余波・音のない日常
雨は、葬儀の初めから、終わりまで、やむことなく降り続けた。
細く冷たい雨糸が、黒い傘の群れをぬらし、墓地の石畳を暗く濡らす。婁家が執り行う儀式は、厳かで、静謐そのものだった。参列者は多い。婁家の者、周家の者、かつてたまと縁のあった術者や神職、そして、大輔が連れてきた数人の侠客たち。しかし、はるかには、それらの人々の存在も、読経の声も、ほとんど意味を持たなかった。彼の世界は、深い、重い無音に覆われている。
彼は、列の最前列に立ち、全身ずぶぬれになったまま、動かない。黒の喪服が、雨水で重たく体に張り付く。髪も額も、水がしたたり落ちている。それすら、感じていないようだ。彼の視線の先には、新しく据えられた、まだ文字の彫りが浅い一基の墓石がある。そこには、簡素に、こう刻まれている。
婁 たま
遺体はない。最後、彼女は光の粒となって散った。墓の中に収められているのは、彼女がかつて着ていた巫女装束の一部と、愛用していた古籍の一冊、そして、あのチェキで撮られた、三人の写真のうちの一枚(ことりがこっそり焼き増しして墓所に納めたもの)だけだ。空の墓。
はるかは、その名前を、ただ見つめ続けていた。雨で文字がにじんでいくようでも、彼の視界は、その一点に釘付けになっている。彼の顔には表情がない。泣いているわけでも、うつむいているわけでもない。ただ、虚ろだった。魂が、どこか遠くへ行ってしまい、この肉体だけが、雨に打たれながらここに佇んでいるかのようだ。
ことりは、少し離れた後方に立っていた。彼女も黒い服を着ているが、それは喪服というより、地味な普段着に近い。彼女の手には、一つの黒い傘があった。彼女は、はるかの後ろにそっと近づき、傘を差し出そうとした。彼の頭上に、せめてもの雨避けを。
しかし、傘の柄がはるかの肩に触れるか触れないかという時、彼の手が、ゆっくりと、しかし確実に上がった。彼は、ことりの手首には触れず、ただ、傘そのものを、ごく軽く、しかし揺るぎない力で押しのけた。
ことりの手が、空中で止まった。傘が、かすかに震える。彼女は、はるかの、雨に濡れた後ろ頭を見つめ、唇を噛みしめた。目に、熱いものがこみ上げるのを、必死にこらえる。彼女は、ゆっくりと手を引っ込め、自分の傘の下に戻った。彼女の目も、はるかと同じ墓石を見つめている。だが、彼女の目には、深い悲しみと、そして、ある決意が、かすかに光っている。
大輔は、はるかの真後ろ、わずか半步離れた場所に立っていた。彼も傘をささず、雨に濡れている。背中の傷はまだ完治しておらず、湿気で疼いているはずだが、顔には出さない。彼は、はるかの背中を見守るように、無言で佇んでいる。その姿勢は、守護の石像のようだった。彼の関西弁も、いつもの軽口も、ここにはない。ただ、重い静寂があるだけだ。
儀式が終わり、人々が次第に去っていく。はるかは、相変わらず動かない。ことりと大輔も、彼と共に、ただ、立ち尽くしていた。雨の音だけが、墓所に響く。
「七星堂」に戻っても、日常は戻ってこなかった。
玄関のドアを開け、中に入ると、そこには、たまがまだいた頃と、ほとんど変わらない光景が広がっていた。本棚は整然と並び、机の上には資料が山積みされ、キッチンには茶器が並んでいる。
しかし、空気が違う。
