のページを、交互に見つめている。そして、彼女は、はるかの作業台の隅にあった、白紙のスケッチブックと、色鉛筆のセットをそっと手に取った。
彼女は、はるかの傍らに椅子を引き、座る。彼の共感を邪魔しないよう、息を潜め、画集のページ(はるかが今触れている、赤と黒の渦)をじっと見つめる。そして、彼女は、色鉛筆を手に取り、白紙の上に、そっと、ゆっくりと線を引き始めた。
はるかは、混乱の中で、ことりの動きをかすかに感知する。彼は、眉をひそめながらも、ことりの手元を見た。
ことりは、画集の激しい渦巻きを、そのまま模写しているわけではなかった。彼女は、まず、真っ赤な円を描き、その中に、小さな黄色い点をいくつか散りばめた。そして、その隣に、黒く塗りつぶした四角を描き、その中に、ぎざぎざした白い線を何本か引いた。それらは、極めて単純な、記号のような絵だ。
彼女は、描き終えると、その紙を、はるかの目の前に、そっと滑り込ませた。そして、彼の顔を見上げ、ごく小さな声で、しかしはっきりと説明する。
「……これは……『嬉しい』」
彼女の指が、赤い円と黄色い点を指す。
「でも……ここで……『怖い』……音が……うるさくて……怖い」
次に、黒い四角と白いぎざぎざ線を指す。
はるかは、ことりの言葉と、その単純な絵を見つめた。そして、再び、目を閉じ、画集のページに意識を向ける。
──感情の奔流。しかし、ことりの“翻訳”を頭に置いてみると、確かに、その混沌の中に、二つの異なる、しかし同時に存在する感情の“流れ” を、かすかに区別できるような気がしてきた。一つは、高揚した、沸き立つような“何か”(赤い円)。もう一つは、それを遮る、鋭く不快な“雑音”(黒い四角)。
彼は、意識を、その“雑音”の流れから、ほんの少しだけ、“沸き立つ何か”の方へと、向け直してみた。
瞬間、視界(共感)が、ほんのりと明るくなる。それは、映像ではない。感覚だ。クレヨンの、ツヤツヤした滑らかな触感。紙の上に色が広がっていく、満足感。何かを見つけた時の、心が躍るような、言葉にできない喜び。
(……これは……描くこと……そのものが……楽しい……?)
彼は、ゆっくりと目を開け、ことりを見た。ことりは、彼の表情のわずかな変化を読み取り、こくんとうなずき、またスケッチブックに向かった。今度は、別のページ(青い点のページ)を見ながら、青い小さな円を規則正しく並べ、その隣に、茶色の細長い形(人のシルエット?)を描き、その間に、たくさんの小さなハートを散りばめた。
「……『ママ』……ここに……いてほしい」
彼女が、茶色の形とハートを指さしながら、囁く。
「でも……近づけない……離れて……見てる」
はるかは、再び共感する。今度は、ことりの“翻訳”をより意識的に手がかりにして、感情の海を探索する。
青い点の感覚。それは、窓の外を飛ぶ鳥を見つめる時の、静かで、深い憧れ。そして、その隣にいる、温かい存在(母親)への、大きな、しかしどう表現していいかわからない愛情。その愛情を伝えたいのに、自分と世界の間に、見えない厚いガラスがあるようで、届かない。もどかしさ。切なさ。
少しずつ、少しずつ、はるかは、この言葉を持たない少年の、孤独で豊かな心の世界に、触れ始めていた。それは、直線的な“物語”ではない。感情の、鮮やかで、時に痛いほどに純粋な“風景”だった。
ことりの“翻訳”は、完璧ではなかった。推測と直感に頼る部分が多かった。でも、それは、はるかが溺れかけた感情の海に、かすかな浮き輪を投げ入れるようなものだった。彼女は、はるかの共感の“アンテナ”が捉えた、かすかな信号を、自分なりの言葉(絵)に翻訳し、それをはるかにフィードバックする。はるかは、そのフィードバックを頼りに、共感の方向を微調整し、より深く、特定の感情へと入り込んでいく。
二人の間には、ほとんど言葉は交わされなかった。しかし、作業台を挟んで、共感する者と、翻訳し、サポートする者が、一つの“業”と、一つの“魂”を解きほぐしていく、静かで、緊密な協働が生まれていた。
