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残された声のゆくえ~最後の声、届けます~送り人、趙はるかの記録~  作者: 「大和 尚羅夢」小花羅夢一生推し


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呪い師と苦痛の苗

異常は、徐々に、しかし確実に、街に浸透し始めていた。

最初の報告は、郊外の団地からのものだった。独り暮らしの中年男性が、深夜、突然「あの時、ああしていれば……!」と叫びながら、自分の腕をかきむしり始めた。駆けつけた隣人が抑えようとしたが、男性の力は尋常ではなく、救急車で搬送されるまで、彼は十年以上前の、取引の失敗による会社倒産の瞬間の記憶を、繰り返し、繰り返し、泣き叫びながら語り続けていたという。部屋には、特に“業”を宿したような品物はなかった。しかし、はるかが現場を訪れると、空気中に、数多くの、異なる“苦痛”の気配が、無理やり混ぜ合わせられたような、不自然に濃厚で濁った残渣を感じ取った。

次は、都心の小さな公園。戦没者慰霊のブロンズ像が、夜になると「涙を流している」という目撃情報。実際に像の頬のあたりが緑青ではなく、不自然な黒ずんだ腐食のように見え、その周囲の植え込みが一夜で枯れていた。像そのものには、特定の強い“業”は感じられない。だが、地面から、像を中心に、人為的に引き寄せられたような、さまざまな“悲しみ”や“後悔”の断片が、じわじわと染み出しているようだった。

三件目は、古いアパートの一室で、主婦が炊事中に包丁で自分の手を切りつけた事件。彼女は、十年前に流産した子どもへの罪悪感にさいなまれていると泣き叫んだ。しかし、家族の話では、ここ数年はむしろ平静に過ごしていたという。現場には、流産に関連する品物は一切なく、代わりに、窓辺に無造作に置かれた、見知らぬ老婆の写真(骨董市で購入したもの)から、微かだが、加工されたような、鋭い“喪失感” が漂っていた。

「これは、自然発生の“業”ではない」

「七星堂」の事務所で、たまが、三つの事件の報告書と、はるかが採取してきた“気配”のサンプル(特殊な紙に転写したもの)を前に、断言した。彼女の目は、いつにも増して鋭く、冷たい。

「三つの現場から検出された“苦痛”の感情は、いずれも、複数の異なる個人に由来する痕跡が見られる。にもかかわらず、その感情の“質”が異常に均一化、先鋭化している。自然の“業”が混ざり合う場合、もっと混沌として、不安定なものになるはずだ」

彼女は、報告書の写真——黒ずんだ像、無関係な老婆の写真——を指さした。

「誰かが、様々なものに付着した“苦痛”の感情を、意図的に“採取”し、それを“精製”、あるいは“増幅”させて、特定の場所や物に“移植”している。あるいは、それらを、何らかの“器”に集積している可能性が高い」

「……そんなことが、できるのか?」はるかが眉をひそめた。彼の左手の、肘まで達した濃い業痕が、これらの話を聞くだけで、鈍く疼いている。

「理論上は可能です」たまの口調は、講義のようだ。「“業”は感情の残滓です。特定の周波数に共鳴する術式を用い、ある感情——この場合は“苦痛”——に特化した共鳴場を作り出せば、周囲に散らばった同種の感情を吸引、濃縮することができる。それを、ある種の“触媒”を通じて、他者にぶつける。あるいは、保管する」

ことりが、恐る恐る手を挙げた。「で、でも、そんなことして……何の得があるの? 人を苦しめて」

たまは、一瞬、沈黙した。彼女の目が、危険な光を宿す。

“得”……か。それはいくつか考えられる。強化された“苦痛の業”を、呪いや精神的攻撃の媒体として利用する。あるいは、より大規模な、邪悪な術式の“燃料”とする。または……」

彼女の声が、少しだけ低くなる。

「……何かを、“育てる”ための、餌にする」

その言葉に、事務所の空気が、ひんやりと冷たくなったような気がした。

その夜、大輔が現れた。彼の顔は、いつもの軽薄さが消え、どこか警戒したような硬さを帯びていた。

「……聞いたぞ、はるか。最近、変な事件が続いてるってな」

彼は、事務所のソファにどっかりと座り、差し出された緑茶を一口すすると、関西弁で低く話し始めた。

「わしの知り合いの、まあ、あまり表には出さんような連中やがな、そいつらがうわさしてるんや。ここ数ヶ月、闇市で、“強い苦痛の残ってるもん”の買い手が、妙に活発やってな。特に、事故や災害、戦争関連の遺品や。出所もわからん、得体の知れん業者や」

