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残された声のゆくえ~最後の声、届けます~送り人、趙はるかの記録~  作者: 「大和 尚羅夢」小花羅夢一生推し


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温泉旅行の月明かり

大輔が持ってきた依頼は、山間の古い温泉旅館にまつわるものだった。

「夜中に、廊下を歩く白い着物の女の影を見た客が続出。でも、調べても何の痕跡もない。幽霊が出るって噂が立って、客足が遠のいてるんやて。はるか、たまさん、ちょっと調査に行って、浄化してきてくれへんか? ついでに、ことりも連れてってや。せっかくの温泉やし、少し息抜きさせてやれよ」

大輔の関西弁は、いつも以上に軽やかで、どこか企みを含んでいるように聞こえた。はるかは内心、単なる口実だろうと思った。が、確かにここ数ヶ月、厳しい仕事が続いていた。たまも、あの玉佩の事件以来、どこか張り詰めた様子が続いている。少し距離を置くのも、悪くないかもしれない。

目的地は、本州の中央山脈に抱かれた、ひっそりとした温泉地。最寄り駅からさらにバスに揺られること一時間。到着した旅館「松風亭」は、築数十年は経っていそうな、古風で落ち着いた佇まいだった。玄関には、年の頃六十代半ばの女将が、丁寧に頭を下げて出迎えてくれた。

依頼された“怪異”の調査は、思ったよりも早く、あっさりと解決した。

原因は、十年前に亡くなった先代女将の思いだった。彼女はこの旅館を愛し、客をもてなすことを何よりの喜びとしていた。その“客を思う心”が、特に雪の降る静かな夜に、かすかな“業”となって廊下に現れ、客の夢の中に、白い着物の優しい女性として映っていたのだ。悪意は微塵もない。ただ、この館を訪れる人を、今も心から歓迎したいという、あまりに純粋な思いの残滓だった。

たまが、「浄化」ではなく、「感謝とお別れ」を伝えるような優しい結界でその思いを包み、はるかが共感で女将の幸せだった記憶をなぞり、ことりがその温かい“気配”をそっと整える。三人の連携は、前回よりもずっと自然で、無駄がなかった。老女将(亡き先代の娘)は、処理が終わった後、涙を浮かべて何度も礼を言った。

こうして、本来の目的は半日で終わり、残りは文字通りの“休暇”となった。


長旅の疲れもあり、夕食後、三人はそれぞれ部屋に戻った。はるかとたまは隣り合う個室、ことりは少し離れた部屋だ。夜更け、はるかは部屋で本を読んでいたが、少し気分転換に外の空気を吸おうと、浴衣の上に羽織をはおり、廊下へ出た。

外は、真っ白な雪に覆われていた。日中は小降りだった雪が、いつの間にか上がり、雲の切れ間から月が顔を出し、雪原を青白く照らしている。旅館の裏庭には、小さな池と雪に埋もれた石灯籠、そして雪をかぶった松の木が、静かな水墨画のような景色を作り出していた。

そして、池のほとりに、ひとりの人影が立っていた。

たまだ。彼女も浴衣姿に、旅館の借り物であろう薄い綿入れを羽織っている。長い黒髪は下ろしており、背中までたっぷりと広がっている。彼女は、池の、ところどころ凍りついた水面を、ぼんやりと見つめていた。口元から出る白い息が、月光に照らされてかすかに光る。

はるかは、一瞬、声をかけるべきか迷った。彼女の側面から見える表情は、とても穏やかだった。いつもの、鋭く警戒したような、あるいは無表情に近い顔ではない。月明かりに浮かぶその横顔は、年相応の、いや、それよりも幼く、どこか脆げに見えますらえた。

彼は、静かに近づいた。雪を踏む音が、さくさくと響く。

たまは、その音に気づき、ゆっくりと振り向いた。目が、はるかの方に向けられる。彼女の瞳が、月の光を反射して、きらりと一瞬、宝石のように輝いた。驚いた様子もなく、ただ、静かに彼を見つめている。

