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残された声のゆくえ~最後の声、届けます~送り人、趙はるかの記録~  作者: 「大和 尚羅夢」小花羅夢一生推し


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捧げもの・星屑となりて

結界が砕ける音が、世界で唯一の音だった。

パキィィィ……キィィィィン……!

美しい光の紋様に走った黒い亀裂が、一瞬で全体に広がり、そして、静かに、しかし確実に、粉々に散る。それは、巨大なガラスの天蓋が、ゆっくりと崩れ落ちるように見えた。時間が、ほんの一瞬、引き伸ばされたように感じられる。

たまは、砕け散る結界の破片を見上げた。彼女の体は、胸のあたりまで透明になっていた。もう、下半身の輪廓さえ、かすんでいこうとしている。しかし、彼女の顔には、驚きも焦りもない。ただ、深く、深く、全てを受け入れた穏やかさがあった。

彼女は、砕け散る結界の、まだ空中にきらめく無数の光の破片を見つめる。そして、そっと、目を閉じた。

(……ごめんね、はるか。これが、私の、最後の“返事”だ)

彼女の体内に残る、全ての力、全ての命、全ての記憶——そして、この体そのものを構成しているものすべてを、一つの想いに込めた。

『彼を、守りたい』

『彼に、戻ってきてほしい』

透明化が急速に進行する。胸、首、あご、そして、顔。彼女の体が、無数の微かな光の粒子へと分解され始める。その粒子は、砕けた結界の光の破片と混ざり合い、一筋の、温かく柔らかな、純白の光の流れとなった。

その光は、狂おしくうごめく“最初の業”の黒い塊へ、そして、その塊に触れ、苦しみ続けるはるかの意識へと、優しく、しかし確実に流れ込んでいった。


闇と苦痛の海の底で、はるかは、絶望していた。

武将の無念は、あまりに重く、固く閉ざされていた。そして、外の世界から聞こえる、結界の軋む音、たまの力尽きていく気配。彼は、もう、どうすることもできない。彼女を失い、すべてを失う。その現実が、彼の心を凍りつかせようとしていた。

その時——

ぱっと、視界が開けた。

闇も苦痛も、全てが遠のく。彼の目の前に、小さな、光り輝く空間が広がった。そこには、草が生え、かすかに風が吹き、柔らかな陽射しが差し込んでいる。それは、どこでもない、しかしどこか懐かしい、静かな場所だ。

そして、その空間の中心に、一人の少女が立っていた。

たまだ。

彼女は、巫女装束ではなく、初めて「七星堂」を訪れた時の、地味なスーツ姿だ。髪はきちんとまとめ、細い縁の眼鏡をかけている。顔には、ほんのりとした、しかし確かな微笑みが浮かんでいる。それは、これまでにはるかが見たことのない、心の底から安らぎ、幸福に満ちた笑顔だった。

はるかは、自分もその空間に立っていることに気づく。体は軽く、疼く業痕もない。彼は、ただ、彼女を見つめる。

「……たま……?」

声が出る。彼は、一歩、また一歩と近づく。彼女は、笑ったまま、彼を受け入れている。

「はるか」たまの声は、とても優しく、澄んでいた。「最後は……笑顔で、送ってね」

「……だめだ」はるかの声が震える。彼は駆け寄り、彼女の腕を掴もうとする。しかし、彼の手は、彼女の体をすり抜ける。彼女は、この空間では、もはや“実体”ではない。記憶の残像。最期の、優しい幻だ。

「たま! 戻れ! 戻ってこい! 必ず……他の方法が——!」

たまは、そっと首を振る。その動きも、優しく、悲しい。

「あなたに会えて……」彼女の声が、かすかに震える。彼女の“目”に、涙の光がきらりと浮かぶ。「本当に……よかった」

彼女は、一歩前に出る。はるかの胸の前まで来る。そして、そっと、腕を広げ、彼を抱きしめる仕草をする。はるかには、何の感触もない。しかし、彼の魂全体が、彼女の“想い”そのものでできたその抱擁に、包み込まれる。

彼女は、はるかの耳元に、口を寄せる。そして、今まで一度も、はっきりと口にしたことのない、しかし、二人の間ではもはや自明だった、たった一つの言葉を、すべての愛を込めて、囁くように伝える。

『愛してる。はるか』

その声は、これまでにないほど柔らかく、温かく、そして、深い悲しみと、深い幸福に満ちていた。

その一言が、はるかの心の、最後の防壁を、粉々に打ち砕いた。

彼の目から、熱い涙が、止めようもなく溢れ出した。彼は、声を上げて泣くこともできず、ただ、震える唇で、精一杯、魂の叫びを、言葉にしようとする。

『……俺も……だ……』

彼は、この幻のたまを、しっかりと見つめる。彼女の、涙に曇った、しかし幸せそうな瞳を。

『……たま……愛してる……』

その言葉を聞いた瞬間、たまの笑顔が、さらに深く、輝いた。それは、何の曇りもない、純粋な喜びと、満足に満ちた笑みだった。彼女は、うなずく。一度、深く。

そして、彼女の体が、ふわりと、光の粒子へと分解され始める。彼女の微笑みだけが、少し長く残り、はるかの記憶に焼き付くように、きらめく。

光の粒子は、彼女の最後の想いと共に、はるかの意識全体を優しく包み込む。そして、あの武将の無念の塊へと、そっと染み渡っていく。

光は、固く閉ざされた“業”の核に触れると、それを溶かすように浸透した。武将の苦悩、無念、叶わぬ願い――それらを、理解し、受け止め、そして、「もう、いい。ゆっくり、休んで」と、無限の優しさで囁く。

