三ヶ月、そして壊れた指ぬき
たまが消えてから、三ヶ月。
夏の名残は完全に消え、街路樹の葉は黄色く色づき、ひらひらと落ち始めていた。空は高く、澄んでいるが、どこか寂しげで、冷たさを孕んでいる。「七星堂」には、深い秋が静かに、しかし確実に入り込んでいた。
はるかの変化は、目に見えるものだった。
彼は見るからに痩せ細っていた。頬がこけ、鎖骨が衣服の上からも浮き上がって見える。目の下には、睡眠不足というより、魂そのものの疲弊から来るような、濃い隈が刻まれている。そして、何よりも、その目が変わっていた。かつては静かではあるが、人の“声”に耳を傾ける優しさと悲しみを宿していた瞳は、今、完全に虚ろだった。ガラス玉のように、何も映さず、何も感じ取っていないように見える。感情の入り込む隙間がない。
彼の右肩から腕にかけての、あの醜い業痕は、色がさらに濃く、深くなっていた。漆黒に近い灰色は、まるで生きた刺青のように、時折かすかに脈打つことがあり、触れば氷のように冷たい。それは、彼が内に封じ込めた苦痛と、自らに課した罰の、目に見えるしるしだった。
彼の日常は、完璧に、しかし不気味に規則的だった。
朝、決まった時間に起きる。身だしなみを整える(ただし、それは清潔にすること以上の意味を持たない)。朝食をとる(ことりが用意したものを、味もわからずに咀嚼し、飲み込む)。そして、事務所の掃除。本棚のほこりを拭い、床を磨く。その動作は、無駄がなく、正確すぎる。まるで、あらかじめプログラムされたロボットが、決められたルーチンをこなしているようだ。
彼は、依然として“送り人”としての仕事を続けていた。しかし、それは、大輔が注意深く選んだ、ほとんど危険性のない、ごく微弱な“業”を宿した品物だけに限られていた。
古い人形。読み終わった手紙。壊れた時計。
彼は、白手袋をはめ、品物に触れる。共感が始まる。左目尻に、かすかな灰色の筋が浮かぶ。だが、彼の表情は、微動だにしない。苦悶も、悲しみも、理解しようとする優しさも、そこにはない。かつて彼が行っていた、記憶の中に入り込み、その“声”に寄り添い、鎮め、送り届ける──という営みは、もはや存在しない。彼はただ、品物に付着した“感情の残滓”を、検出し、分離し、除去する、という機械的な作業をしているだけだった。
終わると、彼は手袋を外し、新たに刻まれた、ごくわずかな業痕を一瞥し、医療用アルコールでそっと拭う。それだけだ。かつては、仕事の後、深い疲労と、どこか救われたような安堵、または無力感にさいなまれることもあった。今は、何もない。空白。ただ、次のルーチンへと移行するための、短い休止でしかない。
彼の周りの空気は、常に冷たく、重かった。彼がそこにいること自体が、一種の無言の圧力として、事務所に充満していた。
ことりは、全てを見ていた。感じていた。
彼女は、かつての無邪気でおしゃべりな少女の面影を、ほとんど消し去っていた。声を潜め、動作を小さくし、いつもはるかの動きを、視界の隅で追っている。彼女は、はるかの“影”のように、静かに、しかし確実に動いていた。
朝食の準備。洗濯。買い出し。事務所の金銭管理。大輔が外回りで不在がちな今、これらの雑事のほとんどを、彼女が一手に引き受けていた。彼女の料理の腕は、たまの“事件”以来、飛躍的に向上していた。はるかの好み(彼が以前、何気なく口にしたもの)を覚え、栄養バランスを考え、見た目にも気を配る。だが、はるかは、それを“おいしい”とも“まずい”とも言わない。ただ、栄養摂取として淡々と口にするだけだ。