「……たま」はるかが、低く声をかけた。

たまは、ごくわずかに頷いた。それから、再び池の方を見た。

「雪が上がりましたね」

「ああ」

短い会話の後、沈黙が流れた。しかし、それは気まずい沈黙ではない。二人の間を、冷たく澄んだ夜の空気と、かすかな雪のきらめきが、ゆったりと流れていくような沈黙だ。

はるかも、たまの隣に立ち、池を眺めた。凍りかけた水面下で、暗い水が、かすかに動いているのが見える。

「今日のたまは……いつもと、ちょっと違うな」

はるかが、ふと口にした。

たまは、少し間を置いて、答えた。

「ええ。だって……“休暇”ですから」

彼女の声には、いつもにない、ほんのりとした温かみがあった。

「私は、こういう時間が、ほとんどなかったんです」

「子供の頃から?」

「ええ」たまは、そっと目を閉じた。長い睫毛が、頬に淡い影を落とす。「いつも、何かを学び、練習し、暗記していました。結界の紋様。呪文。古い記録。家族の歴史。やるべきこと、覚えるべきことのリストは、無限にありました」

はるかは、黙って聞いていた。彼女の、あまりに整然としすぎた物言い。計算され尽くした知識。それらは、こうした“余計な”時間を一切排した環境で育まれたものなのだろうか。

「……なぜ、そんなに?」

聞いてはいけないかもしれない。でも、口をついて出た。

たまは、目を開けた。彼女の視線は、池の向こうの、雪をかぶった遠山の稜線に、とらわれていた。

「はるか」

彼女の声は、突然、とても静かで、重くなった。

“期限”って、知っていますか?」

はるかの背筋が、ぴんと張った。玉佩の事件。あの、巨大な“業”の奔流。巫女として身を投げた、たまにそっくりの女性。彼の左手の、肘まで達した濃い業痕が、鈍く疼くような気がした。

たまは、続けた。

「自分に与えられた時間に、終わりの刻印が押されていること。その刻印に向かって、秒針が、逆戻りできない音を立てて進んでいること」

彼女は、そっと自分の胸のあたり、ハートの上に手を当てた。

「そういう“期限”の中で生きると、一分一秒が、とてつもなく重くて、貴重なものに感じられます。無駄にできなくなる。遊んだり、ぼんやりしたりするのは……“罪”のようにさえ思えてくる。すべての時間を、“正しい”こと、“やるべき”ことに費やさなければ、という強迫観念に駆られる」

月明かりが、彼女の、やつれたように見える横顔を浮かび上がらせる。はるかは、初めて、彼女の、完璧に見える冷静さの裏側に、これほどの重圧があるのかと、胸が苦しくなった。

「たま、お前は――」

「でも」

たまが、彼の言葉を優しく、しかし確実に遮った。彼女は、はるかの方に、ゆっくりと顔を向けた。そして、ごくわずかだが、はっきりと口元を緩め、微笑んだ。

その笑顔は、先ほどまでの穏やかさとも、月明かりに浮かぶ脆さとも違う。どこか、覚悟を決めたような、しかし心から楽しんでいるような、複雑で美しい笑顔だった。

「今回は、とっても、楽しいです」

彼女の目が、はるかをまっすぐ見つめる。

「はるかと、ことりと……こうやって、何の生産性もない時間を、無駄に過ごせて」

「……無駄なんかじゃない」はるかの声は、思った以上に強く、熱を帯びていた。

たまの微笑みが、ほんの少し深くなった。

「ええ。その通りですね。今の私には、これが、一番“正しい”時間かもしれません」

風が、そっと吹き抜ける。たまの長い黒髪が、ほんのりと揺れる。一片の雪花が、彼女の髪に、そっと舞い落ちる。

はるかは、無意識に、手を伸ばした。その雪の結晶を、そっと払いのけようと。彼の指先が、たまの冷たい髪の毛先に、かすかに触れる。

たまの体が、微かに、ぴくりと動いた。彼女は、息をのんだように、はるかの手を見上げる。その目は、月明かりに潤んで、大きく見開かれている。期待と、少しの怖れと、複雑な感情が渦巻いている。

