最終決戦前夜・事務所の炎
深夜の「七星堂」を、不気味な静寂が包んでいた。
大輔は、明日の決戦に備え、旧知の術者や情報屋たちと最後の連絡を取るために外出したままだった。残った三人は、それぞれの部屋で、明日への、あるいは明日以降のない未来への思いを馳せながら、かろうじて平穏な時間を過ごしていた。
その平穏を、破裂するように打ち砕く、鈍い衝撃音とともに、すべては始まった。
窓ガラスが一斉に粉々に散る。玄関ドアがねじくれるように吹き飛び、木片が室内に降り注ぐ。同時に、冷たく粘り気のある、強烈な悪意と、増幅された苦痛の気配が、怒涛のように事務所内に流れ込んできた。
「なっ……!?」
階下のソファで仮眠をとっていたことりが飛び起きる。彼女の目の前で、壁に掛かった絵ががたがたと震え、床に落ちる。
たまの部屋のドアが勢いよく開いた。彼女は、外出着のまま、髪を慌てて後ろで束ねている。その目は、侵入してくる邪悪な気配を一瞬で見定め、鋭く光る。
「結界! ことり、今!」
ことりの体が、思考よりも先に動いた。ここ数日、たまから叩き込まれた基礎的な防御結界の展開。彼女の小さな手が、震えながらも確かな軌道を描く。薄っすらと、乳白色の光の膜が、事務所の中心部を覆い始める。雑だが、とにかく壁を作る。
はるかも、階段を駆け下りてきた。彼の右半身の業痕が、流入してくる邪悪な気配に反応して、うずくように疼いている。顔は引き締まり、目の奥に警戒の色が濃い。
外には、十数人の影が立っていた。中心にいるのは、あの痩せこけた、不気味な笑みを浮かべた呪い師だ。彼の周りには、ぼろぼろの法衣をまとった者、目つきの悪い者、あるいは、人間の形をしていながらもどこか歪んだ、おそらく“業”に深く侵された者たちがいた。そして、彼らの足元や背後には、闇が蠢く。“苦痛の業”を無理やり形にした、歪な化物たちが、無声のうめき声を上げている。
「夜遅くにごめんね、お隣さん」呪い師が、芝居がかったように頭をかく。「でも、明日の大事な“儀式”の前に、ちょっとした……“お邪魔虫”を掃除しておきたくてね」
彼の目が、たまにはっきりと向けられる。
「巫女さん。あなたの“最後の舞”は、あの“封印”の地で華々しく披露してもらう。それまでの間は、ちょっとおとなしくしていてほしいんだ。というか……もう動けなくしてしまおうか」
はるかが、たまの前に一歩踏み出した。彼の目は、呪い師を、冷たい怒りでにらみつけている。
「通さない」
「おや、傷だらけの“送り人”さんか」呪い師は、はるかの右半身の醜い業痕を見て、けらけらと笑った。「前回の“餌”、美味しかったか? あれを全部飲み込んで、まだ自我を保っているとは……なかなかやるじゃないか。でも、今日はもっと……特別な“御馳走”を用意してきたぜ」
彼が手を上げる。背後にいた手下の一人が、数個の、不気味な暗紫色に光る結晶を取り出した。それらからは、前回よりもさらに濃厚で、混ざり合い、腐敗したような“苦痛”の気配が漂っている。様々な人間の、人生の最悪の瞬間が、無理やり圧縮、混合された、感情の炸裂物だ。
たまの目が見開かれた。「あれは……“業”の結晶を強制増幅させた……! はるか、離れて!」
遅すぎた。
呪い師が、その結晶を、たまめがけて、地面に叩きつけるように投げた。
結晶は空中で破裂した。目に見える爆風ではない。感情の衝撃波だ。無形の、しかし魂を直接ズタズタに引き裂く、怒り、絶望、憎悪、苦痛の奔流が、渦を巻きながらたまに襲いかかる。
「たま!!」
思考も戦術も、すべて吹き飛ぶ。はるかの体が、再び、反射的に動いた。横っ飛びに飛び出し、たまを覆うように彼女の前に立ちはだかる。そして、前回同様、いや、それ以上に無謀なことをした。
彼は、自分を、その感情の奔流を引き受けるただ一つの器に変えようとした。全身の共感能力を、限界を超えて解放する。右半身の業痕が、爆発的にうねり、光り始める。彼は、あの結晶の炸裂によって解き放たれた、無数の他人の苦痛の記憶を、無差別に、貪欲に、自分の内に吸い込もうとした。
「はるか! やめろ! 今回は量が――!」たまの絶叫。
彼の耳には届かない。
ドッ―――ン!!!
