婁家からの使者
午後の「七星堂」は、いつもの静けさに包まれていた。
窓から差し込む柔らかな陽射しが、机の上の塵をきらきらと浮かび上がらせる。はるかは右肩の鈍い疼きをこらえながら、前の日の報告書を整理していた。たまは窓際の椅子に座り、分厚い古籍を静かに読み進めている。ことりは階下で買い出しのリストを作っているらしく、時折かすかな歌うような鼻歌が聞こえてくる。
いつもの、少し重苦しいが、どこか落ち着いた時間だった。
その平穏を、三度、規則正しい、しかし重々しいノックの音が打ち破った。
トン、トン、トン。
音は、威圧的ではなく、むしろ丁寧だった。しかし、その規則正しさの中に、尋常ではない格式と迫力が込められていた。
はるかは眉をひそめ、顔を上げた。こんな時間の来客は珍しい。しかも、あのノックの仕方は、宅配便やセールスのものではない。
彼が立ち上がろうとしたその時、窓際のたまが、ごく自然に、しかし明らかに動作を止めたのを視界の端で捉えた。彼女は、本から顔を上げ、玄関の方向をじっと見つめている。顔には、いつもの無表情が崩れていない。だが、はるかにはわかった。彼女の体が、わずかに、しかし確かに硬直している。
そして、彼女の細長い目が、ごく一瞬、深く閉じられる。あたかも、覚悟を決めるかのように。
はるかの胸に、嫌な予感がよぎった。
「……たま?」
彼女は、はるかの呼びかけには答えず、ゆっくりと本を閉じ、立ち上がった。そして、無言で、自ら玄関へと歩み始めた。その背中は、いつもより少しだけ、緊張して張りつめているように見えた。
ことりも、階下から駆け上がってきた。「ねえ、誰? 客?」
たまは振り向かず、玄関のドアノブに手をかけた。一呼吸置いて、彼女はドアを開けた。
外には、三人の男が立っていた。
二人は、五十代前半ほどの、背筋のぴんと伸びた中年男性だった。地味だが上質な黒い紋付きのような和装を身にまとい、髪はきちんと整えられている。顔つきは厳格で、目には長年の修行と格式が刻まれたような鋭さがあった。婁家の使者たちだ。彼らの周囲には、事務所のくつろいだ空気を一瞬で締め付けるような、張りつめた気配が漂っていた。
そして、もう一人。少し若く、三十歳前後の男だ。彼は、現代的ながらも上品なスーツを着こなし、整った顔立ちをしている。目は聡明で、立ち姿には自然な威厳が備わっていたが、その表情には、使者たちのような鋭い迫力ではなく、どこか憂いと覚悟が混ざった、複雑なものが浮かんでいる。彼の視線は、ドアを開けたたまに、一瞬で釘付けになった。その目には、一瞬、かすかな痛みのようなものが走った。
空気が凍りついた。
ことりが、はるかの袖を無意識に掴んだ。彼女の手が、冷たかった。
はるかは、この三人組がただ者ではないことを、直感した。そして、何より、たまの異様に平静な、しかしどこか全てを悟ったような態度が、彼の不安を確信に変えた。
たまは、微かに一歩下がり、三人に道を空けた。
「お入りください」
彼女の声は、平然としていた。しかし、はるかには、その平然とした奥に、深い、深い諦念がこもっているように聞こえた。
使者たちは一礼し、静かに中に入った。最後に入った若い男は、たまの前に一瞬足を止め、かすかに、しかし深くうなずいた。たまは、それに対し、ごくわずかに目を伏せた。
三人が事務所の中心に立つと、部屋はたちまち、重苦しい静寂に支配された。窓の外の日常のざわめきは、まるで別世界のもののように感じられた。
年長の使者の一人が、静かに、しかし低く響く声で口を開いた。
「たま様。ご無沙汰しております」
その言葉は、敬語ではあるが、そこには家族のような温かみは微塵もなかった。公的な、儀礼的な響きだ。
たまは、静かにうなずいた。「叔父上。そして、もうお一方。ご苦労様です」
使者は続けた。「本日は、当主——すなわち、御父上からの御伝言を携え、参りました」
彼の言葉に、はるかの心臓が、一度、強く鼓動した。父上。たまの実家。そして、あの“封印”を司る一族の長。
「近来」使者の声が、さらに低く、重くなる。「各地にて、『業』の活性、並びにその悪意ある利用の事象が、顕著に増加しております。それに呼応するかの如く、我らが守る『封印』の地にて、従来にない『奔流』の蠢動が確認されました」
はるかは、息をのんだ。呪い師。そして、あの玉佩の事件。全てが、繋がっている。
「従いまして」使者の目が、たまをじっと見つめる。その視線には、哀れみも、迷いもない。ただ、事実を伝えるという役目があるだけだ。「当主の御裁断により、『巫女』たま様の御帰還、並びに、周家との『婚姻』、および『最終儀式』の実施を、三ヶ月後に前倒しとすることが決定いたしました」
―――ガチャン。
階下の階段付近で、何かが落ちる音がした。ことりが、持っていたメモ帳を落としたのだろう。しかし、彼女は拾おうともせず、ただ、顔面蒼白で、三人の使者と、たまの後ろ姿を見つめていた。涙が、彼女の目に一気に浮かんでいる。
三ヶ月。
はるかの脳裏で、その言葉が、空虚に反響した。意味が理解できない。数字としての「三」と「月」はわかる。だが、それがたまの、彼女の残された時間を示しているという現実が、思考を拒絶する。
