遺言リスト・遊園地と観覧車
朝、いつもより少し早く、たまが階下のキッチンに降りてきた時、はるかとことりはもう朝食の準備をしていた。シリアルをボウルに入れる音。トーストが跳ね上がる音。平凡な、いつもの朝の音。
たまは、流し台のそばに立ち、窓の外の曇り空を少し見つめてから、静かに、しかしはっきりと言った。
「今日……遊園地に行きたいです」
コトン、とはるかが手に持ったスプーンが、ボウルの縁に当たる音。ことりが、牛乳パックを注ぐ手を止めた。
一瞬、重い沈黙が流れた。遊園地。その言葉は、あまりにも普通で、あまりにも“たまらしくなさ”すぎて、この重苦しい空気の中に、不自然なひび割れを作り出した。
はるかは、ゆっくりと顔を上げた。彼の目には、一瞬、理解しようとするもがきと、その後すぐに訪れた、深い苦痛がよぎった。彼女が“行きたい”と言う場所。それは、彼女がこれまでほとんど興味を示さなかった種類の場所だ。彼女の“遺言リスト”の、最初の項目なのか。それとも、ただの気まぐれか。
彼は、何も聞かなかった。ただ、ごくわずかにうなずいた。
「……あ、あたしも!」
ことりの声が、張り裂けそうに明るく跳ねた。彼女は、無理やり笑顔を作り、たまの方を見た。
「ずっと行きたかったんだよね、あの新しい遊園地! ねえ、三人で行こう! たまさん、何が乗りたい? 絶叫マシン? それとも、ゆっくり系?」
たまは、ことりの必死の明るさを一瞥し、それから、ごく自然に、冷蔵庫の牛乳の残量を確認するように目をやった。
「全てのアトラクションの種類と、その安全性、所要時間、混雑予想を考慮して、最適な巡回路線を立てる必要がありますね。まずは、園内マップを入手するところから始めましょう」
その口調は、まるで野外調査の準備をする学者のようだった。そこには、楽しみへの期待というより、実行すべき課題としての真剣さがあった。彼女が“普通の楽しみ”を、どれほど意識的に、努力して“体験”しようとしているのか。そのことが、はるかの胸に、鋭いナイフのように突き刺さった。
遊園地は、色と音の洪水だった。
ポップコーンの甘ったるい匂い。子どもたちの歓声。派手な音楽。キラキラと回るアトラクション。全てが、彼ら三人の内側に渦巻く静かな悲しみとは、対極にあるようだった。
ことりは、首からカメラを下げ、ファインダーを覗く時間がいつもより長かった。レンズ越しの世界は、少し距離を置いて見られる。感情を、一時的に、フレームの中に閉じ込められる。
(写真1:廻転木馬、光と影)
彼女は、メリーゴーラウンドの前で足を止めた。たまは、一頭の白馬を選び、優雅に跨った。はるかは、彼女のすぐ後ろの、漆黒の馬に乗った。音楽が流れ、木馬が上下に動き出す。ゆっくりと、陽だまりの中で。
たまは、前方を見つめていたが、カーブを曲がる時、ほんのわずかに、振り返った。ちょうどその瞬間、朝の弱い日差しが、メリーゴーラウンドの色とりどりのステンドグラスの屋根を透かし、彼女の肩と、ほんのりと振り向いた横顔に、きらきらと揺れる光の模様を落とした。
はるかは、その彼女の後ろ姿を見つめていた。その目には、いつもの虚ろさや悲しみはない。ただ、目の前にいる、光に包まれた彼女の一瞬を、貪るように見つめる、深く、優しい眼差しだけがあった。
ことりは、息を殺してシャッターを切った。その構図があまりにも絵画的で、あまりにも美しく、胸が締め付けられるほどだった。
(写真2:お化け屋敷、分析と笑い)