かつてこの場所に満ちていた、かすかな緊張感と安心感が入り混じった、独特の“活気”——それは、たまの冷静な分析、ことりの明るい声、はるかの静かな作業、そして大輔のふとした関西弁で作られていたものだ——は、完全に消え失せていた。代わりにあるのは、動かない、淀んだ、重い静寂だけだ。物音一つしない。埃さえ、かつてより活発に舞っているようには見えない。時間そのものが、この部屋でだけ、止まってしまったかのようだった。
はるかは、無言で上着を脱ぎ、それをいつもの場所にかける。動作は、ロボットのように正確で、無感情だ。彼は、リビングを通り過ぎ、自分の作業台のある部屋へと向かう。
その途中、彼の目が、窓際の小さなテーブルの上に、ほんの一瞬、留まる。
そこには、一つの湯呑み茶碗が置かれていた。白磁で、渋い藍色で細い線が描かれた、ごく普通のものだ。中には、まだ茶渋がついた冷たいお茶が、三分の一ほど残っている。それは、たまが最後にここで過ごした朝、彼女が飲み、そのまま出かける支度で席を立ち、二度と戻ってこられなかったものだ。
はるかは、それを見つめたまま、数秒間、完全に動きを止めた。そして、何も言わず、そのまま自分の部屋へと入り、ドアを閉めた。
深夜。
事務所は真っ暗だった。はるかは、自分の作業台の前に座り、デスクライトもつけずにいた。窓からは、街路灯のぼんやりとしたオレンジ色の光が差し込み、部屋の輪郭をかすかに浮かび上がらせるだけだ。
彼の視線は、ドアの方向——リビングの、あの湯呑み茶碗のあるテーブルへと、自然と向かっていた。暗闇の中では、茶碗の形すらはっきりとは見えない。だが、彼には、それがそこにあることが、痛いほどにはっきりとわかっていた。
彼は、ゆっくりと口を開いた。声は、長い間使われていなかった機械のように、ひどくかすれ、軋んでいた。
「……今日も……」
言葉が、喉の奥で引っかかる。彼は、一呼吸置く。
「……うるさいな……」
その呟きは、暗い部屋に吸い込まれ、何の反響も生まない。返答はない。いつもの、淡々とした「騒音の主因は、あなたの無駄な独り言です」という声は、もう、二度と聞けない。
彼は、ゆっくりと立ち上がり、暗闇の中を、リビングへと歩いていった。足音はほとんどない。街路灯の光が、彼の長い影を、不気味に壁に引き伸ばす。
彼は、あのテーブルの前に立った。下を向くと、湯呑み茶碗が、かすかな外光に照らされて、ほのかに白く浮かび上がっている。
彼は、手を伸ばした。指先が、冷たい陶器の縁に触れる。その冷たさが、彼の凍りついた感覚を、ほんの少しだけ刺激する。
彼は、その茶碗を、そっと持ち上げた。重さ。冷たさ。そして、底に残った、かすかに茶色く濁った液体の、ごくわずかな揺れ。
彼は、それを、じっと見つめた。
そして、その手に、ゆっくりと、しかし確実に、力を込めていった。
ぎゅっ、と。
最初は、かすかなきしみ音。
カチッ
陶器に、ほんの小さなひびが入る音。
彼は、その音に耳を傾けることもなく、さらに力を込める。手のひらで、冷たい陶器を、握りしめる。手のひらの皮膚が、硬い陶器の表面に押し付けられる。
パキ……
ひびが広がる音。
彼の指の関節が白くなる。震えている。しかし、握る力は緩まない。むしろ、強くなる。彼の目は、手の中の茶碗を見つめたまま、しかし、そこには何も映っていない。虚空を見ている。
パキリ!