その時、もう一人の人物——スーツの若い男が、一歩前に出た。彼の視線は、たまからはるかにゆっくりと移る。その目は、はるかを、鋭く、しかしどこか哀しげに見つめていた。
「あなたが、趙はるか様ですね」
男の声は、落ち着いていて、澄んでいた。先の使者たちのような重圧感はないが、それ以上に、確固たる存在感を放っている。
はるかは、無言でうなずくことしかできなかった。
男は、ゆっくりと、深く一礼した。
「初めまして。周皓辰と申します」
周。さっき使者が口にした「周家」。たまの、婚約者。
はるかの胃が、冷たい塊のように沈んだ。
周皓辰は礼を解き、はるかをまっすぐ見据えた。
「たま……いえ、婁様は、よくあなたのことを話していました。『七星堂』での日々。そして、あなたがどれほど多くの『声』に耳を傾け、苦しみながらも『送り届けて』こられたか」
その言葉は、称賛だった。しかし、はるかに刺さるナイフのように鋭かった。
「私から、個人的なお願いがあります」
周皓辰は、もう一度、深々と、頭を下げた。彼のような格式ある家の息子が、はるか这样的“送り人”に対して取るには、あまりにも深い礼だった。
「残り……三ヶ月という、限られた時間ですが」
彼の声が、わずかに震えた。しかし、すぐに平静を取り戻す。
「どうか……彼女に、普通の女の子として、ほんの少しでも……幸せな時間を、過ごさせてあげてください」
はるかは、目を見開いた。何を言っている? この男は、たまの婚約者だろう? なぜ、そんなことを?
周皓辰は、上げた顔に、苦渋に満ちた、しかしどこか清々しい笑みを浮かべていた。
「これが……私にできる、彼女への、唯一のせめてもの……餞別なのです」
その言葉の意味が、ゆっくりと、しかし確実にはるかの胸に突き刺さってきた。この男もまた、たまの運命を知っている。そして、それを受け入れている。いや、受け入れざるを得ない。だからこそ、彼女の“最後”に、ほんのわずかな自由と幸福を――彼という枷から解き放たれた、偽りの自由の中で――与えようとしている。
はるかは、口を開こうとした。だが、声が出ない。耳の中で、高く甲高い耳鳴りが響く。視界の端が、ゆがみ、ぼやける。使者たちの厳格な顔。周皓辰の苦い笑み。全てが、遠くの悪夢のように感じられる。
「……承知しました」
たまの、冷たく澄んだ声が、歪んだ世界を切り裂く。
彼女は、使者たちの方に向き直り、深々と一礼した。
「父上に、よろしくお伝えください。三ヶ月後、必ず帰参し、使命を果たします」
その声には、微動だにしない覚悟があった。あの、記憶の中で、母から運命を告げられた夜以来、育て上げられ、磨き抜かれた、鋼のような覚悟。
使者たちは、満足そうに、いや、任務が完了した安堵のような表情で頷いた。
周皓辰は、たまの方を一瞥し、複雑な表情を浮かべたが、すぐにそれを消した。彼ははるかに、最後にもう一度会釈すると、使者たちに続いて、静かに事務所を後にする。
たまが、彼らを玄関まで見送った。
ドアが閉まる。
カチャリ。
小さな音が、部屋中に、不自然に大きく響き渡った。
秒針の動く音が、突然、耳につくほどに大きく聞こえる。チク、チク、チク。それは、無情に時を刻む、巨大な断頭台の刃のようだった。
ことりは、階段の途中にしゃがみ込み、両手で口を押さえていた。肩が激しく震えている。涙が、彼女の指の間から、ぽたぽたとこぼれ落ち、床に小さな染みを作る。しかし、彼女は声を上げない。押し殺した嗚咽だけが、かすかに漏れる。
はるかは、ただ、立ったままだった。足が地面に根を下ろしたように動かない。頭の中は、まだ、使者たちの言葉と、周皓辰の礼と、たまの平静な受け答えが、ぐるぐると渦巻いている。それらが、意味を持つ「文章」としてではなく、ただの「音」の洪水として、彼の思考を破壊し続けている。
三ヶ月。
婚姻。
最終儀式。
最後の時間。
幸せな時間を。
一つ一つの単語が、彼の胸に、冷たい釘を打ち込んでいく。
彼は、ゆっくり、ゆっくりと、体を動かした。首を、ぎこちなく、たまの方を向ける。
たまは、玄関から戻り、何事もなかったように、さっきまで座っていた窓際の椅子へと歩いていた。彼女の足取りは、少しも乱れていない。
「……たま」
はるかの声は、ひどくかすれ、擦れ切っていた。自分でも、これが自分の声だと認識できないほどだ。
たまは、椅子の背にもたれかかるように立ち止まった。しかし、振り向かない。
はるかは、一歩、また一歩と、彼女に近づく。足元がふらつく。
「……さっきの連中……何て言った? 『最後』……『三ヶ月』……それ……どういう……意味だ?」
言葉が、ぎくしゃくと喉を這い出る。一つ一つの音節に、彼の混乱と恐怖がにじみ出ている。
たまは、少し間を置いて、静かに言った。
「字面通りの意味です」
彼女は、ようやくゆっくりとはるかの方を向いた。顔には、いつもの、あの無表情が戻っていた。しかし、はるかには見えた。彼女の、長い睫毛の先が、かすかに、濡れているように。気のせいか?