お化け屋敷の前では、たまが、入り口の看板に書かれた“絶叫度”と“脅威度”の指標を、真剣に分析していた。「“脅威度”が“中”とあるが、これはあくまで心理的効果を基準とした主観的評価でしょう。実際の物理的危険性は、“低”以下に分類されるべきです」
中に入ると、飛び出す仕掛けや、不気味な効果音が待ち受けていた。ことりは、お決まりの場所でわっと驚いてはるかにしがみつき(はるかはぎこちなく彼女を支えた)、次にたまの反応を見て、また笑いが込み上げた。
たまは、暗闇の中で、落ち着いた声で呟いていた。「この壁の質感、発泡スチロールに塗装を施したものですね。コストパフォーマンスに優れています」「このモアレ縞の効果、視覚に揺らぎを与えることで不安を増幅させる古典的ですが有効な手法です」
出口に出た時、ことりは、本当の、一瞬の笑いで涙を浮かべていた。はるかの顔は少し青ざめていた(彼は、生きた“業”よりも、こういう人工的な恐怖の方が苦手なのだ)。たまは、ぴんと張った髪を整えながら、「心理学とサウンドデザイン、照明技術の応用例として、興味深い施設でした」と、淡々と講評した。
彼女の、この“普通の楽しみ”を、学術的対象として真剣に体験し、分析する姿。それは、どこか滑稽でもあり、しかしそれ以上に、切なかった。彼女が、どれほど必死に、この“非日常”を、自分の人生の最後のページに、意味のあるデータ点として刻み込もうとしているのか。その努力そのものが、はるかにもことりにも、痛いほど伝わってくる。
ジェットコースターでは、たまが落下の瞬間に、ごくわずかに目を見開いた(驚きではなく、加速度の体感を分析しているように見えた)。的あてゲームでは、見事に一等賞の巨大なクマのぬいぐるむを獲得し、それを淡々とことりに渡した(ことりは、それを抱きしめ、また少し泣きそうになった)。綿あめを初めて口にし、あまりの甘さに眉をひそめながらも、最後まで食べ切った。
一日中、彼女は、“楽しむ”という行為そのものを、一つの課題のようにこなしていった。その真剣で、少しぎこちない様子が、はるかの胸を、優しく、そして容赦なく締め付けた。
夕暮れ時、彼らは最後に、巨大な観覧車の前で列に並んだ。
ことりは、二人が乗るゴンドラのドアが閉まる直前、にっこり笑って手を振った。「私、次のにするね! 絶景、楽しんでね!」その笑顔は、ぎりぎりまで維持された、完璧な演技だった。彼女は、すぐ後ろのゴンドラにひとりで乗り込んだ。
ドアが閉まり、ゆっくりと、観覧車は上昇を始める。
ゴンドラの中は、狭く、静かだった。外の賑やかな音は、厚いガラスで遮られ、かすかなざわめきに変わる。眼下には、遊園地のカラフルな灯りと、その向こうに広がる、夕焼けに染まる街の景色が、少しずつ広がっていく。
二人は並んで座り、窓の外を眺めていた。沈黙。しかし、それは気まずいものではなかった。ただ、言葉を超えた、重い、温かい、そして痛い何かが、狭い空間を満たしていた。
ゴンドラが、頂上に近づいた時、夕日が真正面から差し込み、内部を柔らかいオレンジ色に染めた。その時、ほんのわずかな、ゴンドラの揺れ。
たまの頭が、はるかの肩に、ごく自然に、しかしかすかに、寄りかかる。
はるかの体が、一瞬、こわばった。彼は、息を殺し、そちらを見た。たまの目は閉じられている。長い睫毛が、夕日に照らされて金色に縁取られている。呼吸は、ゆったりと、深い。まるで、疲れきって、眠ってしまったかのように。
彼女の体の重み。髪のほのかな香り。そして、彼女が、無意識に、彼のシャツの裾を、細い指で、かすかに掴んでいるの。
はるかの胸が、熱くなった。喉が詰まる。
