最終決戦・封印の地
封印の地は、人里離れた山奥の、荒れ果てた谷間にあった。
空は、「業」の淀んだ瘴気に覆われ、不気味な暗紅色に染まっていた。風はなく、重苦しい沈黙が立ち込める。谷の中央には、巨大な、無数の亀裂が走る古びた石碑がそびえ立っている。それが、「封印」の核だ。その周囲の地面は、無数の苦悶の顔が浮かび上がるかのように歪み、ところどころから、漆黒の、粘り気のある“気”が、ゆらゆらと立ち上っている。耳を澄ませば、かすかに、無数の泣き叫び、うめき、恨みつらみが、地の底から湧き上がってくるような、気のせいではないざわめきが聞こえる。
ここは、生き物のいる場所ではなかった。死と苦痛の、沈殿した地獄の入口だ。
戦場は、三重に分かれていた。
最外周では、刀や棍棒、あるいは奇妙な法具を手にした者たちが、異形の敵と血みどろの戦いを繰り広げていた。大輔が、最後の頼みとして集めてきた、筋を通す侠客、義に厚い術者、恩を返しに来た異能の持ち主たちだ。彼らの相手は、呪い師が支配下に置いた術者たちや、より獰猛な“業”の化物たちだった。
「こらああ! ここを通すかーっ!」
大輔の関西弁の怒号が、金属のぶつかり合う鋭い音と、唸り声や悲鳴の中で飛び交う。彼の手には、霊力を込めた金属バットが握られ、一撃ごとに化物を吹き飛ばす。しかし、敵の数は多く、味方にも傷つく者が続出している。血の匂いが、瘴気と混ざり、吐き気を催させる。
中圏、石碑から数十メートル離れた地点に、ことりがいた。
彼女は、地面に刻まれた、たまが事前に準備してくれた複数の“浄化結節”の中心に、ひざまずいていた。目をぎゅっと閉じ、両手を地面に押し当てる。全身から、これまでにない強さの、柔らかくも確かな浄化の光が放たれている。それは波紋のように周囲に広がり、石碑から漏れ出る黒い瘴気や、外周の戦いで撒き散らされた“業”の破片に触れると、それをかすかな白い煙に変え、無害化していく。
彼女の周りには、薄い光の半球状の領域ができている。浄化の圏だ。これが、内側へ向かう二人への、最後のバリアとなっている。
だが、その負担は計り知れない。黒い瘴気は、生きた毒蛇のように彼女の結界に食い入り、浄化を阻もうとする。ことりの額には冷や汗が噴き出し、顔は蒼白だ。鼻の下から、耳から、目尻から、かすかな血の筋がにじみ出ている。七つの穴から、血がゆっくりと流れ下る。彼女の体が、浄化という浄化でない猛毒の処理に、悲鳴を上げている。
歯を食いしばり、唇を噛みしめ、彼女は呟く。
「だめ……倒れない……倒れたら……趙さんが……たまさんが……!」
彼女の浄化の光が、一瞬、かすかに暗まる。すると、すぐに、彼女の脳裏に、あの夜、たまに抱きしめられ、託された言葉がよみがえる。
『私の、一番大切な二人を……あなたに、託す』
「うう……!」
ことりは、目を見開いた。涙と血で曇った視界で、内側を見る。石碑の前の、二つの小さな人影。
彼女は、深く、深く息を吸い込む。そして、もう一度、全身の力を振り絞る。浄化の光が、再び強まる。彼女は、自分という“器”が割れるまで、ここで踏みとどまると決めていた。
内圏、石碑の真下。
はるかとたまが、並んで立っていた。
はるかの右半身は、前夜の暴走の影響で、ほぼ完全に漆黒の業痕に覆われ、左半身にも不気味な模様が広がっている。動くたびに、骨の髄までしみるような疼きが走る。しかし、彼の目は、石碑に向けられ、虚ろさの中に、一点の確かな光を宿している。隣に、たまがいる。それだけでいい。
たまは、はるかの一歩前に立つ。彼女は、普段着ではなく、簡素だが神聖な白の巫女装束に着替えていた。長い黒髪は背中にたっぷりと流れ、風もないのに微かに揺れている。彼女の顔は、驚くほど穏やかで、どこか凜としていた。もう、迷いはない。
彼女は、静かにはるかの方を見て、微かにうなずいた。
それから、彼女は、自分の両手首を、懐から取り出した儀式用の短刀で、縦に、深く切り裂いた。
ぷっ、ぷっ、と鈍い音。真紅の血が、たちまち噴き出し、彼女の白い装束の袖を染め、そして、地面にしたたり落ちる。
たまは、痛みに顔をゆがめることもなく、その血のしたたる両手を掲げた。そして、口を開く。流れるような、荘厳で、しかしどこか悲しい、古い神楽歌のような詠唱が、彼女の唇から紡ぎ出される。