無音の爆発。はるかの体が、弓なりに反り返る。目を見開き、口を大きく開け、しかし声が出ない。代わりに、彼の皮膚の下を、無数の黒い筋が、うねる蛇のように駆け巡り始める。
右手から、右肩、右胸、そして、左半身へ。これまでとは比較にならない速度で、濃灰色、いや、漆黒に近い業痕が、彼の体を覆い尽くしていく。皮膚がひび割れ、その裂け目から、不気味な暗赤色の光が漏れ出す。まるで、体の内側で熔岩が沸き立っているようだ。
「ぐあああああああ―――っ!!!!」
ついに、喉が絞り出す、地獄の底から這い上がるような、人間の声とは思えない咆哮が、事務所中に響き渡った。
彼の目は、もはや人間のものではない。虚ろで、深い闇に覆われ、その奥で無数の苦悶の顔がちらついている。彼は、膝をつき、両手で頭を抱え、体を激しく震わせる。周囲の空気が歪み、机や本が無風に舞い上がる。彼の内側で、今、数百、いや数千の他人の最期の瞬間が、同時に再生され、暴れ狂っている。
暴走。
ことりの張った結界が、はるかから放たれる圧力の余波で、ぱりぱりと音を立ててひび割れていく。彼女の顔は恐怖に引きつり、涙が溢れる。「趙さん……!?」
たまの顔から、血の気が完全に引いた。彼女は、はるかの異様な姿を、一瞬、固まったように見つめていた。しかし、その目には、迷いはなかった。絶望も、動揺も、もうない。ただ、一つの決断だけが、冷たく燃えている。
彼女は、一歩、また一歩と、暴走するはるかの方へ歩み出した。彼から放たれる、魂を削るような“苦痛”のオーラが、彼女の肌をヒリヒリと焼く。髪の毛が逆立つ。それでも、彼女は歩みを止めない。
「たまさん! 近づいちゃダメ!」ことりが泣き叫ぶ。
たまは、その声にも耳を貸さない。彼女は、はるかのすぐ目前まで来て、立ち止まった。そして、両手を、ゆっくりと、しかし力強く掲げた。
彼女の目を、深い青白い光が覆う。口から、低く、速く、しかし一点の曇りもない呪文が流れ出す。それは、これまでとは全く次元の違う、神聖で、そして危険きわまる響きを持っていた。彼女の全身から、微かな光の粒子が噴き出し、彼女の周囲に複雑で巨大な紋様を描き始める。
最強の束縛結界。
その光の紋様が、はるかと、彼から漏れ出る暴走した“業”を、包み込むように収縮していく。まるで、光の檻を編み上げるように。
「ぐぐっ……!」たまの体が、激しく震える。結界が、内側からのはるかの暴走する力と、外側からの敵の攻撃(呪い師たちが、この隙に攻撃を仕掛けてきていた)の、二重の圧力にさらされている。彼女の顔は一気に青ざめ、額に血管が浮き出る。口元から、鮮血が一筋、あごを伝って落ちる。彼女の内臓が、限界を超えた負担に耐えきれず、損傷しているのだ。
それでも、彼女の足は、一ミリも後退しない。結界の光は、かすかにちらつくが、崩れない。彼女は、歯を食いしばり、唇から血を滴らせながら、ただ、はるかをその光の檻の中に封じ続けた。
敵の攻撃が、ことりの弱った結界を破り、一部がたまに直撃する。彼女の肩が裂け、血が飛ぶ。しかし、彼女は微動だにしない。まるで、痛みさえ感じていないかのように。
「この巫女め……!」呪い師が焦燥の声を上げる。彼の計画では、はるかの暴走で内部崩壊するはずだった。この巫女が、自分を犠牲にしてまで暴走を抑え込むとは。
ことりが、泣きながら、たまの結界を補強するように、自分に残されたわずかな浄化の力を注ぎ込む。白い光の粉が、たまの結界の亀裂をわずかに修復する。
その一瞬の隙に、たまが結界を、ほんの一瞬、一点に集中させ、はるかの暴走する力を、内側へ、内側へと押し戻す。
ぱちん! という、目に見えない糸が切れるような音。
はるかの咆哮が、急に止んだ。
彼の体が、ぐったりと床に崩れ落ちる。周囲にうねっていた黒い業痕の光は、収束し、彼の体に、より深く、より醜く刻み込まれる。彼は、もはや動かない。ただ、浅く、苦しそうな呼吸をしているだけだ。
たまの結界が、ぱっと消える。彼女もまた、力尽きてその場に膝をつく。口から、鮮血を吐く。視界が揺らぐ。しかし、彼女は、倒れたはるかの方へ、よろめきながらも這い寄る。