はるかが仕事(共感)に入る時、ことりは、彼の部屋の前の廊下に、清潔なタオルと、ぬるま湯の入った洗面器をそっと用意する。かつてたまがそうしていたように。彼女は、中から漏れる、かすかなうめき声や、物が揺れる音に耳を澄ませ、息を殺して待つ。終わると、彼がふらつくこともなく、無表情でドアを開け、彼女の用意したもので手を拭い、何事もなかったように去っていく。ことりは、無言で後片付けをする。
彼女は、はるかに話しかけることはほとんどなかった。必要最小限の言葉だけ。彼が、彼女の存在に気づいているのかさえ、わからないときもある。それでも、彼女はそこにいた。彼が夜中に起き出してぼんやりしているのを見つけても、声はかけない。ただ、毛布をそっと掛けに行く。彼が、たまのいた窓際の椅子を、長時間ぼんやりと見つめている時も、彼女は、別の部屋で、息を潜めていた。
彼女自身の心にも、深い穴が空いていた。寂しさ。無力感。そして、たまを失った悲しみ。でも、彼女は、それを表には出さなかった。出す資格がない、とさえ思っていた。一番苦しんでいるのは、彼なのだから。彼女にできることは、ただ、この“機械”が完全に壊れ、止まってしまう前に、ほんの少しでも、支えとなるものを差し出すことだけだ。
ある日、新しい依頼が舞い込んだ。
依頼主は、近所に住む、腰の曲がった老婦人だった。彼女は、そっと布に包まれた小さな品物を、ことりに手渡した。
「これ……うちのじいさんの形見の、指ぬきです」
老婦人の声は、かすかで優しかった。
「じいさんが亡くなって、三年になります。最近、遺品を整理していて、これに触れると……なんだか、『熱い』ような気がしてね。じいさんが、まだそばにいて、温めてくれているみたいで……でも、それじゃあ、あの世でゆっくり休めないかとも思って……」
彼女の目には、寂しさと、しかしどこか穏やかな諦めがあった。
「この指ぬきを……静かにしてやってくれませんかね。じいさんに、もう、こちらのこと、心配しないでいいって、伝えてやって……」
ことりは、その指ぬきを受け取った。古びた真鍮製で、長年の使用で表面がすり減り、光沢を帯びていた。特に強い“業”の気配は感じられない。ただ、かすかに、温かみ──物理的な熱ではなく、長い時間と愛情によって染み込んだような、穏やかな“気配”が漂っている。
彼女は、はるかにそれを渡した。彼は、無言でそれを受け取り、いつものように作業台に向かった。
ことりは、いつもどおり、タオルと洗面器を用意し、廊下で待った。
はるかは、白手袋をはめ、指ぬきを手に取った。目を閉じる。
共感が始まる。
──視界が、柔らかい電球の灯りに包まれる。
古びたが清潔な六畳間。夜。針を持つ手。それは、老婦人の、まだしわの少ない、しかし仕事でごつごつとした手だ。彼女は、畳の上に座り、夫の作業ズボンの裾を繕っている。指には、あの真鍮の指ぬきがはまっている。
傍らでは、同じく年老いた、しかし背筋の伸びた夫が、新聞を広げて読んでいる。時折、ページをめくる音。咳払い。
会話は、ほとんどない。
「明日は雨みたいだね」
「あら、そう。洗濯物、早めに取り込まなくちゃ」
「孫から、手紙が来てたよ。成績、また上がったって」
「まあ、よかったわね。あの子、頑張ってるのね」
それだけだ。大げさな愛情の言葉も、ドラマチックな出来事もない。ただ、六十年来、繰り返されてきた、ごく当たり前の、静かな時間の流れがある。お互いの存在を、空気のように当たり前に感じながら過ごす、穏やかで、少し退屈なほどの日常。
記憶は、ぽんぽんと、断片的に流れる。喧嘩もする。病気の時もあった。苦しい時期もあった。でも、いつも、隣に相手がいた。それだけで、何とかやってこられた。