はるかの手は、空中で止まった。彼の指先は、たまの頬まで、あと数センチのところだ。触れれば、その冷たさ、柔らかさを、感じられる距離。

雪が、また一片、ふわりと落ちてきた。はるかの伸ばした手の甲に。

彼は、ごく自然に、手の向きを変え、自分の手の甲に落ちた雪を、そっと払い落とした。そして、その手を、ゆっくりと下ろした。

触れなかった。

触れるべきではなかった。今、ここで、彼がその一線を越えれば、何かが、決定的に壊れてしまいそうな、そんな危うい予感がした。

二人の間の距離は、変わらない。しかし、空気が変わった。今まで以上に密で、甘く、痛いような緊張感が張り詰めている。はるかの鼓動が、早い。たまの息遣いも、少し浅くなっているように聞こえる。

たまは、うつむいた。長い睫毛が、震えているように見える。

「……寒いです。中に、戻りましょう」

彼女が、かすれた声で言った。

「ああ」

はるかも、それ以上は何も言えなかった。

二人は、並んで、静かに旅館の中へと歩み入った。後ろには、青白い月明かりに照らされた、真っ白な雪の庭が残された。そして、二人の、並んだ足跡だけが、深い静寂の中に、ぽつり、ぽつりと刻まれている。


翌朝、はるかは、いつもより少し早く目が覚めた。

窓の外はまだ薄暗く、東の山肌がかすかに赤みを帯び始めている頃だ。彼は布団から起き上がり、さっと着替え、部屋を出た。廊下はしんとしている。ことりの部屋の前を通ると、中からかすかいびきが聞こえる。あの子は、いつもよりぐっすり眠っているのだろう。

ふと、廊下の先、大きなガラス戸の向こうの縁側に、人影があるのに気づいた。

たまだ。彼女は座布団に座り、膝を抱え、ガラス戸の向こうの、朝もやに霞む山並みを、じっと見つめていた。浴衣の上に羽織を一枚まとっているだけだ。吐く息が、ガラスに白くくもり、また消える。

彼女の後ろ姿は、昨夜の、月明かりの中のそれよりも、さらに小さく、寂しげに見えた。肩が、わずかに落ちている。いつもピンと伸びた背筋が、少しだけ丸まっているようにも見える。まるで、何かとても重いものを、一人で背負い込み、それに押しつぶされそうになっているかのようだ。

はるかは、その姿を、ドアの陰から見つめていた。

胸の奥が、きゅっと締め付けられる。

あの玉佩の記憶。あの、世界を飲み込むような“業”の奔流。たまの、あの悲痛な叫び。『関われば……お前は、確実に、死ぬ』

彼女は、何かから逃げているわけではない。むしろ、どこかへ、向かっている。自分だけでは到底背負いきれないような、巨大な何かに。そして、彼女は、その行く先に、自分を連れて行きたくない。巻き込みたくない。そう願っている。

だからこそ、あの笑顔があったんだ。昨夜の、「楽しい」という言葉があったんだ。限られた時間の中で、ほんのわずかな“普通”の幸せを、必死に噛みしめながら──。

はるかは、拳を握りしめた。左手の業痕が、熱く疼く。彼は、ゆっくりと、たまの方へ一歩踏み出そうとした。

その時、たまが、ごくわずかに、肩を震わせた。彼女は、そっと目を閉じ、深く、深く息を吸い込んだ。そして、目を開け、立ち上がった。背筋が、再び、いつものように真っ直ぐに伸びる。表情は、無表情に戻っている。夜の闇と月明かりの中で見せた、あの脆さも、寂しさも、すべてを、きれいにしまい込んだように。