敵たちは、一瞬、状況を伺う。しかし、呪い師が不満そうに舌打ちをし、手を上げた。「今日はここまでにしよう。巫女も、“送り人”も、もう明日の役には立たん。さて、“本番”の準備をしなくてはな」
彼らは、暗闇の中に、ゆっくりと後退していく。蠢いていた“業”の化物たちも、霧散する。
事務所には、壊れた家具、散乱した本、割れたガラス、そして、傷つき倒れた二人と、震えながら立ち尽くす一人の少女だけが残された。
たまは、よろよろとはるかのそばまでたどり着き、ゆっくりと床に座り込んだ。彼女は、血と汗と埃にまみれ、顔に不自然な生気のないはるかの頭を、そっと、自分の膝の上に載せた。
彼の顔は、ひどいものだった。右半身はほぼ漆黒の業痕に覆われ、左半身にもそれが広がり始めている。皮膚はひび割れ、ところどころからかすかに黒い煙のようなものが立ち上っている。呼吸は浅く、時折、痙攣する。
たまの手が、震えながら、彼の頬の血と埃を拭おうとする。彼女の指も、冷たく、震えが止まらない。彼女の涙が、一粒、また一粒と、彼のひび割れた顔に落ち、そっと血の跡を薄めていく。
「……はる……か……?」
彼女の呼びかけに、はるかの睫毛が、かすかに動いた。そして、ひどくかすれた、息も絶え絶えの声で、彼が口を開く。
「……いくな……あした……お願い……だ……」
言葉は、途切れ途切れで、ほとんど意味をなしていない。しかし、たまには、彼が何を言おうとしているのか、痛いほどわかった。
彼女の涙が、さらに勢いを増してこぼれる。彼女は、深く息を吸い込み、彼の耳元に、かすかな声で語りかける。
「はるか……覚えてる? 初めて会った時……あなたは、この仕事は“寿命を削る”って言った」
はるかの目が、わずかに開く。焦点は合っていないが、たまの声を追おうとしている。
「……うん……」
たまの、血の気のない唇が、ほんのり震える。
「私……こう言った。“それなら……一緒に、削りましょう”って……」
彼女の声が、詰まる。思い出した。あの、彼女がまだ“普通”を演じ、距離を保とうとしていた頃の、冷たく計算高いふりをした、しかしどこか本心が滲み出ていた一言。
はるかの手が、わずかに動いた。彼は、たまの膝の上の布地を、かすかに、ぎゅっと握りしめようとする。力はほとんどない。
「……後悔……してる……」
彼の声は、苦しげに、しかし確かに続く。
「お前を……巻き込まなきゃ……よかった……」
その言葉が、たまの胸を、真っ二つに裂く。彼は、自分がこのように傷つき、苦しむことを、彼女のせいだと思っている。いや、彼女に出会い、彼女を愛し、彼女を守ろうとした、彼自身の選択を、後悔している。
たまは、ゆっくりとうつむいた。そして、彼の、乾き切った、血のついた唇に、自分の冷たい唇を重ねた。
それは、口づけというより、血と涙と、全ての未練を混ぜ合わせた、訣別の印だった。涙の塩味。血の鉄の味。そして、彼女の、深く、深い愛の、甘く痛い味。
ほんの一瞬、唇を離す。彼女は、はるかの、かすかに開いた目を、涙に曇った自らの目で見つめた。そして、彼女の口元に、あまりにも美しく、あまりにも儚く、そして、心の底から輝く笑みが浮かんだ。
「……後悔なんて……してない」
彼女の声は、涙声で震えているが、一つ一つの言葉に、揺るぎない確信が込められている。
「あなたに会えて……あなたを愛して……あなたと過ごせた、この時間……」
彼女は、そっとはるかの、わずかに力の込もった手を、自分の両手で包み込む。彼女の涙が、彼の手の甲に、ぽたり、ぽたりと落ちる。
「私の人生で……一番、幸せだった」
はるかの目に、一筋の涙が、ゆっくりと伝った。彼は、もう言葉を発することができない。ただ、彼女の手を、かすかに握り返すことしか。
たまは、彼の手を握ったまま、ゆっくりと、自分の額を、彼の熱く、ひび割れた額に、そっと寄せた。二人の涙が混ざり合う。
外は、まだ真っ暗だ。しかし、東の空の地平線の彼方に、ほんのりと、夜明け前の、かすかな灰色の光が、忍び寄り始めている。
壊れた事務所の中で、傷ついた巫女は、瀕死の“送り人”の頭を膝に載せ、彼の手を握り、額を寄せ合ったまま、静かに、最後の暗闇が明けるのを待ち続けていた。




