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残された声のゆくえ~最後の声、届けます~送り人、趙はるかの記録~  作者: 「大和 尚羅夢」小花羅夢一生推し


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遺言リスト・台所と家族写真

たまが台所の前に立ち、真新しいエプロンを着けている姿は、何とも言えず様にならなかった。普段は古籍や結界図を広げる机の上に、今はレシピ本と食材が並んでいる。彼女は、本に書かれた手順を、眉をひそめながら一字一句追っている。その真剣な顔は、難しい術式を解読している時と変わらない。

「まず、米一合を正確に計量……水加減は、“指の第一関節まで”……」彼女の呟きが、静かな台所に響く。「“第一関節”とは、具体的にどの指の、どの関節を指すのか。個人差を考慮すると、この指示は極めて曖昧だ」

はるかが、そっと台所に入ってきた。「手伝おうか?」

たまは、ちらりと彼を見て、きっぱりと首を振った。「不要です。これは、私が完了させるべき課題です」

彼女の“課題”は、すぐに混沌へと陥った。

フライパンに油を引く量が、彼女の計量スプーンによる“適量”では明らかに少なすぎ、卵を落とすとたちまちくっついた。焦げ臭い匂いが立ち込める中、彼女は冷静に分析する。「伝導熱に対する油の絶縁効果が不足していた。次の卵では、油の量を15ミリリットル増やす必要がある」

次は味噌汁。だしのパックを鍋に入れ、沸騰させ、味噌を溶かす。ところが、彼女が“少々”と解釈した味噌の量は、小さじ山盛り三杯分に達し、できあがった汁は濃厚というより、ほぼペーストに近い。

ご飯は、水加減の計算ミスか、芯が残るばかりかところどころ焦げており、炊飯器からは異様な香りが漂っていた。

台所は、もはや実験室の失敗現場のようだった。はるかは、入り口でただ立ち尽くし、手を出そうにも出せずにいた。ことりは、最初は興味津々で傍らにいたが、次第に表情が曇っていった。

「た、たまさん……その、味噌、入れすぎじゃ……?」

「レシピには“少々”とある。“少々”の定義は、一般的に親指と人差し指でつまんだ程度とされるが、味噌の粘性と密度を考慮すると、体積換算では——」

「あ、もう、いいから! とりあえず、食べてみようよ!」

ことりが、半ば強引に、出来上がった(と言えるかどうか怪しい)料理を、ちゃぶ台に運んだ。

三人が着席し、目の前に並べられたのは、色も形も香りも、どこをとっても“普通”とは程遠い食事だった。焦げ目がついた玉子焼き。芯のあるご飯。濃厚すぎる味噌汁。

沈黙が流れた。

ことりは、一番に箸を伸ばした。彼女は、ほんの少しの玉子焼きを口に運んだ。咀嚼。そして、彼女の目が、一瞬見開かれた。顔がじわっと赤くなる。明らかに、塩辛い。

しかし、彼女はごくりと飲み込み、涙目で、無理やり最高の笑顔を作った。

「……お、おいしい! これ、たまさんの味!」

その言葉に、たまはぱちりと瞬きした。彼女は、無言で、自分の作った玉子焼きを一口食べた。咀嚼すると同時に、彼女の眉が強くひそまった。

「……不味い」彼女の分析は、冷酷に正確だった。「塩分濃度が基準値を明らかに超過している。加熱時間の調整も誤りで、タンパク質の変性が不均一だ」

彼女は、箸を置き、うつむいた。その肩が、かすかに落ちているように見えた。これほどまでに真剣に取り組み、計算し、実行した“課題”が、このありさまだ。彼女の完璧主義的な性格にとって、これは小さな敗北ではなかった。

その時、はるかが、黙って自分の皿に玉子焼きとご飯をよそい、味噌汁を一口すすった。彼は、表情一つ変えず、咀嚼し、飲み込んだ。そして、また一口。

たまが、そっと顔を上げ、彼を見た。

はるかは、彼女の目を見ず、ただ淡々と食べ続ける。焦げた部分も、生の部分も、塩辛すぎる部分も、全て。彼の食べ方は、速くも遅くもない。ただ、確実に、一皿を平らげていく。