現実の闇の中で、はるかは、ついに、武将の“業”の全てを、“共感” し、“理解” した。そして、彼は、自分自身の、たまを失う無念と、それでも彼女の想いを受け止めなければならないという覚悟とを、その“共感”に重ね合わせた。

彼は、流す涙と共に、心の中で呟く。

『わかった……お前の苦しみ……』

『だから……もう……休め……』

『たまが……最後に……教えてくれた……』

『“温かさ”を……思い出せ……』

その時、武将の“業”の核が、ほんのり、温かく、柔らかな光を放った。そして、静かに、静かに、崩れていった。数百年の重苦しい苦痛が、風化する砂のように、ほのかな光の粒子へと変わり、消散していく。


現実の谷間で、すべての戦いが、一瞬で止んだ。

暗紅色に染まった空が、無数の温かい光の粒によって照らされた。それは、まるで、天から降り注ぐ逆さまの流星雨のようだった。一つ一つの光点は、柔らかく、優しく、そしてどこか寂しげにきらめきながら、封印の石碑へ、そして谷全体へと、ゆっくりと舞い落ちていく。

その光に触れたものは、変わっていった。

うごめいていた漆黒の“業”の触手や化物たちは、光に触れると、静かに煙のように消え去った。敵方の術者たちは、光が体に当たるたびに、苦悶の叫びを上げ、使役していた邪悪な力が反噬を始め、倒れていく。呪い師は、驚愕の表情で空を見上げ、自らの体が光に溶かされていくのをただ見つめるしかなかった。

谷に立ちこめていた重苦しい瘴気は、光の雨に洗い流され、清められていく。空気が、長い間忘れられていた、澄んだ朝のそれへと変わっていく。

中心では、はるかの体が、柔らかな光のベッドに包まれ、そっと地面に降ろされた。彼は、仰向けに横たわり、目を開けていた。その目は、虚空を見つめ、涙が絶え間なくこぼれ落ちている。彼の右手が、少しだけ、空へと伸びていた。何かを、必死に掴もうとするように。

一つの、特に明るい光点が、ゆらりと彼の伸ばした手のひらの上に落ちてきた。

彼の指が、わずかに動く。その光点を、そっと包み込もうとする。

光点は、彼の手のひらに触れると、きらりと最後の輝きを放ち、そして、一枚の、半透明の白い花びらへと形を変えた。それは、彼がかつて、たまの実家の神社の木で見たような、かすかな香りを放つ花びらだった。

はるかは、その花びらを、目を見開いて見つめる。彼の涙が、花びらに落ち、きらりと光る。

そして、次の瞬間、花びら自体が、かすかな風にもならないのに、ふわりと砕け、無数の微かな光の粒子となって、彼の手のひらから、空へと昇っていった。何も残らなかった。

はるかは、その手を、そのままの姿勢で、空へ向けたままにした。

世界が、信じられないほど静かになった。

風の音もない。鳥の声もない。血の滴る音も、息遣いさえも聞こえない。彼の耳には、ただ、深く、底知れぬ無音が、重くのしかかっているだけだった。たまの最後の囁きさえ、遠い記憶の彼方に消えていった。彼は、音のない世界に、一人、取り残された。


ことりは、浄化の圏が消え、力尽きて地面に倒れていた。彼女は、顔を上げ、光の雨が降り注ぐ空を見つめていた。口をぽかんと開けている。涙は流れているが、声が出ない。喉が、悲鳴を上げたいのに、何も出てこない。ただ、眩しい光と、それが運んでくる、深い喪失感だけが、彼女を満たしていた。

大輔は、刀を杖に、片膝をついていた。背中の傷から血がだらりと流れているが、彼はそれを気にしないように、同じく光る空を見上げていた。彼の、いつもの軽薄さは、完全に消えていた。ただ、乾いた関西弁で、ごく低く呟く。

「……やったな……たまさん……」

彼は、うつむき、地面にこぶしを立てる。拳が、微かに震えている。

少し離れた場所では、戦いの終盤に駆けつけ、外周の敵を掃討するのに一役買っていた周皓辰が、静かに立っていた。彼は、光の雨を見上げ、そして、中心の石碑の前にはるかが横たわる方へ、深く、丁寧に一礼した。表情は、深い哀悼と、ある種の敬意に満ちていた。彼もまた、たまの覚悟と、その結末を知る者の一人だった。

光の雨は、やがて細り、やんだ。

東の山の稜線から、夜明けの、真っ白な第一の光が、ゆっくりと、しかし確実に射し始める。それは、光の雨が去った後の谷間を、優しく、しかし無情に照らし出した。

その光が、はるかの、涙で濡れ、何も映さない虚ろな瞳に、まっすぐに落ちた。

同じ光が、谷の中央にそびえる、あの巨大な石碑をも照らす。かつて無数の亀裂に覆われ、不気味なオーラを放っていた石碑は、今、滑らかで、深い緑青色の苔が所々に生え、どこか温かみさえ感じられる、古びたが穏やかな石の柱へと変わっていた。表面には、かすかに、たまが最後に描いた結界の紋様の名残が、光の筋のように刻まれているように見えた。

戦いは終わった。

世界は救われた。

彼女は、消えた。

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