ついに、陶器が、握りつぶされ、割れる、くっきりとした音。
鋭い破片が、彼の手のひらに、深く食い込む。鋭い痛み。しかし、彼は眉一つ動かさない。ただ、握りしめる力を、さらに強くする。割れた破片が、さらに細かく砕け、彼の手のひらを切り裂く。
温かい液体が、彼の手のひらから溢れ出す。血だ。茶碗に残っていた冷たいお茶と混ざり合い、ねっとりとした、暗赤色の液体となって、彼の指の間からしたたり落ち、床にぽたぽたと音もなく落ちていく。
彼は、うつむき、自分の手のひらを見下ろす。割れた陶器の破片が、肉に刺さっている。血と冷茶が混ざり、不気味な色の水たまりが、床に広がり始めている。
彼は、じっとそれを見つめていた。
そして、一滴の、熱い液体が、彼のうつむいた頬を伝い、あごの先から、床の血と茶の混ざった水たまりの中に、ぽたりと落ちた。
それは、涙だった。
血と涙と冷たいお茶が、床の上で、ゆっくりと、区別のつかない一つの染みに広がっていく。
部屋のドアの隙間から、ことりがその光景を、息を殺して見ていた。
彼女は、はるかが部屋を出る気配を感じ、ついて来ていた。暗闇の中で、彼が茶碗を握りしめ、割り、自分の手を傷つけるのを、目を覆いたくなる思いで見守っていた。彼女の口を、自分の片手で必死に押さえている。もう一方の手の甲には、かみしめた歯型がつきそうなほど、力が入っている。
彼女は、背中を壁に預け、ゆっくりと床に滑り落ちた。そして、とうとう、押さえていた手を離し、自分の手の甲を口に押し当て、声を殺した嗚咽を漏らした。涙が、止めどなく溢れる。でも、声を出してはならない。彼に、自分の悲しみを見せてはいけない。彼は、もう、それ以上、誰の悲しみも背負いきれないから。
その時、大きな影が、彼女の傍らに立った。大輔だ。彼は、無言で、一枚の毛布をことりの肩にそっとかけた。そして、その大きな手で、彼女の頭を、ごく軽く、一瞬だけ撫でる。何も言わない。言葉など、もう何の役にも立たないことを、彼はよくわかっている。
それから、大輔は、はるかのいるリビングへと、静かに歩み入った。彼は、はるかが手から血を滴らせ、ぼんやりと床の染みを見つめている姿を一瞥し、ため息一つつかない。彼は、掃除用具をそっと取りに行き、戻ってくると、はるかの足元から、砕けた陶器の破片と、血と茶の混ざった液体を、黙々と掃除し始めた。動作は、驚くほど丁寧で、静かだ。掃除機の音も立てず、雑巾でそっと拭き取る。
はるかは、大輔が掃除を始めても、微動だにしない。ただ、手のひらから血が滴るのを、ぼんやりと見つめ続けている。
大輔が掃除を終え、立ち去ろうとした時、はるかが、かすかに唇を動かした。
「……その……茶碗……」
声は、かすれ、ほとんど聞き取れない。
大輔は、足を止め、振り返らない。背中で聞いている。
「……捨てるな……」
はるかの呟きは、哀願にも命令にも聞こえない。ただ、事実を述べているかのようだ。
大輔は、一瞬、立ち止まった。それから、ごくわずかにうなずく。そして、掃き集めた陶器の破片を、ごみ箱へ捨てず、一つの小さな箱にそっと集め、それをテーブルの隅に置いた。それから、何事もなかったように、階段の方へと歩いていった。
やがて、窓の外で、雨の音がやんだ。
雲の切れ間から、細い月の光が、割れた窓ガラス(前夜の戦いの傷跡)を通して、荒れたリビングに差し込む。月光は、床に残ったかすかな水の跡をきらりと光らせ、はるかのうつむく顔の輪郭を、青白く浮かび上がらせる。
彼は、相変わらず、割れた陶器の破片を握りしめた、血のりした手を、だらりと下げたまま、その場に立ち尽くしている。目は、もう涙も枯れ、ただの空洞のようだ。
廊下では、ことりが、大輔からかけられた毛布にくるまり、壁にもたれて、疲れと悲しみでぐったりと眠りに落ちていた。頬には、涙の跡が光っている。
階段の途中には、大輔が腰を下ろしていた。彼の手には、小さな懐中電灯の灯りが、ほのかに揺れている。彼は、その灯りをじっと見つめながら、窓の外の、雨上がりの月を、ぼんやりと見上げている。顔には、深い疲労と、どうしようもない無力感が刻まれている。
同じ屋根の下。三つの孤独。
喪失という、あまりに重い海に浸かりながら、それぞれが、それぞれの沈黙の檻に閉じ込められ、互いの悲しみさえ分かち合う言葉も、力も、もう持っていない。
長い、長い夜は、まだ、ほんの始まりに過ぎなかった。
(第三巻 完)