遅々として進まない作業。はるかの額には冷や汗が浮かび、ことりも、集中しすぎて時折目をこする。でも、どちらも、投げ出そうとはしなかった。
ついに、はるかは、少年の心の、最も深く、そして最も強い想いに触れた。
『ママに、私の気持ち、わかってほしい』
『ママを、悲しませたくなかった』
『ママが、笑ってくれたら、うれしい』
それは、複雑な言葉ではなく、ただ、愛そのものだった。伝えられなかった、無垢で、もどかしい愛。
はるかは、その愛の想いを、そっと、静かに、画集そのものに注ぎ込んだ。そして、母親が今、この画集を抱き、息子を思い、涙するその姿と、その愛おしむ気持ちを、そっと橋渡しするようにした。
『君の気持ち……あの人は……もう、わかっているよ』
『だから……もう、大丈夫』
画集のページが、ほんのりと、温かい金色の光を放った。ことりが指さした、あの青い点のページの隅に、今までなかった、かすかな、しかし確かな笑顔のマークが、クレヨンで描かれたように、浮かび上がった。それは、極めて単純な、円と二つの点と、ゆるやかな曲線でできた笑顔だった。
光は、ゆっくりと消えていった。画集は、もはや、重苦しい“業”の気配を一切感じさせない、ただの、大切な思い出の品へと変わっていた。
はるかは、深く、深く息を吐いた。疲労がどっと押し寄せてくる。しかし、それと同時に、久しぶりに、任務を完了したという、ほんのわずかな安堵と、誰かを確かに“送り届けられた”という、かすかな実感が、胸の奥に灯った。それは、かつての、深い共感と悲しみに満ちた“送り”とは違う。もっと、静かで、どこか穏やかな達成感だった。
彼は、うつむき、自分の手のひらを見た。新しい業痕は、ほとんど刻まれていなかった。この“業”は、彼を傷つけるものではなかった。ただ、理解を求めるものだった。
彼は、ゆっくりと顔を上げ、ことりの方を向いた。
ことりは、スケッチブックを胸に抱え、はるかをじっと見つめていた。彼女の目も、疲れているが、その奥に、かすかな、しかし確かな誇りと、安堵の色が浮かんでいた。彼女の指先や手の甲には、色鉛筆の色がいくつもついていた。彼女もまた、精一杯の力を振り絞っていたのだ。
二人は、しばらく、無言で見つめ合った。言葉は要らない。成し遂げたこと、そして、そのために二人で協力したことが、この静かな空気の中で、しっかりと共有されていた。
依頼主の女性に、画集を返した。彼女は、その笑顔のマークを見つけ、息をのんだ。そして、画集をぎゅっと胸に抱きしめ、声を押し殺して泣き始めた。しかし、それは、これまでのような絶望的な悲しみではなく、理解と、受容に満ちた、深い涙だった。
「ありがとう……ございます……遼……あの子が……こんな風に……」
彼女は、何度も礼を言い、去っていった。
はるかとことりは、疲れ切って、夕暮れの街を歩いて駅に向かった。帰りの電車は、ラッシュアワーを少し過ぎており、それほど混んでいなかった。二人は並んで座り、ことりは、すぐに眠気に襲われた。激しい集中と緊張からの反動だった。
電車がゆらりと揺れる。ことりの頭が、無意識に、はるかの肩に、ごく自然に寄りかかる。
はるかの体が、一瞬、こわばった。湖の時とは違う。今回は、ことりが、ただ疲れて眠ってしまっただけだ。彼は、そっとのぞき込むようにして、彼女の寝顔を見下ろした。
彼女の額には、まだ小さな絆創膏が貼られていた(彼が暴走した時の傷)。目の下には、疲労の隈。髪は少しぼさぼさで、頬には、さっきの色鉛筆の、かすかな緑色の跡がついていた。彼女の手には、一本の色鉛筆(赤)を、寝ていてもしっかり握りしめていた。指先は、様々な色で染まっていた。
彼は、その姿を、長い間、じっと見つめていた。この数ヶ月、彼女がどれだけそばにいて、どれだけ気を配り、どれだけ我慢し、そして、今日、どれだけ必死に彼を助けようとしたか。全てが、ゆっくりと、しかし確実に、彼の、まだ鈍重な感覚に届いていた。