彼は、ゆっくり、ゆっくりと、顔を下げた。そして、彼女の、涼しい額の上の、柔らかな黒髪に、震える唇をそっと触れさせた。
それは、口づけというより、触れることさえはばかられるものへの、畏敬の念に近い接触だった。一瞬だけ。あまりに軽く、儚く、しかし、その中には、彼の全ての未練、愛おしさ、守りきれない無念、そして、この一瞬を永遠に留めたいという願いが、込められていた。
たまの睫毛が、ほんのり、微かに震えた。しかし、目は開かなかった。呼吸のリズムも変わらない。ただ、彼のシャツの裾を掴む彼女の指先が、ほんの少しだけ、ぎゅっと、力を込めた。
彼女は、知っていた。眠っていない。ただ、この彼の、言葉にできない想いを、そっと、偽りの眠りの中で受け止めている。
一つ下のゴンドラ。
ことりは、窓際に座り、長い望遠レンズを、そっと上のゴンドラに向けていた。夕日が真正面から差し込む、絶好の逆光。ゴンドラの中の二人のシルエットが、くっきりと浮かび上がる。
ファインダーの中には、巨大な燃えるような夕日を背景に、寄り添い、そして、男が女の額にそっと唇を触れる、その一瞬のシルエットが収まっていた。それは、一枚の、あまりにも美しく、あまりにも悲しい、切り絵のような風景だった。
彼女の指が、シャッターボタンの上に置かれた。押せば、この一瞬は、デジタルのデータとして、永遠に(少なくとも、メモリが壊れるまで)残る。
彼女は、一瞬、目を閉じた。そして、ボタンを押した。
シャッター音。画像が保存される。
彼女は、その画像を、すぐに開いた。夕日に染まるシルエット。彼らだけの、誰にも邪魔されない、最後の瞬間。
彼女の親指が、削除ボタンの上をさまよった。この画像は、彼らだけのものだ。彼女が、こっそり盗み見、記録する権利はない。
……でも。
彼女の目に、また涙がにじんだ。でも、誰かが、覚えていなくては。この一瞬を。この、あまりにも儚い幸せを。たとえ、それが、彼ら自身の記憶から消え去る時が来ても。
彼女は、削除をキャンセルした。そして、メニューを開き、「ギャラリー」の中に、新しいフォルダを作った。名前は『大切なもの』。その中に、この一枚の画像を、そっと移した。そして、フォルダに、パスワードロックをかけた。
彼女は、カメラを膝の上に置き、窓の外の、もうほとんど地平線に沈みかけた夕日を見つめた。
観覧車は、ゆっくりと、地上へと降りていった。
ゴンドラが地上に着き、ドアが開いた。
たまは、ちょうどよい頃合いで、ゆっくりと目を開けた。はるかの肩から、自然に体を離す。彼女は、窓の外の、もう暗くなり始めた空と、点灯し始めた街の明かりを一瞥し、ごく自然に、小さな微笑みを浮かべた。
「……とても、きれいな景色でしたね」
彼女の声は、いつもと変わらない、穏やかで澄んだ響きだった。
はるかは、彼女の横顔を一瞬見つめ、それから、うつむくようにして、こくんと頷いた。
「……ああ」
ことりが、後ろのゴンドラから飛び出してきた。「ねえねえ、どうだった? 頂上、すごかったでしょう!?」
「ええ」たまが静かにうなずく。「視界、良好でした」
はるかは、何も言わず、二人の後ろから、ゆっくりと歩き出した。彼の肩には、たまのほんのわずかな重みと温もりが、まだ、かすかに残っているような気がした。そして、額に触れた彼女の髪の、さらりとした感触が。
遊園地のネオンが、完全に闇を切り裂き、彼らを照らし出した。笑い声と音楽が、再び、彼らの周りに溢れ返る。
今日という一日、この“普通の幸せ”という名の、痛くて儚い時間が、静かに終わろうとしていた。




