星空と、逃れられぬ約束
夜の屋上は、昼間の喧騒から切り離された、ひんやりと静かな空間だった。はるかは階段を上がり、重い鉄のドアを押し開けると、そこに、ひとりの人影を見つけた。
たまだ。彼女は屋上の縁に近い場所に座り、膝を抱え、ぼんやりと夜空を見上げていた。月はなく、都市の明かりに負けずに輝く、ごくわずかな星々だけが、彼女の肩に淡い光を振りかけている。風がそっと吹き、彼女の長い黒髪を揺らす。その背中は、いつも以上に小さく、脆く見えた。
はるかは、その姿を一瞬、ただ見つめていた。胸の奥で、今日一日、否、ここ数日、いや、彼女の記憶を知って以来ずっと燻り続けていた感情の塊が、熱く滾り上がるのを感じた。怒り。無力感。理解したいという欲求。そして、何よりも、彼女をこの場所から連れ出したいという、あまりに純粋で野蛮な衝動。
彼は、足を踏み出した。コンクリートの床を踏む音が、静寂の中に不自然に響く。
たまは、微かに、肩を動かした。気づいている。しかし、振り向かない。
はるかは、彼女のすぐ後ろまで来て、足を止めた。喉が渇いていた。握りしめた拳の爪が、手のひらに食い込む。
「……なぜ」
声は、ひび割れ、砂を嚙むようにかすれていた。
たまは、答えない。星を見つめたまま。
「なぜ……俺に、言わなかったんだ」
言葉が、少しずつ、熱を帯びていく。感情の蓋が、ゆるみ始める。
「全部……全部、自分の中で抱え込んで……あの連中が来るまで、一言も……俺が、お前の記憶を、あんな形で見るまで……!」
たまは、ごくわずかに、首を傾げた。それだけだ。
その無言の態度が、はるかの我慢の限界を超えた。
「たま!!」
彼は、思わず彼女の細い肩を掴み、無理やりこちらの方へ向けようとした。力の入れ方が荒く、たまが小さく息をのんだ。
彼女の顔が、ようやくはるかの目の前に現れた。月明かりの代わりに、遠くのネオンがぼんやりと照らすその顔は、驚くほど平静だった。しかし、その目は、はるかが見た記憶の中の、あの孤独な少女の目そのものだった。深く、静かで、そして、どこにも逃げ場のない諦念に満ちていた。
「言ったら、どうなるの?」
たまの声は、冷たかった。しかし、その冷たさの奥に、かすかな、かすかな震えがあった。
「あなたに、私の運命を話したところで……何が変わる?」
「変えられる!!」はるかの声が、夜の空に跳ね上がった。「お前を連れて、ここから逃げる! どこへでも! 誰にも見つからないところへ! 婁家も、封印も、全部、ぶっ壊して……!」
「はるか!!」
たまの、鋭く、しかし涙声に裂けた叫びが、はるかの言葉を遮った。
彼女は、はるかの掴む手を、思いきり振りほどいた。力いっぱいだった。そして、立ち上がり、はるかを、涙に曇った目で見下ろす。今までの平静な仮面は、完全に剥がれ落ちていた。彼女の顔は涙に濡れ、唇は震え、目は必死の訴えに満ちていた。
「目を覚ませ! お願い、はるか、目を覚まして!」
彼女の声は、叫びながらも、どこかで崩れ落ちそうだった。
「私が、どこに逃げられるっていうの!? この耳から、逃げられる!? この心から、逃げられる!?」
彼女は、自分のこめかみを、拳で強く叩いた。
「毎日、毎時間、毎分、毎秒、『聞こえて』くるんだから! 封印の向こうから、百年も積もり積もった、苦しみの悲鳴が! 封印が緩んで、またあちこちに滲み出してくる『業』の中の、泣き叫ぶ声が!」
大粒の涙が、彼女の頬を次々と伝い落ちる。彼女は、それさえ拭おうとしない。
「聞こえないふりが、できると思う!? あなたみたいに、目の前の一つ、二つの『声』を送り届けて、その後ろに押し寄せてくる滔天の『洪水』から、目を背けることが、私にできると!?」