最後の一口を食べ終え、彼は箸を置き、ようやくたまの方を見た。

「……まずくない」彼の声は、低く、かすれていた。

たまは、きょとんとした表情で彼を見つめた。

はるかは、空になった自分の茶碗を、そっと示した。

「……温かいんだ」

それだけ言うと、彼は立ち上がり、自分の使った食器を流し台へ運び始めた。

たまは、ただ、そこに座っていた。彼女の胸のあたりが、急に、熱く、ぎゅっと締め付けられるような感覚に襲われた。目の前の、ひどい料理。ことりの、無理やりな笑顔。そして、はるかの、一言の感想。

『温かいんだ』

彼女は、うつむき、自分の茶碗を抱えるようにして、静かにご飯を一口、また一口と口に運んだ。確かに、まずい。味のバランスはめちゃくちゃだ。でも……確かに、温かい。炊きたてのご飯の、ほんのりとした湯気。味噌汁の、熱さ。そして、このちゃぶ台を囲む、三人の、ぎこちない空気そのものが、どこか……温かい。

彼女の目頭が、急に熱くなった。彼女は、必死にうつむき、ご飯を咀嚼し続けた。こみ上げてくる何かを、飲み込むように。

ことりは、はるかの後を追うようにして自分の皿を片付けに行き、背中を向けながら、そっと目尻を拭った。


食後の片付けを終え、ほっと一息ついた頃だった。

たまが、自分の部屋から、一つの古びた箱を取り出してきた。中から現れたのは、インスタントカメラ、いわゆる“チェキ”だった。白いプラスチック製の、何年も前のモデルだ。

彼女は、それをそっとテーブルの上に置き、はるかとことりを見た。

「……最後に、写真を撮りましょう。三人で」

その言葉は、あまりに自然に、あまりに穏やかに発せられた。だからこそ、「最後に」という一語が、部屋の中に、重く、深く沈み込んだ。

ことりの顔が、一瞬、強張った。彼女は、カメラを握る手に力を込め、それから、無理やり明るい声を出した。

「そ、そうだね! 記念写真! 撮ろう撮ろう! どこで撮る? 窓際? それとも、この本棚の前がいいかな! すごく“七星堂”って感じがするし!」

彼女の早口が、沈黙を埋めようと必死だった。

たまは、ちらりと背後の、天井まで届く古本棚を見上げ、微かにうなずいた。

「ここで、いいと思います」

三人は、本棚の前に立った。ことりが真ん中、はるかが左、たまが右。少し間隔を空けて、ぎこちなく並ぶ。

たまが、カメラをことりに渡し、自分でタイマーをセットする方法を説明する。ことりは、カメラを受け取り、三脚代わりに本棚の一段にそれを置き、タイマーを10秒にセットする。小さなランプが点滅し始める。

彼女は、慌てて自分の位置に戻る。

ピ、ピ、ピ……撮影の合図音。

(一枚目:ぎこちない並び)

三人は、カメラのレンズを見つめる。ことりは、大きくVサインを作り、歯を見せて笑っている。が、その笑顔の端が、わずかに引きつっている。はるかは、無表情に近いが、目元はいつもより柔らかく、レンズをまっすぐ見ている。たまは、はるかの横に、背筋を伸ばして立っている。彼女の表情は、いつもの無表情だが、口元がごくわずかに緩んでいるようにも見える。彼女の体が、ほんの少し、はるかの方へ、傾いているような気がする。

フラッシュが光り、一枚目が吐き出される。ことりがそれを拾い、手で仰いで現像を促す。

「もっといいの、撮ろうよ!」ことりが、突然声を上げた。彼女は、はるかとたまの間に割り込むようにして、二人を押し、押し、近づけようとする。「もっと近く! 家族なんだから、もっとくっついて!」