彼女の流れる血が、地面に触れると、たちまち金色に輝き、複雑で巨大な幾何学模様を描き始める。それは、瞬く間に広がり、石碑を中心に、半径数十メートルに及ぶ、見事な複合大結界を形成していく。光の紋様は、天空へと登り、やがて半円球の天蓋を作り、内部を外界から隔離する。結界の内側では、外界の喧騒がかすみ、不純な瘴気が薄れていく。代わりに、神聖で、しかしどこか物悲しい、静かな空気が満ちる。
この結界は、外からの干渉を防ぎ、内側の“業の奔流”を一時的に封じ込め、はるかが“共感”に集中できる環境を作るためのものだ。しかし、その代償は明白だった。
たまの体が、透け始めている。
結界を描く光の筆となっている彼女の指先から、ほんのりと、光を通すようになっている。それは、ゆっくりと、しかし確実に、手首、前腕へと広がっていく。彼女の命そのものが、この結界を維持する“燃料”として燃え、消費されていっているのだ。
はるかは、その光景を見て、胸が引き裂かれそうになった。しかし、彼はぐっとこらえた。今、彼にできることは一つだけだ。
彼は、一歩前に出て、その透けかけた手をそっと握り、ぎゅっと一握りした。たまの手は、冷たかった。彼は、彼女の目をじっと見つめ、深くうなずいた。
それから、彼は振り返り、巨大な石碑に、両手を押し当てた。
世界が、飲み込まれた。
意識が、漆黒の、感情の海に投げ込まれる。前回の、あのヴァイオリニストの絶望や、兵士の無念などとは、ケタが違う。ここにあるのは、数百年分の、無数の人生の、最悪の瞬間が、澱のように堆積し、腐敗し、増幅し合った、苦痛そのものの集合体だ。
視覚はない。聴覚もない。あるのは、ただ、『痛い』『苦しい』『嫌だ』『死にたい』『許せない』『憎い』『哀しい』――そうした、原初のネガティブな感情が、無秩序に渦巻き、咆哮し、彼の魂を引き裂き、同化させようとする圧倒的な“流れ”だけだ。
はるかの自我は、一瞬で粉々にされそうになる。思考がかき消される。自分が誰なのか、なぜここにいるのか、さえもわからなくなる。ただ、溺れ、もがき、苦しむだけ。
(……た……ま……)
彼の意識の、ごく奥底で、かすかな灯りが揺らめく。
その時、視界——いや、意識の中に、鮮明な光景が浮かび上がった。
錨1:事務所のしゃぶしゃぶ
蒸気の立つ鍋。ことりの「お肉、まだー?」という明るい声。大輔の「はるか、もっとつけだれよこせや」という関西弁。そして、たまが、豆腐を箸でつつきながら、淡々と「豆腐のたんぱく質凝固には、温度と時間が重要です。今の状態が最も理想的です」と分析する横顔。
ぽかぽかとした暖かさ。しょうゆとだしの香り。くだらない会話。彼の左手の、包帯の下の業痕の疼きさえ、この瞬間は、どこか遠くのものに感じられる。
(……ああ……ここ……あったかい……)
(……帰らなきゃ……)
意識の破片が、かすかに、自分を引き留める。
流れは、容赦なく彼を引きずり込もうとする。より深く、より暗い底へ。彼の体(意識体)に、無数の黒い手がまとわりつき、引きずり下ろす。
錨2:祭りの人混み、繋いだ手
騒がしい祭り囃子。色とりどりの提灯。そして、彼の掌に収まった、たまの細く、冷たい手首。彼女が振り向いた時の、かすかに赤らんだ頬。そして、夜空に咲く大輪の花火。その轟音の中で、彼女の目に、一瞬、煌めいた、涙のような光。
手のひらの温もり。彼女の髪のほのかな香り。あの一瞬の、誰にも邪魔されない近さ。
(……彼女が……待ってる……)
(……帰る……約束……)
もう一つの自我の断片が、光る。流れに抵抗する。
深みは、さらに深い。ここには、個々の感情さえない。ただ、一切の希望を否定する、絶対的な闇と虚無があった。ここに落ちれば、二度と、何も感じられなくなる。自我すら消える。
その時、最後の、そして最も強烈な光景が炸裂した。
錨3:観覧車、夕日と口づけ
ゴンドラの中の、オレンジ色の柔らかな光。彼の肩に、そっと寄りかかるたまの重み。彼女の、眠ったふりをしている、長い睫毛。そして、彼が恐る恐る彼女の額に触れた、あの一瞬の、震える唇の感触。彼女の、ほんのりと力を込めて握り返した指先。
あの時の、胸が張り裂けそうなほど愛おしい気持ち。守りたい、このまま永遠にいたい、でも、どうしようもなく過ぎ去っていく時間への焦り。それら全てが、一つの純粋な想いとなって、闇を切り裂く。
(……愛してる)
(彼女を……愛してる)
(だから……絶対に……戻る!)