彼は、ゆっくりと、震える手を伸ばした。彼女の顔に、かすかに垂れかかった一筋の前髪に触れ、そっと、耳の後ろに押しやった。その時、彼の指先が、彼女の温かい頬に、ほんの一瞬、触れた。
その温もりが、彼の冷たい指先に、はっきりと伝わってきた。
彼は、手を引っ込め、再じっと前方を見つめた。心臓の鼓動が、少しだけ、速くなっているのを感じた。
電車がトンネルに入り、窓の外が一瞬暗くなる。そして、明るくなる。
その時、ことりが、もぞもぞと動き、目を開けた。彼女は、ぼんやりと周りを見回し、そして、自分がはるかの肩にもたれかかっていたことに気づいた。
「わっ!?」
彼女は、飛び上がるようにして体を離した。顔が一気に真っ赤になる。
「ご、ごめんなさい! うっかり、寝ちゃって……!」
彼女は、慌てて髪をかきあげ、姿勢を正す。はるかは、彼女の慌てぶりを、ただ静かに見つめていた。
電車が、また揺れる。沈黙が、ほんの少し流れる。
そして、はるかが、口を開いた。声は、ひどく低く、かすかで、しかし、ことりにはっきりと届くように、ゆっくりと発せられた。
「……ありがとう」
その一言に、ことりは、完全に固まった。
彼女は、ぱちぱちと瞬きし、はるかの顔を見た。彼は、彼女をまっすぐ見つめ返している。その目は、まだ深い悲しみと疲労に曇ってはいるが、以前のような虚ろさはない。そこには、確かな意識と、そして、今、発せられた言葉への確信が光っていた。
理解が、遅れてことりの脳裏に到達する。彼が……“ありがとう”と言った。彼が、彼女に、感謝の言葉をかけた。
その瞬間、ことりの目の前に、この数ヶ月の全てが、一気に走馬灯のように駆け巡った。彼の無視。彼の暴走。彼の涙。彼の無言。そして、彼女自身の、必死の支えと、どうしようもない無力感と、それでも諦めきれない思い。
全てが、一気に、堰を切ったようにこみ上げてくる。
彼女の目から、大粒の涙が、ぽろり、ぽろりとこぼれ落ち始めた。最初は静かだったが、次第に、肩を震わせ、声を押し殺した嗚咽が漏れる。彼女は、慌てて手で顔を覆おうとするが、涙は止まらない。
「……バカ……!」
彼女の声は、泣きじゃくりでひび割れている。
「今……今さら……なに、言ってんの……!」
「ずっと……ずっと待ってたのに……今、言うの……?」
彼女は、顔を上げ、涙にぐしゃぐしゃになった顔で、はるかをにらみつけるようにして言う。でも、その目には、怒りよりも、深い、深い哀しみと、ようやく届いた言葉への、圧倒的な安堵があふれていた。
はるかは、彼女の泣く姿を、ただ見つめている。何も言えなかった。でも、彼は、自分のポケットから、一枚のハンカチを取り出した。それは、白く、少し硬めの、良く似合わない、たまが以前、よく使っていたタイプのものだ(彼女の遺品の一つだったかもしれない)。彼は、それをそっと、ことりの方へ差し出した。
ことりは、そのハンカチを見つめ、一瞬ためらった。それから、ゆっくりと、それを受け取った。彼女は、そのハンカチで、自分の顔をごしごしと拭った。涙と、鼻水と、そして、頬についていた色鉛筆の跡まで、一生懸命に拭い取ろうとする。
電車は、目的地の駅に近づいていた。
ことりは、拭い終わったハンカチをぎゅっと握りしめ、顔をそっと窓の外に向けた。街の灯りが、彼女のまだ濡れた睫毛にきらめいている。
そして、彼女は、ごく小さな、しかし確かな声で、呟いた。
「……次は……もっと早く……言ってよね」
その声には、泣きはらした後の、かすかな鼻声が混じっていた。しかし、その口元は、ほんのり、しかし確かに、上向いていた。
はるかは、それに答えなかった。ただ、彼もまた、窓の外の、流れていく街の灯りを、静かに見つめていた。彼の胸の奥で、凍りついていた何かが、ほんの少し、確かに溶け、そして、新たな、小さな温もりが、ゆっくりと灯り始めていた。