彼女は、振り返らず、自分の部屋へと静かに歩いていった。

はるかは、その背中を見送りながら、心の中で、強く、強く誓った。

どこへ行くにしろ、何を背負うにしろ、今度だけは、絶対に、一人にはさせない。


帰りの電車は、混んでいなかった。

ことりは、朝、山の上で見事な日の出を写真に収めたと興奮しながら話し、やがて疲れが出たのか、イヤホンをして窓の外をぼんやり見つめている。珍しく、静かだ。

たまは、はるかの隣の席に座っていた。彼女は、行きの時と同じように、窓にもたれ、目を閉じている。規則正しい、浅い呼吸。眠っているようだ。

電車がカーブを曲がり、少し揺れた。

たまの頭が、ゆらり、とはるかの肩に、ごく自然に、寄りかかる。

はるかは、体を硬直させた。彼女の髪の香り──旅館のゆずの入浴剤のほのかな香りと、彼女自身の、清潔な、どこか薬草のような匂いが混ざったもの──が、ふわりと漂ってくる。彼女の頭の重み。体温。

彼は、一瞬、どうすればいいかわからなかった。しかし、次第に、体の力を抜いていった。そして、わずかに、彼女がよりかけやすいように、姿勢を調整した。彼女の頭が、彼の肩に、しっかりと落ち着く。

たまは、微かに、むにゃ、と小さな寝息のような音を立てたが、目は開けない。眠りは、深いようだ。

はるかは、そっと横を向き、彼女の寝顔を見下ろした。いつもより柔らかく、子どものような顔。長い睫毛。少し開いた唇。警戒心の一切ない、無防備な姿。彼の胸が、熱くなる。守りたい。このまま、ずっと、守っていたい。

そんな思いと同時に、彼女が孤独に向かっているという確信が、鋭い痛みとなって胸を刺す。

彼は、ごく自然に、自分の頭を、ほんの少し、たまの頭に近づけた。髪が、かすかに触れ合う。

そして、彼は、誰にも聞こえないほどのかすかな声で、独り言のように呟いた。

「どこにいても……何をすることになっても……今度は、絶対に、一人にしたりしないからな」

電車は、トンネルに差し掛かり、窓の外が一瞬暗くなる。その闇の中で、はるかの目は、たまの寝顔にしっかりと注がれていた。決意に満ち、そして、深い痛みをたたえた、複雑な眼差し。

トンネルを抜け、再び明るい光が差し込む。

はるかは、ゆっくりと目を閉じた。肩の、たまの重みを、しっかりと感じながら。

一方、斜め前の席。

ことりは、イヤホンをしたまま、窓に映る自分と、後ろの席の二人の姿を、じっと見つめていた。彼女の手には、カメラが握られている。ズームを最大まで寄せれば、はるかがたまの寝顔を見つめる、あのあまりに深く、優しく、そして悲しげな表情を、はっきりと捉えられる距離だ。

彼女の指が、シャッターボタンの上で、微かに震えた。

……撮るべき? いや、撮っちゃダメだ。これは、誰にも見せるべきじゃない。彼だけの、本当の顔。たまさんにしか向けられない、あの表情。

彼女は、カメラをそっと下ろし、ファインダーを覗いた。画面の中には、はるかの、たまを見つめる横顔が、小さく、しかしくっきりと収まっている。

彼女の親指が、削除ボタンの上に滑った。ポン、と軽い感触。『削除しますか?』という確認画面が表示される。

ことりは、一瞬、目を閉じた。そして、開ける。指を、『キャンセル』のボタンに移す。

押した。

画像は、カメラの中に、残った。

彼女は、カメラの電源を切り、バッグにしまった。そして、再び窓の外を見つめた。目頭が、熱い。でも、もう泣かない。泣いちゃダメだ。

電車は、ゆっくりと、確実に、東京へと近づいていく。日常へと。そして、きっと、何かが変わり始める未来へと。

肩にもたれかかるたまの、長い睫毛が、ほんのり、微かに、震えたように見えた。

気のせいだろうか。

はるかは、目を閉じたまま、ただ、彼女の重みと温もりを、静かに感じ続けていた。

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