大輔は、はるかとたまをじろりと見た。

「そいつらが、囁いとるんや。“呪い師”が動き出した、ってな」

「“呪い師”? 具体的には?」はるかが前のめりになる。

「詳しいことはわからん。名も顔も、よく知られとらん。ただ、確実に言えることは、あいつは、“業”を、特に“苦痛”を、ただの怨念以上の“何か”として利用しよる、ってことや。人間の苦しみを、食料か燃料か、そんな風に見ていそうや。で、最近、調子に乗って、自分で“餌”を仕込み始めたんやないか、ってのが、わしの読みや」

大輔は茶碗を置き、ため息をつく。

「はるか、たまさん、ことり。あんたら、気いつけな。こいつらしい話、次に狙われそうな“餌場”を、わしのルートで嗅ぎつけたかもしれん。でも、行くなら、万全の準備で行け。あいつは、今まであんたらが相手にしてきた、ただ“苦しんでる”だけの“業”とは、わけが違うからな」


大輔が示した場所は、都心から少し離れた、廃墟同然の旧国立病院だった。築五十年は経っていようか、コンクリートが剥がれ、窓はほとんど割れ、廃墟マニアの間では有名な心霊スポットとなっていた。この病院は、戦中は陸軍の病院として、戦後は結核療養所として、多くの死者を出した歴史があった。つまり、“苦痛”の感情が、土地そのものに染み込んでいる、理想的な“餌場”だった。

チームは、日没と共に病院に潜入した。廃墟の奥、かつての集中治療室と思われる、広くてがらんどうの部屋を拠点にした。ここなら、戦いが外に漏れにくい。

たまが、入り口や窓、壁に沿って、複雑な紋様を素早く描いていった。目に見えない結界の糸が張り巡らされる。今回は、単なる防御ではなく、内部の“業”が外部に漏れないための完全な遮断結界だ。彼女の表情は真剣で、額にうっすらと汗が光る。

「この結界内では、“業”の出入りを極力制限する。ただし、維持には大きな負担がかかる。時間をかける戦いはできない」

ことりは、たまが用意した、塩と特別な薬草を混ぜた粉を、部屋の四隅と中心に撒いた。彼女の“浄化”の力が、粉を通じて空間に広がり、不純で攻撃的な“業”が入ってきた際の緩衝材となる。彼女の手は少し震えているが、手順は確実だ。

はるかは、部屋の中央に立った。目を閉じ、感覚を研ぎ澄ます。廃墟全体に漂う、古く、重苦しい、多くの病苦と死の悲嘆。その中に、確かに、新しい、意図的に撒かれた、鋭い“苦痛”の“餌” が、いくつか混ざっているのを感じ取る。それは、腐った肉に蝿がたかるように、土地に染みついた古い“苦痛”を引き寄せ、活性化させようとしている。

大輔は、結界の外、廊下の影に身を潜めていた。彼の手には、一見普通の金属バットがあるが、はるかは、それに微弱な“気”が込められているのを感じた。大輔は、霊体そのものと戦うより、“呪い師”本人や、彼が使役する現実側の手下——もし存在すれば——に対する抑止力としての役割だ。

時間が過ぎる。廃墟の闇が深まる。ただ、風が割れた窓を通り抜ける音だけが響く。

そして、予感が走った。

部屋の空気が、みるみる重くなる。今まで漂っていた、古く静かな“苦痛”が、突然、かき乱される。ざわめきが起こる。それは、声にはならない。無数の、違う声、違う時代の、泣き叫び、うめき、恨みつらみが、一つの方向へ、強引に引きずり寄せられ、混ぜ合わされる音だった。

部屋の入口の暗がりから、黒い影が、ゆらり、ゆらりと現れた。

一つ、また一つ。人間の形をしているが、ひどく歪んでいる。首が不自然に折れ、四肢がねじれ、腹部が裂けているもの。全身に火傷の痕があり、もがいているもの。目だけが異常に大きく見開かれ、口は声にならない叫びを続けているもの。

