鏡の中の貴族令嬢
午前の「七星堂」には、柔らかい日差しが差し込んでいた。
第一章の雨の夜とは打って変わり、窓ガラスを通した光が、事務所内に浮遊する塵をきらきらと照らし出している。はるかは作業台の前に座り、昨日処理した懐中時計のケース記録を整理していた。ペンが紙を走る音、時折ページをめくる音だけが、静けさを破る。
左手の包帯は新しいものに替えられている。下から透ける灰色の痕は、昨日よりほんの少し濃くなっているようにも見えるが、彼は気に留める様子もない。
その時、ドアが力任せに開かれた。
「おーい、はるか! ええ仕事来たで!」
雷のような関西弁が、静かな空間をぶち破る。
現れたのは、四十代半ばくらいの男だった。派手なアロハシャツにだらしなく裾の垂れたチノパン。口元には楊枝をくわえ、こめかみ近くまで伸びた髪を無造作に後ろで束ねている。顔つきはどこか飄々としているが、目だけは鋭く、一瞬で部屋全体を見渡した。
剣崎大輔。この界隈ではそこそこ名の知れた“情報屋”であり、時には“仲介人”でもある。
「金もっさりや!」大輔はにんまりと笑い、風呂敷包みをドンと作業台の上に置いた。「……ま、ちょっとばかりややこしいけどな!」
はるかはそっと息をついた。彼の来訪は、いつもこうだ。静けさと唐突さと、少なからぬ面倒事をセットにして。
「何ですか、それ」
「これや、これ」大輔は風呂敷を解き始める。中から現れたのは、一つの化粧鏡だった。
鏡は十九世紀末の欧風のものらしい。銀細工の縁取りには蔦の模様が彫られ、ところどころに小さなルビーが埋め込まれている。だが、鏡面に一本、鋭く不規則な亀裂が走っていた。その裂け目から、まるで冷気のような、目に見えぬ不気味な“何か”がじんわりと漂っているのが、はるかには感じ取れた。
「どないしたんですか」
「あのな、はるか」大輔は楊枝を弄びながら、身を乗り出した。「知ってるやろ、郊外のあのボロ屋敷、戦前の華族の別荘やったとこ。そこの持ち主が最近、これを倉庫から引っ張り出したんや。そしたらな、家族中が同じ夢を見るようになったいうねん」
「夢?」
「うん。派手な舞踏会で、めっちゃ美人やった娘が、突然誰かに顔を切り裂かれる夢や。で、その娘が血だらけの手でこの鏡を持って、自分の喉を……げっ、思い出すだけで鳥肌立つわ」
大輔は大袈裟に体を震わせた。だが、その目は一瞬も鏡から離れていない。
はるかは白手袋をはめ、鏡を慎重に手に取った。触れた瞬間、指先にジーンと冷たい疼きが走る。懐中時計の時の“寂しさ”や“無念”とは違う。これはもっと鋭く、ねちっこく、他者を引きずり込みたいという強い悪意に満ちている。
『嫉妬』と『怨恨』の業。濃厚で、古く、そして危険だ。
「持ち主は、とっとと処分したいらしい。でも、普通に捨てるのも怖いし、売るにも気味が悪い。で、わしのところに話が回ってきてん。はるかやったら、何とかなるやろ? 金はちゃんと出すさかい」
はるかは鏡をそっと置き、目を閉じた。左手の業痕が、鏡の冷気に反応して微かに熱を持った。危険だ。昨日の仕事の疲れもまだ残っている。断る理由はいくらでもある。
けれど。
「……わかりました」
彼は目を開け、大輔を見た。
「やるってか? ええ子や、はるか!」大輔は満面の笑みを浮かべ、はるかの肩をバンバンと叩いた。「ほな、頼んだで! 詳細は後で書面で送るわ!」
大輔が去った後、事務所は再び静けさに包まれた。はるかは机の上の鏡をじっと見つめ、そっと息を吐いた。今日も、誰かの“声”に耳を傾ける日が始まる。
準備はいつも通りだ。手袋。深呼吸。周囲への影響を最小限にするための簡易な結界の印——彼の場合は、机の四隅に置いた四つの古銭だ。
鏡に向かい、目を閉じる。左目尻に、かすかな灰色の筋が浮かぶ。
指先が、冷たい鏡面に触れる。
——瞬間、世界が変わった。
優雅なワルツの調べ。煌びやかなシャンデリアの光。絹のドレスの裾が舞い、香水の甘い匂い。華やいだ舞踏会の只中に、彼はいた。いや、彼女の視点でいた。
エミリ。十八歳。この土地で最も美貌を謳われた貴族の令嬢。今夜も、彼女は舞踏会の花だった。紳士たちの熱い視線。女友達の、笑顔の裏に隠されたねたみ。すべてが彼女の栄養だった。鏡に映る自分が、何より美しい。
そして、あの瞬間。
ダンスの最中、何者かが背後から近づき、「その顔、大嫌いだ」と囁く。次の瞬間、顔面に鋭い衝撃! 視界が真っ赤に染まる。悲鳴。転がる自分の体。そして、割れたシャンデリアの破片の中に、血まみれで、恐ろしく歪んだ自分の顔が映っている。
『誰が……? 誰があたしの顔を……!』
痛みよりも、怒りよりも、美しかった自分を奪われたことへの絶望的な憎悪が、魂を焼き尽くす。
彼女は這いずり、割れた鏡の破片を一片、手にした。その鋭利な先端を、自分の喉元に当てる。
『みんな……あたしを……笑ってる……』
『許さない……絶対に許さない……』
『誰も……あんなふうに……幸せそうに笑ってるの……見たくない……』
プシュッ。鈍い音。温かい液体が首から溢れる。視界が暗転する。
最後に映ったのは、鏡の破片に映る、自分だけが笑っていない、歪んだ世界だった。
現実に戻る。いや、戻ろうとする。
だが、戻れない。
作業台の上にあるはずの鏡が、はるかの目の前に、巨大に、歪んで映っている。鏡の中に映るのは、彼自身の顔だ。だが、その顔の皮膚が、じわじわと剥がれていく。額から、頬から、あごから——皮下組織がむき出しになり、血がしたたり落ちる。痛い。実際に皮膚が引き裂かれるような、生々しい痛みが脳を貫く!