その言葉が、はるかに、鋭く突き刺さった。彼の仕事——それは確かに、目の前の、出会った“声”にだけ向き合うものだ。より大きな、世界を飲み込むような“業”の存在を、彼は知りながらも、それと正面から対峙する術を持たない。いや、持とうとすらしてこなかった。
たまは、一歩前に踏み出し、はるかの胸を、小さい拳で押しつけるようにして、訴えかける。
「私が逃げたら……あの声たちは、どうなる!? 封印が崩れたら、そこから溢れ出る『業』に飲み込まれて、何も知らない、何も聞こえない、普通の人たちが、何千、何万と死ぬかもしれないのに!」
彼女の声は、今や、泣き叫びに近かった。これまで押し殺してきた全ての恐怖、孤独、責任感、そして、ほんのわずかでもあったかもしれない“逃げたい”という思いが、一気に噴出していた。
「はるか! 私に、答えをちょうだい! 私……逃げていいの!? 聞こえるのに、聞かなかったことにしていいの!? 助けを求めている声に、背を向けていいの!? あなたが、そうしろって言うの!?」
最後の一言は、ほとんど絶叫だった。そして、その叫びとともに、彼女の力は尽きた。彼女は、その場にうずくまるようにして、肩を激しく震わせ、声を上げて泣き始めた。もう、言葉にならない。ただ、長い間、一人で背負い続けてきた、あまりに重い現実の前に、打ちのめされている。
はるかは、ただ、立ち尽くしていた。
彼の怒り。彼の無力感。彼の、彼女を連れ去りたいという野蛮な願い。すべてが、彼女の涙と、彼女の絶叫の前に、木っ端微塵に砕け散った。
彼は、やっと理解した。彼女が逃げられないのは、責任という観念のためではない。呪いや運命のためでもない。
ただ、彼女が、あまりにも“優しすぎる”耳を持って生まれてしまったからだ。
彼女は、はるか以上に、深く、広く、多くの“声”を聴いてしまう。そして、聴いてしまった以上、彼女の“優しさ”が、それを見捨てることを許さない。彼女の心そのものが、彼女を、あの“奔流”の前へと駆り立てる。
それは、はるかが、目の前の悲鳴に耳を傾けずにはいられないのと、根本的には同じ原理だ。ただ、その規模が、ケタ違いに大きすぎる。
理解が、深い絶望に変わった。彼は、彼女を救えない。彼女の耳を塞ぐことも、彼女の心を無情にすることもできない。彼にできることなど、何一つない。
膝から力が抜ける。彼は、その場に、ひざまずいた。コンクリートの冷たさが、ズボンの生地を通して伝わってくる。
彼は、うつむき、震える手を伸ばした。そして、泣きじゃくるたまの、震える肩に、そっと触れた。
彼女の体が、ぴくりと震えた。しかし、避けなかった。
はるかは、その手で、ゆっくりと、彼女を自分の方へと引き寄せた。最初はわずかに抵抗したが、すぐに力が抜ける。彼は、彼女の細く、冷たい体を、しっかりと、しかし優しく、腕の中に抱きしめた。彼女の涙が、彼の首筋に、熱く染み込む。
彼女は、その胸の中で、幼子のように、声を押し殺して泣き続けた。肩の震えが、はるかの体に直接伝わってくる。
長い時間、ただ、抱き合っていた。星が、少しずつ位置を変えていく。
やがて、たまの泣き声が、かすかな啜り泣きに変わり、そして、静かになった。彼女は、はるかの胸に顔を埋めたまま、微かに震えている。
はるかは、目を閉じた。そして、ごく低い、かすれた声で、彼女の耳元に囁いた。
「……ごめん……な……」
言葉が、喉でつかえる。彼もまた、目頭が熱い。
「……もっと、早く……気づけばよかった……」
彼は、彼女の背中を、そっと撫でる。子供をあやすように。
「……だから……約束してくれ」
彼の声には、今までの怒りや焦りはなかった。ただ、深い悲しみと、揺るぎない決意が込められている。
「もう、一人で背負うな。全部、俺に話せ。最後まで……一秒たりとも、俺から離れるな」