それらは、“霊”というより、“苦痛”そのものが、無理やり人型に成形されたようなものだった。それぞれから、強烈で、純粋な“苦しみ”が、波のように押し寄せてくる。兵士の無念とも、失恋の悲しみとも、事故の恐怖とも違う。ただ、「痛い」「苦しい」「嫌だ」という、生命の根源的な拒絶反応が、増幅され、武器と化していた。

たまが、低く宣言する。「“苦痛”の業に特化した、擬似霊体……“苦痛の苗”か。攻撃的で、共感による浄化は困難。核心となる個々の記憶が、完全に攪拌され、失われている」

その言葉通り、はるかが一つに意識を向け、共感を試みると、そこには、数十、いや数百の異なる苦痛の瞬間が、ぐちゃぐちゃに混ざり合った、混沌とした“感情の渦”しかなかった。それは、浄化すべき“核”を見つける以前に、その渦自体が、彼の精神を引き裂こうとする悪意に満ちていた。彼はうめき声を漏らし、一歩後ずさる。左手の業痕が熱く疼く。

「趙さん!」ことりが叫ぶ。彼女が撒いた浄化の粉が、最も近づいてきた一つの“苗”に反応し、白くぼんやりと光る。その“苗”から溢れる黒いオーラが、ほんの少し薄れた。動きが鈍る。

たまの指が動く。結界が締め付けられる。“苗”たちの動きが、一瞬、重くなる。彼女は、瞬時にそれらの動きを分析し、次々と指示を飛ばす。

「左から二体目、膝の関節部の“苦痛”の濃度が薄い。そこを、ことり!」

ことりが、粉の入った小さな袋を、矢のように投げつける。粉が“苗”の膝に当たり、ぱっと白い閃光を放つ。“苗”は崩れるように膝をつく。

はるかは、たまの指示に従い、攻撃をかわし、ことりの浄化が入った隙に、短く強く共感の刃を突き刺し、“苗”を構成する“苦痛”の流れを乱す。完全な浄化ではないが、無力化はできる。

チームワークが、かろうじて機能し始めていた。

「ふふ……なるほど。なるほどね」

乾いた、嘲るような声が、闇の奥から響いた。

入口から、ゆっくりと、一人の男が現れた。

痩せこけて背の高い中年男だ。ぼさぼさの長い髪を後ろで束ね、色あせたスーツを着ている。顔はやつれており、目の下に深い隈がある。しかし、その目は、異常に冴え、冷たく、何かを貪るような光を宿していた。彼の周囲には、先程の“苗”よりもさらに濃く、ねちっこい黒い“気”が、もやもやとまとわりついている。

“呪い師”だ。

「“送り人”と、優秀な結界師、そして……おや? これは珍しい。“浄化”の体質の子か」男は、ことりをじろりと見た。その視線は、物を見るような、あるいは商品を評価するようなものだった。「いいものを持っているね、お嬢ちゃん。その“清らかさ”、もっと“苦しみ”に染まったら、もっと美味しそうになるだろうな」

「黙れ」はるかが、低くうなるように言った。男の言葉が、ことりを恐怖で凍りつかせたのを見て、彼の胸に怒りが湧き上がる。

「ああ、失礼。」呪い師は軽く手を上げ、芝居がかったように頭をかく。「自己紹介が遅れたね。私は、人々から“苦痛”という、最も純粋で力強い“感情”を慈しみ、育む者だ。名前など、どうでもいい。さて……」

彼の細い指が、パチン、と鳴る。

部屋中に漂っていた、無力化された“苗”たちの残骸や、まだうごめく“苗”たちから、黒いオーラが一斉に吸い寄せられ、呪い師の掌の上に集まる。みるみる小さく圧縮され、漆黒の、不気味に光る球体になる。その中では、無数の顔が苦悶に歪み、声にならない叫びをあげている。

「君たちのような、傷ついた者同士で慰め合うような、甘ったるい“癒し”ごっこは、もう飽きたよ」

呪い師の目が、たまに注がれる。彼女は、結界を維持しながら、冷たい目で男を見据えている。だが、額に浮かぶ汗の量が、彼女の負担の大きさを物語っていた。

「こっちの方が、ずっと……“力”になるんだ!」

呪い師が腕を振るう。黒い球体が、矢のように、結界を張るたまの胸元めがけて、放たれた!