そして、最後の光景。
病院のベッド。夫は、もう動けない。妻が、その細くなった手を、自分の、指ぬきをはめた手で、そっと握っている。夫の目が、かすかに開く。彼は、妻の手の中の、指ぬきの硬い感触を、かすかに感じ取る。
口元が、ほんのり動く。声は、ほとんど出ない。
「……ありがとう……な……」
「……お先に……行くぞ……」
「……ゆっくり……でいいから……な……急ぐな……」
そう呟くと、彼は、静かに息を引き取る。妻の手の中の、指ぬきだけが、ほんのりと、彼の最後の体温を残している。
この“業”は、怨念でも、未練でも、恐怖でもない。あまりに長く、あまりに深く根付いた、「慣れ」 と、「愛」 が、静かに、しかし確かに残留し、祝福として形を残したものだった。『もう大丈夫。ゆっくり、おいで』という、優しい見送りの言葉そのもの。
──それが、はるかを、完全に、残酷に打ちのめした。
彼とたまの時間は、あまりに短かった。火花のように散った、濃密で、痛くて、そしてあまりに壮大な運命に彩られたものだった。その対極にある、この平凡で、当たり前で、ただただ長く続いた“幸せ”。お互いを見送ることさえ叶った、この“完結”した物語。
比較など、するつもりはなかった。でも、脳裏に流れ込んだ、あの穏やかで温かい記憶の数々──喧嘩しても、そばにいる。病気になっても、そばにいる。ただ、隣にいるだけでいい──それらが、彼の胸の、たまを失った空洞を、容赦なくえぐり、比較しようのない喪失感を、より鋭く、より絶望的なものに変えていった。
『俺たちには……そんな時間……なかった……』
『ただ……平凡に……そばにいることさえ……!』
彼の内側で、静かに鎮めていたはずの“業”──呪い師から吸収した他人の苦痛、そして、彼自身の絶望と無念──が、この温かい記憶の刺激によって、突如、暴れ始めた。冷たい水に油を注がれたように。
ぐらり、と部屋が揺れる。机の上のペン立てが倒れる。本棚の本が、ばたんと一冊、落ちる。
はるかの体が、硬直する。目を見開く。その目には、虚ろさが一瞬で消え、混乱と苦痛が渦巻く。右手(指ぬきを握っている手)の業痕が、暗紅色に不気味に光り始める。彼の喉の奥から、押し殺したような、うめき声が漏れる。
「ぐっ……ああ……!」
彼は、頭を抱え、体を折り曲げる。指ぬきが床に落ち、ころんと転がる。彼の内側で、無数の声が、再びわめき始める。たまを失った絶望。自分が生き残った罪悪感。そして、今、触れてしまった、あの“平凡な幸せ”への、どうしようもない嫉妬と悲しみ。それらが混ざり合い、増幅し、彼の理性を食い破ろうとする。
廊下で、異変を感じ取ったことりが、ドアを勢いよく開けた。
「趙さん!?」
彼女は、机にもたれてうずくまり、体を震わせ、業痕が不気味に光るはるかの姿を見て、一瞬、凍りついた。でも、次の瞬間、彼女は駆け寄った。恐怖よりも、彼をこの状態から引き離さなければ、という思いが先に立つ。
彼女は、背後から、はるかの体を、思いきり抱きしめた。小さな腕で、できる限りの力を込めて。
「はるか! はるか! 戻ってきて! お願い、戻ってきて!」
彼女の声は、必死で、涙声になっている。はるかの背中は、冷たく、そして、業痕の下で、不気味に熱く脈打っている。彼は、彼女の腕の中で、激しくもがく。無意識の、苦痛からの逃避の動きだ。
「離せ……! くそ……!」
はるかが、うめきながら腕を振りほどこうとする。その時、彼の鋭い肘が、ことりの額の横っ面に、思いがけず強く当たった。
どんっ!