彼は、彼女を、ほんの少しだけ、強く抱きしめた。
「これが……約束だ。たま」
たまは、はるかの胸の中で、かすかに、しかし確かに、うなずいた。彼女の涙が、また新しいものを生み出し、はるかのシャツを濡らす。しかし、それは、さっきまでの絶望的な泣き声とは、少し違うものに聞こえた。どこか、ほんのわずかだが、安堵が混ざっているように。
その時、夜空の一角に、一筋の光が走った。
流れ星だ。短く、鮮やかに、そしてあっという間に、闇の中に消えていった。
屋上の下、事務所の裏口の、冷たいコンクリートの階段に、一人の少女が腰を下ろしていた。小鳥遊ことりだ。彼女は、膝を抱え、上を見上げていた。屋上から漏れ聞こえる、かすかな泣き声、叫び声、そして、今はもう静かな、重苦しい沈黙。
彼女の頬も、涙で濡れていた。手で拭っても、拭っても、新しい涙が溢れてくる。
彼女の目に、あの流れ星が映った。きらりと一瞬輝き、消える。
彼女は、ごく小さな声で、独り言のように呟いた。
「ほら……たまさん、はるか……」
声は、涙声で震えている。
「星まで……二人の……見送りを……してくれてる……」
彼女は、そっと目を閉じた。そして、また開ける。涙が、ぽたりと膝の上に落ちる。
「……ごめんね……」
それは、誰に言っているのか、彼女自身もよくわからない。たまさんに。はるかに。自分に。あるいは、このまま何もできない無力な自分自身に。
「やっぱり……私、何もできないんだ……」
彼女は、ゆっくりと、自分の腕に顔をうずめた。冷たいコンクリートの感触が、頬に伝わる。
でも……聞こえてた。屋上であの二人が交わした、最後の言葉。
『最後まで……一秒たりとも、俺から離れるな』
『これが……約束だ』
ことりは、顔を上げた。涙を、袖でごしごしと拭う。目は真っ赤に腫れているが、その奥に、ゆっくりと、しかし確かに、一筋の光が灯り始めていた。
涙で濡れた唇を、ぎゅっと結ぶ。
「……約束、したんだね」
彼女の声は、まだかすれているが、震えはなくなっていた。
「最後まで、そばにいるって……」
彼女は、夜空を見上げる。流れ星の消えた方角を、じっと見つめる。
「じゃあ……私も……」
彼女は、胸のあたりに、そっと手を当てた。そこには、大輔から聞かされた、彼女の出生の秘密と、彼から託された想いが、重く、温かく、宿っていた。
「パパとの約束も……私自身との約束も……守る」
「最後の瞬間が来るまで……」
彼女は、もう一度、屋上の方を一瞥した。そこからは、もう何の物音も聞こえない。二人は、まだあのままなのか。それとも……
彼女は、ゆっくりと立ち上がった。足は少し痺れていた。そして、そっと事務所の裏ドアを開け、中へと入っていった。ドアが閉まる音は、ごく小さかった。
屋上では、二人はまだ抱き合ったままだった。
たまの涙は、すでに乾き始めている。彼女は、はるかの胸に顔を埋めたまま、目を閉じている。呼吸は、ようやく落ち着いてきた。
はるかは、彼女の髪の匂いを感じながら、虚空を見つめていた。流れ星は見えなかった。彼の世界は、今、この腕の中の小さな、重い存在だけだった。
星明りが、相変わらずかすかに輝いている。その下で、二人の影は、深い悲しみに沈んだ、一つの彫刻のように、長く、静かに伸びていた。
階段の下では、ことりが、冷たい流し台の前で、無言でコップを洗っていた。水の音だけが、静かな事務所に響く。彼女の肩は、時折、ぴくりと震える。しかし、顔を上げ、窓の外の夜空を見るその目には、もう、逃げ場のない覚悟が、しっかりと刻まれ始めていた。
夜空の彼方で、天の川が、声なき声で、悠久の時を流れ続けている。
星空の下、彼らは、叶えられるはずのない約束を交わした。
そして、運命の奔流は、もう、カウントダウンを始めていた。
(第一巻 終)