「私は結婚します。それから、私の仕事をしに行きます。それだけのことです」
結婚。仕事。
そのあまりにも簡潔で、事務的な言い方が、はるかの胸に積もった混乱と恐怖を、一気に怒りに変えた。
「仕事!?」はるかの声が、思わず跳ね上がった。「お前の言う『仕事』って、あの……あの『封印』に、お前が……!」
言葉が途中で詰まる。あの記憶の中で見た、あの光景。たまの先祖が、光となって“奔流”に散っていく光景。それが、たまの“仕事”の結末だ。
たまは、彼の言葉を遮るように、そっと目を閉じた。そして、また開ける。その目は、深い湖の底のように、静かで、暗かった。
「お茶を淹れましょうか。少し、落ち着きませんか」
そう言うと、彼女は、はるかを無視するように、厨房の方へ歩き出した。
その背中を見た瞬間、はるかの我慢の糸が、ぷつりと切れた。
「たま!!」
彼は、駆け寄り、彼女の細い手首を掴んだ。力を込めすぎて、彼女が眉をひそめるほど強く。彼の目は、恐怖と怒りと絶望で真っ赤に充血している。
「答えろ! 真実を言え! あいつらが言ってることは、本当なのか!? お前は……お前は三ヶ月で……!」
たまは、掴まれた手首を見下ろし、それから、ゆっくりと顔を上げ、はるかの目を見つめた。
その目には、怒りも、悲しみも、訴えもなかった。ただ、深い、深い疲労と、どこか諦めきった優しさのようなものがあった。
そして、彼女は、ごくわずかに、しかし確かに、口元を緩めた。それは、笑顔と呼ぶにはあまりに儚く、痛々しい形だった。
「……本当ですよ」
彼女の声は、囁くように柔らかかった。
「だから、もう、そんな顔をしないで。はるか」
彼女は、そっとはるかの手を振りほどき、厨房へと歩みを進めた。蛇口をひねる音。水が流れ出る音。
はるかは、その場に釘付けになり、ただ立ち尽くしていた。右手には、たまの手首の、細く、冷たい感触がまだ残っている。耳には、彼女の最後の、あの疲れ切った優しい声が、リピートするように響いている。
『本当ですよ』
『だから、もう、そんな顔をしないで。はるか』
ことりは、階段で、とうとう声を押し殺した嗚咽を漏らした。彼女は床にうつ伏せになり、肩を小刻みに震わせて泣いていた。
はるかは、ゆっくりと厨房の方を見た。
たまは、流し台の前に立ち、やかんに水を入れている。彼女の背中は、相変わらず真っ直ぐだ。しかし、午後の斜光が窓から差し込み、彼女の周りに漂う無数の塵をきらきらと輝かせている中、その背中は、はるかには、あまりにも小さく、孤独に見えた。
全てが、ありふれた午後の風景だった。陽射し。塵。流れる水の音。隣室から聞こえるかすかな泣き声。
しかし、はるかにはわかっていた。世界は、もう、二度と元には戻らない、壊れてしまったのだ。
彼の足元から、冷たい、粘り気のある絶望が、ゆっくりと、しかし確実に体を這い上がり、心臓を締め付け、そして、思考そのものを凍りつかせていく。
彼は、ただ、そこに立っていた。目の前の、日常の風景が、残酷な皮肉のように、静かに進行していくのを、ただ見ていることしかできなかった。