鈍い音。鋭い痛みが、ことりの頭部を走る。彼女は思わず痛みで声を上げ、抱く力がかすかに緩む。温かい液体が、額のあたりから流れ出る感覚。血だ。視界が一瞬、かすむ。
でも、彼女は、手を離さなかった。ぎゅっと目を閉じ、再び力を込める。そして、痛みに震える声で、必死に、ある言葉を繰り返す。あの夜、たまが、暴走する彼を鎮めるために使った、あの言葉を。彼女は、たまの、あの冷静で、しかし深い愛情に満ちた口調を、必死に思い出し、真似ようとする。
「はるか……」
声がひび割れる。
「戻ってきて……」
涙が、頬と血にまみれた額を伝う。
「私が……ここにいる……!」
かつて、この言葉は、魔法のように彼を現実へと引き戻した。たまの声そのものが、彼の錨となった。
しかし、今、この言葉を発しているのは、ことりだ。たまではない。そして、はるかの内側の傷は、あの時より、はるかに深く、広がり、腐食している。
彼の動きは止まらない。むしろ、ことりの声に反応したかのように(あるいは、彼女の存在そのものが、今の彼にはさらに苦痛の原因でしかないのか)、彼はより激しく体をねじり、ことりを振りほどこうとする。
「うああっ!」
ことりは、力及ばず、押しのけられた。背中から床に打ち付けられ、息が詰まる。額の傷から流れる血が、床ににじむ。彼女は、一瞬、目の前が真っ白になる。痛み。そして、何よりも、無力感。
彼女は、ぼんやりとした視界で、まだ苦悶にもがくはるかの姿を見つめた。彼は、もはや彼女の存在さえ認識していない。ただ、内側の地獄と戦っている。
(だめ……だ……たまさんの言葉でも……だめなんだ……)
絶望が、胸を締め付ける。彼女は、震える手で床を押し、よろよろと起き上がった。額の血が、目に入りかける。彼女は、袖でごしごしとそれを拭い(痛みで顔をゆがめながら)、一歩、また一歩と、はるかに近づいた。
彼女は、震える手を伸ばす。彼の、冷たく、ひび割れた業痕に覆われた手に、触れようとする。
「……私が……」
声は、かすれ、泣きじゃくりに混ざる。
「……ここに……いるよ……?」
彼女の指先が、はるかの手の甲に、かすかに触れる。
その瞬間、はるかの震えが、急に弱まった。いや、弱まったというより、力尽きたようだった。彼の体の緊張がふっと抜け、がくっと前に倒れ込むようにして、床に崩れ落ちた。彼は、うつ伏せになり、肩で荒い息をしていた。業痕の不気味な光は、かすかに収まっている。しかし、彼の目は、再び、深い虚ろさに覆われていた。さっきまでの苦悶の表情は、嘘のように消え、何も感じていない無表情に戻っている。まるで、暴走など、最初から起こらなかったかのように。
ことりは、その横に、ひざまずいた。彼女は、自分の用意していたタオルを手に取り、そっとはるかの汗と埃にまみれた顔を拭い始めた。動作は、優しく、しかし震えが止まらない。彼女自身の額から流れる血が、タオルを赤く染めていく。彼女は、それに気づくと、少し慌てて、タオルを自分の額にも当て、ごしごしと拭った。痛みで眉をひそめる。
ふと、彼女の涙が、一粒、はるかの、床に投げ出された手の甲に、ぽたりと落ちた。
温かい水滴の感触。
はるかの指が、ほんのり、微かに、ぴくりと動いたように見えた。気のせいか。
彼は、目を開けたまま、天井を見つめている。ことりの涙が、彼の手の甲に染み込んでいくのを、感じているのか、いないのか。彼の目には、何の反応もなかった。
ことりは、それを見つめ、もう一度、深く息を吸い込んだ。そして、無言で、はるかの顔を拭う作業を続けた。彼女自身の血と涙で、タオルはぐしゃぐしゃになった。