“錨”が、三つ。彼の自我を、かろうじて、この狂った流れの中に留めとどめる。
はるかは、流されるのをやめた。そして、逆に、自らの意識を、流れの根源へと、遡り始めた。波に逆らう魚のように。無数の苦痛の記憶をかき分け、より古く、より濃厚なものへ、と。
彼は、探していた。この“奔流”を最初に生み出した、あるいは決定的に膨張させた、“最初の業” を。それを“理解”しなければ、この全てを“送る”ことなど、夢のまた夢だ。
時間の感覚はない。十年かもしれない。一瞬かもしれない。彼は、歴史の沈殿層を掘り進むように、深く、深く潜っていった。
そして、ついに、触れた。
それは、あまりに巨大で、あまりに重苦しい、一つの塊だった。
核心:将軍の無念
視界(共感)が開ける。戦場だ。燃えさかる城。逃げ惑う民の悲鳴。そして、鎧に身を包み、しかし刀を失い、膝をついた一人の武将。彼の目の前では、敵兵が非道の限りを尽くしている。彼は、指の一本さえ動かせない。力尽き、傷つき、しかし、何よりも、無力感に打ちのめされている。
『なぜ……守れなかった……』
『なぜ……俺は……こんなに……弱い……』
『この国……民……平穏に……暮らさせてやりたかった……』
『叶わぬか……叶わぬのか……!』
その武将の、国を想うゆえの責任感、そして、それがためにすべてを失った絶望と無力感、そして、叶わぬ太平への歪んだ渴望——それらが、この戦乱の時代に散った無数の兵士や民衆の怨念や悲嘆と共鳴し、雪だるま式に膨れ上がり、やがて、この土地に最初の巨大な“業の淀み”を形成した。その後の災害や戦乱による“業”が、そこに引き寄せられ、堆積し、百年ごとに暴れ出す“奔流”の核となったのだ。
はるかは、その武将の記憶に触れた。守りたかったという思い。その無念。それは、はるか自身が、たまを守れないかもしれないという無力感と、深く通じるものだった。
(……わかる……)
(お前の気持ち……痛いほど……わかる……)
彼は、その“核”に、理解と哀悼の念を送ろうとする。しかし、それはあまりに巨大で、固く閉ざされている。
その時——
キィィィイン……!
現実の世界で、たまの張った巨大結界が、耐えきれない軋み音をあげた。
ことりの浄化圏が、激しく揺らいでいた。
呪い師が、主力を彼女に向けていた。内側の二人を止めるには、この“浄化装置”を破壊するのが早道だ。化物の大群と術者たちが、ことりの結界を執拗に攻撃する。光の半球に、無数のひびが走る。
「がっ……!?」
ことりが、ついに膝をついた。鼻と口から、さらなる鮮血が噴き出る。視界が真っ白になる。耳鳴りがする。もう、限界……。
「こらああ! てめえら、小娘いじめてんじゃねえーっ!」
大輔が、渾身の力でバットを振るい、ことりに迫る一匹の化物の頭を叩き割る。しかし、その隙に、背後から敵術者の放った呪詛の刃が、彼の背中に深々と食い込む。
「ぐはっ!?」
大輔が、前方によろめく。血が口から溢れる。それでも、彼は倒れず、ぐるりと振り返り、にやりと血塗れの笑みを浮かべる。
「ちっ……そんなもんか……ことり……しっかり……しろ……!」
ことりは、かすんだ視界で、大輔の背中の傷を見た。そして、内側の、石碑の前の二人を見た。
(だめ……絶対……だめ……!)
彼女は、うめき声を上げながら、もう一度、全身の力を振り絞って立ち上がろうとした。
結界の中、たまの透明化は、肩から胸へ、そしてみぞおちあたりまで広がっていた。彼女の下半身はまだかすかに輪郭を保っているが、上半身は、夕日を透かしたガラスのように、ぼんやりと透けている。結界を維持する光の紋様は、まだ美しく輝いているが、ところどころに、ちらりと黒いひびが走り、すぐに修復される。修復のたびに、たまの体の透明化が、ほんの少しだけ、確実に進行する。
彼女は、はるかが石碑に触れたまま、深い共感の淵にいるのを見ていた。彼の表情は苦悶に歪み、全身の業痕が不気味に脈打っている。彼は、苦しんでいる。限界近くまで。
そして、彼女は、結界の外側、ことりが七つの穴から血を流しながら踏みとどまり、大輔が傷だらけで戦い、仲間たちが倒れていくのを見ていた。
全てが、限界に近づいていた。
たまの目に、深い悲しみと、そして、それ以上の覚悟が静かに灯った。彼女は、そっとはるかの背中を見つめ、ごく軽く、唇を動かした。声には出さない。
『ごめんね、はるか』
そして、彼女は、結界を維持したまま、さらに一段階、自らの“存在”そのものを結界の強化に注ぎ込む準備を、心の中で整え始めた。彼女の時間は、もう、ほんの少ししか残されていない。
その時——
パキィィィ……!
たまの結界の、石碑に最も近い一点で、はっきりと、亀裂の入る音がした。
その裂け目から、漆黒の、粘り気のある“業”の触手が、ゆっくりと、しかし確実に、結界の内側へと、這い入り始めた。