それは、物理的な速度以上に、“苦痛”の感情そのものの衝撃波として迫ってくる。たまは結界を一点に集中させて防ごうとするが、彼女の力の大半は広い結界の維持に使われている。間に合わない――!

はるかの体が、思考よりも先に動いた。

横っ飛びに飛び出し、たまの前に立ちはだかる。同時に、彼は、これまでにない無謀なことをした。

浄化しようとも、弾こうともせず、彼は、両手を前に差し出し、その漆黒の球体を、まるで受け入れるように、自分の胸に迎え入れた。いや、正確には、共感の力を最大に解放し、自分の存在全体を、その“苦痛”の奔流を引き受ける器に変えたのだ!

「はるか! やめろ!!」たまの悲鳴が、彼の背後で上がる。

遅い。

ドン! という鈍い衝撃。物理的なものではなく、魂に直接響く衝撃だ。

「ぐああああああっ―――!!!」

はるかの喉から、それまでのどんな苦痛とも違う、魂の奥底から絞り出されるような絶叫が迸った。

右肩から、右腕にかけて、爆発的に業痕が広がる。淡い灰色ではなく、漆黒に近い濃灰色が、血管を逆流するように皮膚の下を走り、彼の右半身を覆い尽くす。皮膚がひび割れ、その裂け目から、薄気味悪い黒いオーラが漏れ出す。彼の目は見開かれ、白眼が剥き出しになり、口から泡と血の混じったものが零れる。全身が痙攣し、彼は床に崩れ落ちた。

黒い球体は、消えた。はるかが、全てを、自分の内に封じ込めた。

一瞬、時間が止まった。

呪い師が、目を見開いた。そして、けたたましく笑い出した。

「ハッ! ハハハ! 馬鹿め! お前の小さな体で、あれだけの“苦痛”を飲み込む? どうなるか、わからんのか!?」

はるかは、うつぶせに倒れ、全身を震わせながら、まだ意識を保っていた。しかし、それは、あまりに過酷な状態だ。彼の体内で、無数の他人の苦痛が暴れまわり、彼自身の魂を食い破ろうとしている。右手の指先から、黒い煙のようなものが、もくもくと立ち上っている。

たまの結界が、ぱちり、と音を立てて消えた。彼女の力のほとんどは、結界維持から、はるかを支え、彼の体内の暴走を抑えようとする方向に切り替わった。彼女の顔は血の気が失せ、唇は震えている。

ことりは、泣き叫びながらはるかに駆け寄ろうとした。

大輔が、影から飛び出し、ことりをさっと腕で掴み、後ろに引っ込めた。「こら、ことり! 近づいたらあかん! 今のはるかは、自分でもコントロールできへん!」

呪い師は、まだ低く笑っている。「面白い実験台を手に入れたな。いつまで、自我を保っていられるか……楽しみだ。では、今日はこれまでにしよう。次に会う時まで、その“苦痛”、大切に育てておけよ、“送り人”」

彼は、後ずさりしながら、闇の中に溶け込んでいった。残された“苗”たちも、ぱっと霧散する。

廃病院の部屋には、重苦しい沈黙だけが残された。

たまが、よろめきながらはるかの元に駆け寄り、彼の体を抱き起こした。彼の右半身は、濃灰色の、うごめくような業痕に覆われ、熱く、不気味に脈打っている。彼の目は虚ろで、焦点が合っていない。たまの手が、はるかの汗と血と黒いオーラで汚れた頬に触れる。その手は、ひどく震えている。

「……は、る……か……?」

彼女の声は、かすれ、涙で曇っている。

はるかは、たまの顔を、かすかな視界で必死に見つめようとする。痛みで、思考がほとんどできない。しかし、彼の唇が、かすかに動いた。

「た……ま……」

息も絶え絶えの、かすかな声。

「……だい……じょう……ぶ……」

そう呟くと、彼の目が、ぱたりと閉じた。意識が、深い闇の底へと沈んでいく。

最後に感じたのは、彼の頬に落ちる、たまの温かい涙の感触と、ことりの途切れ途切れの泣き声、そして、大輔の「……まずいな。あいつ、本物の悪党や。手負いの虎を怒らせちまった……」という、重苦しい呟きだけだった。

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