はるかは、少し戸惑ったようにたまを見た。たまは、一瞬目を伏せたが、抵抗はしなかった。

ことりの力任せの押しによって、二人の距離はぐっと縮まった。ことりが、はるかの腕を、そっと、たまの細い肩の上に回すように促す。はるかは、ためらいながらも、ゆっくりと、軽く、彼女の肩に腕を回した。その接触に、たまの体が、ほんのり、ぴくりと震えた。しかし、すぐに、彼女はその重みに身を任せ、ごく自然に、ほんの少しだけ、頭をはるかの肩に寄せた。

その瞬間、二人の顔に、自然な、深い安らぎに満ちた微笑みが浮かんだ。はるかの目は、たまの横顔を見下ろし、そこにはこれまでにない柔らかさがあった。たまは、レンズを見つめながらも、どこか遠くを見ているような、穏やかな表情だ。

ことりは、その光景を一瞬見つめ、胸が熱くなるのを感じた。そして、慌ててカメラのボタンを押す。

(二枚目:寄り添う笑顔)

フラッシュ。ことりが駆け寄り、吐き出された写真を拾い上げる。まだ真っ白だ。彼女は、それを大切に胸に抱え、手のひらであおぎながら、じっと見つめる。

ゆっくり、ゆっくりと、像が浮かび上がってくる。本棚を背景に、寄り添う二人。はるかの肩にかかるたま。そして、二人の、あまりにも自然で、幸福に満ちた笑顔。それは、これまでにことりが撮ったどんな写真よりも、一枚の絵画のように美しく、そして……痛いほど幸せそうだった。

彼女の目に、また涙がにじんだ。彼女は、ぱちぱちと瞬きしてそれをこらえ、にっこりと笑って写真をたまに差し出した。

「ほら! すっごく、いい写真! ばっちりだよ、たまさん!」

たまは、そっと写真を受け取った。彼女の目が、浮かび上がる像に釘付けになる。自分の、あんなに自然に笑っている顔。はるかの、あんなに優しい眼差し。そして、二人の、隙間のない距離。

彼女の指先が、写真の縁を、そっとなぞる。

「……ええ」彼女の声は、かすかに震えていた。「とても……いい写真です」

「でしょ? でしょ?」ことりは、嬉しそうに跳ねる。「たまさん、これ、大事に保管してね! 絶対になくしちゃダメだよ!」

たまは、静かにうなずき、その写真を、自分の胸のポケットに、そっとしまい込んだ。まるで、世界で一番大切な護符をしまうように。


その夜、たまの部屋。

彼女は、机の前に座り、鍵のかかった日記帳を開いている。ペンを手に、少し考え込んでから、書き始める。

X月X日 晴れ

遊園地に行った。観覧車の頂上で、彼が私の額に口づけした。私は眠ったふりをした。夕日が、とても温かかった。

料理を作ってみた。完全に失敗した。ことりは「たまさんの味だ」と言って泣いていた。はるかは「温かい」と言って、全部食べてくれた。私の心も……温かくて、そして、痛かった。

写真を撮った。とても自然に、笑えた。だって……本当に、幸せだったから。

幸せすぎて、もうすぐやってくる「さようなら」に、ほんの少しだけ、向き合う勇気が、湧いてくるくらいに。

彼女は、ペンを置き、ポケットからあのチェキの写真を取り出した。机の灯りの下で、写真の中の二人の笑顔が、柔らかく輝いている。

彼女は、そっと、写真の中のはるかの頰に、指で触れた。冷たい紙の感触。

そして、彼女は、写真を日記のページの間にそっと挟み、本を閉じた。鍵をかける。

ベッドに入り、灯りを消す。闇の中で、彼女は、ポケットの中の写真の存在を、そっと手で確かめた。

目を閉じると、今日一日の、色とりどりの記憶が、瞼の裏に浮かんでくる。焦げた卵の匂い。はるかの「温かい」という言葉。フラッシュの光。そして、肩に伝わった、あの確かな温もり。

彼女は、そっと唇を結び、深く息を吸い込んだ。

幸せとは、きっと、こういうものなのだろう。儚く、痛く、そして、何よりも温かいもの。

彼女は、その温かさを、しっかりと胸に抱きしめながら、ゆっくりと眠りについた。

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