「ぐ……っ!」
彼は呻き声を押し殺す。幻覚だ。エミリの“見たくない”という強い感情が、彼の知覚を侵食し、自分の破滅を映し出させている。
鏡の亀裂から、漆黒の霧が湧き上がる。それは“嫉妬”と“恨み”の業そのものが形を成したものだ。霧は蛇のようにうねり、はるかの腕に巻き付く。触れた部分の皮膚がヒリヒリと焼け、左手の業痕が、昨日より明らかに濃い灰色に変わり、じわりと手首の方向へと広がっていく。
部屋の光が歪む。シャンデリアの光のようにちらちらと揺らめき、影が不気味に伸び縮みする。鏡の中から、女性の高笑いが響く。鋭く、狂気を帯びた笑い声が、頭蓋骨の内側で反響する。
『誰も……美しいままでいちゃダメ……!』
『一緒に……醜くなろう……!』
エミリの怨念が、彼の精神防壁を押しつぶそうとする。心臓が狂ったように鼓動する。呼吸が浅くなる。このままでは、彼自身が鏡の中の悪夢に引きずり込まれてしまう。
ダメだ。落ち着け。感情に飲まれるな。彼女が見たかったものは……美しい自分。奪われる前の、祝福に満ちた瞬間……
はるかは歯を食いしばり、激しい痛みと精神的圧迫を無視し、記憶の流れを強引に逆行させる。舞踏会の華やかさを、嫉妬の視線を、傷つけられた瞬間を——すべて飛び越えて、もっと前へ。鏡がまだ完璧で、彼女のすべてを祝福していた頃へ。
贈り物として父から渡された鏡を、初めて手にした朝。
晴れ着を着て、うれしそうに鏡の前に立つ、まだ何も傷ついていない十四歳のエミリ。鏡に映る自分に、照れくさそうに微笑みかける。
『私……きれい?』
誰にも聞こえない呟き。希望に満ちた、無邪気な問いかけ。
「……きれいですよ」
はるかが、血の気の引いた唇で、そう囁いた。
その瞬間、鏡から湧き出る黒い霧の動きが止まった。巻き付いていた腕から、霧がゆっくりとほどけていく。鏡の中の、皮膚の剥がれた自分の幻も、パリッと割れたガラスのように散り散りになる。
代わりに、鏡面に、あの十四歳のエミリの、恥ずかしそうに頬を染めた笑顔が、ほのかな光を放ちながら浮かび上がった。
エミリは、つぶらな瞳ではるか(あるいは、鏡の向こうの誰か)を見つめ、ほんの一瞬、笑みを深くした。
そして、光もろとも、ぱっと消えた。
静けさが戻ってきた。
歪んでいた光は普通の朝日になり、鏡はただの古びた美術品として、無言で机の上に横たわっている。亀裂はそのままだが、先ほどの不気味なオーラは完全に消え失せていた。
はるかは椅子にもたれかかり、肩で息をしていた。額には脂汗がにじみ、手袋を外した右手は微かに震えている。左腕は、業痕の拡大による灼熱感と、エミリの怨念に触れた反動かのような深い疲労に襲われ、重く痺れていた。
ドアが再び開き、大輔が顔を覗かせた。どうやら、近くで成り行きを見守っていたらしい。
「……終わったか? はるか」
はるかはうなずくだけで精一杯だった。
大輔が中に入り、鏡をちらりと見て、満足そうに頷く。「ええ仕事や! さすがやな、はるか」
彼の視線が、はるかの左手に止まった。袖の隙間から覗く、濃灰色に変わり、明らかに範囲を広げた業痕を、しっかりと見つめている。
「……でもな」大輔の関西弁に、いつもの軽薄さが消えていた。「お前の手、大丈夫か?」
はるかはゆっくりと左手を上げ、袖をずるりと下ろして、痕を隠した。顔を上げ、大輔を見つめる。彼の目は依然として虚ろで、深い疲労に沈んでいた。
「……ええ」
声はかすれている。
大輔はしばらく黙って彼を見つめ、やがて、ため息とも笑いともつかない音を鼻から漏らした。ポケットから封筒を取り出し、机の上に置く。
「ほな、これが報酬や。依頼主には、きれいさっぱり綺麗になったって伝えとくわ」
彼はドアに向かって歩き出し、振り返らずに手を挙げた。
「また頼むわ、はるか。無理するなよ?」
ドアが閉まる。大輔の口笛が、廊下で次第に遠ざかっていく。
はるかはただ一人、机の上の鏡と、自分の袖に隠された左手を、交互に見つめていた。朝日が彼の無表情な横顔を照らし、長い睫毛の下に、深い影を落としている。
新しい業痕が、皮膚の下で、鈍く疼いていた。




